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2013年8月 2日 (金)

「地に潜むもの」第六章 島田清次郎

     第六章

 粛然とした闇の夜である。仲秋近い真夜中の冷気は津々と膚に寒い。暗い地上の物象は暗に吸い込まれて、ただ夜露が湿っぽく下りていた。六百人近い少年が身を潜めて整列していた。そこは広い高台の運動場である。露に湿れた草生くさふが靴の下にあった。水中のように澄みわたった闇である。現世と思われない静けさが、六百の少年の心に浸み入ってくる。時折靴のすれる音、教師達の遠慮深げに歩む音、囁く音より外に断れぎれな蟋蟀こおろぎの鳴く声がするのみである。
 引き緊った静寂が、夜空をわたる幅の広い大砲の音で破られた。闇に人の動く気配がして運動場の正面にあたるところに二つの篝火ががりびがぱっと焔を揺らめかし燃えはじめた。火花を散らし燃ゆる篝火の焔の間に質素な祭壇が、光と暗の間に見えた。
「気をつけえ!」
 少年は森厳な気におされて、心から身を引きしめ不動の姿に唇を閉じた。焔が夜風に煽られてゆら/\と流れる。黒い影が静かに祭壇に榊をささげる。教師が一人一人捧げる。生徒総代が同じく榊をささげる。その静黙の夜空を遠く大砲の音が、どおん、どおんと響いて来た。
「最敬礼!」闇に六百の少年は長い敬虔な敬礼を行なった。そして頭を挙げたときには、もう篝火の火は消えて、余燼が闇に散らばっているに過ぎなかった。寂しくて厳粛であった。一同は一人一人夜露に湿れた草原を通って裏門から街の方へ去りはじめた。平一郎もその中の一人であった。彼は幾度も空を仰いだが、彼の好きな星は一つも見えなかった。群集におされて街中へ出ると、両側の家々には黒い幔幕が引きまわされ、黒い章のついた提灯が軒並に吊されてあった。この夜の午前零時を合図に行なわれた御大葬の式の御亡骸おんなきがらを遥かに見送り奉るため、一般市民は公園の広場に集まるのであった。平一郎は寂しくなっていた。去った冬子のことや、自分の運命の貧しさのことや、また和歌子のことや、遂には死ななくてはならない自分達であることやを考えて、誰一人高声で話すものもなしに街上を一杯に溢れて歩いて行く群衆の中に交って歩いて行った。大砲の音はどおん、どおんと響いた。彼が自分の家に近いS川の大橋近くへ来たとき、彼は橋詰に佇んでいる一人の女学校の生徒を見出した。髪の結い方や、少し腰を折って佇んでいる姿が和歌子に相違なかった。彼は嬉しくてならなかった。本当にこうした、死の厳粛と森厳と恐ろしさに充ちた夜に、愛する和歌子に会うことは何というすばらしい生甲斐、歓喜であろう。
「和歌子さん!」
「あらっ! 平一郎さん! わたしね、きっといらっしゃると思って待っていたのよ」
「ありがとう――河べりに沿ってS橋の方から行こう」
「ええ」
 二人は橋詰から、枝垂れ柳の生えた川岸を、流れに沿って下りかけた。誰も通るものはなかった。水流が黒藍のうねりを光らせつつ十五の平一郎と十六の和歌子の歩みを流れて行った。平一郎は片方の手をズボンの袋ポケットに突込んで、右手で和歌子の手を握っていた。微かな温かみ、その温かみこそ僅かに秋の夜中の寂寥と冷気とから二人を元気づけていた。
「僕達は運動場で篝火の燃えるのを見て最敬礼をして、それだけだったのです」
「わたし達だってそうでしてよ――でも何んだかこう気味が悪くなって来たのよ」
「僕だってそうさ。葬式なんて考えるだけでも厭だ」
「厭でも死ねば仕方がないのじゃなくって」
「それあ仕方ないさ。仕方ないったって、和歌子さんだって死ぬのは厭だろう」
「厭ですわ! 死ぬなんて!」
 二人は堅く手を握り合って、足下を流れる水流を見つめていた。平一郎は亡き父のことを想い浮かべていた。和歌子は虎に食われて死んだという亡き母のことを考えていた。もく/\と流水は絶えず同じ瀬を作って流れて行った。
「何を考えているのだい」
「わたし? わたし亡くなった母さんのことを考えていましたの」
「僕も亡くなった父さんのこと考えかけたところだ」
 二人はまた黙っていた。今度は和歌子が話し出した。
「平一郎さん」
「何?」
「めおとってどんなことか平一郎さん知っていて?」
「知っているさ」
「どんなことなの?」
 平一郎は大きく言った。
「僕達はいまにきっとめおとになるんだよ! ね! 和歌子さん!」
「――」
「いまに僕は偉くなるんだからね。僕は貧乏さ。それでも僕は勉強していまに第一流の政治家になってこの世の生活をもっといいものにして見せるからね。僕は和歌子さんとめおとになっても恥かしくないようにきっとなるからね――」
「ほんとう?」
「僕がうそを言うものか。いつだって僕は手紙にそう書いているじゃないかね」
 和歌子は深い溜息を漏らした。少女の熱情で瞳は輝いて来た。そして、平一郎の右手を両手でおさえて、じっと胸に当てて放さなかった。
「吹屋の丘へ行こうか。和歌子さん」
「ええ。ようござんすわ」
 二人は嬉しかった。このまま別れてしまう気がしなかった。昼のうちに寝ているので眠くはなかった。橋を渡って、寂しい暗い街を小走りに、午前二時頃の、黒い幔幕をはった廓の一部を通り抜けて、二人は広漠とした夜の野原に出た。地平の一線をくぎりに野は一面に暗黒色に充たされ、空はやや薄い水色に曇っていた。虫の声が地に湧きたっていた。二人は手を握りあったまま路を歩いた。あまりに広大な夜の自然が恐怖を与えぬでもなかった。吹屋の丘の草原は夜露に湿れて坐りようがなかった。二人は佇んだまま、身に迫る夜気に堪えていた。
「はじめて僕達はここで遇ったのだね。和歌子さん」
「そう――わたしまだ平一郎さんのあの手紙を暗記していましてよ」
「僕だって覚えていらあ」
 そう言って彼はそこに坐りこんだ。和歌子はそこにつくばった。寒さに身を顫わせていた。和歌子は自分の家のことを想い出して少し心配になり出した。
「もう何時かしら」
「何時だっていい。僕は夜通しでもここにいたっていい。僕だっていつまでも中学のがらくたじゃないさ」
 すると和歌子が堪たまらないようにくす/\と笑い出した。ひどく寒かったが平一郎は我慢していた。
「何がおかしい?」
「がらくたっていうのがおかしいじゃないの」
「そうさ、がらくただあね」平一郎も哄笑した。
「東京の有様は随分盛大でしょうね」と和歌子が尋ねるように言った。
「そうだろうさ。何いったって本場だもの……」と言いかけているうちに冬子のことが湧いて来た。「……僕の知っている人がこの間東京へ行ったから、きっと今日は柩も見ているに違いないや」
「知っている人ってどなた?」
「それはね、僕の母さんの友達の冬子という女の人だよ」
「そう」和歌子は黙ってしまった。暫くたって「もう帰りましょうよ」と言い出した。
「どうして?」
「わたし、何んだかつまらなくなったの」そしてつけ加えた。
「家へいけないの、遅くなって」
「じゃ帰ろう」
 二人はとぼ/\暗い野路を街の方へ帰って来た。明るみに出たとき、二人は何もかも忘れて笑い合った。二人が街角へ来たとき、街の方からけたたましい号外の鈴の音が近づいて来た。平一郎は飛びつくようにして一枚を奪った。
「和歌子さん!」
「何んですの」
「乃木将軍が殉死されたのだ!」
「そおお!」二人は号外の活字に鮮明にその事実を読み得た。
「平一郎さん!」接吻を知らない人にはただ溢れる熱情をしっかり双手を握り合うことによってのみ表わし得た。厳粛な死によって神聖にされ、祝福された、二人の恋であった。一つの時代より他の時代へ移りゆく時期に発生しがちな時代の弱点や人心の頽廃を乃木将軍の死は引きしめる力があった。二人の少年と少女にとっては生涯忘られない初恋の背景となった。

 冬子が去ったあと、お光と平一郎の生活に外面上、何の変異も起こらなかった。お光は依然として勤勉な春風楼の裁縫師であり、好よき母であり、穏やかな平和さを絶えず身辺に漲らしている小母さんであった。平一郎が冬子の別れに感じた悲哀もまだ直ちに彼の性格の上に表われるには彼の年が若かった。傷は伸び行く力によって何のあとかたもなく消え失せたように見えた。あるいは彼の性格の奥深くに潜んでいて時機を得て現われるのかも知れない。しかし、彼には学校があり、和歌子があり、また深井があった。秋の小学校の懇親会で和歌子が百人近い少女達の中から送る平一郎への微笑を見出したときの誇らしい歓喜。何も知らぬ級友クラスメートが和歌子を指さして「美しいビュウティフル!」などと囁いているのを聞くおかしさと歓喜と大得意! そうして、そこには常に深井の優しい睫毛の長い涙に濡れたような瞳がいつも輝いていた。少女を愛する心、少年を愛する心、また愛され信頼されることによって奮い立ち、一切の責任を自負しなければ止まない心――それは彼の傲りであろう。彼はよく和歌子と深井と三人づれで、市街の東端のN山へ出かけた。松林の深い茂りと静寂と透明な冷やかさを呼吸しつつ、三人は小高い丘の草原に腰かけて永遠の無垢な歓喜に浸ひたっていた。
「いつまでも僕達は子供ではない、僕達はいまにきっと偉くならないではおかない。僕は貧乏だが真の政治家になって……」とは平一郎の口癖であった。貧乏ということと政治家ということがどういう径路で結合しているかは彼自身にも分るまい。また彼の「政治家」と「現実世俗の政治家」とは意味がまるで違っていることもたしかであろう。彼には「貧乏」に苦しめられることが、現実的に政治家となって多くの人間の「貧」の苦痛と害悪を除かずにはおかないという内面的論理を踏むのであった。常に平一郎の熱した理想や空想の聴衆である和歌子や深井には、平一郎が第一流の政治家になることほど容易で実現され得る事実はないと信じられた。
「政治について僕は少年だから何も知らない。しかしそんなことは大きくなって勉強すれば分ることだ。とにかく僕は貧乏だ。僕が貧乏である以上、僕は政治家になる使命がある!」と叫ぶ平一郎に、一人は可愛さを一人は信頼と崇拝を無性に感じていた。たとえ貧乏であろうとも、献身的な母を家に、また、美しい勝れた少女と少年を自らの愛するものとして生活する少年平一郎は幸福である。幸福のうちに十五をおくり、十六の三月、彼は四年に進級した。彼は首席ではないが、悪い成績ではなかった。
 十六の春である。人間に恵まれた力の一斉に成長し奔騰する目覚ましい時期である。平一郎は自分ながら伸びた背丈や、張りきった肉付や、はっと気づくと恐ろしく大きな喨々りょうりょうたる声音で話している自分の声や、高潮する熱情に驚いた。最も有望な、最も危険な時期が自分に来ていることは彼にも分った。しかし自分で制する智慮はまだなかった。講演会には必ず平一郎の名が現われ、野球の試合にも必ず彼はユニホームを来た姿を運動場の一隅にあらわした。じっとしておれない気がした。あらゆる危険に飛び込んで抜手をきって切り抜けて見せたい。そして彼のこの成長は深井にはやや怕こわい気がしたが、和歌子には半年前までの無性に可愛いという感情よりも、彼のうちにある圧迫を強いる「男性」を見出さしめるようになった。十七の彼女はその短い袴や、装飾をしない豊かな束髪や、質素な銘仙の袖のない着物の下に、すでに成熟した一人の「処女」を秘めていたからである。そしてこの彼の成長は上級生や同級生には「大河は生意気だ」という反感になり、教師の間では「有望な生徒」という観念が、ようやく敵意のある「しょうのない奴だ」という風になって来た。「有望」という事にある限界線を置いている彼等が、時折その線を突破する平一郎を漸々だんだんによく思わなくなったのも無理はない。勝れたる者は苦しめられなくてはならない現世である。勝れた天稟てんぴんを守るために富貴によって傅かしずかれている者はまだ幸福である。優秀な天稟を「貧乏」のうちに露出して生くる者こそこの世の最も不幸なる者というべきであろう。彼は生まれながらにして刃と戦いを知らねばならない。彼の天稟は自然が「戦え!」との使命である。彼は世と戦うために生まれる。苦しくとも仕方がない。彼は勝たねばならない。彼は生涯の不幸を、最後の短い勝利の凱歌によってのみ償つぐなうべき運命を持っている。不幸なる者よ。それが少年の間はまだよい。彼は帝王として、少年の国の支配者であり、それを許し得られよう。しかし、彼に青年期が目覚めかける頃から、彼はようやく彼の性格であり運命である苦痛と戦いを知らなくてはならない。不幸な者よ、平一郎も選ばれたるその一人であったのであった。
 六月の雨のじと/\降るある日、彼は控室の一隅でいつもの様に深井としめやかに語りあっていた。彼があのように各方面に手を伸ばしていながら、さて、語りあう友人は、深井一人より外になかった。話し込んでいると、反対の一隅にわあっという笑声が起こった。それは一本の傘の展ひろげたのを車のように廻して皆が哄笑あざわらったのだ。「誰のだ、誰のだ」と言うのもあれば、「春風楼、冬子! わはっはっはっ」と怒鳴る奴もいる。平一郎は群に近寄って見た。それは自分が今朝さして来た傘であった。なるほど傘には「春風楼、冬子」と書かれてあった。哄笑している一群に対して憤怒を感じた。
「何が可笑おかしいのだ!」と彼は怒鳴った。一同が粛然と静まった。すると誰かが、「芸者の傘をさしている奴は誰だ!」と言った。
「己だ! 己がさして来たのだ! 文句のある奴はここへ出て、直接じかに言え!」
 すると背後でわあっと喊声かんせいをあげた。平一郎はどこまで卑屈な奴だろうと思った。彼は堪たまらなくなって、展げられた傘をすぼめつつ、
「この傘は姉さんの傘だ! 己は貧乏で、姉さんのお古を使っているのだ! 分ったかい――君達は己を笑うことはよくないことだぞ!」
 そして彼はまだ何か言う奴があったら擲りつけてやろうと傘を逆手にもって睨みつけた。彼の恐ろしい有様にもう誰も言わなかったが、体操の教師が「大河、ちょっと来い」と彼を銃器室へ通ずる薄暗い廊下へ連れて行った。彼は窓から見える庭の植物園の白萩の花などを見ながら黙していた。分らないことを言ったら体操教師を擲りつけて、いっそ学校中の奴を死物狂いで擲りつける覚悟をしていた。
「一体どうしたのだ」
「僕の傘に書いてある文字をみんな笑うんです」
 背の低い髭を生やした教師は傘を拡げて見て、卑しい笑を浮かべて、すぐに厳粛らしい「教育家面」になった。
「こんなものは以後学校へさしてくることはならん」
「これより外に傘はありませんのです」
「なかったら一本買うがいい」
「都合がわるくて、今暫く買えないのです!」
「馬鹿いえ!」実際教師はそれをただ単なる平一郎の強情と思ったのである。また平一郎が与える旺盛な少年の精気は、傘一本買えない家庭の貧しさを連想させないものがあったことも確かである。
「それに――この傘は僕には大切な品です」
「何だ?」
 平一郎は言葉がなかった。言うことはあったが言葉がなかった。
「とにかくこの傘は、先生が預って置く」
 教師は傘をとりあげて去った。その傘はそれ限り平一郎の手に返らなかった。教師がその傘をどう処理したかは分らない。得意になってさして歩いたかも知れない。
 五年の野球の主将に眼鏡をかけた悪ずれのした原田という男がいた。その男が幾度も深井に手紙を送って「交誼こうぎ」を結ぼうと努めた。深井は平一郎にも言わず返事も出さなかった。手紙は露骨に脅迫的になって来た。深井は平一郎に打ち明けた。平一郎は原田に手紙を送った。運動場を過ぎて理科実験室の横手の古い池のある青桐の木の下であった。彼は「君は僕と深井との間柄を知っているか」と言った。原田はこの三つも年下の平一郎を見下すように「知らない」と言った。
「嘘つけ、君の手紙には大河君に言ってくれると承知しないなどと書いてあったじゃないか」
「何の手紙のことか己は知らない」
「嘘つけ! そんな気象で君達、稚児さんを捜したって碌な奴が従うものか」
「大きにお世話だ――一体今、何の用で己を呼んだのだ」
「深井のことについてさ。深井と己は兄弟の約束をしているのだ、よく言って置くからね。だから君がそれを知っている深井にあんな手紙をやるなら己も仕方があるし、知らないでやっているなら止めてくれたまえな」
「――己は知らなかったさ。しかし、よくないぞ」
「何がよくないというのだ。兄弟の契といっても君達のような契とは違うんだ。君達は卑しいことよりほか分るまいが」
「覚えていろ!」
「覚えているとも!」
 そして、次の朝、平一郎が運動場のクローバの茂った片隅に深井と話しあっているところへ五年の一群が押しよせて来て擲りかかった。「何を」平一郎は力一杯、手と両足で荒れ廻った。そのうちに三年四年の連中が救援に来たので、五年の群は引き上げて行った。
 またそれは二学期の初秋の晴れた日の朝であった。開け放した教室の窓からは澄清な空と桜の実の赤いのや紫がかったのが見えていた。倫理の時間であった。古い帝大出の文学士である校長は倫理の時間を受け持っていた。彼は、自由な自分の思想を生活の方便のためにそっと世俗的な衣で蔽って来たという風のある男である。
「諸子は将来何になろうと思っていますか」
 校長はこう問を提出して微笑して四十人許りの生徒を見下していた。温良な自分の持っているものを出すまい出すまいとして暮して来た彼は、この四十人近い頬の紅い芽生えを見渡すことにある限りない哀愁と悦びを感じていた。首席の越村という頭の図抜けて大きい、一年から首席を続けている少年は、早熟ませた口調で極めて明瞭に、自分の志望は未だ確定はしないが、法科へはいって将来国家の経綸を行なうべき政治家になりたいと言った。二番の竹中という眼の片方潰れた、ほんの初々しい少年は、これから実業を盛大にしなくてはならないから実業家になりたいと言った。三番の綿谷という少年も実業家になると言った。四番の津沢という眼の小さい口の大きい貧血性の少年は、自分は電気学を修めたいと思っていると言った。平一郎は五番目の机にいた。
「大河さんはどう思います」
 平一郎は直立しなければならなかった。彼が努力して発し得た第一の答は、
「僕は貧乏です」という言葉であった。皆がどっと笑った。彼は右手をぐいと一ふり振って無茶苦茶に続けた。
「僕は貧乏ですから政治家になります。第一流の政治家になります。僕は越村君のように国家的経綸ということよりももっと重大なことをやります。それは貧乏です。貧乏を退治ることです。貧乏をこの世より絶滅することです。僕は多くの人間が貧乏なために苦しんでいることを知っています。僕は新聞を見るたびに何故現今の政治家はこのことをどうかしないのかと思います。世界中の人間がみんな一人残らず幸福で生まれたことを喜べばそれで政治はいいのだと思います。日本にも沢山政治家がいますけれど、本当に人間全体の苦しみを知っていて、その苦しみをなくしようとしている人はありそうにも思われません。僕の親友の深井は――」
 みんなには「深井は」だけが分ったのでみんなはどっと笑った。もう彼にはみなの哄笑は何でもなかった。
「僕の親友の深井は将来芸術家になると言っています。僕も随分なりたいけれど、僕は文学者や芸術家や思想家になって後代の影響をまつよりも――僕はせっかちですから政治家になって、真理であると信ずることを直接にこの世に実現したいと思います。この頃新聞を見ますと、内閣総理大臣は……」
「大河さん! 政治問題にふれてはいけません――もういい、もういい」
 平一郎は校長が微笑みつつ制しているのを見た。もっと言いたいことが泉のように込みあげて来たが、彼は椅子に腰を下した。皆が彼を振り返って見た。
「経済学者になったらどうです」校長が穏やかに言った。
「――でも、それじゃ、不安心です」
「――」
 校長は黙した。そして、その日の質問はそれで止めて、「第十八章、節倹の必要」という章を展ひろげさせた。校長の微笑はもう見えなかった。それは霽はれた青空の一片が曇れる雲の間からちらと覗かれたようなものであった。すぐに年来の生活と習慣の雲が蔽い隠してしまった。彼はもの憂そうに一人の生徒に読まして読本の講義のように字句の講義を続けて行った。「節倹の必要」ということに何の情熱も気力も感じられなかった。彼の真の生活は寧むしろこうした教室における動作を辛抱することによって保証される家庭にあった。彼のそのときの心理を記すなら、彼は講義しながら女学校の二年になる長女と小学校六年の次女のことを考えていた。彼には男の子がなかった。どうかして年を老とらないうちに男子を一人儲けねばならないと考えつつ、「人はいかなる時においても質素を旨として、……」と続けるのであった。彼が待ち遠しい時鐘の音に教室のドアを出たとき、あの微笑を洩したとき感じた平一郎に対する静かに有望な未来を仰望しみるような一種の「いい奴」という風な好意は失せて、あとには「危険な奴」という思想が残ったのである。
 次の時間の休みのことである。校長は教員室へ出かけて、今年は運動会の代りに極く内輪の生徒の成績品展覧会を催すことの相談をはじめた。秋の太陽が薄白い光を桜の樹蔭から一団の中学教師の古びた洋服の肩先へ流れ入っていた。校長を中心に四人の教師がいた。背の低い、顔の円い、濃い長い髭を両頬へはね出した男は少しほころびたズボンのポケットに両手を突込み、短い両脚を二等辺三角形に突張って、「体操教師の立場として運動会を催されないのは遺憾だ」と言った。
「しかし何でしょう、運動会は毎年いつでも出来ることではあり、珍しくもないことですから、生徒の成績品を烈べて父兄に観覧させるということはいいことですな」
 頸の長い、たるんだ黄色い皮膚を突っぱった、喉骨の一寸もある、眼鏡をかけた、始終白いハンケチをもっていて、何か言うときにはそのハンケチを相手の眼先でふりまわす癖のある英語の教師が、少し禿げかかった体操の教師の頭を顎の下に見下して、右手でハンケチを振り廻わして言った。
「父兄ばかりでなく生徒にとってもいいでしょうな」
「しかし運動会に越したことはありませんです」
「さあ、それは無論運動会に越したことはないのです。しかし今年はいろ/\経費の都合が許されなくなって来ているという校長さんの、あ――」
 そして英語の教師はハンケチを振り廻わした。彼は自分がハンケチを振り廻わしていることを知らなかった。家に帰ると彼は細君にいつも新しいハンケチを一日で役立たずにするといって叱られた。彼はどうして一日のうちにハンケチが垢づくのか分らなかった。彼は太息をついて細君に更に新しいハンケチを求めねばならなかった。そのたびに彼は月給が五十三円で、子供が六人の八人暮しは決して容易でないということの苦労をきかされるのを常とした。
「Mさん、貴方の方の級クラスで卒業後の志望はどんなものです」
 さっきから校長の傍の椅子に腰かけて新刊の雑誌を読んでいた教頭が、あーあと腕を伸ばすと同時に英語の教師に話しかけた。彼のこの問は英語教師の今迄の意見をあと方もなく忘却せしめた。彼の頭脳は一斉に自分の受持である五年の乙組の四十人近い生徒を映像した。
「何です、昨年に比して非常に実業志望と工科志望が増えましたです。そうです、もう商工業方面志望で七割をとっている状態です」
「はあ、そうですかなあ」
 教頭は大きな欠伸あくびをした。そこへ国語の教師のKがはいって来た。彼は四十を二つ三つ越した年配であった。彼はこの土地の生まれであった。青年時代を彼は京都の同志社ですごした。彼の若い望みは一廉ひとかどの小説家になりたかった。しかし、彼は彼の青春が去ろうとするとき自分の才能が自分で認め信じた程に恵まれていないことを発見しなければならなかった。彼はその頃の日本の文学青年の間に渇仰されていたR・Kの創作『五重塔』を読んだときにはどれ程苦しい涙を味わったことだろう。彼のやりどころのない苦悩は彼を遊蕩へ追いやった。遊蕩は彼の資産を奪ってしまった。故郷へ、彼は敗残者の一人として故郷へ帰って来たとき、とにかく卒業しておいた学校の資格が彼をこの中学校で衣食することを許した。それにしても、むかし、自分の競争者であった文学者の文章が古典として教科書に載せられてあるのを生徒に講義するときには、さすがに枯渇した青年時代の熱情が甦ってくるような気がせぬでもなかった。
「R・Kがまだ二十一、二の青年の頃、はじめて名をなした時分に、東京である文学者の会合がありました。その折Mという人が口をきわめて彼のある作品をほめそやして、さて自分の隣にいる薄汚ない単衣を着た若者に君はどう思うと言いました。するとその若者が顔を赤めてと言ったそうです」
 こうしたことを何も分らない生徒に話したこともあった。Bという自殺した美貌の文学者に似ているといわれた彼は、中年になっても深い二重瞼の眼や品のいい鼻などにその面影を残していた。――彼は苦々しく唇を曲げて自分の机に向おうとした。校長がその瞬間にっこり微笑んだ。彼は英語の教師の振り廻わすハンケチがおかしくて笑ったのであるが、微笑を紛らすために超意識的に「Kさん」と国語の教師を呼んでしまった。国語の教師は眉を顰めて大きい二重瞼で校長を見上げた。
「あなたの受持でしたな、大河平一郎というのは」
「は、そうですが、――」
 彼は平一郎を想い浮かべた。すると、彼は平一郎を愛していることに気づいた。無論外に表わしはしなかったが、「国語の教師」Kの皮膚の下に未だ息づいている「文学失敗者」Kは平一郎のうちに胸を轟かすような芽生えを見つめていた。殊に平一郎があの美しい少年の深井を愛している浄きよい少年らしい情操を発見して、「文学者K」はひそかに微笑せずにはいられなかったのである。彼は校長が特に平一郎を指して言い出したので少し驚いた。しかし校長の淋しい微笑が彼をも微笑ました。
「面白い気象の生徒ですな。貧乏ですから政治家になりますって言い出して、今度のコンミッション事件の攻撃をやりはじめましてな」
「そうですか。平常はおとなしい生徒ですが、ときおりこう燃えたって来るようなところがあります。非常に――」彼は少したじろいだが生まれた言葉は止める訳にはゆかない。「天才的な素質のある生徒です」
「誰です」と体操の教師が口を入れた。
「四年の大河のことです」
「あ、大河ですか。いや面白い生徒です」
 そのとき時限を報ずる鐘の音が響きわたった。校長は立ち上がった。校長の偶然な一言は平一郎の「逸話」を全部の教師達に知られてしまった。彼等の平一郎に対する理解は機嫌のいい時は「面白い」という程度の好感に止まっていても、何か平一郎に悪意をもつ場合には全然善良なる中学生としての彼の価値を否定する性質のものであった。十六の平一郎は自分の身辺に及ぼしている自分の力の反響にはまるで無知だった。奔騰する盲目の力は平一郎の内から絶えず表現の道を求めていた。
 秋も深くなって来ていた。太陽の照り輝く日中でも音もなく吹く秋風は膚身にこたえて寒かった。夕暮、野に立ってひるごる曠野を望み見るとき、一面に黄色かった野面の稲はあとかたもなく刈り取られて、黒い土肌が陰鬱な日蔭に湿っているのみであった。加賀平野の押し迫った白山山脈の山裾の低いなだらかな山並が紫水晶のように透明な色調を、淡い甘美な夢のような美しい空の色に映していることもあった。あの恐ろしい自然の威力に猛る北国の冬の前の寂しい静かな秋風の吹く秋を人々は頼りない心で迎え送っていた十月、十月の第二土曜日には平一郎の学校の成績展覧会が極めて内輪に催される日であった。こうした催しが実際生徒自身にどれだけの価値を有するかは分らなかったが、こうした催しが沈澱し停滞し萎縮する教師達の間に一脈の生気を通わして、いつとなく一人一人が小さい殻に閉じ籠ろうとする生活の硬化を揺るがし湧立たせるだけでも必要と言わねばならなかった。殊にこの年のように人の気の陰鬱な、寂しいこの秋にはよい企てであった。平一郎にはこの催しは何の交渉もなかった。展覧会といえばいつも図画とか習字とか英習字とか手先の学科に定っている教育制度では平一郎は何の優れた素質もない少年となるのである。彼は手先の学科はすべて普通以下の点数しかとれなかった。彼はつとめて平静であろうとし、そうした学科を軽蔑していたけれど、寂しい気がした。これが何か運動であるか講演会であるかすれば、彼はどんなに喜んだろう。彼はこの催しをお光にまるで重要でないこととして話した。そうして彼は秋の土曜の一日をつまらなく学校で空費する苦痛に耐えられない気がした。彼は和歌子に会ってやろうと思った。少年の冒険心は和歌子をこの展覧会へ招待して、満足しようとした。彼は和歌子に自分達の成績展覧会がこの土曜日にあるから是非放課後来てくれと書いた。もし教師が咎めたら僕の従姉で、母の代りに来たのだと言いたまえ。但し僕は下手な習字を一枚出したきり何も出さなかったからそのつもりで、と書き送った。きっと行きますわ、と和歌子は答えて来た。愛人を待つものの純潔な昂奮が、面白くない土曜日を生涯の悦ばしい輝ける日とするのである。その日、平一郎は幾度二階の教室の窓から、正門から桜の並木の下を通る控室への小径を見下したことであろう。朝のうちは来ないと知りながら足音がすると彼はのぞかずにいられなかった。昼食をすまして級の者と交替してから彼は教室や校舎の中にいる気がしなかった。彼は深井を誘って校舎の横手の小高い丘の上に登った。丘の上からは校門から小径があきらかに見える。二人は草原にねそべって話しながら未だか未だかと待っていた。深井はこの頃しきりに話す少年らしくもない西洋の作家の話や、今の日本の新進の文学者の話などをしきりに平一郎に話した。平一郎はまだ文学――小説などいうものに根柢的な意志を動かしたことはなかった。もしそれが深井の口から話されなかったなら、「うるさいな、女のくさったような女々しい泣言は僕は大嫌いだ」と言いすてたかもしれない。しかし愛する少年の花弁のように美しい唇からもれる話に彼は耳を傾けた。
「ロシヤのね、マキシム・ゴルキイという人はね、もと貧乏な労働者の息子で、ヴォルガ河を上下する船の水夫なんかしていたのです。それが青年時代になっていろ/\な作品を書いて今では世界的な文豪になっているのです――これは少し見当違いのようだけれど、僕は大河君、君がゴルキイに似ているような気がしてならないのですよ」
「――マキシム・ゴルキイというんだね。今でも生きている人かい」
「ええ、生きていますとも。何でもロシヤの社会党の首領ですって」
「ほう――」平一郎はゴルキイがどんな人物であるか、どれ程に偉いかを了解できなかったが、貧乏で、成長して偉くなっているのが彼の気に入った。
「ロシヤにはそんな偉い人が多いのかね」
「それあ多いのです――クロポートキンという人や、トルストイやドストエフスキイや――」
「日本では誰が豪いのかな」平一郎はごろり横になって肘枕をして心の中で「誰がいるものか」と思いながら尋ねた。
「×××××――」平一郎はそんな人の名を聞いたことがなかった。彼は疑い深く深井をみつめた。深井のやや上気した紅顔は真面目で純潔な光に輝いていた。
「君は読んだことがあるのか」
「ええ」
「うう――君は近頃どうしてそんな作品を読み耽るようになったのだ」平一郎はこうたずねた。深井は耳の根元まで真紅に染めて羞恥のためか顔面を俯ふせてしまった。動機に平一郎自身深い因縁と責任のあることは平一郎も思い及ばなかった。彼は追及することを止めて、感触の軽くて快い乾草の上に起き直ってふと校門の方を見た。薄桃色の華やかなパラソルが彼の目に見えた。
「和歌子さんだ!」
 平一郎はもしや和歌子が丘上の自分達を気づかないで行きすぎやしまいかが心配だった。彼の後ろで深井が同じ熱心さで瞳を燃やしつつじっと和歌子の姿に見とれていた。和歌子はすぐに丘の上の二人を見つけた。彼女は笑った。薄く化粧してお太鼓に帯を結んだ和歌子は実際平一郎達の姉としか見られなかった。
「下りていらっしゃいな」
「ここへ上っておいでよ」
「いけません。学校じゃないの。下りていらっしゃいな。先生に見つかったらよくないわ」
「ようし」平一郎は駈け下りた。そして飛びつくように和歌子の双手を握って堅く振った。
「あ、痛い――深井の坊っちゃんが笑っていらしってよ」
「――随分待っていた。ね、深井君」深井はただうなずいた。
「そおお――わたし学校の中へはいるのを止しましてよ」
「どうして? 無論僕達のものは何も出してないのですから――」
「でも、あんまり厚かましくて大胆すぎやしなくて? それにここじゃ、何だか人に見えてよくないわ」
「見えたっていい!」
 平一郎は小倉の薄汚ない、肘のところの破けて白い布のほころびた洋服の腕を二、三度振り廻した。それでも彼は理科実験室の横手の泉水の傍へ行くだけのことはした。秋の陽が緩やかに三人にそそいでいた。植物園の葉鶏頭の燃ゆるような鮮紅色が絶えず三人の目先にちらついていた。
 この日の夕方、体操の教師が校舎の外囲を「巡邏じゅんら」したとき、彼の靴先に白いものがかかった。彼は何気なく取り上げてみた。「吉倉和歌子様」とその状袋の表紙には書かれてあった。裏を見ると「大河平一郎」
「四年の生徒の筈だが――」と彼は辛辣な感興に駆られて中の手紙を展いてみた。下手な大きな文字で彼にとっては許すべからざる文字が書かれてあった。平一郎は何も知らなかった。恐ろしい底の知れぬ運命の深淵が大きな口をあけて彼の陥るのを待っていた。

 日曜日の次の日の朝は学校における唯一の新しい朝である。日曜日に緩やかに寛いだ精神が、一週間の学校生活に蓄積した不快や嫌悪の垢を洗われた、悦ばしい顔色となって、この朝の教員室を生き生きさせる。月曜の朝だけは人々は互いにお互いを懐かしく想うのである。十月中旬のこの月曜日の朝、背の低い髭の長い体操の教師は威勢よく誰よりも先に登校した。火鉢に炭火を分け入れていた小使の爺おやじが驚いたほどに、てか/\靴墨で黒光する長靴を短い脚に穿はいて、彼は廊下を足音高く歩いた。そして朝の早い校長の出仕しゅっしを待つのであった。校長は、二人の可愛い娘が袴をひきずりながら先に出る彼を玄関口まで送って出て、「行っていらっしゃいまし」と言った言葉の懐かしさを繰返して学校の門をくぐって玄関へ上りかけると、あまり好きでない体操の教師が、「お早うございます」とやって来た。彼は「お早う」と言った。そしてそのまま行き過ぎようとした。
「少し特別の御相談がありますが」
「あ、そうですか。それじゃわたしの部屋へどうぞ」
 校長は自分の室へはいって、窓のカーテンを引きしぼった。桜の樹や幹が朝日に美しく輝いている。彼は、椅子に腰かけて毎朝静かに莨たばこをふかして独りを楽しむ時間を、彼の前に立っている男に闖入されたことが不快でならなかった。
「こういう手紙を発見しましたが、どう処置したものでございましょう。実に由々しい問題だと思います」
 こう言って教師は手垢で汚れた大きい西洋封筒を校長の卓上に載せた。校長は嫌でしかたなかった。それでも機械的にその封筒を取りあげて見た。「吉倉和歌子様 大河平一郎」校長は黙って読み下した。

 ――僕は運動会のないのが残念です、しかしその代り僕達の成績展覧会が開かれるのです。つまらない手先の器用な奴等が大きな顔をして威張っています。僕は何も出しませんでした。少し淋しい気がします。しかし僕はその日あなたに来て貰おうと思います。ここに僕の家族へあてた招待状があります、これを持って放課後来て下さい。僕は校門から小径の反対の方の丘の上できっと待っています。僕は本当にこの考えを思い付いてから狂いそうに嬉しくてならないのです。昨日の朝はK街の十字街で会いましたね。何故すまして行ったのです。この次はきっと笑って行かないと僕は怒ります――

 校長は微笑みかけようとしたが、彼の前に体操の教師が意地悪そうに覗き込んでいるので仕方なしに厳粛な顔付をした。
「怪しからんことです、一昨日、終会後校舎の周囲に異状がないかと思って巡回して見ましたら落ちていたのです。封を切ってあるところを見ると確かにその吉倉という女が落として行ったに相違ないものです」
 校長は平一郎の記憶を寄せ集めて考えていた。「僕は貧乏です」といった平一郎がそこにいた。と校長は思った。校長は呼鈴をならした。小使に呼ばれて四年の受持の国語の教師はドアを押してはいって来た。
「大河平一郎はあなたの級の生徒ですな」
「ええ、そうです」
「ちょっとこれを見てくれたまえ」
 国語の教師はその手紙を読んだ。彼は体操の教師をちらと見て、校長と瞳をかわした。と二人は話し合った。
「どうも驚きましたな」と国語の教師は言ったが、心の中では別にそう驚いてもいなかった。
「こういうことは本人を呼びよせて十分に事実を確かめて、事実であるなら将来を戒めるために厳しく懲戒処分にするがよいと思いますが――」
 二人は黙していた。体操の教師は二人の沈黙からある種の反感を獲取して、もう平一郎一人でなく彼等二人に対して不快な反抗で燃えて来た。
「学校内へ自分の情婦を入れるということは許すべからざる行為です。もう、停学処分をして将来を戒めなくてはよくないと思います」
「まあ、本人に事実を聞きたださなくては――果してこの和歌子というのがそういう関係のものかどうかも分らないしするし――」
 校長は小使に平一郎を呼ばさした。三人の沈黙へ、靴音高く平一郎がはいって来た。彼は直立不動の姿勢で、駈けて来たらしくぜい/\胸で息をした。国語の教師はどうかして、ここでこのまま内分に済ましたいと思って、わざと恐ろしい顔をして、
「大河」と言った。
「はい」
「お前、この手紙に覚えがあるか」
「はい――これは僕が和歌子さんにあげた手紙ですが、どうして――」
 彼は自分の魂をのぞかれた羞恥で赤くなった。同時に意地の悪い体操の教師が、今、弱者としての自分を虐しいたげようと眼を光らしているのを認識した。彼は自分に道徳上恥ずべきことは一つもない、今恥じる位なら初めから彼女に手紙は送らないのだ、と繰り返した。
「和歌子さんというのはお前の親類の人かい」国語の先生が言った。平一郎はそこに設けられた慈愛の遁路にげみちを感づいたけれど、超意思的に「いいえ」と答えてしまった。
「それじゃ、どうして知っているのだ」
「――僕の、僕の友人です」彼の声は顫えた。
「友人とは言われまい。え、親類でもないまだ若い娘にこういう手紙を書いて、よくない」
「――」
「吉倉和歌子というのはどういう人だ」
「高等女学校の四年生です」
「何のために手紙をやったのだ」
「会いたかったのです」
「会いたかったとは何だ!」と体操の教師が平一郎の頬を一つ擲りつけた。平一郎は充溢する血を総身に感じて、擲られた頬を抑えた。
「貴様、中学の生徒じゃないか。それに女学校の生徒に艶書を送って、しかも学校内へ呼びよせて、あいびきするとは何ということだ! ――会いたかったとはなんだ!」
 校長も国語の教師もこうなっては口出しが出来ないことになった。
「貴様、政治家になるとか現代の政治家は堕落しているとか小生意気な口を言いながらこのざまはなんということだ! この次の朝笑わなかったら怒りますとは何んだ! 貴様は堕落生だと思わないか!」
「僕は堕落生ではありません!」
「何だ※(疑問符感嘆符、1-8-77)」
「僕が和歌子さんに手紙をやったのが何故いけないのです。僕達は二人で慰め合い、励ましあって勉強しているのです。どんな悪いことを僕はしたというのです。誰かに僕は罪悪を行なったでしょうか――僕と和歌子さんは小学校の時分から一緒の学校にいたものです――」
「馬鹿! 貴様はここを何と心得ている? ううん、さ、ここを何と心得ている」
 体操の教師は平一郎を壁際へ押しつけようとした。平一郎の憤怒が一斉に火を噴いた。
「何をなさるのです! どんな悪いことを僕達は犯したでしょう。僕達は手紙をやりとりすることによってどれほど悦ばしい一日一日を送っているでしょう。僕は一生懸命に勉強して偉くなろうと和歌子さん故にこそ思います。お互いに励まし合って勉強するのがどう悪いのです!」
「それが悪いのだ! 貴様もう帰れ! 教師に返答する奴があるか。帰れ!」
「帰ります!」平一郎は熱い涙を辛抱できなかった。
「こういう奴です。停学の三週間にも処分しなくってはとてもいけません」
 溢れ出る涙を腕で抑えている平一郎と、忌々しそうに眺めている体操の教師と、沈黙している校長と国語の教師とに朝の秋光が薄らに射していた。
「お前はもう帰れ」国語の教師が厳しく言った。
「帰って十分静かに考えてみるがいい」と校長が言った。
 平一郎は涙を拭って校長室を出た。
 校門を出るとき平一郎の背後で始業の鐘の音が冷徹な朝に響きわたって聞えた。灼熱し緊縮した頭脳の惑乱へその鐘の音は、ひとりで考えろ、深く、心の根元がどっしり落着くまで考えろ、といい聞かしてくれた。彼は街をどういう風に歩いたか意識しなかった。秋の朝の空気は冷やかで、彼の頬にひた/\押しよせては流れて行った。十六のこの秋まで根本から自分の生活を反省することのなかった自分である。彼は幼い頃に父を亡い、母のお光一人に育てられ、自分の世界を意識するようになった頃は、彼は「貧しい母子」の自分を認識した。泉のように耐えない母の愛感は彼を「貧」のためにひがます代りに発奮のよい刺戟に変じさせていた。まことに貧しくても幸福だ。伸びゆく生命の過程を全心肉に生活していた彼である。彼はもはや幼年とは言われないであろう。山林の槲かしわの木はたとえその木の年寿が若くともそこらに生い茂る雑草や灌木よりは偉大であるように、十六の平一郎は無意識に内より湧く生命のままに生きて来たが、はやくも若木は社会の制約に障えられねばならない。それが槲の木の運命である。彼は夢からさめたような、未知の原野に立って広大な野面を望んだような雄大な向上感と発見感とを一身に体感していた。
「どう悪いのか。悪いことを自分は犯した覚えはない。己は学校においてそんなによくない生徒であろうか。己はそんなに勉強家と言われないかも知れないが、決して怠け者でない。己は先生方が軽率であったり下劣であったりする時にこそ内心軽蔑はしたものの、衷心自分達の師としての敬礼は失わなかった。己は和歌子を愛した。そうだ愛したのだ――恋したのだといっていい! しかし恋したことがどうして悪いのであろう。恋したことを打ち明ける、それは悪いことであろうか。己のあの手紙を体操の教師は艶書だと言って罵った。己は艶書だという教師の意味でならそうでないと言おう。しかし恋を打ち明ける手紙を指すなら厭な言葉だが己は神聖な艶書だと言おう。己は未だかつて和歌子の美と崇厳を愛し尊敬こそすれ、未だ彼女をけがそうなどと思ったことはない。己は常にあの和歌子の美しさにふさわしいように自分自身を偉大な人間としなくてはならないと励んでいる。己は深井をも愛している。自分は深井を愛さずにはいれないから愛した。この必然がどう悪いのか。深井も己を愛しているではないか。和歌子も己を愛しているではないか。そうして三人がこれまで実に楽しく生き甲斐を感じつつ勉強して来たではないか。何処に悪いことがあるのだ」
 市街を離れたS河の上流であった。地が高くなるにつれて狭せばまった両岸の平野はそこではもうほとんどなかった。静かな澄んだ藍色の大空の下に、河流は深い淵をつくって緩かに流れていた。水面に絶壁から這いさがる藤蔓が垂れて流水はそこに渦を巻いていた。枯草の生い茂った河原洲、土堤どての彼方に国境の遠山が水晶のように光って見える。平一郎は河原の草の中に寝転がった。
「それがよくないというなら何故己に静かによくない訳を教えないのか。何故直ちに己と彼女との間をおかしな関係に考えてしまうのか。汝が卑劣だからではないか! 恥じるがいい!」
 このときほど自分がお光一人の手に養われ、貧しい中から中学へ通っていることや、深井のことや和歌子のことがはっきり身に沁しみて感じられたことはない。十六年の生涯における「自然の決算」であった。幼年から少年を経て青年へ移り行こうとする成長の一段階であった。
「面白くもない」彼には校長や受持の教師が映像された。彼は二人がひそかにもった好意を直感した。体操の教師の自分への態度も純粋に手紙を悪いと断定したことばかりでなしに、手紙は単に一種の手段に使われていることも分った。学校という一つの古臭いいじけた陰険な小さい争闘や啀いがみ合いの絶えない木造の大きな箱。その箱の中へ毎日自分達は通わなくてはならないのだ。随分やりきれない。ぐず/\してはいられない。箱の主人が校長で、教員がその中でうごめきながら己をだしに争っているのだ――「嫌なことだ!」「しかし――」と彼はあるすばらしい光明が内より射して輝くのに会った。それは「自然の恵める知恵光」であった。
「しかし、これは学校ばかりではない。この人生、この地球がまた大きい一つの古臭いいじけた陰険な、啀み合いの絶えない球塊であるのではないか? 自分もまた無数の生まれては死に生まれては死んだ人間のように自分の一生をこうした啀み合いをして終らなくてはならないのだろうか。そうだとは信じられない。どうしたって信じられない。せめては自分一人でもがこの人生を生き生きした美しい悦びに充ちた人生であるようにしようとの意思を抱いてはならないのであろうか? それは出来ないことかも知れない。しかし出来ないことだとは言えまい。出来ることかも知れないではないか? そうです、出来ることです。きっと自分がやってみせます。死んでもやってみせます――ああ」と彼は深碧の大空を仰いで、「やらして下さい」と何かに祈るように跪いた。「使命」の感が彼に燃えたのである。

 平一郎は午後四時頃平気な様子で家へ帰った。母へ自分から停学のことを知らす気になれなかった。知れるなら仕方がない、知れなければどうかして知らしたくないと考えた。どうしてよいか分らなかった。しかし、どうにかしなくてはならないものが彼の根元に蠢うごめき始めていた。彼はぐっすり夕暮まで寝た。
「平一郎、平一郎、どなたか戸外そとで呼びに来ていらっしゃるそうですよ」
 彼は起きた。米子が笑いながらお光と彼の顔を見比べていた。
「誰?」
「吉倉という方」米子は知っていますよという風に微笑んだ。
「本当に?」
「ええ。戸外に待っていらしってよ」
「ちょっと行って来ます」平一郎は室を出た。長い土蔵の横の廊下を通るとき米子が「美しいお嬢さまね」と言った。戸外は薄暗くてうそ寒い晩景に軒並の電燈が輝いていた。
「平一郎さん」その声は涙を含んでいた。彼は縋すがりつくように近寄って立つ和歌子を黙って見た。長い間、二人は瞳を合わして放さなかった。万感が二人の胸に交流した。もう一切が二人には分った。薄暗い夕闇に白く浮かんだ和歌子の顔が微かに慄えていた。
「わたし、すまないことをしました」
「――」
「今日、わたしも学校で叱られて、そのうえ家うちの母さんを呼び出してすっかり話しされてしまいました」

「母さんにあなたのことを訊かれたとき、わたしどんなに辛かったでしょう」
「僕、あなたのお母さんに会いましょう」
「いけません! 今だってわたし逃げるようにしてそっと来たのですから」
「僕は今日、体操の教師に擲られて、その上停学に処分されたっけ」
「――あなたの母さんに御心配かけてすまないわ」
「まだ話してないさ。どうかして話さずにすましたいけれど、きっと明日あたり呼びよせるかも知れないね」
 彼は母の心を想像すると暗い鬱屈を感じた。もう街は暗かった。秋の夜が犇々ひしひしと二人の身に迫っていた。二人はこの寂しいうちにお互いの触れ合い結び合う生命を感じ合った。ああ、荒れすさぶ嵐よ、吹け! 猛り狂う運命の晦冥を自分達の新しい生命は照輝するであろう。
「怕こわがっちゃだめですよ。僕だってじきに大きくなります。僕達は今こそまるで無力でも、いつまでも無力であるものですか。僕はたとえどんなことがあっても、僕はあなたなしに生きておれません。学校の奴等に僕達の心が分るものですか」
「――平一郎さん、何だかわたしがあなたを誘惑しているような、あなたの母さんにすまないような気がしますのよ」
「馬鹿な! 誘惑なら僕達二人とも誘惑しあったのだ」
「わたし、平一郎さん――」
 ああ、何という奇蹟。昨日まで愛する者の唇を知らなかった二人が、今日、通って来た迫害や苦しみの後に、自然に唇を求めることを知ってしまったとは! 恋愛は実に迫害によって深められる。はじめて知る愛人の唇の柔らかな触感、高く鳴る全身の動悸、火のような情熱。全世界の人間が二人の恋を否定しようとも、遂に恋する平一郎と和歌子であった。
「いつまでも!」
「ほんとにいつまでも!」
 行末を案じつつ独り子を待つ母のもとへかえる平一郎はまだよかった。和歌子は親しみの少ない継母ははと義理の妹達とが、彼女の失敗を牙を磨いて待っている恐ろしい荊棘いばらの床に帰らねばならなかった。和歌子は暗い街の十字街に立ち止まって家へ帰りたくなさに襲われていた。死が彼女の前に極めて間近な事実として現われた。「怕がっちゃだめですよ。僕だってじきに大きくなります――」平一郎の声が凛然と響いた。彼女は一切に堪えてゆく力を自分の中に認めたようにとぼとぼと歩みはじめた。父はまさか自分を不始末な女だとも信じはしまい。
「僕だってじきに大きくなります――」
 和歌子はその一言に渾身の祈念を捧げて、自らの内に苦しみに打ち克つ信念を堅めようとした。秋十月の夜更けであった。

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