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2013年8月 3日 (土)

「地に潜むもの」第九章 島田清次郎

     第九章

 早春の夜更けである。雪も降らず風も烈しくなかった。碧深の夜空は穏かに澄んでいた。その空の下に、東京。華やかな灯と暗との交錯を走る電車の中で、平一郎は今より彼に開かれる新しい生活と新しい人間に祈りを籠めた。量り知られぬ人間力の大潮、大いなる都会は未来を蔵してどう/\と永遠の騒音を響かしている。車窓からは高層な建築、広い道路の石畳、街路樹の濃い常磐葉、電燈と瓦斯の赤光白光の入りまじり、行き交う市民の群、自動車の攻撃的で威嚇するような探光と轟音。何んというすばらしい豪壮さだ! こう彼は思って傍に坐っている冬子の横顔を見ずにいられなかった。この大都会の只中に自分の知っているのはこの冬子一人であるのだと考えながら、多くの昇降する婦人達の中で冬子の端厳な美しさが少しも落ちて感じられないのを誇らしく思った。市街の中央地らしい、両側の建築が宏壮で威厳と重厚を現わしている、その屋並の深い水色に荘重な五層の石造建築を冬子はそっと指さして、「旦那様の会社よ」と言ってくれた。やがて車掌が「M街三丁目」と呼ぶ声がした。平一郎と冬子はそこで下りた。平坦な大路に早春の微風が暖かく吹いていた。平一郎は黙って冬子の後について歩いた。卵黄色の陶煉瓦の四層の貴金属商の建物が赤い煉瓦の貿易商会と対むかい合っている横路、その横路には格子戸をいれたしもたやや土蔵造りの問屋が並んでいた。横路にまた細い横丁があった。その小路の一筋へ、溝板どぶいたを踏んで冬子は入った。右手は高い黒板塀で、左手に、路の中ほどに新しい精巧な格子戸を入れた家の軒に電燈が灯いていた。冬子は「ここですのよ、わたしの家は」と言った。
「玉や、いるの、お留守番御苦労様」
「はい」と上り口の磨硝子のはいった障子を十七、八の女中が開けた。
「お帰りあそばせ。随分待ち遠しうございました。御新造様」
「そう、御苦労だったわね」冬子について平一郎もあがった。上り口が三畳でそこは押入らしく襖になっている。次の室が八畳でやはり押入らしく襖がとってある。平一郎は黙って三畳に佇んでいた。
「玉や、すぐに鴨南蛮を四つ言って来ておくれ」
「はい」
「それから、旦那様はまだいらっしゃらないかい」
「はい。今日は少し遅くなるかも知れないってさっきお電話でございました」
「そう」
 玉は外へ出て行った。平一郎は八畳の明るい部屋に出て、一体「電話」が何処にあるのかしらと部屋中を見廻した。電話らしいものは見えなかった。ただ、部屋中があまりに磨かれ、調度が精巧すぎ繊細すぎて、大らかな感じが少しもしないのを認識した。彼は小さい光った長火鉢の前に冬子と正面に向い合って、さてどうしたものかを感じたのである。彼が感じたはじめての感銘がであったとは。
「ここは貴方のお住居ですか」と平一郎は思わずたずねた。
「ここ? そうですの。どうして?」
「随分狭いですね」
「そう、随分狭いわね」冬子は微笑して、「まだこの後ろにね、大きな家があるんですのよ。ここはほんのわたしの寝所ですの、ね」
 冬子は囁くように話したが、あたりがあまりに静寂で、高く響いた。今のさき過ぎて来た都会の騒音はなかったことのようにここへは響かなかった。都会の中央の激しい渦巻きの中にこのような静かな空間と時が潜んでいることを知る人は知るであろう。冬子は茶を入れたり菓子を出したりした。平一郎は空腹を感じていたのでその菓子を残らず食った。
「腹が空いてしまった」平一郎が言ったので冬子もこれには吹き出してしまった。そしてこの偶然な笑いが、平一郎が上京しない前からどうしても平一郎にゆっくり了解させて置かねばならないと思案していたことを自然に言い出す機会となった。
「お腹が空いて? 今すぐ玉がお蕎麦を持って来ますからね。それよりか平一郎さん、わたし少し平一郎さんに承知して戴いて置きたいことがありますのよ――」と冬子ははじめた。彼女は伏目になって、言葉の切れ目切れ目に平一郎を真率しんそつに見上げた。
「こんなことを言わなくても平一郎さんは何もかも承知していらっしゃるでしょうけれど――わたしという人間はつまりこの世に生きていないものと常々思っていなくてはいけませんのですよ。わたしは天野の旦那様のかくし女め――ね、分ったでしょう。そのわたしが平一郎さんをお世話するということは、出来ないことでしょう。生きていない『幽霊』が人のお世話をすることは出来ないはずですわね。それで今度も表向きは平一郎さんをお世話したのは、同じ国から出なさった奥山さんのお世話という風になっているのですからね。その辺の弁わきまえをよくして戴かないとわたしも平一郎さんも旦那様も奥山さんも皆が途方にくれるようなことが起きるのですから。――分ったでしょう。冬子という人間は居ないものと思っていて下さればよいのです」平一郎は冬子の言葉に悲しい感情を得た。「天野様のお邸には若様と奥様と女中さんが五人ばかりと爺やさんがいるのですから、下々の人達に憎まれないように、奥様や若様にも一生面倒を見て頂く気でなじんでゆくようにしてね、――そうでしょう、若様はたしか慶応の理財科へ行っていらっしゃるのですから、仲良く勉強なすって、ね、――いまに旦那様の片腕になるようにならなくちゃ、平一郎さん、いけませんのよ。ほんとに旦那様のお骨折といったら大したものなんですから、ね」
 自分は、頼りとする冬子の生存を常に否定していなくてはならない。そしてその冬子は、天野の愛する女であり、自分はその冬子の世話で天野の邸にはいって天野の世話で学問するのである。そして邸の天野の夫人や息子には冬子の生存をまるで知らないものとして虚偽を犯し、同時に彼等と一生を共にする覚悟で親しみ合わなくてはならない。――そうした複雑な虚偽と真実をよりまぜた芝居じみたことが自分に出来るであろうかという疑迷が黒雲のように平一郎の心に湧いて来た。彼は当惑したように冬子を見上げた。冬子の瞳はうるんで涙を湛たたえていた。彼は首を垂れて沈黙した。冬子も黙ってしまった。静けさが二人には恐ろしく感じられて来た。ほんとに自分達は危い険しい路に深入りして来たのでないかと思われた。しかし後戻り出来る運命でない。善いにしろ悪いにしろ進むより外に道のない自分達である。彼はこのとき、金沢を去るときの母の「秘密の戒め」を想い起こした。
 母は言った。「お前の先祖は金沢の街を離れた大川村の北野家という豪農であったのだ。それがわたしの兄の時代に滅びてしまったのである。またお前の父もお前の幼い時になくなってしまったが、父は常に多くの人間のために働きたいと考えていた人であるが、中途で死んでしまったのである。お前は自分一人の手で育てられて来たので、世間でいうであり、である。お前は世間の人に、滅びた北野家、亡くなった父、またお前のために一生を捧げているこのお光の意思と力が、たとえ貧乏人の子でもその貧乏や悪い境遇に克ち得ることを示す責任がある。――それからもう一つは、常に右のことを精神の根本に沈めていると同時に、お前は天野の家へ行っても決して母の生地が大川村の北野家であることを明かしてはならない。母は金沢の生まれであると信じさせなくてはいけない。また父は山国の人間であると言わねばならない。この二つのことを心の根に据えて一生懸命勉強して、お前が常々言ってるように『真の政治家』になることを母は祈っていよう――」
 こうした「母の戒め」に今また「冬子の戒め」が重なるのである。幾重もの秘密、幾重もの「見えざる運命」の重荷を負わねば生きてゆかれぬ自分。平一郎は暗い気にならずにいられなかった。まっくらな闇に迷いこむような佗わびしい気が平一郎に起きた。無論、そうした「迷い」のもう一つ底には充実した輝かな力が根を張ってはいたけれど。
「旦那様の力をいれていらっしゃることはそれはもう大したものなんですから。もう御自分で学校まで探して下さっているんですから、平一郎さんも少し苦労なことがあってもそこは忍耐して下さるでしょう、ね。わたし達のように十分な家庭に生まれなかった者はどうしたって一度は辛い涙を噛みしめてじいっと忍従していなくちゃならないのです。それは辛いことが多いのですよ。死ぬよりも辛いことがあるのですよ。それをじいっと忍んでいるうちに、平一郎さん、人間の骨が鍛えられるのじゃなくって? ね、わたしだってはじめて悲しいということを知ってからもう十年近い年月が経っていても、未だに毎日泣かない夜はないのですものね。本当に平一郎さんは羨ましくてなりませんのよ。男に生まれて来たことは何よりの光栄じゃなくって? 暫くの間の辛い忍耐を土籠りをしていれば、時が来れば世界中を相手に晴々しく暮らせるのじゃないの。ね、ほんとに平一郎さんはいまにえらい政治家になってわたし達のように貧乏なため辛い苦労をして一生を終らねばならないようなもののないように救って頂戴」
 冬子の瞳は涙ぐんでいた。低声に語る言葉の一つ一つには彼女の生涯の悲しみが浸みついていた。平一郎は崇厳な美しさを冬子に感じた。冬子がこの美しさを見せることは珍しい。それは人間の最高の美である。平一郎は冬子に潜む熱情を全身で受け容れた。暗い「迷い」が払いのけられて、青年の浄い情熱が内から白光を放って充溢しはじめて来た。平一郎は想いつつ黙した。
「もうこうした話は止しましょうね。何もかも承知していらっしゃるでしょうから。今夜は疲れていらしっても少し我慢して下さいね。旦那様に会って少しお話ししてた方がいいでしょうから。そして二、三日ここで方々見物してから、奥山さんに連れ立って高輪のお邸へいらっしゃった方がいいでしょう。――お玉はどうしたのかしら。随分遅いこと」
 静けさが黙せる二人に迫った。平一郎は冬子にこのように沁々しみじみと物語られるのははじめてであった。彼は冬子と彼との間にあった「大人と子供」の隔てが全くとれてしまったのを感じた。母に対する心持でもなく和歌子に対する心持でもない、和歌子と母とを一緒にした心持である。その時、上り口の三畳の押入のあたりでこと/\戸をたたく音がして「御新造さま、すみませんがちょっとあけて戴けませんでしょうかしら。御新造様」とお玉の呼ぶ声がした。冬子は立ち上がって、「表から来たのかえ」と言いつつ三畳の片隅の押入のようになっている三尺戸を引くと、お玉が「どうも相すみません」と出て来た。
「隠れ道なんですのよ、平一郎さん――そこからは旦那様の別邸なんですの」と冬子は笑ってみせた。色の白い、頬の林檎のように張ったお玉は、重そうに大きな鴨南蛮の丼をそこへ下ろした。冬子はお玉にも一つをすすめ、平一郎にもすすめた。平一郎は二杯目の蕎麦を食い終わったとき、冬子の隠家と天野の別邸との「秘密の道」から、一人の五十を越した品のいい女の人が現われた。彼女は襷たすきをはずしてきちんと手をついて坐った。
「御新造様、お帰りなさいまし。――平一郎さんはこの方でございますの。よくいらっしゃいました」
「田舎をはじめて出て来たんですから、小母さん、また面倒を見てやって下さい」
 眼の細い人のいいらしい正真の江戸っ子であるお芳は、会社の小使をしていた太助と一緒にこの別邸に住っているのであった。女中のお玉はお芳と太助との間に出来た一人娘である。――これは後に平一郎が知ったことである。
「旦那様はまだお帰りじゃなかったかえ」
「はい。さっき電話をおかけなさって今夜は少し遅くなるかも知れないから、風呂を沸かして置いてくれろって仰しゃいましたので、さっきから太助が湯加減をしてお待ちしておりますが、まだお見えになりませんようでございます。何んなら御新造さん、一風呂お先きに使いなすったらいかがでございます」
「わたしはいいけれど――」と冬子は平一郎を見た。彼女は平一郎に使わしたいと思った。が言い出さなかった。平一郎にそれが分った。四人は平一郎を中心に他愛もない世間話に時を過し始めた。平一郎をお芳小母さんによく思わせようとする冬子の密かな努力、純粋な江戸生まれで気立の美しい小母さんのおい/\に傾く好意、若い有望な異性として平一郎を認めるお玉の微笑や可愛いその場かぎりの色眼、それは或いは平一郎に浅ましい気を感じさせ、或いは悦ばしめ、或いはくすぐったくもあらせた。そして、底には遠い旅に出ていることの寂しさが絶えず流れた。
 十時を過ぎ十一時になっても天野は帰らなかった。そのことで、冬子があるたとえようのない不安に苦しめられはじめたのを平一郎は知った。冬子のこの不安を感じることは浅ましくてそして「気の毒」なことだった。そしてお芳やお玉が冬子に対して示す一種の同情と慰めは、平一郎には敵意より苦痛で屈辱だと感じられもした。
「どこかへお寄りになっていらっしゃるのじゃないでしょうか」
「そうね」と冬子は静かに答えた。そしてお芳に、「夜具は一揃い出ているはずだね」と言った。
「はい、出ております」
「今夜はなんですから平一郎さんを先きに休ませようかと思いますの。――お玉、お前さん二階へ床を敷いて下さらない?」
「その方がようございますわね」とお玉は答えて、茶の間の押入のようになっている襖をあけた。そこには二階への階段がついていた。平一郎は冬子の家の造作が何処までも秘密じみているのに「気の毒さ」をまた感じた。

「床をしきましてございます」
「そう、じゃ平一郎さん、今夜はゆっくり寝やすみなさったらいいでしょう。明日の朝旦那様にお目にかかることにしてね」
「ええ、じゃおやすみなさい」
「おやすみなさい」
 平一郎はお玉に導かれて狭い階段をのぼると、そこには新しい、床と戸袋のついた赤壁の十畳の一室が開かれていた。床の置物や部屋の造作や重厚な趣味からが黄金を惜しまないで建てた部屋であることは推察された。お玉は「お休みなさい」と言った。
「ここは平常使わないのですか」と平一郎は思い切って尋ねた。
「ここはね、旦那様と御新造様が日曜の昼などお話しなさる部屋ですの」
「冬子ねえさん――」と言いかけた平一郎はあわてて、「御新造さんはいつもここで寝やすみなさるんですか」と訊いた。お玉はにこやかに笑って、
「旦那様のおいでにならない日はここでおよんなさるの。旦那様のいらっしゃる夜は、さっきわたしが出て来たでしょう、あのお邸の二階でおよんなさるの。ね、分ったでしょう」
 お玉はさらに「お休みなさい」と言って階下へ下りて行った。平一郎はシャツ一枚になって絹物の蒲団の中へ潜りこんだ。芳しい甘美な香料の匂いが、蒲団の中から匂ってくる。彼は電燈を消した。遠くの方で電車の響きらしいものが聞えた。彼は母のことを想い起こした。別れて来るとき、あの汽車が動き出したときの悲しい涙が彼に再びめぐまれた。涙を流し、ほんの僅かの間であるが、冬子の「妾としての生活」が苦しいものであるように思われてならなかった。
 早春の朝、平一郎は目覚めた。彼は母を求めて、そこにむずかる独り子の自分を揺すって起こす慈母の愛を求めて無意識に手を伸ばしたが、手答がなかった。窓の硝子越しに射す早春の覚束ない光が薄らに彼を照した。平一郎の魂が空虚に驚いて目を開いたのだ。彼は全身一種の緊張と霊感と寂しさに奮いたった。
「平一郎さん、もうお目が覚めなすって?」と玉が来た。
「お早う」
「お早うございます」平一郎が着物を着替えているうちに玉は床をあげてしまった。階下には冬子は見えなかった。玉は飯台をだして平一郎に朝食をすすめた。小さい台所の瓦斯鍋に味噌汁がたぎっている。彼は大嫌いな濃いどろどろの味噌汁をすすった。彼が朝飯をおえたところへ玉が呼びに来た。三畳の部屋の「秘密の道」から別邸の庭園わきの廻廊に出て彼は座敷に導かれた。一もと深く庭園の地に根を下した松の樹は、太陽の光熱を慕うように屋根の上に伸びあがっていた。部屋は八畳だった。次の六畳も明け放されて、かなり広い贅沢な段通や屏風や柔らかい蒲団類の豊饒の中に、かの天野栄介は伸びやかに身を横たえていた。かつて金沢の古龍亭で受けた豪勢な威圧的な力は感じられなかったが、ゆたかな頬、高い額、額と頬を統帥するように高くのび/\と拡がった鼻、――口と瞳はこの朝は柔しく、はる/″\故郷を出てきた少年を見戍みまもりいたわっているようだった。お辞儀して、自分の面倒を見てくれようとする、この巨人から「温かさ」を感じたく思った。冬子は部屋には見えなかった。
「もっとこっちへおはいり」
「はい」平一郎は敷居を越えて彼に近寄った。玉は平一郎に座蒲団をすすめた。平一郎は敷かなかった。天野は軽く「おしき」と言った。それが決してわざとらしいのでなく、真実平一郎を天野と同等に待遇する意志から生じているらしかったので彼はしいた。ついで玉が茶と菓子をもって来て、去ってしまった。五十近い天野と十七の平一郎とは暫く黙して対むかい合っていた。
「よく来たね」
「思い切って来ました」
「お前の母さんは泣きはしなかったかい」
「いいえ、母は早く行くがいいと申しました」
「そうか、あはははは。お前は大きくなって政治家になるのだったね」
「そうです」
「お前はそうして世を済おうと思っているのだったね」
「そうです」
「わたしもお前の年頃の時分には一流の大政治家になるつもりだった。ただわたしは世を支配したかった。違うのはそこだな。あははははは」
「――」
 平一郎は何故か天野を崇拝し親愛の情に充たされたい欲望と神秘な深い敵意とを同時に感じて来た。
「わたしはお前が志をとげるよう出来るだけの力を尽しましょう。わたしはお前を自分の真実の子のようにも思いましょう。しかし、お前も苦しかろうが、お前はわたしの邸の書生という形式でT街の邸で学生時代を暮して貰わなくてはならない。わたしには綾子という妻と、乙彦というお前より一つ年上の息子がいる。お前はわたしを信愛してくれるならこの二人に対しても相当の奉仕を心がけて貰いたい。――しかしこれはわたしが強いるのではない。すべてお前の自由な意思に任しては置くのだ。え、平一郎」
「はい」
「それから学校のことだが、わたしが青年時代のある時期――馬鹿な夢のような時代を過したM学院、あすこは自由でお前の性格にもふさわしく、邸からも近くてよいと思うが、それともお前に望みの学校があるかね」
「ありませんです」
「とにかくお前はお前が今燃ゆるように感じている志をのべるように全力を尽してくれればわたしはそれでよい。ただお前が多少心得て置いて欲しいことは、天野の家にはわたしの外に妻と子がいるということだけだ」
「分りました」
 平一郎は全身に異様な震撼を覚えた。光と暗の強猛な交錯だった。はじめ彼はこの一人の巨人に、「お前が志を遂げるよう出来るだけの力を尽しましょう」と言われ、「世を済おうと思っているのだったね」と言われ、そこに光と悦びに輝く親愛を覚えたのだ。しかし彼の内深のところでは、「わたしは世を支配したかった!」「わたしを信愛するなら相当の奉仕を心がけてもらいたい――」という同じ天野の言葉を見逃すわけにはならなかった。「世話はしよう。その代りに汝は奴隷であれ!」こう言っているのではあるまいか。
「この自分をそうさせようとしたってそれはだめだ!」平一郎は内心叫んだ。と冬子の言葉が響く。――平一郎は天野をみつめた。
「玉」と天野は呼んだ。玉は両手をついてあらわれた。
「太助と芳を呼んでくれないか。そして冬子は土蔵でまだ何をしているのかね」
「御新造様は旦那様のお召物を捜していらっしゃいます」
 やがて太助とお芳が縁側へ現われた。太助は頭の禿げた頑丈な、それでいて垢ぬけのした五十男で、細っそりしたお芳とはいい夫婦であった。二人は平一郎に頭を下げた。平一郎も「どうぞよろしく」と言った。
「平一郎も遠いところから来たのだから、またお前達の方でお世話になることだから」
「いや、もう旦那様が仰しゃるまでもござんせん」と太助は禿げた頭をなでたが、顔は柔順と真情を表現していた。平一郎は、絶対的にお芳夫婦も玉も冬子も信順してしまっている天野のこの王国のうちへ今、自分自身が身を入れたのだと思った。この王国ではすべての人が「天野のために」生活しているのである。蔵前のがら/\戸をあけて冬子が衣類を手に捧げて出て来た。彼女は寂しげに微笑んだ。
「平一郎さんもうお目覚め? 昨夜、旦那様がお帰りになってから二階へ行ってみると蒲団をかぶって寝ていなすったのね」皆がしめやかに笑った。
「二、三日、見物がてら疲れ安めにここにいらっしゃるといいでしょ」
 半分平一郎に半分栄介に冬子は言った。栄介はうなずいた。冬子が平一郎を見た。その視線が彼にもうここを去るべき時であることを知らした。彼はみんなに会釈して廊下伝いに冬子の「隠れ家」に帰った。彼は二階の座敷一杯に仰向けに寝転がって遠雷のような電車の轟音と薄らな早春の日射しとの交錯を感じていた。そうしているうちに淡い夢の追憶のように天野に対する敵意が彼の意識に現われて来るのは不思議だ。彼は彼の一生に力を尽そうとする天野の恩義を思って自分の心を疑い、根拠のない妄想を消そうとしてみたが駄目であった。訳の分らない、はてしのない、口惜しい淋しさが滲み出て来る。それは堪えられない淋しさだった。人類生誕の劫初より縹渺ひょうびょうと湧いて来るような淋しさだった。平一郎はその淋しさを噛みしめながら、天野の「妾宅」であり、冬子の「家」であるところで三日間を過ごしたのである。
 その三日間は平一郎に冬子の生活が決して「思っていたように」幸福でもなく自由でもないことを知らしてくれた。彼女は実に「妾」であったのだ。天野は自分の経営する会社と高輪にある本邸とが離れているという理由のために、会社に近いこの町に別邸を設け、そこに隔晩毎に泊るのだった。別邸はつまり妾宅である。そして太助夫婦は十数年来の天野の腹心の家来で外部へは協力して冬子をかばっていたが、同じ協力の力は、「御新造様、御新造様」と礼儀と親愛をもって傅く裏に、絶えず「天野の代り」となって厳しい監視と干渉を固持するのである。恐らく冬子が天野を愛しているように天野は冬子を愛するのであろう。ただ天野の愛は同時に絶対的な支配を要求することである。冬子は捕えられて飼われる小鳥のように、生活には困らないが、しかし不自由で、真に孤独で、「道具扱い」をされていた。平一郎は、天野の来ない夜、はじめて見た東京の市街の話や、故郷の話、お光のことを語りながら、懐かしさに夜の更けるのを知らなかった。平一郎は冬子がやはり昔のように美しくて、気稟きひんがあって、荘厳で、淋しそうであるのにどんなに悦んだかしれない。そして、平一郎は、もっと寛やかに、意識を渾一にして話したくてならなかったが、しかし何故かそれをさせない、冬子との話にある隔たりを強いる「無言の意志」が家一杯に充満しているように考えられてならなかった。「汝等は自分の奴隷である。汝等は自分の言葉の喇叺ラッパであれ、汝等は汝等自身の天性を滅却して跪け」と大音声で叫んでいる精神が感じられた。お芳やお玉が用もないのに絶えず出入するのだ。そして監視の眼を光らすのだ。その光らせる源には「天野」がいる!
 ああ、何んという孤独! また淋しさ! あのように立派で美しくて名妓とまで言われた冬子、その冬子が今はとう/\天野に支配されて、「別邸」に幽閉される囚人であろうとは!
「救って頂戴、平一郎さん」冬子の嘆きと念願が平一郎に聞える。平一郎はこれから天野の邸へ行こうとする自分もまた「囚人」になるのではあるまいかと考えてみた。
「この自分を虜とりこにできるならしてみるがいい! 己だけはならないぞ!」
 四日目の午過ぎに奥山という四十二、三の背の高い男が来た。彼は平一郎と同じ金沢の生まれであった。冬子は彼に「どうぞよろしく」と会釈した。奥山は莨たばこを吹かしてお世辞を言った。平一郎はこの厭な見知らぬ男の「身内」となって天野の邸へ行くのを厭なことだと思った。しかし彼はまた思い返した。「何も修行である」と。

 お光が金沢にひとり四十年の「埋れたる過去」を潜ませて淋しく居残っているその「過去の運命」を誰も知らなかった。天野も知らなかった。冬子も知らなかった。また天野の妻であるお光の姉の綾子も知らず、平一郎自身も知らなかった。彼等は遂に人間であるが故に、人間は遂に自分の真の運命には無知であるが故に。天野は冬子のため、また自分の息子が不良少年で後継者とするに足らないと考えて、冬子はお光への「恩返し」として、また一生自分には子が恵まれないことを知った頼りなさも加わって、天野の妻の綾子はどう考えたかは分らないまでも現在自分の甥であり、その昔、処女の一心に恋い慕っていた恋人大河俊太郎の忘れ遺子がたみであろうとは知らなかったであろう。そして平一郎もまたこれらの事実には無知であった。彼にはただ神聖で荘厳で、熱烈な燃ゆる意思があるのみである。その意思こそは万人の心に響き万人を救おうとする意思である。万人のために僕しもべとならん意思である。

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