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2013年6月26日 (水)

堀辰雄「不器用な天使」6

 僕等が別れようとした時、彼女は
「いま何時?」と僕に訊いた。僕は腕時計をしてゐる手を出した。彼女は眼を細めながらそれをのぞきこんだ。僕はその表情を美しいと思つた。
 僕は、一人になつてから暫くすると、急にその腕時計を思ひ浮べた。僕は歩きながら、僕の父から貰つた金がもうすつかり無くなつてしまつてゐることを考へてゐた。僕は自分で何とかして小遣を少しこしらへなければならなかつた。僕は先づ、かういふ場合に何度も賣拂つた僕の多くの本のことを思ひ浮べた。しかし本はもう殆ど僕のところには殘つてゐなかつた。僕が突然僕の腕時計を思ひ浮べたのは、この時であつた。
 しかし僕はかういふものを金に替へるにはどうしたらいいか知らなかつた。僕はさういふ事に慣れてゐる友人の一人を思ひ出した。僕はそれを彼に頼むために思ひ切つて彼のアパアトメントに行く事にした。
 僕は、顏を石鹸の泡だらけにして髭を剃つてゐるその友人を、彼の狹苦しい部屋の中に見出した。彼の傍には、僕の知つてゐるもう一人の友人が椅子によりかかつて、パイプから大きな煙りを吐き出してゐた。それからもう一人、壁の方を向いて、ベツドの上に大きな袋のやうになつて寢ころがつてゐるものがあつた。僕にはそれが誰だか分らなかつた。
「誰だい」
「槇だよ」
 僕等の聲を聞いて彼は身體をこちらに向き變へた。
「おお、君か」彼は薄眼をあけながら僕を見た。
 僕は神經質な、怒つたやうな眼つきで槇を見つめかへした。僕は彼と隨分長く會はなかつたことを思つた。しかし、僕と彼女との昨日からの行動がもう彼等に知れ渡つてゐて、それが皮肉に僕の前に持ち出されはしないかといふ不安が、さういふ一切の感情を僕から奪ひ去つた。しかし三人ともメランコリツクに默つてはゐたが、その沈默には、僕に對するさういふ非難めいたものは少しも感じられなかつた。僕はそれをすぐ見拔いた。すると僕は大膽になつて、以前のままの親密な氣持を彼等に再び感じながら、槇の寢ころがつてゐるベツドのふちに腰を下した。
 しかし僕には以前と同じやうに槇を見ることが出來なかつた。僕の槇を見る視線には、どうしても彼女の視線がまじつて來るのだつた。僕は彼の顏にうつとり見入りながら、それを強く妬まずには居られないのである。僕は、さういふ僕の中の動搖を彼等から隱すために、新しい假面の必要を感じた。僕は煙草に火をつけ、僕の顔の上に微笑をきざみつけながら、思ひ切つて言つた。
「この頃どうしてゐるの? もうシヤノアルには行かないの?」
「うん、行かない」槇はすこし重苦しく答へた。それから友人の方に急に顏を向けて、「あんなところよりもつと面白いところがあるんだな」
「ジジ・バアか」友人は剃刀を動かしながら、それに應じた。
 僕のはじめて聞いたバアの名前。僕の想像は、そこを非常に猥褻な場所のやうに描き出す。僕はさういふ「惡所」を、彼の中に鬱積してゐる欲望を槇が吐き出すためには一番ふさはしい場所のやうに思つた。そして僕は、どこまでも悲しさうにしてゐる自分自身に比べて、彼のさういふ粗暴な生き方を、ずつと強く見出した。そして僕は何か彼に甘えたいやうな氣持になつた。
「今夜もそこへ行くの?」
「行きたいんだが、金がないんだ」
「お前ないか」剃刀が僕をふり向く。
「僕もないよ」
 僕はその時、僕の腕時計を思ひ浮べた。僕は彼等に愛らしく見える事を欲した。
「これを金にしないか」
 僕はその腕時計を外して、それを槇に渡した。
「これあ、いい時計だな」
 さう言ひながら、僕の腕時計を手にとつて見てゐる槇を、僕は少女のやうな眼つきで、ぢつと見つめてゐた。

 十時頃、ジジ・バアの中へ僕等は入つて行つた。入つて行きながら、僕は椅子につまづいて、それを一人の痩せた男の足の上に倒した。僕は笑つた。その男は立上つて、僕の腕を掴まへようとした。槇が横から男の胸を突いた。男はよろめいて元の椅子に尻をついた。そして再び立上らうとするのを、隣りの男に止められた。男は僕等を罵つた。僕等は笑ひながら一つの汚ないテイブルのまはりに坐つた。するとそこへ薄い半透明な着物をきた一人の女が近づいて來た。そして僕と槇との間に無理に割り込んで坐つた。
「飮むかい」槇は自分のウイスキイのグラスを女の前に置いた。
 女はそのグラスを手に持たうとしないで、それを透かすやうに見てゐた。友人の一人が一方の眼をつぶり、他方の眼を大きく開けながら、皮肉さうに彼等を僕に示した。僕は眼たたきをしてそれに答へた。
 その女はどこかシヤノアルの女に似てゐた。その類似が僕を非常に動かした。しかし、それは僕に複製の寫眞版を思ひ起させた。この女の細部の感じは後者と比べられないくらゐ粗雜だつた。
 女はやつとウイスキイのグラスを取上げて、一口それを飮むと、再び槇の前に置きかへした。槇はその殘りを一息に飮み干した。女はだんだん露骨に槇に身體をくつつけて行きながら、彼を上眼でにらんだり、脣をとがらしたり、腮
あご
を突き出したりした。さういふ動作はその女に思ひがけない魅力を與へた。それが僕の前で、シヤノアルの女の内氣な、そのため冷たいやうにさへ見える動作と著しい對照をなした。僕はこの二人が何處か似てゐるやうで實は何處も似てゐないことを、つまり二人は全てを除いて似てゐるのであることを知つた。そして僕はそこに槇の現在の苦痛を見出すやうな氣がした。
 その槇の苦痛が僕の中に少しづつ浸透してきた。そしてそこで、僕と彼と彼女のそれぞれの苦痛が一しよに混り合つた。僕はこの三つのものが僕自身の中で爆發性のある混合物を作り出しはしないかと恐れた。
 偶然、女の手と僕の手が觸れ合つた。
「まあ冷たい手をしてゐることね」
 女は僕の手を握りしめた。僕はそれにプロフエシヨナルな冷たさしか感じなかつた。しかし僕の手は彼女の手によつて次第に汗ばんで行つた。
 槇が僕のグラスにウイスキイを注いだ。それが僕によい機會を與へた。僕は女から無理に僕の手を離しながら、そのグラスを受取つた。しかし僕はもうこれ以上に醉ふことを恐れてゐる。僕は醉つて槇の前に急に泣き出すかも知れない自分自身を恐れてゐる。そして僕はわざと僕のグラスをテイブルの上に倒してしまつた。

 一時過ぎに僕等はジジ・バアを出た。僕等の乘つたタクシは僕等四人には狹かつた。僕は無理に槇の膝の上に乘せられた。彼の腿は大きくてがつしりとしてゐた。僕は少女のやうに耳を赤らめた。槇が僕の背中で言つた。
「氣に入つたかい」
「ちえつ、あんなとこが……」
 僕は彼の胸を肱で突いた。その時、僕は頭の中にジジ・バアの女の顏をはつきりと浮べた。すると一しよにシヤノアルの女の顏も浮んできた。そしてその二つの顏が、僕の頭の中で、重なり合ひ、こんがらかり、そして煙草の煙りのやうに擴がりながら消えて行つた。僕は僕が非常に疲れてゐるのを感じた。僕は何の氣なしに指で鼻糞をほじくり出した。僕はその指がまだ白粉でよごれてゐるのに氣づいた。

「不器用な天使」新鋭文學叢書、改造社 1930(昭和5)年7月3日発行
「文藝春秋 第七巻第二号」 1929(昭和4)年2月1日発行

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