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2014年1月 9日 (木)

 「ドグラ・マグラ」解説

 夢野久作の 「ドグラ・マグラ」ほど、評価の激変した作品はあるまい。
 昭和十年一月に「日本一の幻魔怪奇の本格的探偵小説」と銘うって、新稿一千五百枚、「内容は夢野氏がこの十年間練りに練った秘材で、氏自ら『之を書く為に生きて来た』というものだ。」と広告している。
 戦前の出版界では書き下し単行本の刊行はきわめてすくなかった。昭和七、八年に十名の作家による「新作探偵小説全集」が書きおろしを試みたが、大家の二三は代作でお茶を濁したため、他の作家も本気になれず失敗した例があった。
 それだけに本書の刊行は、当時の探偵文壇にとっては画期的なイベントであった。ところが、ほとんど反響を呼ばず、久作の落胆は大きかったにちがいない。

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 十年をかけたということばは誇張ではない。久作の日記によれば、大正十五年五月十一日の項に、「精神生理学の原稿を書く。」とあり、処女作「あやかしの鼓」 の入選の通知が届いて三日後のことである。
 久作の義弟石井俊次の回想によると、九州日報社に勤めていた時分というから、十年どろで、着想と小説化の計画は、処女作執筆以前から脳裡に胚.胎していたことになる。
 はじめ 「狂人の解放治療」と題し、早くも八月には千百余枚を書きあげているが、翌昭和二年には「脳髄は物を考える処に非ず」、「胆児の夢」に移った。探偵作家川田功の批評を読んで、「今度は全然興味中心にする積り」 で書き直し、三年十一月には書き直し清書だけで五回目だといっている。その後また推蔽を重ね、五年一月に一千枚の筆をおいた。
 六年から九年までの日記が欠けているから、その後の修正は分らないが、恐らく手許にあった原稿に絶えず手を入れていたにちがいない。処女作発表の年に着手し、ようやく念願を叶えて刊行した翌年に急死しているのだから、いわば久作の作家的生涯にわたって、絶えず深い関心を持ち続けた作品であった。「之を書く為に生きて来た」というのも決して誇張ではなく、子の龍丸に対して、「世界一の長い探偵小説の記録を作ったことと、その内容は、世界一の内容をもつものである。」と言うほど自信に充ちていた。

 処女作が世に出たばかりの久作は、その大長篇を完成して、どうするつもりであったか。その出版記念会で披露されたエピソードを紹介しよう。その席ではじめて対面した森下雨村の思い出である。
 「肩幅のひろいがっしりした夢野君が、初対面の挨拶の後から、『ドグラ・マグラ』 は十年前にあなたのお手許へ差出した旧作ですといった時には、僕は『へえ』と答えたきりしばらく言葉もなかったものだ。一千枚の長篇、いわんや『ドグラ・マグラ』なんて特異の題名だから、十年前でも一度読んだものなら記憶のどこかにある筈だが、とんと思い出せないのだ。が、話している中に、川田功君から丁重な批評を添えて返してもらったというので、ハハアと僕は手を打った。たしかに! それが夢野君だったかどうかさえももう忘れていたが、僕が『新青年』編輯時代に一千枚近い創作を受取り、当時、博文館の買いため原稿の整理係りをやっていた川田功君に廻して読んでもらって、送り返したことがある。当時川田君から読後感を聞いたようにも思うが、何しろ千枚という原稿で雑誌では問題にならず、上の空で聞き流して送り返してもらったように記憶する。(略)
 ところで夢野君はその力作を送り返されたために、すっかり悲観して、その後創作の欲念が起らず筆を絶っていたが、思い切れず筐底から取出して想を練り筆を加えること数年、ある機縁から今度世に出るようになったのだという話。僕はそれを聞いて甚だ相済まぬことであったとお詫びをいうのはかなかった。しかし考えてみると夢野君の純真さがそこに遺憾なく現れていると思って、後から微笑ましい気持にさえなったものだ。
 九州で新聞記者もしていた彼である。雑誌に千枚もの原稿が載せられるかどうかくらいのことは百も承知の筈である。だから新青年に発表したい野心からではなく、僕に読んでもらいたかったに過ぎなかったかもしれない。しかし、それにしても気忙しいジャーナリストがそんな尤大な 乱歩に限らず、探偵作家は「幻魔怪奇の本格的探偵小説」 に眩惑されたと見え、読まなかったり、発言を控えたものが多かった。

 昭和十年の斯界を回顧した水谷準は、
「夢野久作の『ドグラ・マグラ』は、恥を曝すようだが、まだ読んでいない。読むだけの気構えになれなかったのだ。それで、種んな人達の感想を要約するにとどめるが、この作はまことに穀誉褒旺半ばしたようである。誉める人は、内容が常人の頭では考えられぬはどにも奇抜で、全篇に不思議な情熱が瀧り、それに応じて描写が他人には真似られぬような多彩のものであるという。感心せぬものは、この作が探偵小説的には縁故が薄く、また単に小説として見ても冗漫な作であるという。恐らく読者によっては、その両方とも真実であろう。」(ぶろふいる、昭和十年十二月)
と記して、顧みて他を言う口ぶりである。

 久作は探偵作家と見倣され、本書も探偵小説として宣伝されたので、その評価に戸惑った。海野十三はわが国の大衆読者層には、謎の質やその解き方について、本格物はもっと低調でないと駄目だという見解を述べ、
 「夢野久作氏の 『ドグラ・マグラ』は、われわれ仲間をあッといわせ、或る人は探偵小説への冒涜限りなしとも言い、また或る人は夢野さんはすこしここへ来ているのじゃないかなァと頭を指した人もあったが、私はあの形式こそ上述の解答の一形式ではないかと思う。」(新青年、昭和十年八月)
といっているが、これは我田引水的解釈にすぎるようである。

 探偵作家のうちで久作と親しかった大下が好意的である。
 「この小説からは、筋を拾おうとしてはいけない。探偵小説と銘打ったものだが、筋を度外視せよというのは、
っていながら、甚だ非常識であるけれども、実際筋も十分にあり、探偵小説的トリックと謎ももっていながら『ドグラ・マグラ』の与うるものは、筋よりもその狂気染みた感銘である。読者は一度キチガイにさせられてしまう。、真に一大奇書というべきである。探偵小説のエクストリミティにどっかと坐って、怪奇小説の壁に背中を焦りかからせ、怪奇小説の方をこタニタ不敵に笑いながら眺めている作品である。筆者は面白く読んだけれど、小栗氏の作品と同程度に、何だか解らないという読者も相当あろう。本当は解らないことはない。解る文章で解らせるように書いてあるのだけれど、作全体を覆うキチガイの妖気が、じきに読者の頑へ感染するのだ。」(新青年、昭和十年十二月)       

 久作は探偵作家としてデビューする以前から、温めていたテーマであり、狂人の解放治療、脳髄論、胎児の夢といった骨格を崩さなかった。たまたま探偵作家のレッテルを貼られ、刊行に際して「本格的探偵小説」といった余計な宣伝を試みたために、探偵小説の読者に不信と疑惑を抱かせる結果となった。
 それに対して戦後は探偵小説としては捉えず、じかに作品に接した一般の読者が、新鮮な角度からあらためて評価した。まずその口火を切ったのが鶴見俊輔の 「ドグラ・マダラの世界」(思想の科学、昭和三十七年十月)であった。

「脳髄の地獄を書いた小説、世界は狂人の解放治療場だという説を展開したこの小説は、第一次世界大戦を背景にしなくては、生れなかっただろう」といい、ストーリーを紹介している。
そして「ここでは時間が破壊されている。破壊された時間が、勝手におたがいの前後におかれているので、Aという時間のわくの中でおこったBという時間が、Aという時間をまたふくむことになってしまう。はじまりがおわりとなり、おわりがはじまりになるという規則正しくじゅんかんする時間でもない。時間が破壊されてそのどまんなかに同一の時間がくいこみ、こうして時間にたいする復しゅうが、とげられる。時間の不可逆性にたいする犯罪というか。時間にしばられてわずらわしさにたえかねた精神病者が、この手記を書くことで、一挙に時間からの離脱を試みたと考えてよい。狂人の書いた推理小説という状況の設定が、この時間の破壊された世界の構築に見事に役立っている。」
と新しい見解を示している。

 これに対して水沢周は
「夢野最大の長篇『ドグラ・マグラ』は、作品の完成度からいえば巨大な習作といっていい。鶴
見俊輔はこの作品を〝哲学小説″とよんだ。テーマは名前さがしだ。名前が見つかればすべては
解決する。これは唯名主義的哲学小説である、と。私はもし、この小説を社会科学的に見るなら
ばもっと単純に、家父長的家族批判とまでいかなくとも家父長への怨念小説ととりたい。他の一切は、有名なアホダラ経も、もっともらしい心理遺伝の学説も、狂人の解放治療も、ピラピラしたおかざりにすぎない。もちろんそれちのおかざりはそれなりに工夫がこらされ、細部の異常な拡大や主客顧倒的な力点のおき方がされていて全体の印象をグロテスクに美しくしており、それゆえにこの作品を夢野のものにはまれな重層的作品と私は考えるが、要点は正木博士と若林博士の傍若無人な〝人体実験″にある。この実験が成功すれば唯物主義への大鉄槌となるというのだが、その名分など小説の進行につれて消えさり、まるで指し手の意志のままにあちこちへおかれる将棋のコマのように扱われる呉一郎の卑少さが執拗にえがかれる。その卑少さを一つのヒ首として逆手にとって夢野は〝家父長″の巨大なのどにさしつけるのだ。」(大衆文学研究、昭和三十九年五月)            .
と、これも新説をうち出している。

 埴谷堆高は「『ドグラ・マグラ』は探偵小説かどうかということを考えると、「これはまぎれもない探偵小説」という観点から、「最後の謎解きまでわれわれの興味を緊張させてひっぱってゆく。解放療法の場所で最後の事件が起こると、謎の全部が一時に氷解して、正木博士が父であり、犯人であるということが同時にわかってしまう。その最後の解り方も後味がいいのです。」と、簡単に割り切っているが、果たしてそうだろうか。

 彼と対談している谷川健一は、「結論ははっきり出さないでいますね。つまり若林かそれじゃ正木かどっちかだと、読者はどっちかに決めることができないわけですね。どっちかに決めたら、その小説の構成が全部くずれていくようなね。だから決めると矛盾だし、また決めないとおかしいというような、そういう論理的な矛盾点ですか、そういうところを、むずかしい言葉を使えば排中律をひっかけたところがあの 『ドグラ・マグラ』にはありますね。」(夢野久作全集第六巻、昭和四十四年十二月)と、くいさがっているが、埴谷には通じていない。

 こういう百家争鳴のいろいろな解説が施されるのも、久作の冗舌的な文体が、飛躍混沌として論理的な展開を妨げているからであろう。          .
                
 本書の意図は精神病治療法の欠陥を暴き、その改善を求めようとして、解放治療が有効か否かを人間実験に依存して確かめることにあったはずだが、呉一郎は相変らず自分の名前を思い出せぬままに始めの情景に戻っている。
 精神医学の未開の領域に挑んで、久作一流のドグマをはしいままに駆使しながら、遺伝と夢中遊行病、唯物科学と精神科学の対崎、ライバル学者の闘争、千年前の伝承など、あまりにもりだくさんの趣向で、かえって読者を五里霧中に導いてしまう。それがこの大作の奇妙な魅力であって、千人が読めば千人はどの感興が湧くにちがいない。探偵小説の枠を無視した空前絶後の奇想小説を生んだ久作の情熱は怖ろしい。

「ドグラ・マグラ」は初版刊行後、戦前は顧みられず、ようやく昭和三十一年に「早川ポケット・ミステリ」に収められた。以後の日本推理小説関係の全集・叢書などにも採られず、近年、各文庫に収録されるようになった。
             ついや
 だが久作が十年の歳月を費して推蔽に推敲を重ね、自費出版で素志を貫いて刊行に踏みきった初版本にこそ、その情熱と気脱が発現しているにちがいない。ここに初版本の装釘、箱をさながらに再現する復刻版刊行の意義があると思う。
 初版刊行後五十年余を経て、その面影を廷らすことになった。あらためて久作の遺業を顕彰するよすがになれば幸甚である。

中島河太郎

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