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2013年9月 5日 (木)

堀辰雄『菜穂子』十一

 黒川圭介が、事によると自分の妻は重態で死にかけているのかも知れないと云うような漠然とした不安に戦きながら、信州の南に向ったのは、丁度二百廿日前の荒れ模様の日だった。ときどき風が烈しくなって、汽車の窓硝子には大粒の雨が音を立てて当った。そんな烈しい吹き降りの中にも、汽車は国境に近い山地にかかると、何度も切り換えのために後戻りしはじめた。その度毎に、外の景色の殆ど見えないほど雨に曇った窓の内で、旅に慣れない圭介は、何だか自分が全く未知の方向へ連れて行かれるような思いがした。
 汽車が山間らしい外の駅と少しも変らない小さな駅に著いた後、危く発車しようとする間際になって、それが療養所のある駅であるのに気づいて、圭介は慌てて吹き降りの中にびしょ濡れになりながら飛び下りた。
 駅の前には雨に打たれた古ぼけた自動車が一台駐っていたきりだつた。圭介の外にも、若い女の客が一人いたが、同じ療養所へ行くので、二人は一しょに乗って行く事にした。
「急に悪くなられた方があって、いそいで居りますので……」そうその若い女の方で云い訣がましく云った。その若い女は隣県のK市の看護婦で、療養所の患者が喀血などして急に附添が入るようになると電話で呼ばれて来る事を話した。
 圭介は突然胸さわぎがして、「女の患者ですか?」とだしぬけに訊いた。
「いいえ、こんど初めて喀血をなすったお若い男の方のようです。」相手は何んの事もなさそうに返事をした。
 自動車は吹き降りの中を、街道に沿った穢い家々へ水溜りの水を何度もはねかえしながら、小さな村を通り過ぎ、それから或傾斜地に立った療養所の方へ攀じのぼり出した。急にエンジンの音を高めたり、車台を傾がせたりして、圭介をまだ何んとなく不安にさせた儘……

 療養所に著くと、丁度患者達の安静時間中らしく、玄関先には誰の姿も見えないので、圭介は濡れた靴をぬぎ、一人でスリッパアを突っかけて、構わず廊下へ上がり、ここいらだったろうと思った病棟に折れて行ったが、漸っと間違えに気がついて引き返して来た。途中の、或病室の扉が半開きになっていた。通りすがりに、何の気なしに中を覗いて見ると、つい鼻先きの寝台の上に、若い男の、薄い顎髭を生やした、蝋のような顔が仰向いているのがちらりと見えた。向うでも扉の外に立っている圭介の姿に気がつくと、その顔の向きを変えずに、鳥のように大きく見ひらいた眼だけを彼の方へそろそろと向け出した。
 圭介は思わずぎょっとしながら、その扉の傍をいそいで通り過ぎようとすると、同時に内側からも誰かが近づいて来てその扉を締めた。その途端、何やらひょいと会釈されたようなので、気がついて見ると、それはもう白衣に着換えた、駅から一しょに来たさっきの若い女だった。
 圭介は漸っと廊下で一人の看護婦を捉えて訊くと、菜穂子のいる病棟はもう一つ先の病棟だった。教わったとおり、突き当りの階段を上がると、ああ此処だったなと前に妻の入院に附添って来たときの事を何かと思い出し、急に胸をときめかせながら菜穂子のいる三号室に近づいて行った。事によったら、菜穂子もすっかり衰弱して、さっきの若い喀血患者のような無気味なほど大きな眼でこちらを最初誰だか分からないように見るのではないかと考えながら、そんな自身の考えに思わず身慄いをした。
 圭介は先ず心を落ち著けて、ちょっと扉をたたいてから、それを徐かに明けて見ると、病人は寝台の上に向う向きになった儘でいた。病人は誰がはいって来たのだか[#「来たのだか」は底本では「来たのだが」]知りたくもなさそうだった。
「まあ、あなたでしたの?」菜穂子は漸っとふり返ると、少し窶れたせいか、一層大きくなったような眼で彼を見上げた。その眼は一瞬異様に赫いた。
 圭介はそれを見ると、何かほっとし、思わず胸が一ぱいになった。
「一度来ようとは思っていたんだがね。なかなか忙しくて来られなかった。」
 夫がそう云い訣がましい事を云うのを聞くと、菜穂子の眼からは今まであった異様な赫きがすうと消えた。彼女は急に暗く陰った眼を夫から離すと、二重になった硝子窓の方へそれを向けた。風はその外側の硝子へときどき思い出したように大粒の雨をぶつけていた。
 圭介はこんな吹き降りを冒してまで山へ来た自分を妻が別に何んとも思わないらしい事が少し不満だった。が、彼は目の前に彼女を見るまで自分の胸を圧しつぶしていた例の不安を思い出すと、急に気を取り直して云った。
「どうだ。あれからずっと好いんだろう?」圭介はいつも妻に改ってものを云うときの癖で目を外らせながら云った。
「…………」菜穂子も、そんな夫の癖を知りながら、相手が自分を見ていようといまいと構わないように、黙って頷いただけだった。
「何あに、此處にもう暫く落ち著いていれば、お前なんぞはすぐ癒るさ。」圭介はさっき思わず目に入れたあの喀血患者の死にかかった鳥のような無気味な目つきを浮べながら、菜穂子の方へ思い切って探るような目を向けた。
 しかし彼はそのとき菜穂子の何か彼を憐れむような目つきと目を合わせると、思わず顔をそむけ、どうして此の女はいつもこんな目つきでしか俺を見られないんだろうと訝りながら、雨のふきつけている窓の方へ近づいて行った。窓の外には、向う側の病棟も見えない位飛沫を散らしながら、木々が木の葉をざわめかせていた。

 暮方になっても、この荒れ気味の雨は歇まず、そのため圭介もいっこう帰ろうとはしなかった。とうとう日が暮れかかって来た。
「ここの療養所へ泊めて貰えるかしら?」窓ぎわに腕を組んで木々のざわめきを見つめていた圭介が不意に口をきいた。
 彼女は訝かしそうに返事をした。「泊って入らっしゃっていいの? そんなら村へ行けば宿屋だってないことはないわ。しかし、此処じゃ……」
「しかし此処だって泊めて貰えないことはないんだろう。おれは宿屋なんぞより此処の方が余っ程好い。」彼はいまさらのように狭い病室の中を見廻した。
「一晩位なら、此処の床板だって寝られるさ。そう寒いというほどでもないし……」
 菜穂子は「まあ此の人が……」と驚いたようにしげしげと圭介を見つめた。それから云っても云わなくとも好い事を云うように、「変っているわね……」と軽く揶揄した。しかし、そのときの菜穂子の揶揄するような眼ざしには圭介を苛ら苛らさせるようなものは何一つ感ぜられなかった。
 圭介はひとりで女の多い附添人達の食堂へ夕食をしに行き、当直の看護婦に泊る用意もひとりで頼んで来た。

 八時頃、当直の看護婦が圭介のために附添人用の組立式のベッドや毛布などを運んで来て呉れた。看護婦が夜の検温を見て帰った後、圭介は一人で無器用そうにベッドをこしらえ出した。菜穂子は寝台の上から、不意と部屋の隅に圭介の母の少し険を帯びた眼ざしらしいものを感じながら、軽く眉をひそめるようにして圭介のする事を見ていた。
「これでベッドは出来たと……」圭介はそれを試めすように即製のベッドに腰をかけて見ながら、衣嚢に手を突込んで何か探しているような様子をしていたが、やがて巻煙草を一本とり出した。
「廊下なら煙草をのんで来てもいいかな。」
 菜穂子はしかしそれには取り合わないように黙っていた。
 圭介はとりつく島もなさそうに、のそのそと廊下へ出て行ったが、そのうちに彼が煙草をのみながら部屋の外を行ったり来たりしているらしい足音が聞えて来た。菜穂子はその足音と木の葉をざわめかせている雨風の音とに代る代る耳を傾けていた。
 彼が再び部屋に入って来ると、蛾が妻の枕もとを飛び廻り、天井にも大きな狂おしい影を投げていた。
「寝る前にあかりを消してね。」彼女がうるさそうに云った。
 彼は妻の枕もとに近づき、蛾を追い払って、あかりを消す前に、まぶしそうに目をつぶっている彼女の眼のまわりの黒ずんだ暈をいかにも痛々しそうに見やった。

「まだおやすみになれないの?」暗がりの中から菜穂子はとうとう自分の寝台の裾の方でいつまでもズック張のベッドを軋ませている夫の方へ声をかけた。
「うん……」夫はわざとらしく寝惚けたような声をした。「どうも雨の音がひどいなあ。お前もまだ寝られないのか?」
「私は寝られなくったって平気だわ。……いつだつてそうなんですもの……」
「そうなのかい。……でも、こんな晩はこんな所に一人でなんぞ居るのは嫌だろうな。……」圭介はそういいかけて、くるりと彼女の方へ背を向けた。それは次の言葉を思い切って云うためだった。「……お前は家へ帰りたいとは思わないかい?」
 暗がりの中で菜穂子は思わず身を竦めた。「身体がすっかり好くなってからでなければ、そんな事は考えないことにしていてよ。」そう云ったぎり、彼女は寝返りを打って黙り込んでしまった。
 圭介もその先はもう何んにも云わなかった。二人を四方から取り囲んだ闇は、それから暫くの間は、木々をざわめかす雨の音だけに充たされていた。

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