« 第十一章 芸術に於ける詩の概観 | トップページ | 第九章 詩の本質 »

2011年8月18日 (木)

第十章 人生に於ける詩の概観

 詩の本質するものが、それ自ら「主観的精神」であることは前に述べた。ではこの主観的精神、即ち「詩」は人生のどこにあるだろうか。そして此処に人生と言う意味は、人間生活の文化に於ける、価値の顕揚されたものについて言うのである。吾人はこの章に於て道徳、芸術、宗教、学術等の一切にわたる詩的精神の所在を概観しよう。
 始めに先ず、道徳的精神について考えよう。道徳的精神はどんなものでも、本質に於て一種の詩的精神であり、詩という言語の広い所属に含まれてる。なぜなら倫理感の本質は、それ自ら感情としてのイデヤを掲げる、主観的精神に外ならないから。特に就中、愛に於ける情緒の如きは、恋愛と結んで抒情詩の根本のものになっており、人道と結んで主観主義文学――例えば浪漫派など――の主要なモチーヴとなっているほどだ。愛以外の他の道徳感も、すべて人の胸線に響を与え、普遍的なる精神のひろがりを感じさせる。即ちすべての倫理感は、本質上での美感に属し、詩と同じき高翔感や陶酔感やを、その「感情の意味」に於て高調する。此処でついでに、こうした道徳的情操に特色している、二種の異った種別を述べておこう。
 道徳的情操に於て、広く「善」と呼ばれるものには、それぞれの内部的分類がある。例えば「愛」「正」「義」等の者で、多少その倫理的内容を別にし、したがってその情操を異にしている。これ等の中、最も純粋に感情的で、かつ実践的であるものは、言うまでもなく「愛」である。愛には全く論理がなく、その情操は純一に感傷的で、女性的に、柔和であって涙ぐましい。普通に言う「情緒」という美感は、この道徳情操に於て最高潮に表象される。かの人道主義や、他愛主義や、その他の博愛教道徳は、すべて情緒の上に基調している。これに対して「正」や「義」やは、何等かの主義信念の上に立つもので、概して思想的要素を多分に持ってる。
 されば一切の主義と名づけるものは、すべてこの倫理的正義感に出発している。たとい徳に反対する主義――例せば悪魔主義や本能主義――のようなものであっても、本質はやはり、別のユニックな正義を信ずるところの、同じ倫理線の上に立っているので、この本質の点から言うならば、世に無道徳的なるいかなる主義もないわけである。そしてこの正義感の情操は、愛のそれと反対であり、男性的で反撥の力に強く、意志を強調し、どこか心を高く、上に高翔させるような思いがある。カントが倫理感の本性を説明して、天にありては輝やく星辰、地にありては不易の善意と言ったのは、その語調さながらに、この種の倫理的情操を明示している。それは愛の情操と並んで、道徳感の二大種目を対立している。
 かく道徳的情操は、本質に於ての詩的精神である故に、すべて倫理感を基調としている文芸は、必然に「詩」の観念に取り入れられる。しかしながらより真の詩を持つものは、道徳でなくして宗教である。なぜなら宗教は、一層「感情の意味」が濃厚であり、イデヤに於ての夢が深く、永遠に実在するものに対するプラトン的思慕の哲学を持っているから。実に宗教の本質は、或る超現在的なものへのあこがれであり、霊魂のイデヤに向う訴え)である。故に宗教的情操の本質は、真の詩が有する第一義感の要素と符節し、芸術の最も高い精神を表象している。実に詩と宗教とは、本質に於て同じようなものである。ただ異なる点は、一方が表現であって、芸術の批判に属し、一方が行為であって倫理の批判に属するということにある。
 宗教のより思弁的で、主観のより瞑想的なものは、即ち所謂哲学である。此処で哲学に就いて一言しよう。哲学という語の狭い意味は、科学に対する哲学――認識論や、形而上学や、論理学や、倫理学や――を意味している。しかしその語の広い意味は、かかる特殊的の学術でなく、一般に「哲学する精神」をもったところの、すべての思想や表現について言われる。即ちこの関係は、丁度「詩」という言語が、詩学の形式について言われる場合と、内容的に詩的精神を有するところの、一般について言われるのと同じである。そこで広い意味の哲学――即ち哲学的精神を有するもの――とは、すべて本質に於て主観を掲げ、何かの実在的なもの、もしくは普遍原理的なものに突入しようとする思想であって、例えばルッソオ、ゲーテ、ニイチェ、トルストイ等の詩学的人生評論の類が、みなこれに類している。
 しかし哲学という言語の、さらに一層本質的に拡大された範囲に於ては、すべてイデヤを有する主観、及び主観的表現の一切を包括する。即ち例えば、これによって「芭蕉の哲学」とか「ワグネルの哲学」とか「*浮世絵の哲学」とか言われ、さらに或る芸術や文学やが、哲学を有するか否か等が批判される。この意味でいわれる哲学とは、哲学的精神に於ける究極のもの、即ち「主観性」について言われるのである。故に「哲学がない」と言うことは、主観性の掲げるイデヤがない、即ち本質上の詩がないという意味である。かのゲーテが「詩人は哲学を持たねばならぬ」と言ったのも、勿論この意味を指すのであろう。

* 浮世絵の哲学は或る頽廃的なる官能の世界に没落し、それと情死しようとするニヒリスティックなエロチシズムで、歌麿や春信が最もよく代表している。

 最後に、詩的精神の最も遠い極地に於て、科学の没主観な太陽が輝やいている。明白に、だれも知っている如く、科学は主観的精神を排斥し、一切「感情の意味」を殺してしまう。故に科学にかかっては、道徳も宗教も型なしであり、知性の冷酷の眼で批判される。実に科学は、人生から「詩」を抹殺することにのみ、その意地あしき本務を持ってるように思われる。しかもこの科学的精神が、宇宙の不思議に対する詩的驚異と、未知の超現実を探ろうとする詩感に出発していることは、何という奇妙な矛盾だろう。けだし科学は、詩的精神の最も大胆な反語であって、その否定するところのものから、逆に他の「夢」を創ろうとするのである。故に科学のあるところには、常に飛行機があり、磁力があり、ラジオがあり、電信があり、不断の新しき発明と夢とがある。もし科学が無かったら、人生はいかに退屈にして変化がなく、夢のない単調のものになるであろう。そしてかく考えれば、科学こそは「詩の中の詩」であるとも逆説される。
 かく一般について観察すると、宗教も、道徳も、科学も、人生の価値に於けるあらゆるものが、本質に於て皆「詩」であり、詩的精神の所在として考えられる。実にこの本質上の意味に於て、詩は人生の「価値一般」であり、あらゆる文明が出発し、基調するところの実体である。すくなくとも詩的精神の基調なくして、人間生活の意義は感じられない。それは生活をして生活たらしめ、人間をして人間たらしめ、真や善や美やの高貴に心を向わせるところの、実のヒューマニチイの本源である。然り――、詩的精神の本質は実にヒューマニチイである。
 しかしながら吾人は、言語の使用について注意しよう。詩という言語を拡大して、こんな風にまで広茫とひろげて行ったら、遂に詩の外延は無限に達し、内容のない空無の中でノンセンスとして消滅せねばならないだろう。言語はすべて比較であり、他との関係に於てのみ意味をもつから、詩という言語が正しく言われる範囲に於て、他との関係を切ってしまおう。換言すれば我々は、他のより客観的なるものに対してより主観的なるものを指摘し、その狭い範囲でのみ、詩という言語を限定しよう。すくなくとも第一に、先ず科学を詩の範囲から逐い出してしまおう。次に或る種の哲学――デカルトやヘーゲル――を拒絶しよう。なぜならこれ等のものは、詩というべくあまりに乾燥無味であって、知性の意味が勝ちすぎているから。
 では学術のどの辺から、詩の範囲に入り得るだろうか。これについての限定は、一般に多数の定見が一致している。常識に準ずるのが無難であろう。その世間の定評では、プラトンや、ブルノーや、ニイチェや、ショーペンハウエルや、老子や、荘子や、ベルグソンやが、一般に詩人哲学者と呼ばれている。なぜなら彼等の思想は主観的で、他の学究のように純理的思弁をせず、意味が情趣のある気分によって語られているから、先ずこれ等の思想家は、定評のある如く詩人に属する。そして同時に、詩という言語の拡大され得る広い範囲も、この辺の思想や学術で切っておこう。これより先に延びて行くことは、詩という言語を空無の中に無くしてしまう。
 そこで吾人は、先ず詩の円周する外輪を描き得たわけだ。次にはこれを内に向って、円の中心点を求めてみよう。どこに詩の中心点があるだろうか? 考えるまでもない。この中心点こそ即ち文壇の所謂「詩」で、吾人の抒情詩や叙事詩を指すのだ。故に詩という言語を中心的に考えれば、真に詩というべきは吾人の所謂詩であって、他のすべての文学や思想やは、単に詩に類似するもの、詩的なものと言うにすぎないのだ。次章はさらに進んで、文学及び芸術に現われた「詩的のもの」を考えよう。

「無道徳」と「反道徳」とを区別せよ。無道徳というのは、全然倫理的観念の外におり、善悪の何れにも没交渉なものを言う。これに対して反道徳は、愛他主義と個人主義とに於ける如く、同じ一つの倫理線の上で、反対に向き合ってるものを言う。故に反道徳と道徳とは、同一線上で絶えず衝突するけれども、無道徳は別の並行線に属しており、全然倫理的問題とは没交渉で、どこにも交切する機縁がない。

« 第十一章 芸術に於ける詩の概観 | トップページ | 第九章 詩の本質 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
フォト

22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。