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2013年9月 5日 (木)

堀辰雄『菜穂子』八

 明は相変らず、氷室の傍で、早苗と同じようなあいびきを続けていた。
 しかし明はますます気むずかしくなって、相手には滅多に口さえ利かせないようになった。明自身も殆ど喋舌らなかった。そして二人は唯、肩を並べて、空を通り過ぎる小さな雲だの、雑木林の新しい葉の光る具合だのを互に見合っていた。
 明はときどき娘の方へ目を注いで、いつまでもじっと見つめている事があった。娘がなんと云う事もなしに笑い出すと、彼は怒ったような顔をして横を向いた。彼は娘が笑うことさえ我慢できなくなっていた。ただ娘が無心そうにしている容子だけしか彼には気に入らないと見える。そう云う彼が娘にもだんだん分かって、しまいには明に自分が見られていると気がついても、それには気がつかないようにしていた。明の癖で、彼女の上へ目を注ぎながら、彼女を通してそのもっと向うにあるものを見つめているような眼つきを肩の上に感じながら……
 しかし、そんな明の眼つきがきょうくらい遠くのものを見ている事はなかった。娘は自分の気のせいかとも思った。娘はきょうこそ自分が此の秋にはどうしても嫁いで行かなければならぬ事をそれとなく彼に打ち明けようと思っていた。それを打ち明けて見て、さて相手にどうせよと云うのではない、唯、彼にそんな話を聴いて貰って、思いきり泣いて見たかった。自分の娘としての全てに、そうやってしみじみと別れを告げたかった。何故なら明とこうして逢っている間くらい、自分が娘らしい娘に思われる事はなかったのだ。いくら自分に気むずかしい要求をされても、その相手が明なら、そんな事は彼女の腹を立てさせるどころか、そうされればされる程、自分が反って一層娘らしい娘になって行くような気までしたのだった。……
 何処か遠くの森の中で、木を伐り倒している音がさっきから聞え出していた。
「何処かで木を伐っているようだね。あれは何だか物悲しい音だなあ。」明は不意に独り言のように云った。
「あの辺の森ももとは残らず牡丹屋の持物でしたが、二三年前にみんな売り払ってしまって……」早苗は何気なくそう云ってしまってから、自分の云い方に若しや彼の気を悪くするような調子がありはしなかったかと思った。
 が、明はなんとも云わずに、唯、さっきから空を見つめ続けているその眼つきを一瞬切なげに光らせただけだった。彼は此の村で一番由緒あるらしい牡丹屋の地所もそうやって漸次人手に渡って行くより外はないのかと思った。あの気の毒な旧家の人達――足の不自由な主人や、老母や、おようや、その病身の娘など……。
 早苗はその日もとうとう自分の話を持ち出せなかった。日が暮れかかって来たので、明だけを其処に残して、早苗は心残りそうに一人で先に帰って行った。
 明は早苗をいつものように素気なく帰した後、暫くしてから彼女がきょうは何んとなく心残りのような様子をしていたのを思い出すと、急に自分も立ち上って、村道を帰って行く彼女の後姿の見える赭松の下まで行って見た。
 すると、その夕日に赫いた村道を早苗が途中で一しょになったらしい例の自転車を手にした若い巡査と離れたり近づいたりしながら歩いていく姿が、だんだん小さくなりながら、いつまでも見えていた。
「お前はそうやって本来のお前のところへ帰って行こうとしている……」と明はひとり心に思った。「おれは寧ろ前からそうなる事を希ってさえいた。おれは云って見ればお前を失うためにのみお前を求めたようなものだ。いま、お前に去られる事はおれには余りにも切な過ぎる。だが、その切実さこそおれには入用なのだ。……」
 そんな咄嗟の考えがいかにも彼に気に入ったように、明はもう意を決したような面持ちで、赭松に手をかけた儘、夕日を背に浴びた早苗と巡査の姿が遂に見えなくなるまで見送っていた。二人は相変らず自転車を中にして互に近づいたり離れたりしながら歩いていた。

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