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2013年6月26日 (水)

堀辰雄「不器用な天使」5

 漸く彼女が來る。
 僕はステツキを落しながらベンチから立上る。僕の心臟は強く鼓動する。僕には彼女の顏が正確に見えない。
 僕は再び彼女と共にベンチに腰を下す。僕は彼女の傍にゐることにいくらか慣れる。僕は彼女の顏をはじめて太陽の光によつて見るのであることに氣づく。それは電氣の光でいつも見てばかりゐた顏と少し異ふやうに見える。太陽は彼女の頬に新鮮な生
なま
な肉を與へてゐる。
 僕はそれを感動して見つめる。彼女は僕にそんなに見つめられるのを恐れてゐるやうに見える。しかし彼女は注意深くしてゐる。彼女は殆ど身動きをしない。そしてときどき輕い咳をする。僕はたえず何か喋舌つてゐる。僕は沈默を欲しながら、それを恐れてゐる。僕の欲してゐるのは、彼女の手を握りながら、彼女の身體に僕の身體をくつつけてゐることのみが僕等に許すであらう沈默だからだ。
 僕は僕自身のことを話す。それから友達のことを話す。そしてときどき彼女のことを尋ねる。しかし僕は彼女の返事を待つてゐない。僕はそれを恐れるかのやうに、又、僕自身のことを話しはじめる。そして僕の話はふと友達のことに觸れる。突然、彼女が僕をさへぎる。
「槇さんたちは私のことを怒つていらつしやるの?」
 彼女の言葉がいきなり僕から僕の局部を麻痺させてゐた藥を取り去る。
 僕は前に經驗したことのある痛みが僕の中に再び起るのを感じる。僕はやつと、あれから槇には自分も會はないと答へる。そして僕は呼吸
いき
の止まるやうな氣がする。僕はもう一言も物が云へない。その僕の烈しい變化にもかかはらず、彼女は前と同じやうに默つてゐる。さういふ彼女が僕にはひどく冷淡なやうに思はれる。そのうちに彼女は、だんだん不自然になつてくる沈默を僕がどうしようともしないのを見て、それを彼女の力で破らうと努力し出す。しかしそのためには、僕が默り込んでしまつてから妙に目立つて來た彼女の輕い咳を、不器用に利用する事しか出來ない。
「こんなに咳ばかりしてゐて。私、胸が惡いのかしら」
 僕は彼女を急に感傷的
センチメンタル
に思ひ出す。僕には彼女の心臟が硬いのか、脆いのか、分らなくなる。僕はただ、ひどい苦痛の中で、彼女の結核菌が少しづつ僕の肺を犯して行く空想を、一種の變な快感をもつて、しはじめる。
 彼女は彼女の努力を續けてゐる。
「昨夜
ゆうべ
、店をしまつてから、私、犬を連れて、この邊まで散歩に來たのよ。二時頃だつたわ。ずゐぶん眞暗だつたわ。さうしたら誰だか私の後をつけてくるの。でもね、私の犬を見たら、何處かへ行つてしまつたわ。それはとても大きな犬なんですもの」
 僕はすつかり彼女のするままになつてゐる。彼女はどうにかかうにか僕の傷口に藥をつけ直し、それをすつかり繃帶で結はへてしまふ。そして僕は、彼女と共にゐる快さが、彼女と共にゐる苦痛と、次第に平衡し出すのを感じる。
 一時間後、僕等はベンチから立上る。僕は彼女の着物の腰のまはりがひどく皺になつてゐるのを見つける。そのベンチのために出來た皺は僕の幸福を決定的にする。
 僕等は別れる時、明日の午後、活動寫眞を見に行く事を約束する。

 翌日、僕は自動車の中から、公園の中を歩いてゐる彼女を認める。僕の小さな叫びは自動車を急激に止めさせる。僕は前に倒れさうになりながら、彼女に合圖をする。それから自動車は彼女を乘せて、半轉をしながら走り出し、一分後には、午後なので殆ど客の入つてゐない、そしてウエイトレスの姿だけのちらと見えるシヤノアルの前を通り過ぎる。この小さな冒險は臆病な僕等に氣に入る。
 シネマ・パレス。エミル・ヤニングスの「ヴアリエテ」。僕はその中に入りながら、人工的な暗闇の中に彼女を一度見失ふ。それから僕は僕のすぐ傍に彼女らしいものを見出す。しかし僕はそれが彼女であることをはつきり確めることが出來ない。そのために、彼女の手を探し求めながら僕の手はためらふ。そして、僕の眼はといへば實物より十倍ほどに擴大された人間の手足が取りとめもなくスクリインの上に動いてゐるのを認めるばかりだ。
 彼女は地下室のソオダ・フアウンテンでソオダ水を飮みながら、僕にエミル・ヤニングスを讚美する。何といふすばらしい肩。さう言つて、彼女はヤニングスが殺人の場面を彼の肩のみで演じたのを僕に思ひ出させようとする。その時僕の眼に浮んだのは、しかしヤニングスの肩ではなく、それに何處か似てゐる槇の肩である。僕はふと、六月の或日、槇と一しよに町を散歩してゐたときの事を思ひ出す。僕は彼が新聞を買つてゐるのを待ちながら、一人の女が僕等の前を通り過ぎるのを見てゐた。その女は僕を見ずに、槇の大きな肩をぢつと見上げながら、通り過ぎて行つた。……その思ひ出の中でいつかその見知らない女と彼女とが入れ代つてしまふ。僕はその思ひ出の中で彼女が槇の肩をぢつと見つめてゐるのを見る。そして僕は、彼女がいま無意識のうちにヤニングスの肩と槇の肩をごつちやにしてゐるのだと信じる。しかし僕は不公平でない。僕は槇の肩を實にすばらしく感じる。そしてそのどつしりした肩を自分の肩に押しつけられるのを、彼女が欲するやうに、僕も欲せずにはゐられなくなる。
 僕はもはや僕が彼女の眼を通してしか世界を見ようとしないのに氣づく。我々の心がネクタイのやうに固く結び合はされるとき我々に現はれて來る一つの徴候。それは氣を失はせるやうな苦痛をいつも伴つてゐる。
 僕は、もう僕の中にもつれ合つてゐる二つの心は、どちらが僕のであるか、どちらが彼女のであるか、見分けることが出來ない。

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