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2013年9月 5日 (木)

堀辰雄『菜穂子』九

 六月にはいってから、二十分の散歩を許されるようになった菜穂子は、気分のいい日などには、よく山麓の牧場の方まで一人でぶらつきに行った。
 牧場は遥か彼方まで拡がっていた。地平線のあたりには、木立の群れが不規則な間隔を置いては紫色に近い影を落していた。そんな野面の果てには、十数匹の牛と馬が一しょになって、彼処此処と移りながら草を食べていた。菜穂子は、その牧場をぐるりと取り巻いた牧柵に沿って歩きながら、最初はとりとめもない考えをそこいらに飛んでいる黄いろい蝶のようにさまよわせていた。そのうちに次第に考えがいつもと同じものになって来るのだった。
「ああ、なぜ私はこんな結婚をしたのだろう?」莱穂子はそう考え出すと、何処でも構わず草の上へ腰を下ろしてしまった。そして彼女はもっと外の生き方はなかったものかと考えた。「なぜあの時あんな風な抜きさしならないような気持になって、まるでそれが唯一の避難所でもあるかのように、こんな結婚の中に逃げ込んだのだろう?」彼女は結婚の式を挙げた当時の事を思い出した。彼女は式場の入口に新夫の圭介と並んで立ちながら、自分達のところへ祝いを述べに来る若い男達に会釈していた。この男達とだって自分は結婚できたのだと思いながら、そしてその故に反って、自分と並んで立っている、自分より背の低い位の夫に、或気安さのようなものを感じていた。「ああ、あの日に私の感じていられたあんな心の安らかさは何処へ行ってしまったのだろう?」
 或日、牧柵を潜り抜けて、かなり遠くまで芝草の上を歩いて行った菜穂子は、牧場の真ん中ほどに、ぽつんと一本、大きな樹が立っているのを認めた。何かその樹の立ち姿のもっている悲劇的な感じが彼女の心を捉えた。丁度牛や馬の群れがずっと野の果ての方で草を食んでいたので、彼女はそちらへ気を配りながら、思い切ってそれに近づけるだけ近づいて行って見た。だんだん近づいて見ると、それは何んと云う木だか知らなかったけれど、幹が二つに分かれて、一方の幹には青い葉が簇がり出ているのに、他方の幹だけはいかにも苦しみ悶えているような枝ぶりをしながらすっかり枯れていた。菜穂子は、形のいい葉が風に揺れて光っている一方の梢と、痛々しいまでに枯れたもう一方の梢とを見比べながら、
「私もあんな風に生きているのだわ、きっと。半分枯れた儘で……」と考えた。
 彼女は何かそんな考えに一人で感動しながら、牧場を引き返すときにはもう牛や馬を怖いとも思わなかった。

 六月の末に近づくと、空は梅雨らしく曇って、幾日も菜穂子は散歩に出られない日が続いた。こういう無聊な日々は、さすがの菜穂子にも殆ど堪えがたかった。一日中、何んという事もなしに日の暮れるのが待たれ、そして漸っと夜が来たと思うと、いつも気のめいるような雨の音がし出していた。
 そんな薄寒いような日、突然圭介の母が見舞に来た。その事を知って、菜穂子が玄関まで迎えに行くと、丁度其処では一人の若い患者が他の患者や看護婦に見送られながら退院して行くところだった。菜穂子も姑と一しょにそれを見送っていると、傍にいた看護婦の一人がそっと彼女に、その若い農林技師は自分がしかけて来た研究を完成して来たいからと云って医師の忠告もきかずに独断で山を下りて行くのだと囁いた。「まあ」と思わず口に出しながら、菜穂子は改めてその若い男を見た。彼だけはもう背広姿だったので、ちょっと見たところは病人とは思えない位だったが、よく見ると手足の真黒に日に灼けた他の患者達よりもずっと痩せこけ、顔色も悪かった。その代り、他の患者達に見られない、何か切迫した生気が眉宇に漂っていた。彼女はその未知の青年に一種の好意に近いものを感じた。……
「あそこにいたのが患者さんたちなのかえ?」姑は菜穂子と廊下を歩き出しながら、訝しそうな口吻で云った。「どの人も皆普通の人よりか丈夫そうじゃないか。」
「ああ見えても、皆悪いのよ。」菜穂子は心にもなく彼等の味方についた。
「気圧なんかが急に変ったりすると、あんな人達の中からも喀血したりする人がすぐ出るのよ。ああして患者同志が落ち合ったりすると、こんどは誰の番だろうと思いながら、それが自分の番かも知れない不安だけはお互に隠そうとし合うのね、だから元気というよりか、寧ろはしゃいでいるだけだわ。」
 菜穂子はそんな彼女らしい独断を下しながら、自分自身も姑にはすっかり快くなったように見え、こんな山の療養所にいつまでも一人で居るのを何かと云われはすまいかと気づかいでもするように、自分の左の肺からまだラッセルがとれないでいる事なんぞを、いかにも不安そうに説明したりした。
 突き当りの病棟の二階の端近くにある病室にはいると、姑はクレゾオルの匂のする病室の中をちらりと見廻したきりで、長くその中に止まることを怖れるかのように、すぐ露台へ出て行った。露台はうすら寒そうだった。
「まあ、どうして此の人は此処へ来ると、いつもあんなに背中を曲げてばかりいるんだろう?」と菜穂子は露台の手すりに手をかけて向うを向いている姑の背を、何か気に入らないもののように見据えながら、心の中で思っていた。そのうち不意に姑が彼女の方へふり向いた。そして菜穂子が自分の方を空けたように見据えているのに気づくと、いかにもわざとらしい笑顔をして見せた。
 それから一時間ばかり立った後、菜穂子はいくら引き留めてもどうしてもすぐ帰ると云う姑を見送りながら、再び玄関まで附いていった。その間も絶えず、何かを怖れでもするようにことさらに曲げているような姑の背中に、何か虚偽的なものをいままでになく強く感じながら……

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