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2011年8月15日 (月)

詩の原理 萩原朔太郎 形式論

Sakutarou4

     第一章 韻文と散文

 詩とは「詩的精神」が「詩の表現」を取ったものであることを、本書の始めに於て述べておいた。詩的精神は内容に属し、詩の表現は形式に属している。ところで詩的精神の何物たるかは、以上既に説き尽した。以下吾人は、主として詩の表現形式について考えよう。
 しかしながら芸術に於ける内容と形式とは、一枚の板の裏と表、人物とその映像、実体と投影のようなものであって、一方の裏を返せば一方が出、一方が動けば他方も動き、相互に不離必合の関係になっている故、既に詩の内容について学んだ読者は、これが映像さるべき詩の形式が、およそ大体に於てどんなものかを、説明以前に推察することができるだろう。しかしとにかく、説明を続けなければならない。
 第一に言うべきことは、言語はすべて関係であり、比較に於てのみ、実の意味をもつということである。故に絶対の意味で差別さるべき、詩と詩でないものとの関係は、決して事実上に有り得ない。ただ抽象上の概念としてのみ、吾人はかかるものを考え得る。そこで今、広く事実について見れば、殆ど大抵の文芸は、広義にみな「詩」と呼ぶことができるだろう。なぜなら前に説いたように、何等か本質に詩的精神のない文学というものは、事実上には殆ど有り得ず、そしてこの内容がある以上には、必ずその映像した形式――詩的表現そのもの――がある筈だから。しかしながら吾人は、比較の関係に於てのみ、言語の使用を許されている。以下言う意味の「詩」という言語は、他のより詩でない表現に対するところの、比較の純粋なるものを指すのである。
 さて詩の有り得べき、実の形式はどうだろうか。換言すれば、詩が真に詩であるためには、どんな言語の表現を持つべきだろうか。言うまでもなく詩の形式は、詩的精神それ自体の投影したものでなければならぬ。然るに詩的精神とは、それ自ら主観的精神を指すのであるから、他の文学との比較に於て、主観の最も純粋に、かつ高調されたものの投影が、それ自ら必然に「詩の形式」を取るであろう。しかしながら吾人は、もっと具体的な思考によって、形式の説明をせねばならない。
 第一に明白なのは、詩が文学であり、言語の文字的表現であるということである。故に音楽や舞蹈の類は、精神に於ていかに詩的であっても、それは「詩」の言語に属しない。言語の正しい意味に於ける詩は、常に文学としての詩を指示する。他はすべて「詩的なもの」にすぎないのだ。故に詩について考える時、必然に言語の表現性について、考を進めねばならなくなる。そこで言語は、二つの発想的要素を持っている。一つは用を弁じ、事実を語り、事柄の意味を知らせるところの要素、即ち語義――もしくは語意――であって、これが言語に於ける実体的の要素であるが、他にも尚、言語は別の要素を持っている。即ち談話にはずみをつけ、思想に勇気や情趣を与えるところのもの、即ち所謂語韻、語調である。この二つの要素の中、前の者は言語の「知的な意味」を語り、後の者はその「情的な意味」を語る。但しこの後のものはそれ自体としては独立し得ず、常に前の意味と結びついてのみ存在するが、詩は本来情的な主観芸術である故に、特にこの点が重要視され、表現の必須なものとして条件される。
 此処でまた繰返して言うことは、主観芸術の典型が音楽であり、客観芸術の代表が美術であるということである。故に詩はいつも音楽のように歌い、小説は常に絵画のように描写する。そして実に東西古今、詩が音楽を規範とし、音律を以て形式とする所以が此処にある。即ち所謂「韻文」「散文」の差別であって、詩が他の文学と異なる所以は、ひとえにその韻文の形式にあると思惟されている。しかしながら元来言えば、詩が音楽に学ぶところは、その精神にあって形式にない。換言すれば、詩は音楽のように歌い、音楽のように魅力することを欲するけれども、必ずしも音楽が具備する楽典の法則を、そのまま襲用する必要はない。なぜならば詩は文学であり、言語を用いる表現である故に、自から音楽と異なる独自のものが、別に特色さるべき筈である。
 然るに所謂「韻文」と称するものは、音楽の楽典に於ける拍節の形式を、そのまま言語に直訳したようなものであって、極めて定規的なる形式主義のものである。故に吾人は、かかる形式的韻律の有無を以て、詩と非詩とを判然区別しようとする如き、一部の人々等の意見に賛成できない。もちろんかかる思想は、詩という形式に関聯して、長く一般に伝統されている。だが伝統的な思想が常に必ずしも真理とは言えないだろう。況んや今日に於ては、現に自由詩と称する如き無韻の詩が一般に詩として肯定されている事態であるから、吾人の最も遠慮がちな意見に於ても、それが詩の絶対的条件でないことを断言し得る。
 けれども始めに言う通り、詩は本来感情の文学である故に、言語のスピリットたる音律なしには勿論真の表現は有り得ない。そして音律がある以上には、自然に音楽の法則するところの、何等かの黙約的一致が無ければならない。詳説すれば、楽典的形式に於ける符合でなくして、楽典の背後にある音楽の根本原理――音の関係に於ける美の根本法則――と、或る本質的なる、*大体に於ける一致があるべき筈だ。なぜならば言語の語調や語韻やも、それが「音」として響く限りは、必然に音楽の本質的原理に属するから。そこで「韻文」という言語を、形式定規の窮屈な意味に解しないで、大体として根本の音楽原理に適っているところの――したがって耳に美しい響を感じさせるところの――一種の節をもった文章と解するならば、その場合にこそ、一切の詩は皆韻文であり、また必然に韻文でなければならないと言い得るだろう。
 しかしこうなってくると、問題はまた困難に紛乱してくる。なぜならばその意味での韻文は、あえて独り詩ばかりでなく、散文にも同様に言い得るからだ。文学はすべて言語の「綴り方」であり、そして綴り方のあるところには必然に文章の調子があり、節がありアクセントがあり、はずみがある。そしてこの点では、小説も論文も皆同じである。どんな文学でも、言語の音調を持たないものや、それを全く無視した文章は有りはしない。そしてこれらの散文に於ける音律は、何等一定の拍節形式を持たないところの、しかも根本に於ては音楽の原理に適っている――でなければ美しく聴える筈がない――ところの、真の自由律の形式である。
 故に韻文という言語を、前に言ったような広義の意味で、ルーズに漠然と解する限りは、一切の散文が皆その概念に包括され、言語が全くノンセンスになってしまう。実に今の詩壇に於ける認識不足は、「韻文」「散文」の言語に対して、一も人々が定義を持っていないという事である。即ち本書の巻頭「詩とは何ぞや」で言ったように、かかる言語に対する解釈が、人によって皆異なり、認識が曖昧漠然としているのである。此処で諸君は、その個人的なる――自分だけで合点しているような――観念を捨て、何よりも先ず常識として、辞書の正解するところを知らねばならぬ。辞書の正解するところの韻文とは、一定の規則正しき拍節をもち、一定の法則されたる押韻や脚韻を蹈み、対比によってシラブルや語数を整えているところの、特殊な定形律の文章を言うのである。そしてこの定形律を持たないもの、即ち自由の音律によって書かれたものは、それ自ら所謂「散文」である。
 それ故に自由詩と称する詩が、言語の辞書的な解義に於て、始めから散文に属するのは明白である。少なくとも正確な意味で言われるところの、辞書の韻文には属してない。しかしながら自由詩は、何等か或る本質上の点に於て、普通の散文とはちがっているように思われる。そこで自由詩の解説は、常にしばしば「**無韻の韻文」「韻律なき韻律」の語で呼ばれている。だが自由詩の解説が、こうした言語の曲弁された、白馬非馬的のこじつけをせねばならないというところに、その根本的の無理があることを考えてみよ。むしろ「無韻の韻文」などと言うよりは、はっきりと思いきって、吾人は自由詩を散文――特殊の詩的散文――であると言った方が好くはないか。
 しかも人々は、何よりもこの断定を恐れている。あたかもこの断定から、自由詩が致命的に抹殺されるように恐れている。何故だろうか? 自由詩が「散文」であるということは、自由詩が「詩でないもの」に属することを致命的に断定するように感ずるからだ。換言すれば「散文」という観念が、常に「非詩」という観念に結びついているからだ。そこで自由詩が詩であるためには、否でも応でも無理にこじつけて韻文の仲間入りをせねばならない。
 諸君の頭脳を明晰にせよ! すべてこうした混乱の生ずる所以は、始めから「韻文」と称する形式主義の定規によって、詩を定義しようとした誤謬にある。前に言う通り、詩には音律が必須である。しかも詩の表現は、必ずしも所謂韻文が意味する如き、クラシカルな定規的律格を必須としない。詩と他の文学とを形式上で別つものは、そうした定形韻律の有無でなくして、他のもっと根本的の点に無ければならない。
 詩が他の文学と異なる、根本の相違点は何だろうか? 言うまでもなく、それが「音律を本位とする表現」であることにある。すべての詩は、必ずしも規約された形式韻文ではないけれども、しかもすべての詩は――自由詩でも定律詩でも――本質上に於て音律を重要視し、それに表現の生命的意義を置いている。然るに他の小説等の文学は、この点で詩と異っている。もちろん前に言った通りこれ等の文学にも音律があり、自由律としての調子があるが、それが表現の主要事でなく、単なる属性事として取扱われている。詩以外の文学は、小説でも、感想でも、論文でも、すべて「描写――もしくは説明記述――を本位とする表現」である。
 詩と他の文学との表現上に於ける著るしい特色は、実にこの一事に存している。故に「韻文」という語を広義に解して、この意味での詩の特色、即ち「音律を本位とする文」とするならば、始めてこの言葉の中に自由詩も定律詩も包括され、もはやかの「無韻の韻文」と言う如き、意味の紛乱した謎語によって、自由詩を曲弁する必要もなくなるだろう。そしてこの本質的なる韻文の定義に対し、散文の定義は「非音律本位の文」である故、この意味の言語ならば、自由詩は、決して散文に所属されない。
 されば要するに問題は、所謂「韻文」「散文」の言語に於ける、解釈の如何にかかっている。もしこれ等の言語を文字通りに正解して、辞書的の形式観によるならば、それは「定則律」と「自由律」との対立になる故に、詩が韻文を意味する以上、自由詩は詩の仲間に這入れなくなる。然るに今日では、一般に人々が自由詩を肯定している。肯定されなかった。自由詩が詩の認定を得るまでには幾多の長い議論が戦わされた。)故に今日の立場としては、言語の辞書的な解義を廃して、韻文を「音律本位の文」と考え、散文を「非音律本位の文」と考え、詩を定規的な形式観によらずして、本質上から定義せねばならないのである。

* 「大体に於ける法則」ということは、10の中の8が正則で、2が変則であるという如き、数量の上の計算でない。この場合の「大体」は、法則の背後にある根本の大原理を指すのである。即ち自由詩の原理は「法則なき法則」に存するので、普通の意味の律格的形式とは、全然性質の異ったもの、それを以て律することのできないものである。尚次の註解を見よ。
** 「韻律なき韻律」という類の言語は、賓辞が主辞を否定することに於て、別の新しき定義を暗示しようとするのである。例えば「道徳なき道徳」という場合に、賓辞の道徳が意味するものは、過去の所謂道徳と全くちがった、別の新しい道徳を意味している。そしてこの新しき道徳Aによって、前の道徳Aを否定するから、「AはAに非ず」というこの矛盾命題が成立する。「韻律なき韻律」の場合もそうであって、賓辞の意味する韻律は、過去の言語が意味する所謂韻律や韻文とは、全く別種のものを指しているのだ。

 韻律という言語は、一定の規則正しき反復をもったところの、時間上の進行を意味している。例えば時計のチクタク、心臓の鼓動、海洋の波浪等であって、元来、規則正しきものを指すのであるから、自由詩にリズムの無い事は始めから解っている。否むしろ自由詩はかかる形式主義に反対し、リズムを破壊することに主張を持っている。この形式主義と自由主義との主張については後に公平な批判を以て見ようと思う。

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