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2013年6月29日 (土)

堀辰雄「不器用な天使」2

 その夜、疾走してゐる自轉車が倒れるやうに、僕の心は急に倒れた。僕は彼女から僕のあらゆる心の速度を得てゐたのだ。それをいま、僕は一度に失つてしまつた。僕にはもう自分の力だけでは再び起ち上ることが出來ないやうに思はれるのだ。
「電話ですよ」母がさう云つて僕の部屋に入つてくる。僕は返事をしない。母は僕に叱言を云ふ。僕はやつと母の顏を見上げる。そして「このままそつとして置いて下さい」僕は母にさういふ表情をする。母は氣づかはしげに僕を見て部屋から出て行く。
 夜になつても、僕はもうカフエ・シヤノアルに行かうとしない。僕はもう彼女のところに、友人たちのところに行かうとしない。僕は自分の部屋の中にぢつと動かないでゐるのだ。そして僕は何もしないためにあらゆる努力をする。僕は机の上に肱をついて、兩手で僕の頭を支へてゐる。僕の肱の下には、いつも同じ頁を開いてゐる一册の本がある。そしてその頁にはこんな怪物が描き出されてある。――彼は自分にも支へられないくらゐに重い頭蓋骨を持つてゐる。そしていつもそれを彼のまはりに轉がしてゐる。彼はときどき腮
あご
をあけては、舌で、自分の呼吸で濕つた草を剥

ぎ取る。そして一度、彼は自分の足を知らずに食べてしまふ。――そしてこの怪物くらゐ、僕になつかしく思はれるものはなかつたのだ。
 しかし人は苦痛の中にそのやうにしてより長く生きることは不可能な事だ。僕はそれを知つてゐた。それなのに、何故、僕は自分をその苦痛から拔け出させようとしないでゐたのか。僕は實は自分でもすこしも知らずに待つてゐたのだ。――彼女の愛してゐるのが槇ではなくて僕であることを、友人の一人が愕いて僕にそれを知らせにくることを、一つの奇蹟を、僕は待つてゐたのだ。
 ある夜の明方、僕は一つの夢を見た。僕は槇と二人で、上野公園の中らしい芝生の上にあふむけになつて眠つてゐる。ふと僕は眼をさます。槇はまだよく眠つてゐる。僕は、芝生の向うから、いつのまにか彼女がもう一人のウエイトレスと現はれ、何か小聲に話しながら、僕等に近づいてくるのを見る。彼女は相手の女に、彼女の愛してゐるのは實は僕であることを、そして槇が僕の手紙を渡してくれたのかと思つたら、それは槇自身の手紙であつたことを話してゐる。そして彼女等は、僕等に少しも氣づかずに、僕等の前を通り過ぎる。僕は異常な幸福を感じる。僕は槇をそつと見る。槇はいつの間にか眼をあけてゐる。
「よく眠つてゐたね」僕が云ふ。
「僕がかい?」槇は變な顏をする。「眠つてゐたのは君ぢやないか」
 僕はいつの間にか眼をつぶつてゐる。「そら、また眠つてしまふ」さういふ槇の聲を聞きながら僕は再びぐんぐんと眠つて行く。
 それから僕はベツドの上で本當に眼をさました。そしてその夢ははつきりと僕に、自分でも氣づかないでゐた奇蹟の期待を知らせた。その奇蹟の期待は、再び僕の中に苦痛を喚び起しながら、それによつて一そう強まる。そしてそれは夜の孤獨の堪へがたさと協力して、無理に僕をカフエ・シヤノアルに引きずつて行つた。
 カフエ・シヤノアル。そこでは何も變つてゐない。同じやうな音樂、同じやうな會話、同じやうに汚れてゐるテイブル。僕はさういふものの間に、以前と少しも變らない彼女とそれから槇を見出すことを、そして僕一人だけがひどく變つてゐるのであることを欲する。が、すぐ僕は暗い豫感を感じる。僕には彼女が僕の眼を避けてゐるとしか見えない。
「なんだ、ばかに悄げてゐるぢやないか」
「どうかしたのかい」
 僕は平生のポオズを取らうと努力しながら、友人に答へる。
「ちよつと病氣をしてゐたんだ」
 槇が僕を見つめる。そして僕に云ふ。
「さう云へば、この間の晩、ひどく苦しさうだつたな」
「うん」
 僕は槇を疑ひ深さうに見つめる。僕は僕が苦しんでゐるのを人に見られることを恐れる。それなのに、自分の傷を自分の指で觸つて見ずにゐられない負傷者の本能から、僕は僕を苦しませてゐるものをはつきりと知りたい欲望を持つた。僕は無駄に彼女の顏をさがしてから、再び槇を見つめながら云ふ。
「どうなつたの、あの娘
メツチエン
は?」
「え?」
 槇はわざと分らないやうな顏をして見せる。それから急に顏をしかめるやうに微笑をする。するとそれが僕の顏にも傳染する。僕は自分が自分の意志を見失ひ出すのを感じる。
 突然、友人の聲がその沈默を破る。
「槇はやつとあいつを捕まへたところだ」
 それから別の聲がする。
「今朝が最初の媾曳
ランデブウ
だつたのさ」
 今まで經驗したことのない氣持が僕を引つたくる。僕はそれが苦痛であるかどうか分らない。友人はしきりに口を動かしてゐる。しかし僕はもうそれからいかなる言葉も聞きとらない。僕はふと、僕の顏の上にまださつき傳染した微笑の漂つてゐるのを感じる。それは僕自身にも實に思ひがけないことだ。しかし僕はさういふ自分自身の表面からも僕が非常に遠ざかつてしまつてゐるのを感じる。それによつて潛水夫のやうに、僕は僕の沈んでゐる苦痛の深さを測定する。そして海の表面にぶつかりあふ浪の音が海底にやつと屆くやうに、音樂や皿の音が僕のところにやつと屆いてくる。
 僕は出來るだけアルコオルの力によつて浮き上らうと努力する。
「彼は孔のやうに食

む」
「彼は苦しさうだ」
「彼の脣はふるへてゐる」
「何が彼を苦しめてゐるのだ」
 僕は少しづつ浮き上つて行きながら、漸くさういふ友人たちの氣づかはしさうな視線に對して可感になる。しかし彼等はすつかり僕を見拔いてゐない。僕は彼等に僕が病氣であることを信じさせるのに成功する。僕はもう彼女の顏をさがすだけの氣力すらない。
 カフエ・シヤノアルを出て友人等に別れると、僕は一人でタクシイに乘る。僕は力なく搖すぶられながら、運轉手の大きな肩を見つめる。あたりが急に暗くなる。近道をするために自動車は上野公園の森の中を拔けて行くのである。「おい」僕は思はず運轉手の肩に手をかけようとする。それが急に槇の大きな肩を思ひ起させたからである。しかし僕の重い手は僕の身體を殆んど離れようとしない。僕の心臟は悲しみでしめつけられる。ヘツドライトが芝生の一部分だけを照らし出す。その芝生によつて、今朝の夢が僕の中に急によみがへる。夢の中の彼女の顏が、僕の顏に觸れるくらゐ近づいてくる。しかし、その顏は僕を不器用に慰める。

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