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2013年8月 3日 (土)

「地に潜むもの」第七章 島田清次郎

     第七章

 停学の期間が過ぎても平一郎は学校へ行くのは厭だと言い張った。平一郎の停学の理由を半日近くも学校で聞かされて来た母のお光は平一郎に小言一つ言わなかった。彼女はただ深い溜息をついた。
「他所よそのお嬢さまに手紙を差し上げるなんて、お前大それたことですぞえ」
 こう言ったきりだったが、平一郎が学校へ行くのは嫌だと言うのを黙していられなかった。これまで仕上げて来た独り子である。彼女はしまいには「頼む」とさえ言った。平一郎もわけなしに湧く嫌悪の情を克服して、仕方なしに毎日学校へ通った。毎朝彼は眼がさめるときまって、「ああ、今日も学校へ行かなくてはならないのかなあ」としみじみ生きていることに苦痛を感じた。十一月の下旬にはもうこの北国の街に水気の多い霰あられが一斉に降っていた。
 どうした訳かその頃から平一郎は和歌子の姿を見ることが出来なくなった。学校へ行く朝の路上でのあの幸福な栄光に充ちた遭遇は彼から奪われてしまった。彼は深井に尋ねたが、深井も知らなかった。深井の家を訪ねてもみたが、かつて見出した垣根越しの隣家の庭に和歌子の姿を見ることはなかった。
「隠したのかな※(疑問符感嘆符、1-8-77) 己から奪ってしまう気なのかな※(疑問符感嘆符、1-8-77)」彼は和歌子の見えなくなった原因を平常の話から和歌子の家庭の主権者である継母の所為せいであると独断的に信じてしまった。どうかして和歌子の在処を知りたい。知らずに置くものかと思った。毎夜、霰の降る暗い寒い夜を彼は和歌子の家の周囲を彷徨さまよった。しかし彼は不意に和歌子を発見する悦びのかわりに死んだような沈黙、さも邪魔者がいなくなった和らいだような歓声を家の中から彼は浴びせかけられて、独り憤激した。彼は手紙を敵の只中へ出す気にもなれなかった。深井も心配した。深井は家人にそれとなく聞いて貰っても返答はいつも「少し病気で遠方の親類へ行っております、おほほほ」でぼかされてしまった。平一郎の唯一つの望みは和歌子からの手紙になってしまった。学校から帰ると彼はお光に「手紙は来ていないか」と怒鳴った。手紙は来なかった。彼は焦々じりじりした。不安がどす黒い湿った暗い塊になって彼の精神の髄にしみつき堆積して行くのをどうにもしようがなかった。一斉に爆発すればそのあとは夕立のあとのように清々すがすがしいが、積み重なって行く鬱屈は永い苦痛のうちに陥れ、人間を腐らしてしまう。平一郎は恋人を奪われた寂寥、奪って行った無法な権力に対する怒り、彼の幸福を蹂み躪り彼の光栄を汚す、今あり/\と直観される賎俗な社会の力に対する、潜める全身的な憤怒を感じた。そして、この激烈な感情を燻くすぶらせつつも独立を全うしない未能力者の彼は、苦しい日々の生活を迎えねばならなかった。彼はもう運動もせず、勉強もせず、一切の活力の健全な吐口を閉塞された死人のような人間になりかけて来た。彼は深井をさえ白眼で睨みつける日があった。
「大河君、そう心配しない方がいいですよ、え、大河君」深井はいつもこう言わずにいられなかった。
 それは、学校からの帰り路で、第二学期の試験の最終の日の午後、十二月下旬の細い乾いた雪がちら/\靴先に降りかかっていた。平一郎はしおれているように見えた。深井は幾度もためらいながら、平一郎のこの陰鬱と無気力を見捨てて置くわけにも行かないと思った。二年来嘗めつくした片恋の苦痛が、今、平一郎の苦痛を体験させ、そしてその片恋の苦悩を脱却するための文学への転換を彼は同じように「救済」として平一郎に説こうと幾度も思ったことだった。彼はおずおず言い出した。
「大河君。今夜僕の家へ来ませんか。僕の知っている人の家を君に紹介しますから」
「何のために?」
「その人は僕、一年ばかりも前から交わっている人です。僕は君がその人達と仲よくすることが、君のために好よくはないかと思っています――来てくれませんか。僕は悪いことは言わないつもりです」
「文学の仲間かい」
「そうですよ。学校などで想像されもしない程に自由な、いつも胸底深くに涙を湛えたような人達の群があるのです。僕はその人達によってどれ程苦しみを逃れたか知れません。大河君、今夜いらっしゃい。僕は案内します」
「君は僕に隠していたのだね」
「許してくれたまえ。僕にも一つの――一つの秘密はあったのです。しかしそれも今打ち明けてしまったのです。もう君には僕はその一つの秘密――も――もっていないというものです。ほんとに今夜来てくれたまえ」深井は能動的で熱情に恵まれていた。
「行くよ」
 平一郎は答えて何故か涙が瞳に滲んで来るのを覚えた。ああ、意気地ない自分。愛する少年に苦しみを見抜かれ、救いを教えられる腑甲斐ない自分、と彼は思って泣いた。
 細かい粉雪が絶えず降っていた。濁った灰色の空から無気味な無音の状態で白い粉がちら/\降るのである。湿った地面は絶えず白い雪片を吸収してその存在を消滅させたが、家々の屋根や軒や電信柱はすでに二、三寸の雪を積らせていた。北国のこの市街ではもう四度目の雪で、時折烈風が街中を吹き荒れて行くこともあった。平一郎と深井はマントの頭巾を目深に冠かぶり、一本の傘を二人でさして人通りの絶えた暗い陰鬱な、生存ということが全然無価値なものだと想わすような夕暮の街を急ぎ足で歩いていた。二人は何も言葉を交わさなかった。時々顔を見合わした。深井は寂しい顔をして平一郎の未知の世界を仰望するような情熱を帯びた眼付をちら/\と横目で見た。深井は自分が今平一郎を誘惑する悪魔の役目をしているのではないかしらと疑ってみた。半年あまりの間の秘密を何故自分は打ち明けたのだろうか。しかし平一郎の寂しい一切の喜悦を失われたような顔を見てはそのまま打ち捨てて置くに忍びなかった。平一郎は、時折溜息をつく深井の生き生きした美しい顔色を見て、この愛する者が導いてゆく新しい世界を渇望の眼で仰ぐのであった。母と冬子と和歌子と深井との四人の愛する人達の魂のうちに長い間住んだ平一郎の魂はたま/\学校の教師に傷つけられ、更に和歌子を奪われて、傷つけられた痛手に呻きつつ何かを求めて止まないのである。お光、深井、行方の知れぬ和歌子、遠く東京に去った冬子。
「まだ大分あるのかい」
「いいえ、もう少し」古い士族町の土塀つづきの細い街に二人はしばらく立っていた。雪はしきりもなく降った。いかなる恐ろしい異変を潜めているか分らないような、世界滅却の予感のような、あわただしい静寂が空間に充ちていた。二人はまた歩き出した。士族町の土塀がつきると街は右の小路に折れた。貧しい歪んだようなあたりの人家にはもう赤い灯がついていた。二階建の、店先二間あまりに硝子戸をいれて「マニラ麻つなぎ、男女募集」と書いた紙を硝子に張った家だけはまだ灯がついていなかった。深井はその家の前で立ち止まった。
「ここの二階ですよ、大河君」
 平一郎は黙って二階を見上げた。同じように硝子窓をいれた二階の窓は暗くてよくは分らないが、硝子越しに真紅まっかの窓掛カーテンが見える。
「はいろう」と平一郎は言った。
「尾沢さん! 尾沢さん!」深井の声が響いた。すると二階から「だあれ」という男の濁った返事がした。
「僕です、深井です」
「深井君か※(疑問符感嘆符、1-8-77) はいりたまえ! 今、社の方から帰って寝転がったところだ。はいりたまえ!」
 ぱっと二階に電燈が点ともされた。窓硝子に真っ赤なカーテンが燃えるような真紅の色を染め出した。二人は横手の戸を開けて、暗い上り口の板張りから、すぐに二階へあがった。天井の低い薄汚ない二間を障子をはずしてぶっとおしてある。奥の方に机、書棚、火鉢、壁際に小さい西洋風の木の寝台、窓の真紅なカーテンに照りかえす電燈の赤光を浴びて、背の低い、額の広い、眼球が見えないくらい窪んだ眼、やせた頬、――の二十四、五の青年が厚ぼったい筒袖の綿入を着て坐っていた。
「今晩は」深井はその男の間近に坐った。平一郎は立って頭を下げた。
「だあれ?」その男は深井にたずねた。
「僕の親友の大河です。あなたに会ってみたいというので――」
「あ、そうですか。僕は尾沢です。つまらない奴です。どうぞこちらへ」
「ありがとう」平一郎は未だこういう風な青年に遭ったことがないので、暗い引き入れるような特有の感じを持つ青年をどう判断し、どう態度をきめてよいか分らないが、深井がようやく打ち明けてくれた一団の群の中心となる人間である以上、彼はやや遠慮勝ちに、礼儀深くした。恐らく何も知らずにこの尾沢に会ったなら軽蔑し去ったかも知れない程に彼の風采は貧相で、人生の裏通りにのみ特有な臭気と蔭がまつわりついていた。しかしこの場合平一郎にとっては熱望して来た異国の港であり、真紅のカーテンや壁際の木製の西洋風な寝台などが、尾沢の背景をなして悪い気はしなかった。尾沢は鋭い眼光で平一郎をじろ/\見た。正しく坐りこんで膝に手をおいている、そう大きくない、皮膚は黒い方で、唇を固く結んだ清く鋭い、燃えあがる炬火を時折覗かせる眼をもった少年、これが大河かと彼は思った。彼は急に機嫌がよくなった。
「試験はもうすみましたかね」
「今日すんだところです」深井が答えた。
「道理で長い間やって来ないと思っていたっけ――来年の正月号の『底潮』が昨日刷れて来ましたよ」後ろへ反りかえって書棚の下段に積み上げられた薄い雑誌を一つ掴みとって深井と平一郎の前に差し出し、にこ/\無意識的に人の好さそうに笑っていた。その笑いは決して強者のあの深い厚味があって不透明な笑いでなくて、弱者が、恐れていたことを恐れなくともよかったとき感じる安易さが生み出す笑いであった。平一郎は何となくくみし易いというような心安さを感じた。平一郎は雑誌の一枚一枚をめくってみた。深井の名が四号活字で組まれてあった時なぜか胸が躍った。
「よく刷れましたね」
「そんなもんですかな」尾沢は自嘲するように答えた。その答のうちにはというような寂しい投げやりな感傷が潜んでいた。
 尾沢はやがて新しい雑誌をとりあげて無造作に頁を翻していたが、「今度は己、洗いざらしに自伝を書いたっけ。哀れな老いぼれた青年の手紙っていうのね、それだよ。読もうか? ――聞いていたまえ、読むから」尾沢は深井と平一郎を見比べるように、哀願と誇りを混濁させたような表情をして、「己という人間がどんな人間かは大体分るだろうと思う。聞いてくれたまえ、いいかい、読むよ」彼は読みはじめた。

  哀れな老いぼれた絶望した青年の手紙

 静子、愛する静子、己はお前に自分の唇から今書こうとしていることを告白したかったのだが、己達はあまりに一緒にいると感激の火花を燃やし過ぎるようだ。己はお前と一緒にいるときはとても己自身の生涯の歴史を正直に静かに言えないことを幾度もの試みの後ようやく発見したわけだ。しかし己達の恋愛はもはや普通以上に深くなっていることも確実な事実と認めなくてはなるまい。いつ迄もこうして過ぎられる己達でもあるまいじゃないか。お前はどうかも知れない。己という人間が「思ったよりつまらない平凡な弱虫だったのね」とお前がいつだか言った言葉から推察しても、お前は己に愛想をつかしているかも知れない。愛想をつかされてもそれに不足を言えない己である位は承認しよう。お前はもっと強い悪党を要求していたか知れない。しかし静子、金を自分の懐へ集めることを知らない悪党もいそうもないじゃないか。己が悪党でないことは貧乏なことから考えれば一度で分ることじゃないかしら。金に眼をくれない大悪人――そんなものは随分稀にはいるかもしれないが、金が無さ過ぎるといかな大悪人もすっかりいい加減な馬鹿になるものさね。たとえ地球を爆破して人類を絶滅し、宇宙の運行に狂いを生ぜしめようと意志するほどの超人的大悪人でも金がなくては手も足も出ないで、やがて死んで行くより仕方のないものだ位はお前にも分ろう。大分黄金崇拝者じみたことを書いたね。誤解しないように、するならするでそれもよかろう。静子、己はお前にもう一度ラブレターを書くような心理状態になっているこのままで、少し書こう。己は越中の高岡の生まれだ。己は実の両親を知らない。どうして知らないか。嘘のようだがこうだ。ある豪商の一家を想像するがいい。そこに一人息子がいたのだ。年頃になって嫁を貰ったが子がないので暫くしてその嫁を離別してさらに若い嫁をめとったのだ。その時分はもうその主人の両親は死んでいない。若い嫁に一人の男の子が生まれた。その男の子が二つの春、主人は肺患で死んだのだ。若い嫁さんは二つの孤児を抱いて孤独の生涯を守るほどに貞節でも高邁の思想の所有者でも児に対する深い洞察を伴った愛をも感じていなかった。彼女は一人の男を婿入させた。先夫との間に出来た男の子が四つのとき、その嫁さんは父の異なった女の子を生んで、やがて翌年、先夫が残して行った肺患で死んだのだ。自分の児である嬰児と先夫と愛妻の子である男の子――己だ、四つの己を残された三十男の町人はどうして独りで生活出来るものかね。彼はさらに新しい嫁を迎えた。そして己は十歳までその他人である両親の手に育てられて来たのです。静子、己はまだ小さくてその時分は何とも思わなかったが、今から回想してみると随分涙を噛みしめるような事が多い。生まれて両親を持たない程の不幸は人生にないと己が思うのは、思うのが無理だろうか。両親の一方を欠くことは既にもうその生まれた子の運命が普通な円満なものでないことの証拠といってもよい、と己は思うのだ。己が十三の時のことだ。己のその第二の父が第二の母の肺患をうけついだものか、また肺で死んでしまったのです。随分堪らないことだ。己はそのときその父が本当の父でないことを知っていた。それでも随分悲しかった。本当の父もあのようにして忽然として死んで行ったのかなと考えたものだ。つまり無意識のうちに死んだ生みの父への追悼を嘘の父によって表示された「死」という実感に交えて悲しんだものとみえる。どういう心的経路をとったかははっきりしないが、己はその時から必然的に生き残っている嘘の母さんに内心独身を要求していた。独身でいないと、そのままにはすまさないぞ、というような恐ろしい力を何故か感じずにはいられなかった。己達は奥の室で母と自分と妹と三つ枕を並べて寝ることにしておったが、ある夜己はふとひそ/\した話し声に目を醒まされたものである。あの暗い闇の色、闇に聞ゆる囁き、ああそのとき子供心にも全身にしみて感じた怒りは今でも総身の血が沸にえくりかえるようだ。許さないぞ、この婬婦め! こう心で叫びつつ、己は慄える身体をじっと忍んでいたのだ。その次の日から己はまるでどんな些細な事であろうとも母の命ずることは一つとして服従しない少年となったのも無理とはいえまい。やがて、一人の男がさらに入婿して来たのだ。その時は己ももう十三だ。己の心では姦夫姦婦の恥しらずめ! という想いが絶えずあって、沈鬱な偏屈な子供らしくない子供と他所目よそめには見えたに相違ない。己は十四の春、中学は嫌だ商業学校なら入るといって自分から主張した。己の家の婬みだらな二人は己が裏をかいているとも知らず二言返事で悦んだものだ。己としては中学にはいれば高岡にいなくてはならないが、商業学校ならN港へ行くより外になかったから、一日も早く家を出たい欲求からそう主張した訳だった。己はそう頭脳の悪い人間ではなかったらしく、商業学校の試験にも及第して意気揚々と忌わしい家を出て、はじめて知らない人達の中へ出たのです。静子、己の十四のときだよ。己はそのとき同じ高岡の出身でその町で乾物問屋をしている家に下宿していたが、その家は主人と三十四、五の主婦さんだけで子がないのだ。「尾沢さんが長男でなかったらほんとに家の息子さんに貰うんだに」とよく肥った四十近い主人が言うのをかなり真面目に「なりますとも」と答えていたあの頃の己に残っていた初心さは実に涙が零こぼれる。ところがだ、己が十五の秋、その壮健なとても死にそうでなかった主人が死んだのだ。主婦さんは気丈な性質だから自分で乾物屋をやるといって店を閉じなかった。静子、己は白状するが、その主人が死んだことを学校から帰って来て主婦さんに聞いたその刹那ある忌わしい関係の妄想が己の全身を痺しびらしたのだ。ああ、己は十五の熟しきらない童貞をその主婦さんによって破ってしまったのだ。己は一年半あまりの間に申し分のないほど三十五を過ぎた主婦さんにまるで内に沸く若さを消耗しつくした若い老爺のようにされて捨てられたのだ。悪いことか善いことか知らないが、己はその頃日本にようやく伝来しかけていたあの自然主義文学を噛りはじめていたものだ、ゾラやモウパッサンやの名を己は暗誦したものだ。そして獣欲を描いた小説に読み耽ったのだからたまるまい。己の年齢で真にそうしたものに興味を持ち得たということを己はどう考えどう泣いてよいのだろうか。己は今はもう何もそれらの過去のことに関してどうもこうも考えようがない。何もかも必然だったという想いがする。これより悪くあり得ても善くあり得そうもない己の生の踏み出しだ。とにかく己は二十歳頃迄をその頃の自然主義の文学に読み耽ったことをお前に告白する。もうその頃は学校も中途で止してしまって、田舎の新聞記者の名を知り顔を知ることを何よりの光栄とするようになってしまっていた。二十歳の夏東京へ逃げて出て申し訳のように私立の学校に籍を置いて、くだらない文学者と名のつく奴等を訪ね廻っていたようなわけ。静子、己の疲れた心身はこれだけ書いたことにもう疲労を覚えている。笑え、笑え、こんなへなちょこでも一度は大文豪を夢みたのだから人間はいじらしいのだ。笑え、笑え! ――静子、せめて国許の方の嘘の両親達でももう四、五年無事にいてくれれば。彼等は己を餓えさせる程の悪人でもないのだが、今度はまた何ということだろう、女の方が肺患で死んでしまったのだ! ついで男が幾万という財産を相場と遊蕩で蕩尽とうじんして朝鮮へ逃げて行ってしまったのだ! 己はもっと東京にいたかった。東京にいればやりたいことも多かった。しかし、自活しなくてはならない境遇に投げ出されてみるとそのまま東京にいることの出来ない意気地なしの己だったのさ。己は逃げ帰って、軽蔑している新聞記者となり、それも一年ばかり経つとそう軽蔑もしなくなりずる/\ひきずられてこうして二十五年の生をつないでいるのだが――己はこうしてお前に手紙を書きつつ独り自分の部屋に坐っていると、ある悲しい絶対的な厭世に迫られて来る。静子、お前にはこうした瞬間はないか。それは己達は遂に永遠の囚人でしかないということだ。人生という牢獄、世界という牢獄、ああ、たとえ宇宙が無窮無限であり、無数の星辰が無窮の時を無限の空間をめぐっているのだとしても、その無窮なる牢獄。静子、お前にはこの己の気持が分ってくれるか。物質は不滅であるそうだ。それが真理なら己はどうしよう。己のような不幸者はどうしたらよかろう。不滅! 永遠! ああこの人生が不滅でこの宇宙が永遠なら、己はどうしよう。己達は不滅に、そして永遠に無限の宇宙に繋がれた囚人でしかないのではないか! たまらないことだ。己の願いは寧ろ希わくば一切は虚無であってくれることだ! 己は死んで焼かれてしまえばそれで一切が消滅して無であってくれるように! と願うものだ。静子、己のこの叫びは無理だろうか。不滅よりも虚無を希う己だ。一切を否定してしまいたいのだ。虚無主義者さえも己にはまだ不安でならないのだ。何かが永遠であったり不滅であったりしては己は自殺することも出来ない。虚無ということもない真っ暗闇の無であってくれ! 静子、実際の心を打ち明ければ己は自殺したくてたまらないのだ。しかし己は自殺して死ぬということがもしや己の真の滅亡でなかったとしたら、という疑いが始終付き纏っていてそれが恐ろしくてぐず/\生きているのだ。死というも生というも己にはそれ程の差異があるものと感じられないのだ。ああ、己はどんなにこの世界もこの己も何もかも一切を無くしてしまいたいことだろう。しかし、もし己が死んだとする、さらに何か新しい世界、新しい己が何か違った状態で己に来はしないだろうか。それが心配でならないのだ。石塊になるのも、草木になるのも、動物になるのも、人間になるのも、神とやらになるのも何もかも己には嫌だ。ほんとに死が何も無くなるものであるということが確かめられているか。いまい。かえってもろ/\の宗教や哲学は死が真の滅亡でないと言っている。己にはそれが心配だ。己にはそれが心配で死ぬことも出来ず、毎日牢獄の一つである新聞社に通って、囚人のように働き、囚人のように飯を食い、せめては酒を飲み、くだらない文章をつづり、またお前という女とも恋らしいものをしてみているのだ。厭世的な享楽主義とでもいう奴があれば、言わしておくさ。厭世どころでないのだ。そんな「厭世」という意義からが厭でならないのだ。静子、何んだかもう書くのも厭になって来た。もう止そう。書きはじめるときはもう少し可愛い即興で書きはじめたのだが、とう/\こんなものになってしまった。おいで、せめて酒でも飲んでお前でも抱くのがせめてものことだ。せめてものことに世界中の富が欲しいね。そうして世界中の人類を買収して、地上全体に大爆発を起こして人類といういじ/\した生物だけでも絶滅するんだがね――それにしても人類がなくなればまた何か変梃へんてこ[#「変梃」は底本では「変挺」]なものが出て来るかも知れないね。それを想うと胸がむか/\して来るね。静子、待っているよ。お前の乳房の柔らかさを覚えているよ。ああ、絶望。死ぬことすら自由でないこの牢獄。死生の本質を一貫するこの永遠の「生命」という牢獄。さようなら。

老いぼれた青年より

 読み終った尾沢の顔は死人のように蒼黒かった。彼はごろりと横になって頭を抱いてしょうことないように身体を揺すった。平一郎には分らないことも多かったが、厳粛な暗い精神の悩みが感じられた。そして、それが彼の今の心に嬉しかった。深井は瞳を動かさず頬を火照らして深い溜息をもらした。その様子が森厳な尾沢の苦しみを了解したもののように平一郎には見えた。戸外では嵐の前の静寂が天地をこめて透徹していた。
「尾沢さん、いないの! 尾沢さん!」
「静ちゃんかい。お上り」尾沢は寝転がったままで女の声に答えた。蒸すような青春の臭気と熱気が二階へのぼって来て、無造作に髪を束ねた額のでた豊頬の肥ったあまり美しくない若い女が、部屋へはいって来た。
「お客様? 可愛いお客様――」平一郎と深井は正しくお辞儀した。
「深井さんじゃないの。もう一人の方はどなた?」
「僕の親友の大河です」
「そう、大河さん」女はこう言って寝転がっている尾沢を、「あなた、あなた」と起こそうとした。尾沢は突然に「あれを読んだかい」と唸った。
「読みましたの。でもあとの方はわたしよく分らなかったわ。随分大変ね」
「でも、己の書くものは普通の奴には分りゃしないよ。しかし、静しいちゃん、あたりまえのことを書いただけなんだよ」
「でも大変ね。――だっていいじゃないの。もうわたしというものがいるんじゃなくって。どうしたって逃れっこのない宇宙なら、こうしている瞬間瞬間を出来るだけ面白く暮した方が好くはなくって? 牢屋なら牢屋でもいいじゃないの。牢屋で抱き合っているのも好くはなくって?」
「それあいいだろうよ。忘れられるものならね。己には忘れられないからね。己には静いちゃん、己達の本質、己達の生命が実に永遠であり無限であることが身に沁みて感じられもし、認識も出来るんだ。ところが、己にはその永遠であることが外の奴等のように歓びではないのだ。たとえ己が太陽であったにせよ、もしくはそれ以上の万能なものであり得るにせよ、己は嫌だ。己は何者でもありたくないのだ。己達がいうでありたくないのだ。己は『生命』でありたくないのだ。己達は死は虚無であると信じているものもあるらしいが、己には死は虚無、一切の終りとは信じられないのだ。何かであるに相違ないのだ。死もまた生であるに相違ないのだ。すでに己が今人間である限り、尾沢重太という人間である限り、この己が死んで焼かれたところが、何かであるには相違あるまいがな。己は噴火口に身を投じたとする、それでも己は必ず何かであるに違いなかろう。たとえ己が地球外の大空へ抛り出されたとしても広大な宇宙のどこかに何かとしてあるに相違はあるまい。己にはそれが苦痛だ。静いちゃん、ほんとに、本当の意味で『無』ということは己達には許されていないのだ。したがって本当に己達には『自由』はないのだ。永劫の囚人だ。静いちゃん、そう思わないかね」
「わたしにはよく分りませんわ。もうそんな話は止して、せめてわたしという女を相手に、少し遊んだ方がいいじゃないの。ね、尾沢さん」
 尾沢は黙っていた。そしてむっくり起きあがって、つく/″\と女の微笑を見ていたが、泣くように「悲しい遊戯か」と呟いた。
 平一郎と深井は二人にまた来ることを約して戸外へ出た。尾沢は門口まで送って出て叫んだ。「失敬した、またやって来たまえ。――大河君、やって来たまえ!」
 雪に湿れた路上に寒い月光が白く照っていた。二人は街角の柳の樹の下で寂しく別れを告げた。平一郎にとってはこの夜の会合は珍しい経験であった。尾沢という年上の青年、静子という若い、多分尾沢の愛人である女。全然新しい人間が平一郎の世界に出現したのである。それ等の人は学校の教師達からはまるで異なっている。何の憚るところもなく愛する二人が自由に愛し合っているらしい尾沢と静子とを羨ましくも思ったが、同時に、尾沢の部屋に充ちていたあの絶望じみた暗陰と無性な怠惰な精神を表わしている不潔とを本能的に嫌った。と平一郎は思った。それはとにかく、平一郎には彼等の自由さが憧憬された。半年ばかりの間に鮮やかに迫害を強めて来た彼の周囲への憎悪と憤怒が強いだけ、尾沢達の方へ彼の心は引きつけられた。殊に彼は深井がまるで彼に知らさずにああした人達と交わっていたことに、ある裏切られたやるせなさを覚えた。もうお互いに純な少年でなくなったらしいのを彼は認めない訳にいかなくなった。平一郎は深い寂寥の真空に取り巻かれた全く孤独な自分をはっきり認識することがあった。外に照り輝き、温ぬくもり合うべき力は内に凝結して曙の知恵の力となって、真理を掴もうとしていた。
 彼は次の夜が来たとき、一人で尾沢の家を訪れた。窓のカーテンを越して血のような幅広い光は路上に流れ出ていた。彼はかなりの人数が話しているらしい話し声を聴いた。幾度もたゆたうた後、彼は暗い階段を昇った。
「誰? 大河さん? おはいりなさい」
 静子が目敏めざとく見つけて、ためらっている彼の意識から「遠慮」をはぎとってしまった。彼は微笑して尾沢に会釈した。一つの火鉢を中心に、尾沢と静子ともう二人見知らぬ青年が坐っていた。一人は頭髪を黒々と美しく分けた血色のよい、袷に角帯をしめた大きな商店の番頭らしい風采で、もう一人は久留米絣の袷を着た学生らしい背の高い瘠せた男であった。平一郎は彼らにもお辞儀をした。
「大河さんという方。深井さんのお友達ですって。昨夜はじめていらしったの」
 静子が彼を紹介してくれた。学生風の男は平一郎がまだ少年らしい中学生であることなどを知らないかのように「僕は宮岡と申します、どうぞ宜しく」と頭を下げた。商人らしい男は喫のみさしの紙巻を灰の中に埋めてから、「永井です、宜しく」と言った。平一郎は正坐して、こうして仲間入りをした人達の話に聴きとれようとした。
「――どうしても今のままに過ぎていることは僕としては出来ない事です。愛子にしたところで堪ったことではないだろうと思う。もし一日でも早く別れるなら別れる、一緒になるならなる、どっちかに決めてしまわなくちゃたまったことではありませんからね」
 永井の呟きを宮岡があわただしそうに尋ねた。
「それで、愛子さんの両親はそれを知っているのですか」
「それは知っていまいと思います。少なくとも愛子の言葉を絶対的に信じての上ですけれどね、しかし僕としてはたとえ僕と愛子との仲が一生の間先方の男や愛子の両親に秘密とされていても、それがたとえ保証されても、僕の現在はそれに満足できなくなっています。僕は随分我儘かも知れません。こんなことを言える訳でないかも知れません。しかし僕は愛子を独占したくなったのです。この頃殆んど愛子に会わない日はないでしょう。毎日必ず会っていると言った方が正確でしょう。しかし会う度に僕は、この可愛い愛子が自分から離れてあの軽薄な奴に占有されるのかと思うとたまらなくなります。僕は会う度に愛子が彼奴あいつの細君になりすましている時を妄想します。するともうがっかりしてしまいます。僕ははずかしい話だが、この頃会う度に愛子に『結婚はまだかい』と詰問して、愛子のあの瞳が示す答を見ようと焦る位になって来ています。随分と堪らないことです。まるで先方の両親か男が言うべきことを僕が言っているようでもあるけれど、しかし、これは僕の言うべき権利だと思います。向うの男は愛子を一種の奪掠手段で貧しい本当の親元から結婚の許しを得たにせよ、僕の方には真実の愛子を愛する心も愛子を想う心もあるわけです。僕に言わすれば僕こそ彼奴に奪われたものを取りかえそうとするのですからね。無論少しばかりの現金に目がくれて自分の娘をあんな道楽者に約束する両親も両親ですがね」
「それで君はどうしようとするのだ」と尾沢が言った。
「僕は愛子に今のうちに両親と男に己との間を打ち明けろと言ったのです。しかし愛子はもしもこんなことが男に知れればきっとあの人は父や母に金を返せと責めるだろうというのです。それじゃ僕がどこかへ連れて逃げようと言うと、愛子はきっと貴方は牢へ入れられると言います。誘拐罪とかでね」
「牢へはいる覚悟で連れて逃げたらどうです」と宮岡が言う。
「馬鹿な! 自分達にとっては罪悪という観念はないのだからね! 僕達がかりそめにも恐怖とか暗さを感じることがあるとしても、それは、先方が誤った観念からどういうことをしでかすかも知れないという先方の誤認する思想の程度を洞察してのことに過ぎないのです。僕達の方が正しいのです。先方の男が単に愛子の美貌を見て、悪辣な手段で体ていよく奪って行ったのが不当なのです。そして法律と世間はそのやり方が巧かったばかりにその不当をも正当と認めます。そんな法律にしたがって、好んで牢へはいることは運命への侮辱です。罰があたります」
「それじゃどうしようと言うのだ」
「僕達は手も足も出ないのです。しかし、僕達はどうしてこのままにおれましょう。――それに尾沢君、愛子は妊娠しているらしいのです!」
「あはっはっはっ。な、静いちゃん。お前も少し怪しいってんじゃなかったかい」
「そうですの。少し怪しいの。わたしがあなたの子を生むなんて、何だかおかしいじゃないの。あなたが父さんになったり、あたしが母さんになったりしてさ」
「あはっはっはっ、永井君、そう焦らない方がいいね。とにかく現在会えるのなら結構じゃないかと思うよ。知れないで愛子さんとの仲を続けられれば結構じゃないか。僕達は人間ですからね。僕達は地上の生物ですからね。碌なことのあろう筈がないじゃありませんかね。どうせ苦痛より外にない地上じゃないかね。逃げたかったら逃げてみるさね。万が一、北海道か満洲かでうまく君達二人の新しい生活がはじめられればそんないいことはないだろうし、捕えられたら捕えられたで、殺されるなり、牢へ入れられるなり、またはひょっとして天下晴れて一緒になれるなりどうとかなるのさ。――しかしそんな危い仕事よりも、誰も知らない間に出来るだけ上手に立ち廻っているのもいいことはいいと思うよ」
 永井は苦笑して尾沢の言葉を聞いていた。
「君のように考えてしまえばそれまでの話だけれど――」
「しかし愛子さんも可哀そうね」と静子が言った。
「そうです、可哀そうです」と永井が言う。
 一しきり一座の者は沈黙した。平一郎はわけもなしに、歓喜に襲われていた。ああ、苦しいのは自分ばかりではないのだ、と思うと彼は光が湧き出るような感激を覚えた。
「ほんとに愛子さんは妊娠しているのか」
「さあそれが、まだはっきり分らないのです」
「ほんとに君にも確信があるのかね」
「――」
 永井は答えなかった。彼は答えられなかったのだ。それは愛していればいるだけ、なお一層人間には知ることを許されていない恐ろしい神秘であった。尾沢も少し自分の質問を悔いたらしく沈黙した。
「だって、それは愛子さんには覚えのあることですわ。愛子さんがしっかりした確信さえあれば、永井さんのややさんがやどっているのに違いないわ」
「女にはそれが直覚できるものでしょうか」と永井は眼を輝かして静子を仰いだ。
「――でも、この方なら、この方の子なら孕んでもいい、孕んでくれる方がいいと思う心には、わたし、きっと感応があると思いますわ」
「そうでしょうか」永井は深い渦巻く淵を覗き込むような寂しい表情を現わした。尾沢はこうした厳かな時の流れに耐えられないように、大きく一つ唸った。永井は静子に与えられた仄ほのかな光を頼るように、
「あなたは今、孕んでいるかも知れないと仰しゃったんですね」と尋ねた。
「ええ。そんな気がしますの」
「それで、もし孕んでいるとしたら、何日、何夜のあの時だったろうという覚えはあるものですかね」
「それあ、何ともまだ言われませんけれど、無いこともありませんわ」
「はっきり言ってください。ありますか」
「ええ。ありますわ」
「そうですか」永井はまた眼を俯せた。このときさっきから帰ろうとしていた宮岡が、立ち上がろうとした。尾沢は「もう帰るのか」と言った。
「ええ、失敬します」
「試験もすんだんだし、急がなくてもいいだろう――今、これからすぐカッフェへ行くから、もう少し待っていて一緒に来たまえ」
「そうしようか」
「永井君」と尾沢は永井の背をたたいた。「あとにしたまえ。それよりか今夜はカッフェへ行って久しぶりで少し酔おうじゃないか。ね、そうしよう。自分の真情の要求に直進的に殉ずるか、それだけの勇気がなかったら一切の自力を捨ててなるようにまかすか、どっちかだと僕は思う。苦しみをなくしようとしたってそれあ駄目さ。寝るのが一番だね。寝ていたって夢で魘うなされることもあらあ」
「そうだ。そうしよう。今夜は飲もう。静子さんもおいでよ、ね。――大河君、大河君、君も来たまえ」
「ええ」と平一郎も立ち上がった。
 五人の群は戸外に出た。雪は降っていなかったが、黒藍の寒空に星が二つ三つ光っていた。高等学校の学生である宮岡は長いマントをかぶりながら、静かな夜更けを愛誦の歌を朗吟するのだった。

頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しゝ女ひとを忘れず

「石川啄木! いいね、啄木は!」
「長らえようか永らえまいか――あはっはっはっ、ハムレットは馬鹿だね、己達がこうして生きているということが、とりもなおさず死の国からの便りじゃないかね。死の国から一人も帰ったものがないどころか、死の国からこうしてこの全世界が帰っているじゃないかね。あはははは、ハムレットはまだおめでたいものさ」
 色硝子の紫や紅や青や黄金色の硝子を透して輝く光彩が路上を染めていた。ドアを押して一群は室内に入った。
「いらっしゃいまし」と白いエプロンと後ろの赤い帯との対照の美しい給仕女がこの奇異な一群を迎えた。階下の食堂では、熱帯性植物の青い厚い葉蔭から、若い絵師の一群がマンドリンを掻き鳴らしている姿が覗かれた。
「二階へ行くよ。おい、二階のあの奥の方へ通してくれないか」尾沢は黒いソフトと黒いマントを脱いで階段を昇った。二階は日本風な座敷がこしらえてあった。
「永井! 日本酒か。色のある奴か」
「両方もらおう。――ううん、日本酒の熱い奴にしてくれ。おい、日本酒の熱いのに、うまい肉の生焼きをもって来い!」
「はい」と給仕女は下りて行った。掻き鳴らすマンドリンの春の小川の甘い囁きのようなメロデイが階下から響いて来た。それはあまりに五人にとっては別の世界の音楽であった。重苦しい厳粛な沈黙と絶え入るような絶叫の大交響楽が階上の一室に高らかに鳴り響いていた。新鮮な肉と芳醇な酒とが彼等の心肉を温めて来た。尾沢は酒を呷あおりつつ雄弁に語りはじめた。
「永井! 止せ止せ、くだらない心配は止せ! お前が愛子さんを連れて逃げたりしてどうするつもりだ。もっと善良な悪党になれ! ………………………………………………――そうじゃないか、先方の奴が人間としての存在さえなくなればそれでいいのじゃないか。蜜蜂だってうまく自然に他殺することを知っているからね。愛子さんさえそのつもりになれば、だ」
「どんな方法がある?」
「一つある。しかし己には出来ない方法だ。同時に言ってならない方法だ」
「どうして言えない※(疑問符感嘆符、1-8-77)」と永井は殺気を含んだ充血した目をあげた。
「――女には出来る。男には出来ない」
「じゃ、わたしには出来ることなのね」と静子は酔いのめぐった、生理的な昂奮を抑え切れないで大きな声を出した。
「お前には出来ない。愛子さんなら出来る」こう言って尾沢は盃に溢れる熱い液をすすった。
「その話はもう止してもらおう。――ね、尾沢君、君はドストエフスキイを読みましたか」
「ドストエフスキイの何を?」
「全部を」
「君は己が外国語に自由な人間だと思っているのか」
「でも二、三、翻訳があるでしょう――」
「己は読まない。己はドストエフスキイという作家を知らない。知っていたら教えてくれたまえ」
「いやね、僕の同級クラスの奴から『カラマーゾフの兄弟』の英訳をかりてはじめて知って、それから英訳で及ぶ限り読んだのですがね――」
「ふん」
「『罪と罰』という作にス※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ドリガイロフという奴がいるんですね、そいつが或る女をピストルで脅しつけまでして自分のものにしようとしたのですが、どうしても出来なくなって、その相手の女の人格的威力と真情に征服されてですよ、一人とぼ/\練兵場へやって来るのです。そして番兵に遭うのです。と番兵が尋ねる。と答えて、その男はピストルをこめかみにあてて、ばねを引いて倒れてしまう。――これはほんのエピソードにすぎないのですがね、僕は僕の読書力の範囲内で彼の作ほどに森厳な偉大な作を知らないのです。殊に彼の『カラマーゾフの兄弟』――」
「僕にも一度その本を見せてくれたまえ。ほんとに一生に一度は身も忘れるような書物にぶつかってみたいものだ。そうしてこの生きていることを忘れてしまいたいものだ。――静子!」
「何んですの」
「こっちへおいで!」
 すると永井は立ち上がって「尾沢、みんな呼ぼうじゃないか」と言った。
「みんなを呼んでくれ! 少し騒ごう。はじめてきいたドストエフスキイに敬意を表するために、せめて皆して飲もうじゃないか。それ程立派な作品を残した人なら、ね、静しいちゃん、随分苦しかったろうね! 己達のようなへぼでさえこうじゃないか!」
 永井は階下へ降りて行った。電話をかける音がしきりにした。二十分も経ってから永井があがって来た。
「山崎と小西と瀬村とが来るそうだよ!」
 宮岡は不快な表情を示した。彼はしめやかな物語を欲したために彼の愛読する作家の話をしはじめたのであった。それを尾沢達が喜ばない。のみならず、あの乱酔をはじめようとしている。たとえ両親を早く失って兄の手に育てられ、遠い北国の市街へ来ている彼にしても、まだ兄の手に養われる学生の身分として、中流以上の家庭の子弟としての宮岡と、尾沢達の間には極めて肝心なある世界が共通でなかった。尾沢にとってはたとえそれがロシヤの大作家であろうとも、今のさき話しつつあった命がけの話の只中にのさばり出ることは、許し難い神厳を犯す行為であらねばならなかった。耳に頭脳に尾沢達の話を聞きいれても魂の開かない宮岡には、永井や尾沢の現実的生活に対してもドストエフスキイの小説を味わうような態度にしか出られなかったのである。
「ドストエフスキイが泣いていらあ! 己の胸の中で泣いていらあ!」
 ひたすらに沈黙して僅かに生々しい焼肉を食っていた平一郎は尾沢の瞳に真珠のように小粒な涙滴を見ることが出来た。そのうちにあわただしい足音をさせて「おう寒い」と二重マントを片隅に脱ぎ捨てて髭を生やした三十五、六の壮年の知識階級の男がはいって来た。この男は市街で唯一の万年筆の問屋の主人で、無妻であった。このグループの機関雑誌『底潮』の経済的方面はこの男が負担しているだけ、平常は勤勉な商家の主人だが、こうして一群の中にはいると天真の彼は寂しいといって泣くのである。
「小西さん、よくいらっしたのね。熱いのがありましてよ」
「や、結構、結構、今夜は自殺したくて困っていたところでした。有難う。呼んでくれて有難う。おう、結構、結構――」
 そこへ山崎と瀬村がやって来た。山崎は熊本の男で二十七の一昨年帝大の理科を出た秀才だったが、嫌な結婚を強いられたために、自分の愛人をつれて、銀行の頭取である父の金をかなり多く携えてこの市街の伯父を訪ねて今年の春来たのであった。彼は新聞社の客員という風な資格で論説などを書いて生活を立てていた。彼の専攻であった星学に対する情熱は衰えはしなかったが、父が彼の意思から生じた結婚を許さないので、彼はその情熱を犠牲にして彼の愛人を護ることに努めていた。その一年ばかりの生活が彼を「大きな坊っちゃん」であることよりももっと深い生活を彼に知らしめていた。瀬村は二十五の工業学校の助教諭であった。彼は自分とはそう年の違わない生徒に粘土をいじくることを教えて、がっかり疲れた心身のやるせなさをこうしたグループに慰めていた。彼は一人の母を養うために自分の天才の成長を犠牲にしなくてはならない貧しい一人の青年であった。
「ロダンやミケルアンジェロやを思えば少しは心も安まろうという人もある。しかしあべこべです。安まるどころか威圧されて悲しくなって物も言う元気もなくなります。その日その日の生活さえ十分に果し得ない僕です――それにしても金が欲しい……」
 その瀬村とその山崎がはいって来た。
「御一緒に?」
「いいえ、今、そこのドアのところで会ったのです」
「山崎さん、瀬村さん、今夜は飲み明かしましょう。こんな寒い寂しい夜です。どうしてじっとしておられましょう。哲人とやらは超然とすましておれるそうです。そんな哲人はそれは大方木像でしょう。さ、飲み明かしましょう」
 静子が差し出す盃に豊潤な黄金色の液を注いだ。愛らしい桃割に結った少女が二人、一群の中にまじって酌をするのを忘れなかった。山崎が平一郎を見つけた。
「静子さん、この坊っちゃんは誰だあね」
「大河という方ですよ」
「大河? 中学へ出ているのじゃないかい。――ううん、それじゃこの間停学になったことがないかい。女学校の人に手紙をあげたというので」
「ええ、僕です、その大河です」彼は真面目に答えた。彼の頬も酔アルコールのために紅かった。
「君かね、あはははは、停学はいいね。――」と山崎はふと硝子戸の隙間から戸外に眼を注いだが、「星が流れた」と思わず叫んだ。
 一室に展かれたこの青年達のやるせない酒によって僅かに慰められる鬱した精神を夜は深々と抱いていた。黎明を知らない闇であった。この鬱屈した精神は果してこの市街のこの一団に限られたるものであろうか。つらなる大地のあらゆる生霊のうちに潜むやるせなさではなかろうか。それとも日本の有為なる青年にのみ特有な心情の苦悩であろうか。人類の生活上に重い負担の石を負わす資本家的勢力の専横な圧迫の社会的表現であろうか。もしそうなら下積みとなる幾多の苦しめる魂は、いつかは燃えたって全大地の上に憤怒の火は燃ゆるであろう。しかし、それは一つの原因であり得よう。しかしそれは唯一の原因ではあり得まい。何よりの原因は、自分達が自分達であることだ。無論「自分達は自分達であることの苦しみ」と「人為的な生活の圧迫」とは同一視できない。前者は不可抗なるものであり、後者はより善くするの望みはある。またよりよくしなくてはならない。どうにも出来ないのは宇宙苦だ。宇宙苦はありとあらゆる万物に滲み入っている。自分達は僅かにこの地上の人間的苦しみをさえ征服出来ずにいるのである。宇宙苦を知らないで人間を終わるものが大多数であるのだ。――平一郎はこの夜午前一時過ぎに家へ帰った。
 彼にとって尾沢のグループはもはや生活するに必要なものとなってしまった。とにかくその中に行けば生きた熱情、真の苦しみ、歓喜に接することが出来た。それは若き平一郎にとっての僅かの慰みであった。平一郎は少年期の傾注的な熱情と信愛をもって『底潮』の一団に交わったのである。お光は平一郎の急に多くなった外出、夜更よふかしに心配したけれど、彼女は急には平一郎にそれと注意しないだけの思慮を積んでいた。危険な峠が我が独り子の道にさしかかっているのを彼女は認めた。四十年の苦労が彼女をして急に盲目的に我が子の道に干渉することを控えしめていた。それは善いとも悪いとも言えなかった。生理的に熟しつつある平一郎の男性的目覚めがあの恐るべき放蕩と堕落に彼を導く暇のなかったのは確かに平一郎の幸福と言わねばならなかった。和歌子一人に集注され、和歌子一人に生活の意義をみいだしていた平一郎が、その生活の意義を奪われてしまった時に、彼を放蕩に堕落せしめなかったのは寧ろ奇蹟と言うべきかも知れない。彼の早くより営まれた内的精神生活が急激に伸びて、『底潮』のグループに内より湧く力の消費対象を見出したのは――放蕩に陥るよりはよいに相違はあるまい。その一すじな力の奔流を堰き止めることを控えたお光の心の悩みはまことに尊いものである。
 十七の正月が迎えられ、北国の街に厳冬は長く続いていた。平一郎は毎日の学校への出席を苦艱な労働のように耐えつつ、学校から帰ればすぐに尾沢の宅を訪ねるのであった。あのように進歩した女性のように、また時には淫奔な無恥の女のようにも、また時には世間の状態に通じた人間の心理に同情をもっている懐かしい年上の女人のように思われる静子は、東京の基督教の女学校の専修科を出て、この市街の大きな銀行の事務員をしていることが分った。彼は尾沢と静子があるように、未来自分と和歌子がありたいとも欲しなかった。また、彼は幾度となく尾沢のグループに接する毎にそこに本然的にある隔たりの大きくなるのを知った。それは尾沢達が現代の勢力団に対して抱く不満のように、尾沢達に対して抱かれる次の時代の批判、不満であった。平一郎には尾沢達の周囲に漂うあの「絶望」と「暗黒」の臭気に時々堪えられなくなるのであった。それは平一郎がまだあまりに若すぎるためかもしれなかった。平一郎が彼等の年齢に達して彼等のような思想に変わりはてるかも知れなかった。しかし今は、彼は時折、尾沢達と共に同じ狂乱と感激の嵐に捲き込まれて悲しい歌を高唱する刹那においても、彼はいつまでもこうしておられないような、このままこの嵐に捲き込まれて遠い無明に押し流されては堪らないような感じを得ていた。いつまでこうして過ぎるのか、いつまでこうして絶望に沈淪していても仕方がないではないか、と彼の内心に無言の声は響いていた。しかしこれは瞬間に現われる底潮であった。尾沢や静子や山崎や瀬村や、大きい呉服店の番頭をしている若い純な商業学校出の永井やは彼にとって常に先輩的な感情を起こさせ、それらの人の生活に触れることは何んという慰め、歓びであったろう。山崎が蒼い西洋人のような眼を天空に注いで星学上の話をするときの輝く天体の偉大と不思議と、さらに山崎の浄きよい熱とは人生に珍しい美であった。瀬村が写真帳をもって来てギリシャ・ローマ時代の彫刻やロダンやミケルアンジェロの彫像について語り、また、文芸復興期の偉大な芸術家について語るのを聞くことは彼の生涯にとって四年間の中学の授業よりも深刻な印象を与えたのであった。平一郎には永井の苦しんでいる恋愛の心理ははっきり分らなかった。けれど苦しさの程度は自分の苦しみに反照して推察出来ないでもなかった。純な人ずれのしない青年の永井が世間から見れば破廉恥な罪悪である不良青年のような恋をしていることに、そこに不自然な感じがまるでないことは、彼も分った。むしろ彼とは幼な馴染みであるという愛子が自分の亡き父に多少の金を貸していた人間のものとなることがどれほど不自然な事実と感じられたか知れない。このように恋するのが自然であるべき永井と愛子にしても不正な社会的制約の下においては苦しまねばならない二人であり、どうしてよいか分らないで曠野にとり残されたような悲しみと寂寥を感じる二人であった。
「僕達はこのように多くの人間の間に生息しながら、曠野へ追放された罪人みたいなものです。僕にはこれが正しいこととは思えない」と言って永井が涙ぐむのをグループの人達は黙って見ているより仕方なかった。どうかしてやりたさに人々は胸一杯に想いは充ちても、さてどう出来得るであろうか。二人を全然別離させることも出来ず、愛子を円満に離縁さして永井と結婚させることも出来ず、――出来得ることは少女誘拐で牢獄へはいること位でしかなかった。人々は今更のように、自分達の無力に驚かねばならなかった。
「僕達のようになっちゃだめですよ。え、大河君、僕達は要するに人生の勝利者ではない。僅かに路上で血みどろになって戦っている者です。しかもどうかすると敗亡しそうな弱虫でさあ。ね、僕達を真似ちゃだめですよ。僕達を踏み越えて、僕達がわずかに開拓して敗死したとき屍を乗り越えて真実の勝利の凱歌をあげてくれなくちゃ。え、大河君」と山崎はよく言った。そう言った心持は、尾沢や皆の者に共通な、彼等の次の時代である大河と深井の少年らしい姿をしげ/\と見守り祈るような、同時に彼等自身の険しかった半生とさらに暗険であろう未来を想ってみるような広大な寂しい感情であった。一月、二月、平一郎は彼等を訪ねて時は流れて行った。その間、和歌子の行方はまるで知られなかった。

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