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2011年8月14日 (日)

第九章 象徴派から最近詩派へ

 文芸の歴史は反動である。高蹈派の形式主義によって、あまりに重圧されたところの詩壇は、次いで表現の自由を求め、情緒の解放を叫ぶところの、新しきロマンチシズムへの復活が来なければならないだろう。そして実に、早くその反動はやって来た。即ち近代詩壇にエポックした、例の象徴派の運動がこれである。
 象徴派の新運動は、その本質上の精神に於て、正しく浪漫派の復活であり、虐げられたる自由と感情とを、詩に於て取り返そうとした革命である。何よりも彼等は、高蹈派の形式主義に反対した。彼等は衒学的なものを嫌い、貴族的な尊大感に反抗し、民衆的な気取らない直情主義で、率直に思想を語ろうとした。象徴派の詩人等は、また特に主観を強調した。彼等はスイートな情緒によって、音楽のメロディアスに融けて行く詩を愛した。そして韻律の形式的な規約を無視し、詩学派の高蹈派と衝突した。遂にその結果は、ヴェルハーレン等によって大胆にされ、全く詩学派と絶交することになってしまった。換言すれば、詩の韻律法則を破壊して、今日の所謂「*自由詩」を生むに至ったのである。けだし浪漫派の精神が押すところは、象徴派を経て此処に達するのが自然である。
 象徴派はまた、高蹈派に対する反動として、詩想の朦朧としたものを愛し、判然明白なものを嫌った。象徴派の思惟によれば、詩の情趣は「朦朧の神秘」に存し、意味の不分明なところにあるというのだ。そしてこの点でのみ、一般に象徴派の特色が著るしく誇張されている。けれども詩派の運動に於ける本質からみて、象徴派の真生命は、要するに浪漫派の新しい復活に存している。彼等は高蹈派によって虐たげられた自由と情緒とを、一の新しき哲学の形によって、欧洲の近代詩壇に呼び返した。その新しき哲学とは、詩に瞑想的な実在観念を深めたことで、浪漫派の純一に情緒主義であったのとは、この点で教養が区別される。彼等は要するに浪漫詩人の、より観念化した変貌だった。
 この象徴派の運動は、一時殆ど欧洲の全詩壇を風靡してしまった。いやしくも象徴派でないものは、新時代の詩人でないように考えられた。しかしながら反動は、必然の避けがたい法則で起って来た。第一につぎの詩壇は、象徴派の曖昧朦朧を排斥した。そして印象を的確にし、意味を力強く出すことに傾向して来た。実に象徴派以後の詩壇は、この「印象的」というところに、著るしい特色を有している。そして最近の多くの詩派、即ち写象派、未来派、立体派、表現派、ダダイズム等のものが、一時に続々と現われて来た。次にこれ等の詩派に共通する、最近詩壇の一貫した精神を述べてみよう。
 最近詩派の本質は、一言にして言えば「象徴派への反動」である。即ち彼等は情緒を排して、或る種の抑圧されたる、逆説的な意志による権力感情を高調している。特に立体派や、未来派や、表現派等に見るように、彼等の詩的情操の本質感は、或る意地悪しきもの、歪みたるもの、ヒン曲げられたるもの、グロテスクのもの、憎々しきもの、残酷なるものの表象である。何等かそこには、権力を否定することによって痛快とする、或る逆説的のヒロイズムがあり、意地の悪いニヒリズムが冷笑を浮べている。確かに近代の詩に共通する一つの強い情操は、或るニヒリスティックな権力感で、物質の本性をキュービカルに歪めさせ、世界をグロテスクにねじ曲げようとする、意志の力学する意味を持っている。そこにはいつも科学的な唯物観と宿命観が、人生を苦々しく情象し、機械と鉄槌の重圧が、詩を叩き出そうと意志している。げているかを見よ。)
 こうした内容を有する詩が、形式に於てどんな表現を映してくるかは、考えるまでもなく明らかだろう。最近の多くの詩は、この点に於ても全く象徴派に敵愾している。あの象徴派のぬらぬらした、メロディアスで柔軟な自由律は、最近詩派の趣味性から手きびしく反感される。表現派や立体派の求めるところは、鉄と機械によってがっしりと造られている、骨骼の逞ましいリズミカルのもの、即ちクラシックの形式詩体でなければならない。けれども彼等は、既に象徴派を経てシンボリズムの洗礼を受けている故に、古典詩学の同じ形式には、再度帰ることを欲していない。彼等の求める様式は、クラシズムからその古風な美と詩学とを除いたところの、新しき様式に於ける意匠であろう。
 これによって立体派や未来派は、彼等独自のユニックな意匠によって、別の新しいクラシズムを創見した。即ち言語を機械学的に配列したり、韻律を力学によって法則したり、或はピラミッド形の象形詩形を造ったりして、一種の新様式に於ける函数的クラシズムを創造した。これ等の新しきクラシズムは、過去の高蹈派が墨守した詩学的なクラシズムとは、全くその外観を新奇にしている。新しき時代のものは、法則がより変態でより函数的に動かし得る韻律の自由を持っている。けれどもその詩形が精神する原則は、本質に於て過去のクラシズムと一致しており、同じく一種の造型美術――言語上のゴシック建築――と見るべきものだ。
 こうした新傾向の帰するところは、詩を音楽から遠くさせて、**美術の方に導いて行く。実に或る最近の詩は、音律要素を全く無視して、言語を象徴的に並べることから、或る種の絵画的、もしくは造型美術的な効果をあげようと企てている。そしてこの種の新形式主義が行くところは、必然にまた唯美主義に傾向して行く。即ち詩を内容的なものから移して、形式的な純美に導き、芸術的貴族主義の山頂たる、唯美主義の標号へ走って行く。実にこの唯美主義的なものは、最近詩界に於ける著るしい特色で、彼等の多くの哲学は、そこに「美と唯物主義との弁証されたる科学の実証」を保険している。だが吾人は、この種のあまりに科学的なる、あまりに芸術至上主義なる一派の詩派と詩人に対し、一つの根本的なる懐疑を持っている。すくなくとも彼等については、何かの警告するところが無ければならない。だがその議論は次章に譲ろう。
 要するに最近詩壇は、前代象徴派への反動であり、リリカルな詩情に対する、エピカルな詩情の全躍している時代であって、これを社会的に観照すれば、デモクラチックのものに対する、権力感情のニヒリスティックな反動である。にあるのだ。)しかしこの現状の内奥には、早くもまた時代を逆に呼ばわろうとする、次の反動が準備され、漸く詩壇の意識に登りかけている。即ち近時の外国詩壇で論じられている正統派――それは詩を純一の情緒に返そうとしている――の如き、その他浪漫派の正流を追おうとする一派の如き、何れも来るべき次の詩壇への、意味深い予言と暗示をあたえている。畢竟、詩の歴史は「反動から反動へ」の流れであり、無限に際限のない軌道である故、今日の正流は明日の逆流、明日の逆流は今日の正流となるわけで、この点の価値と正邪に関しては、一も現在の批判を断定し得ないのである。
 さて以上述べたことは、欧洲の詩壇についての観察だが、最後に日本の詩派について一言したい。なぜなら日本に於ても、象徴派とか高蹈派とか、或は未来派とかダダイズムとか言う如き、欧洲のそれと同名のものがあるからだ。これ等の和製詩派について、吾人は多く語るべき興味を持たない。日本に於ける大抵の文学流派は、皮相なジャーナリズムの影響であり、西洋新聞の文芸欄や政治欄を、新人気取りの新しがりと衒学さで、軽薄に受け取ったものにすぎないのだ。故に吾人の言うべきことは、日本に於ける象徴派や高蹈派等のものが、単にその名目上での一致の外、西洋の原物とは関係のない、或る特殊の別種であると言うことだけを、はっきりと注意しておくに止める。

* 自由詩の起元は、欧洲に於ては象徴派である。しかしアメリカに於ては、これより先民衆詩人のホイットマンが、独自のユニックな散文詩形を創造している。けだしアメリカの如きデモクラシイの代表的国家に於て、早く自由律の詩が生れるのは当然である。
** 詩が美術に近く様式するのは、もちろん単に外観上の見えにすぎない。本質に於ては、やはり象形によって音楽のように情象するので、決して小説の如く描写しているのではない。しかし何れにせよこの行き方は、言語の特質を生かすべき、正道の表現にはずれている。

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