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2013年9月 3日 (火)

堀辰雄『菜穂子』二

 都築明は、去年の春私立大学の建築科を卒業してから、或建築事務所に勤め出していた。彼は毎日荻窪の下宿から銀座の或ビルディングの五階にあるその建築事務所へ通って来ては、几帳面に病院や公会堂なぞの設計に向っていた。この一年間と云うもの、時にはそんな設計の為事に全身を奪われることはあっても、しかし彼は心からそれを楽しいと思ったことは一度もなかった。
「お前はこんなところで何をしている?」ときどき何物かの声が彼に囁いた。
 この間、彼がもう二度と胸に思い描くまいと心に誓っていた菜穂子にはからずも町なかで出逢ったときの事は、誰にとて話す相手もなく、ただ彼の胸のうちに深い感動として残された。そしてそれがもう其処を離れなかった。あの銀座の雑沓、夕方のにおい、一しょにいた夫らしい男、まだそれらのものをありありと見ることが出来た。あの白い毛の外套に身を包んで空を見ながら歩き過ぎたその人も、――殊にその空を見入っていたようなあのときの眼ざしが、いまだにそれを思い浮べただけでもそれから彼が目を外らせずにはいられなくなる位、何か痛々しい感じで、はっきりと思い出されるのだった。――昔から菜穂子は何か気に入らない事でもあると、誰の前でも構わずにあんな空虚な眼ざしをしだす習癖のあった事を、彼は或日ふと何かの事から思い出した。
「そうだ、こないだあの人がなんだが不為合せなような気がひょいとしたのは、事によるとあのときのあの人の眼つきのせいだったのかも知れない。」
 都築明はそんな事を考え出しながら、暫く製図の手を休めて、事務所の窓から町の屋根だの、その彼方にあるうす曇った空だのを、ぼんやりと眺めていた。そんなとき不意に自分の楽しかった少年時代の事なんぞがよみ返って来たりすると、明はもう為事に身を入れず、どうにもしようがないように、そう云う追憶に自分を任せ切っていた。……

 その赫かしい少年の日々は、七つのとき両親を失くした明を引きとって育てて呉れた独身者の叔母の小さな別荘のあった信州のO村と、其処で過した数回の夏休みと、その村の隣人であった三村家の人々、――殊に彼と同じ年の菜穂子とがその中心になっていた。明と菜穂子とはよくテニスをしに行ったり、自転車に乗って遠乗りをして来たりした。が、その頃から既に、本能的に夢を見ようとする少年と、反対にそれから目醒めようとする少女とが、その村を舞台にして、互に見えつ隠れつしながら真剣に鬼ごっこをしていたのだった。そしていつもその鬼ごっこから置きざりにされるのは少年の方であった。……
 或夏の日の事、有名な作家の森於菟彦が突然彼等の前に姿を現わした。高原の避暑地として知られた隣村のMホテルに暫く保養に来ていたのだった。三村夫人は偶然そのホテルで、旧知の彼に出会って、つい長い間よもやまの話をし合った。それから二三日してから、O村へのおりからの夕立を冒しての彼の訪れ、養蚕をしている村への菜穂子や明を交じえての雨後の散歩、村はずれでの愉しいほど期待に充ちた分かれ――、それだけの出会が、既に人生に疲弊したようなこの孤独な作家を急に若返らせでもさせたような、異様な亢奮を与えずにはおかなかったように見えた。……
 翌年の夏もまた、隣村のホテルに保養に来ていたこの孤独な作家は不意にO村へも訪ねて来たりした。その頃から、三村夫人が彼女のまわりに拡げ出していた一種の悲劇的な雰囲気は、何か理由がわからないなりにも明の好奇心を惹いて、それを夫人の方へばかり向けさせていた間、彼はそれと同じ影響が菜穂子から今までの快活な少女を急に抜け出させてしまった事には少しも気がつかなかった。そして明が漸っとそう云う菜穂子の変化に気づいたときは、彼女は既に彼からは殆ど手の届かないようなところに行ってしまっていた。この勝気な少女は、その間じゅう、一人で誰にも打ち明けられぬ苦しみを苦しみ抜いて、その挙句もう元通りの少女ではなくなっていたのだった。
 その前後からして、彼の赫かしかった少年の日々は急に陰り出していた。……
 或日、所長が事務所の戸を開けて入って来た。
「都築君。」
 と所長は明の傍にも近づいて来た。明の沈鬱な顔つきがその人を驚かせたらしかった。
「君は青い顔をしている。何処か悪いんじゃないか?」
「いいえ別に」と明は何だか気まりの悪そうな様子で答えた。前にはもっと入念に為事をしていたではないか、どうしてこう熱意が無くなったのだ、と所長の眼が尋ねているように彼には見えた。
「無理をして身体を毀してはつまらん」しかし所長は思いの外の事を云った。
「一月でも二月でも、休暇を上げるから田舎へ行って来てはどうだ?」
「実はそれよりも――」と明は少し云いにくそうに云いかけたが、急に彼独特の人懐そうな笑顔に紛らわせた。「――が、田舎へ行かれるのはいいなあ。」
 所長もそれに釣り込まれたような笑顔を見せた。
「今の為事が為上がり次第行きたまえ」
「ええ、大抵そうさせて貰います。実はもうそんな事は自分には許されないのかと思っていたのです……。」
 明はそう答えながら、さっき思い切って所長に此事務所をやめさせて下さいと云い出しかけて、それを途中で止めてしまった自分の事を考えた。今の為事をやめてしまって、さてその自分にすぐ新しい人生を踏み直す気力があるかどうか自分自身にも分かっていない事に気づくと、こんどは所長の勧告に従って、暫く何処かへ行って養生して来よう、そうしたら自分の考えも変るだろうと、咄嗟に思いついたのだった。
 明は一人になると、又沈欝な顔つきになって、人の好さそうな所長が彼の傍を去ってゆく後姿を、何か感謝に充ちた目で眺めていた。

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