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2013年1月 5日 (土)

遠野物語2

二〇
 この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども苅置かりおきたる秣まぐさを出すとて三ツ歯の鍬くわにて掻かきまわせしに、大なる蛇へびを見出みいだしたり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべきところもなければ、屋敷の外そとに穴を掘りてこれを埋うめ、蛇塚を作る。その蛇は簣あじかに何荷なんがともなくありたりといえり。


二一
 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽ふけりたり。少し変人という方なりき。狐きつねと親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に稲荷いなりの祠ほこらを建たて、自身京に上のぼりて正一位の神階を請うけて帰り、それよりは日々一枚の油揚あぶらげを欠かすことなく、手ずから社頭に供そなえて拝をなせしに、のちには狐馴なれて近づけども遁にげず。手を延ばしてその首を抑おさえなどしたりという。村にありし薬師の堂守どうもりは、わが仏様は何ものをも供そなえざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ごりやくありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。


二二
 佐々木氏の曾祖母そうそぼ年よりて死去せし時、棺かんに取り納おさめ親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪もの間は火の気けを絶たやすことを忌いむがところの風ふうなれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡いろりの両側りょうがわに坐すわり、母人ははびとは旁かたわらに炭籠すみかごを置き、おりおり炭を継つぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡なくなりし老女なり。平生へいぜい腰かがみて衣物きものの裾すその引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目しまめにも見覚みおぼえあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取すみとりにさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈きじょうの人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥ふしたる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡ねむりを覚さましただ打ち驚くばかりなりしといえり。


○マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。


二三
 同じ人の二七日の逮夜たいやに、知音の者集まりて、夜更ふくるまで念仏を唱となえ立ち帰らんとする時、門口かどぐちの石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付つき正しく亡なくなりし人の通りなりき。これは数多あまたの人見たる故ゆえに誰も疑わず。いかなる執着しゅうじゃくのありしにや、ついに知る人はなかりしなり。


二四
 村々の旧家を大同だいどうというは、大同元年に甲斐国かいのくにより移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非あらざるか。


○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり。『常陸国志ひたちのこくし』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。


二五
 大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかも歳としの暮くれにて、春のいそぎの門松かどまつを、まだ片方かたほうはえ立てぬうちに早はや元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標縄しめなわを引き渡すとのことなり。


二六
 柏崎の田圃たんぼのうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。この家の先代に彫刻に巧たくみなる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。


二七
 早池峯はやちねより出でて東北の方宮古みやこの海に流れ入る川を閉伊川へいがわという。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池いけの端はたという家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台はらだいの淵ふちというあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托たくす。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩たたけば宛名あてなの人いで来くべしとなり。この人請うけ合いはしたれども路々みちみち心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部ろくぶに行き逢あえり。この手紙を開きよみて曰いわく、これを持ち行かば汝なんじの身に大なる災わざわいあるべし。書き換かえて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき石臼いしうすをくれたり。米を一粒入れて回まわせば下より黄金出いづ。この宝物たからものの力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき窪くぼみの中に溜たまりてありし中へ滑すべり入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の旁かたわらにあり。家の名を池の端というもその為ためなりという。


○この話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。


二八
 始めて早池峯に山路やまみちをつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部にゅうぶの後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋かりごやを作りておりしころ、或ある日炉ろの上に餅もちをならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて頻しきりに中を窺うかがうさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ兼かねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、嬉うれしげになお食いたり。餅皆みなになりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅尽つきてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。

○北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥うばを欺あざむき餅に似たる焼石を食わせし祟たたりなりという。この話によく似たり。


二九
 鶏頭山けいとうざんは早池峯の前面に立てる峻峯しゅんぽうなり。麓ふもとの里にてはまた前薬師まえやくしともいう。天狗てんぐ住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は掛かけず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、鉞まさかりにて草を苅かり鎌かまにて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞ふるまいのみ多かりし人なり。或る時人と賭かけをして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気色けしきばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが途みちに迷いて来たるなりと言えば、然しからば送りて遣やるべしとて先さきに立ち、麓ふもと近きところまで来たり、眼を塞ふさげと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。

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