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2011年8月19日 (金)

第五章 生活のための芸術・芸術のための芸術

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 芸術家の範疇には二つある。主観的な芸術家と、客観的な芸術家である。そして前者が常に観念を追い、人生に対して「意欲する」態度をとるに反し、後者が常に静観を持し、存在に対して「観照する」態度をとるのは、前に既に述べた通りだ。
 ところでこの前のもの、即ち主観的な芸術家等は、人生に対して欲情し、より善き生活を夢想するところから、常に「ある所の世界」に不満し、「あるべき所の世界」を憧憬している。そしてこの「あるべき所の世界」こそ、彼等の芸術に現われた VISION であり、主観に掲げられた観念である。さればこの種の芸術家等は、何よりも観念に於て生活し、観念に於て実現することを望んでいる。彼等が真に願うところは、主観のかくも熱望する夢の中に、彼自身が実に生活し、実に現実することである。即ちイデヤがその生活の目標であり、規範であり、願望される一切の理想であるのだ。そして、芸術は、かかるイデヤに対するあこがれであり、勇躍への意志であり、もしくは嘆息であり、祈祷であり、或は絶望の果敢なき慰め――悲しき玩具――であるにすぎない。故に表現は彼等にとって、真の第一義的な仕事でなく、イデヤの真生活に至る行路の、「生活のための芸術」である。もし彼等にして希望を達し、その祈祷が聴かれ、熱情するイデヤの夢を現実し得たらば、もはや表現は必要がなく、直ちに芸術が捨てられてしまうであろう。
 然るに客観的の芸術家は、一方でこれと別な態度で、表現の意義を考えている。彼等は主観によって世界を見ずして、対象について観察している。彼等の態度は、世界を自分の方に引きつけるのでなく、ある所の現実からして、意義と価値とを見ようとする。故に生活の目的は、彼等にとって価値の認識、即ち真や美の観照である。然るに芸術にあっては、観照がそれ自ら表現である故に、芸術と生活とは、彼等にとって全く同一義のものになってくる。即ち生活することが芸術であり、芸術することが生活なのだ。芸術は生活以外にあるのでなく、それ自体の中に目的を有している。何とならば生活の目標が、彼等にとっては、表現であり、芸術と生活とが、同じ言語の二重反復にすぎないから。
 即ち言わば彼等にとって、芸術は正に「芸術のための芸術」なのだ。

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 文壇で言われる「生活のための芸術」「芸術のための芸術」の正しい本質は、実に前述した如くである。即ちそれは「イデヤのための芸術」と「観照のための芸術」の別語であって、つまり言えば主観主義と客観主義、浪漫主義と現実主義との、人生観的見地からくる芸術の見方にすぎない。主観的ロマンチシズムの人生観に立ってる人は、必然に「生活のための芸術」を考えるし、客観的レアリズムの立場にいる人たちは、必然に「芸術のための芸術」を思うであろう。しかし注意すべきことは、こうした見解が態度上のものであって、芸術作品としての批判上には、何等関係しないということである。
 この事実を説明するため、別の一例を取って話してみよう。例えば学問をする人には、種々異った態度がある。或る多くの人々は、立身出世のために学問をし、他の或る篤志な人々は、社会民衆の利福のために、学術を役立てようと思って学問する。或はまた一方には、学問によって生活上の懐疑を釈き、安心立命を得ようとする人々もあるであろう。そして最後には、何等他の目的のためでなく、純に学問することの興味によって、即ち「学問のための学問」をする人たちがある。
 かく学問する人の態度には、種々の異った種類があるけれども、学術が学術として批判される限りに於ては、純に真理としての学術価値を問うのであって、他の功利価値や実用価値に関していない。例えば電信や蒸気船やは、発明の目的が社会の福祉にあったにせよ、或は純に科学的の興味にあったにせよ、発見としての価値に変りがなく、またその学術上の批判に於ては、利用の有益と無益とを問わないのである。
 芸術がまたこれと同じで、主観に於ける作家の態度は、価値批判の上に関係しない。故にもし諸君が意志するならば、芸術は売文のためであってもよく、ミツワ石鹸の広告のためであってもよく、或は共産主義の宣伝のためでもよく、社会風規の匡正や国利民福のためでも好い。ただしかしこれを批判する上からは、そうした個々の解説と立場につかず、表現自体としての芸術的価値を見るのである。もしそうでなく、芸術の批判を個々の主観的立場で聴いたら、一も批準のよるところがないだろう。なぜならば或る者は宣伝の効果を主張し、或る者は商品販売の効果を重視し、或る者は教育上の効果を言い立て、各々の価値の批準がてんでにちがってくるから。
 されば芸術の批判にあっては、作家の態度の如何を問わず、単に表現された作物から、芸術としての純粋価値――芸術としての芸術価値――を問うのである。今日赤色露西亜の過激派政府は、盛んにボリシェヴィキーの宣伝芸術を出してるけれども、吾人のこれに対する批判は、宣伝効果の有無を問うのでなく、ひとえに芸術としての価値に於ける、魅力の有無を問うのである。所謂教育映画や、伝染病予防の宣伝ポスター等に対する批判の規準点が、皆これに同じである。これらの場合に弁明して、単なる芸術として書いたのでなく、社会意識の大義によって書いたから、そのつもりで高く――やはり芸術として――買ってくれと言う如き、前後矛盾した虫の好い要求は、到底受けつけられないのである。
「生活のための芸術」と「芸術のための芸術」とが、この点の批判でやはり同様である。作家自身の態度としては、芸術が慰安的な「悲しき玩具」であろうとも、或は生命がけな「真剣な仕事」であろうとも、批判する側には関係がなく、何れにせよ表現の魅力を有し、作品として感動させてくれるものが好いので、芸術の批判は芸術に於てのみなされるのだ。換言すれば芸術は――どんな態度の芸術であっても――芸術それ自体の立場から、芸術を芸術の目的で批判される。
 では芸術が芸術として、芸術の目的から批判されるというのは、どういうことを意味するだろうか。言いかえれば芸術批判の規準点は、いったいどこにあるのだろうか。これに対する答は、一般に誰も知ってる通りである。即ち芸術の価値批判は「美」であって、この基準された点からのみ、作品の評価は決定される。そして此処には、もちろんいかなる例外をも許容しない。いやしくも芸術品である以上には、悉く皆美の価値によって批判される。芸術の評価はこれ以外になく、またこれを拒むこともできないのである。
 しかしながら美の種目には、大いにその特色を異にするところの、二つの著るしい対照がある。即ちその一つは純粋に芸術的な純美であって、他の一つはより人間的な生活感に触れるところの、或る別の種類の美である。そこで「芸術のための芸術」が求めるものは、主としてこの前の方の美に属する。故に彼等は、純美としての明徹した智慧を悦び、描写と観照の行き届いた、表現の芸術的に洗煉された、そしてどこか冷たい非人間的の感じがする、或るクリーアに澄んだ美を求める。これに反して一方の人々は、そうした非人間的の美を悦ばない。彼等の芸術に求めるものは、もっと人間性の情線に触れ、宗教感や倫理感やを高調し、生活感情に深くひびいてくるところの、より意欲的で温感のある美なのである。
 すべての所謂「生活のための芸術」は、この後者に属する美を求める。故に彼等はこの点から、芸術至上主義の審美学に反対して、よりダイナミックの芸術論を主張する。今日我が文壇で言われるプロレタリヤ文学の如きも、この後者に属する一派であって、彼等が要求している芸術は、実にこの種の美なのである。されば彼等は、表面上に「宣伝としての芸術」を説いていながら、内実にはやはりその作品が、芸術としての批判で評価されることを欲しており、態度が甚だしく曖昧で不徹底を極めている。けだしこの一派の迷妄は、その芸術上に於て正しく求めようとする美の意識と、政治運動としてのイデオロギイとを、無差別に錯覚している無智に存する。
 ところでこの前の方の美、即ち「芸術のための芸術」が求めるものは、叡智の澄んだ「観照的」の純美であって、正しく美術が範疇している冷感の美に属する。反対に「生活のための芸術」が求めるものは、より燃焼的で温熱感に富んでるところの、音楽の範疇美に所属している。然るに「生活のための芸術」は、始めから主観主義の立場に立って人生を考えるものである故に、彼等の求めるところが、美術の純美になくして音楽の陶酔にあることは、全く予定されたる当然の帰結である。そしてこのことは、同様に他の一方の者についても考えられる。されば「生活のための芸術」と言い「芸術のための芸術」と言うのも、所詮は主観派と客観派との、美に対する趣味の相違にすぎないので、本質に於て考えれば、意外に全く同じ芸術主義者の一族であることが解るであろう。

        3

 上節述べたところによって、吾人は「生活のための芸術」と「芸術のための芸術」とを明解した。芸術上に於て言われるこの対語は、以上述べたことによってその本質を尽している。決してこれより他には、どんな別の解釈も有り得ないのだ。然るに日本の文壇では、不思議に昔から伝統して、あらゆる言語が履きかえたでたらめの意味で通っている。例えば芸術至上主義という語の如きも、日本では全く正体の見ちがった滑稽の意味に解されてるが、同様にこの「生活のための芸術」という語の如きも、殆ど子供らしく馬鹿馬鹿しい解釈で、昔から文壇に俗解されてる。この章のついでに於て、簡単に稚愚の俗見を啓蒙しておこう。
 日本の過去の文壇では、この「生活のための芸術」という命題を、単に「生活を描く芸術」として解釈した。これがため所謂生活派と称する一派の文学が、僭越にも自ら「生活のための芸術」と名乗ったりした。この所謂生活派の何物たるかは後に言うが、もし単に「生活を描く」ことが、生活のための芸術であるとすれば、東西古今、あらゆる一切の文芸は、悉く皆「生活のための芸術」に属するだろう。なぜならば生活、即ち Human-life を書かない芸術というものは、一として実に有り得ないからだ。即ち或る者は思索生活を、或る者は求道生活を、或る者は性的生活を、或る者は孤独生活を、或る者は社会生活を書いている。
 しかし過去の日本文壇では、この「*生活」という語が狭義に解され、主として衣食のための実生活、もしくは起臥茶飯の日常生活を意味していた。それで所謂「生活を描く」という意味は、米塩のための所帯暮しや、日常茶飯の身辺記事やを題材とするという意味であって、これが即ち所謂「生活派」の文芸だった。だが「生活のための芸術」ということは、本質に於てそうした文芸とちがっている。もしその種の文芸が、実に「生活のため」と言われるのだったら、この場合の「ため」は何を意味するのか。それが for の意味、即ち生活に向って、生活の目標のためでないことは明らかだ。なぜなら茶を飲んだり、無駄話をしたりする日常生活や、或は単に米塩のために働らいてる生活、即ち単に「生きる」ための実生活やに、何のイデヤも目標もないことは、初めから解りきってる話だから。ではこの「ため」は、「利用する」「役立てる」という意味になるのだろうか。過去の自然主義の文芸では、多分にそう解したらしい。だがそうとすれば、一層以て不可解であり、奇怪千万な謎語である。なぜなら細民窟のじめじめした長屋住いや、おつけ臭い所帯話やを書いた文学が、実生活のための利益になるということは、いかにしても考え得ないから。
 読者にして常識あらば、今日の文壇でかかる啓蒙は無用であろう。文芸は、単に「生活を描く」ことによって「生活のため」と呼ばれるのでなく、生活に理念を有し、イデヤに向っての意欲を掲げることによって、特に「生活のための芸術」と呼ばれるのである。況んや生活の語を狭義に解して、日常茶飯の身辺的記録の類を、没主観の平面描写によって書く文学が、何等「生活のための芸術」でないことは明らかだ。否、日本の文壇常識で言われる生活主義の芸術とは、一種の茶人的身辺小説のことであって、真の「生活のための芸術」とは、全然立場を反対にする文学である。
 真の意味で「生活のための芸術」と言われるものは、前説の如く主観の生活イデヤを追う文学であり、それより外には全く解説がないのである。故に例えば、ゲーテや、芭蕉や、トルストイやは、典型的なる「生活のための芸術家」である。かの異端的快楽主義に惑溺したワイルドの如きも、やはりこの仲間の文学者で「生活のための芸術家」である。なぜなら彼は、極めて詩人的なるロマンチックの情熱家で、生涯を通じて夢を追い、或る異端的なる美のユートピアを求めていたから。然るに世人は、往々にしてワイルド等を芸術至上主義者と言い、芸術のための芸術家と称している。この俗見の誤謬について、ついでに此処で一言しておこう。
 元来「芸術のための芸術」という標語は、ルネサンスに於ける人間主義者によって、初めて、標語されたものであって、当時の基督教教権時代に、文芸が宗教や道徳の束縛を受けるに対し、芸術の自由と独立とを宣言した言葉であった。即ち人間主義者等が意味したところは、芸術が「教会のため」や「説教のため」でなく、芸術それ自体のために、芸術のための芸術として批判さるべきことを説いたのである。故に当時の意味に於ては、正統なる芸術批判の主張であって、もとより「生活のための芸術」に対する別の主張ではなかったのだ。
 然るに当時の人間主義者等は、初めから基督教に叛逆して立っていた為、この「芸術のための芸術」という語は、それ自ら反基督教、反教会主義の異端思想を含蓄していた。即ち当時のヒューマニズムは、故意に神聖冒涜の思想を書き、基督教が異端視する官能の快楽を追い、悪魔視される肉体の讃美をして、すべての基督教道徳に反抗した為、彼等の標語「芸術のための芸術」は、それ自ら異端的の悪魔主義や官能的享楽主義やを、言語自体の中に意味するように考えられた。然るに「芸術」はそれ自ら「美」を意味する故に、此処に唯美主義とか、芸術至上主義とかいう言葉が、必然に異端的の快楽主義や、反基督の悪魔主義やと結ぶことになった。今日尚十九世紀に於けるワイルドやボードレエルやを、しばしば唯美主義者と呼び、芸術至上派と呼び、「芸術のための芸術家」と言ったりするのは、実にルネサンス以来のヒューマニズムが、文壇的に伝統しているためである。
 しかしながら言うまでもなく、こうした称呼はもはや、今日のものでなく、かのゴシック建築の寺院と共に、古風な中世紀の遺風に属している。今日の時代思潮に於ては、もはや「美」や「芸術」やの言語が、カトリック教的叛逆の「異端」を意味していない故に、我々の文壇がこうした古風の遺風の意味に於て、唯美主義や芸術至上主義を言語するのは馬鹿げている。今日の意味に於て、正しく唯美主義と言わるべき芸術は、人間感や生活感やを超越したところの、真の超人的なる芸術至上主義――即ち純一に徹底したる「芸術のための芸術」――についてのみ思惟されるのだ。

* 生活 Life という言語が、日本に於てそうした卑近の意味に解されるのは、日本人そのものが非常に――おそらくは世界無比に――現実的の国民であって、日常起臥の身辺生活以外に、いかなる他の Life をも考え得ないからである。この現実的な思想は、俳句や茶の湯の如き、民族芸術の一切に現われている。特に茶道の如きは、日常起臥の生活を直ちに美化しようとするのであって、芸術的プラグマチズムの代表であり、日本人の Life に対する極端な現実的観念を、最もよく語っている。つまり「生活のための芸術」が、日本では茶道の精神で解されたのだ。

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