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2011年8月20日 (土)

概論

     詩とは何ぞや

 詩とは何だろうか? これに対する答解は、形式からと内容からとの、両方面から提出され得る。そして実に多くの詩人が、古来この両方面から答解している。もしこれ等の答解にして完全だったら、吾人はそのどっちを聞いても好いのである。なぜなら芸術に於ける形式と内容の関係は、鏡に於ける映像と実体の関係だから。
 しかしながら吾人は、そのどっちの側からの答解からも、かつて一つの満足のものを聞いていない。特に内容からされたものは、一般に甚だしく独断的で、単に個人的な立場に於ける、個人的な詩を主張しているにすぎない。例えば、或は詩は霊魂の窓であると言い、天啓の声であると言い、或は自然の黙契であると言い、記憶への郷愁だと言い、生命の躍動だと言い、鬱屈からの解放だと言い、一々個人によって意見を異にし、一も普遍妥当するところがない。畢竟これ等のものは、各々の詩人が各々の詩論を主張しているのであって、一般についての「詩の原理」を言ってるのでない。吾人が本書で説こうとするのは、こうした個人的の詩論でなくして、一般について何人にも承諾され得る、普遍共通の詩の原理である。
 さて内容からされた詩の解説が、かく各人各説であるに反して、一方形式からされた詩の答解は、不思議に多数者の意見が一致し、古来の定見に帰結している。曰く、詩とは韻律によって書かれた文学、即ち「韻文」であると。思うにこの解説ほど、詩の定義として簡単であり、かつ普遍に信任されているものはないだろう。しかしこの解説が、果して詩の詩たるべき本質を、形式上から完全に定義しているだろうか? 第一の疑問は、先ず韻律とは何ぞや、韻文とは何ぞやと言うことである。字書の語解は、この点に就いて完全な答案を持つであろう。にもかかわらず、古来多くの詩人等は、この点で態度を晦まし、強いて字義の言明された定義を避けてる。けだし、彼等の認識中には、詩と散文との間に割線がなく、しばしば韻文の延べた線が、散文の方に紛れ込んでいるのを知ってるからだ。彼等はその点で困惑し、語義を曖昧にしておくことから、ずるくごまかそうとしているのである。
 されば*リズムや韻文やの語も、詩人によってそれぞれまた解釈と意見を異にしている。誰もおそらく、この言語の意味する字書の正解を知ってるだろう。しかも多くの詩人等は、これにまた各自の勝手な附説をつけ、結局して自己の詩と結びつけているのである。故に詩の形式に於ける答解も、つまりは内容に於けるそれと同じく、どこにも共通普遍の一致がない、各人各説の独断説にすぎないことが推論される。しかし此処では、仮りに各人の意見が一致し、文字通りの正解された韻文を以て、詩の詩たる典型の形式であると認めておこう。しかしそれにしても、尚この答解は疑わしく、定義として納得できないものを考えさせる。
 もし果してそうであり、詩の詩たる所以が韻文であるとするならば、およそ韻律の形式によって書かれたすべてのものは、必然に皆詩と呼ばるべき文学に属するだろう。然るに世には、正則なる律格や押韻やの形式をもっていながら、本質上に於て詩と称し得ないような文学がある。即ち例えば、ソクラテスが韻文修辞の練習として、獄中で書いたと言われるイソップ物語の押韻訳や、アリストテレスが書いたと言われる、同じ押韻の哲学論理や、或は我が国等によく見る道徳処世の教訓歌、学生が地理歴史の諳記に便する和歌等のものである。これ等の文字は、確にだれがみても異存のない、文字通りの正則な韻文であるにかかわらず、本質上から詩と呼ぶことができないのである。反対に一方には、ツルゲネフやボードレエルの書いた詩文の如く、散文の形式であるにかかわらず、本質から詩と呼ばれてる一種の文学、即ち所謂「**散文詩」がある。
 されば詩の答解は、散文に対する韻文と言う如き、単純な断定によっては尽し得ない。すくなくともこの答解は、その「散文」「韻文」等の語に特殊な解説を附さない限りは、形式からの見方としても、合理的な普遍性を持たないだろう。もし実に合理的のものであったら、形式がそれ自ら内容の投影である故に、本質に於て詩と考え得ないような文字を、外見上から紛れ入れるようなことは無いわけである。故に形式からも内容からも、従来詩に就いて答解されたすべてのものは、一として合理的な普遍性を有していない。詩とは何ぞや? という問に対して、過去に人々が答えたすべてのものは、部分的な偏見に執した誤謬である、もしくは特殊の窓を通して見た、個人の独断的主張であるかであって、一般に普遍的に、どんな詩にもどの詩人にも、共通して真理である如き答解は、かつて全く無かったのである。
 そこで本書は、この普遍的な解答をするために、内容と形式との、二つの方面から考察を進めて行こうと思っている。けだし詩とは「詩の内容」が「詩の形式」を取ったものであるからだ。そこで本書の前半を内容論とし、後半を形式論とし、前のものの肖像が、後のものの鏡面に映り出してくるように、論述を組織したいと思っている。

* 詩のリズムを解して、心の起る浪の音波など言う人がある。これ形式を内容に移して説いたもので、この思想から自由詩の所謂「内部韻律」という如き観念が生ずるのである。だがこうなってくると「韻文」の語義が益々不可解になる。
** 詩と韻文とが同字義ならば、散文詩という語は何の意味か。散文と詩とが、一つの言語で結びつくのは、北と南、善と悪との反対を、同時に考えるような矛盾である。

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