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2013年1月 6日 (日)

遠野物語


 遠野郷とおのごうは今の陸中上閉伊かみへい郡の西の半分、山々にて取り囲かこまれたる平地なり。新町村しんちょうそんにては、遠野、土淵つちぶち、附馬牛つくもうし、松崎、青笹あおざさ、上郷かみごう、小友おとも、綾織あやおり、鱒沢ますざわ、宮守みやもり、達曾部たっそべの一町十ヶ村に分かつ。近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保とおのほとも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の町場まちばにして、南部家なんぶけ一万石の城下なり。城を横田城よこたじょうともいう。この地へ行くには花巻はなまきの停車場にて汽車を下おり、北上川きたかみがわを渡り、その川の支流猿さるヶ石川いしがわの渓たにを伝つたいて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落ゆうらくをなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの甚はなはだ多く、俗に七内八崎ななないやさきありと称す。内ないは沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。


○遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。



 遠野の町は南北の川の落合おちあいにあり。以前は七七十里しちしちじゅうりとて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買ばいばいの貨物を聚あつめ、その市いちの日は馬千匹、人千人の賑にぎわしさなりき。四方の山々の中に最も秀ひいでたるを早池峯はやちねという、北の方附馬牛つくもうしの奥にあり。東の方には六角牛ろっこうし山立てり。石神いしがみという山は附馬牛と達曾部たっそべとの間にありて、その高さ前の二つよりも劣おとれり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ともないてこの高原に来たり、今の来内らいない村の伊豆権現いずごんげんの社あるところに宿やどりし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華れいか降ふりて姉の姫ひめの胸の上に止りしを、末の姫眼覚めさめて窃ひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故ゆえに、遠野の女どもはその妬ねたみを畏おそれて今もこの山には遊ばずといえり。


○この一里は小道すなわち坂東道ばんどうみちなり、一里が五丁または六丁なり。

○タッソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字おおあざあり。


○上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。



 山々の奥には山人住めり。栃内とちない村和野わのの佐々木嘉兵衛かへえという人は今も七十余にて生存せり。この翁おきな若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥はるかなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳くしけずりていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直ただちに銃つつを差し向けて打ち放せしに弾たまに応じて倒れたり。そこに馳かけつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験しるしにせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰わがねて懐ふところに入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐たえがたく睡眠を催もよおしければ、しばらく物蔭ものかげに立寄りてまどろみたり。その間夢ゆめと現うつつとの境のようなる時に、これも丈たけの高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡ねむりは覚めたり。山男なるべしといえり。


○土淵村大字栃内。



 山口村の吉兵衛という家の主人、根子立ねっこだちという山に入り、笹ささを苅かりて束たばとなし担かつぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児おさなごを負おいたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結ゆいつけたる紐ひもは藤の蔓つるにて、着きたる衣類は世の常の縞物しまものなれど、裾すそのあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて綴つづりたり。足は地に着つくとも覚えず。事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方いずかたへか行き過ぎたり。この人はその折の怖おそろしさより煩わずらい始はじめて、久しく病やみてありしが、近きころ亡うせたり。


○土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なればこの主人もまた吉兵衛ならん。



 遠野郷より海岸の田たノ浜はま、吉利吉里きりきりなどへ越ゆるには、昔より笛吹峠ふえふきとうげという山路やまみちあり。山口村より六角牛ろっこうしの方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢であうより、誰もみな怖おそろしがりて次第に往来も稀まれになりしかば、ついに別の路を境木峠さかいげとうげという方に開き、和山わやまを馬次場うまつぎばとして今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路うろなり。


○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。



 遠野郷にては豪農のことを今でも長者という。青笹村大字糠前ぬかのまえの長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某という猟師りょうし、或ある日山に入りて一人の女に遭あう。怖ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何おじではないか、ぶつなという。驚きてよく見れば彼かの長者がまな娘なり。何故なにゆえにこんな処ところにはおるぞと問えば、或る物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生うみたれど、すべて夫おっとが食い尽つくして一人此のごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言うな。御身も危うければ疾とく帰れというままに、その在所をも問い明あきらめずして遁にげ還かえれりという。


○糠の前は糠の森の前にある村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森・糠塚多くあり。


 上郷村の民家の娘、栗くりを拾いに山に入りたるまま帰り来きたらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕まくらを形代かたしろとして葬式を執行とりおこない、さて二三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山ごようざんの腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽おおいかかりて岩窟のようになれるところにて、図はからずこの女に逢いたり。互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の曰いわく、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。遁にげて帰らんと思えど些いささかの隙すきもなしとのことなり。その人はいかなる人かと問うに、自分には並なみの人間と見ゆれど、ただ丈たけきわめて高く眼の色少し凄すごしと思わる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子にはあらずといいて食くらうにや殺すにや、みないずれへか持ち去りてしまうなりという。まことに我々と同じ人間かと押し返して問えば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。一市間ひといちあいに一度か二度、同じようなる人四五人集まりきて、何事か話をなし、やがて何方どちらへか出て行くなり。食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。かく言ううちにも今にそこへ帰って来るかも知れずという故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりといえり。二十年ばかりも以前のことかと思わる。


○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間はすなわち五日のことなり。



 黄昏たそがれに女や子供の家の外に出ている者はよく神隠かみかくしにあうことは他よその国々と同じ。松崎村の寒戸さむとというところの民家にて、若き娘梨なしの樹きの下に草履ぞうりを脱ぬぎ置きたるまま行方ゆくえを知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集あつまりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡あとを留とどめず行き失うせたり。その日は風の烈はげしく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆ばばが帰って来そうな日なりという。


 菊池弥之助やのすけという老人は若きころ駄賃だちんを業とせり。笛の名人にて夜通よどおしに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜うすづきよに、あまたの仲間の者とともに浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大谷地おおやちというところの上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺しらかんばの林しげく、その下は葦あしなど生じ湿しめりたる沢なり。この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞーと呼よばわる者あり。一同ことごとく色を失い遁げ走りたりといえり。


○ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり、内地に多くある地名なり。またヤツともヤトともヤともいう。

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