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2014年2月26日 (水)

「犬神博士」夢野久作 101~終わり

     百一

 大男はその時に褞袍どてらに掛かった黒い襟の間から、大きな握り拳を出して、自分の鼻の頭を悠々とコスリ上げた。それから見かけに似合わない可愛らしい、ユックリとした声で問うた。
「……貴様は……何チュウ奴ケ……」
 吾輩は小便を放り終って身ぶるいを一つしながら向き直った。キチガイの癖に横柄な奴だと思いながら……。
「知らん。お前は何チュウ奴ケエ」
 と向うの真似をして問い返した。すると大男は寒くもないのに、又も悠々と懐手をしながら、吾輩をジッと見下した。
「ウーム俺か……俺は玄洋社の楢山じゃ」
「ナニッ……楢山ッ……」
 と吾輩は叫びながら飛び退いた。タッタ今小便を振り撒いたばかりの叢の中に片足をさし込んだが、そんな事なんかドウでもよかった。マサカ楢山がコンナ飛んでもない恰好の人間とは思わなかったが、ここで出会ったのはいい幸いだ。カンシャク知事と喧嘩をする位の奴だからドウセ利口な奴ではないにきまっている。ここで此奴を取っちめて、かの大喧嘩を止めさせたら、天沢のお爺さまがイヨイヨ感心するだろう……と思い付くには思い付いたが、生憎タッタ今短刀を棄てたばかりで、そこいらを見まわしても竹片一本落ちていない。仕方なしに吾輩は両手で小さな拳骨を固めながら身構えた。
「……お前ホンマに楢山けえ」
「ウム、ウム」
 と大男はユルヤカにうなずいた。
「俺を知っとるか」
「知らいでか……知事と喧嘩しとるバカタレやろ」
「アハアハアハアハアハアハ」
 と大男は又も月の下で反り返って笑った。よく笑う男だ。
「そうじゃ、そうじゃ。よう知っとるのう」
「知らいでか。知事とお前が喧嘩するよってん、直方の町中の人が泣きよるやないか」
「……………」
 大男は笑わなくなった。そうして返事もしないままシゲシゲと吾輩の顔を見守っていたが、やや暫くしてからヤット口を利いた。
「どうして、そげな事をば知っとるとや」
「知らいでか……みんなそげに言いよるやないか」
「……………」
 大男は又も返事をしなくなった。奇妙な光を帯びた眼で又も吾輩の血だらけの姿を見上げ見下していたが、やがて又自分の鼻の頭を拳骨で丁寧にコスリ上げた。それから赤い舌を出して唇のまわりをペロペロと嘗めまわしたが、そのペロペロが又、如何にも御念入で、手数のかかる事夥しい。この塩梅ではいつ返事をするか解らないと思うと、ふと自烈度くなったので、吾輩はすぐに先を言って遣った。
「そやからワテエ……その喧嘩を留めに行たんや」
「ウフウフウフウフ。貴様は喧嘩をば留めに行ったか」
「アイ……けんどワテエの横で誰か斬られた血が掛かって、眼が見えんようになってしもたケニ、ここまで逃げて来たんや」
「ウーム。怪我はせんやったか」
「ワテエ。武術知っとるよって斬られやせん。けれどほかの武術知らん奴言うたら皆死んどるやろ」
「ウーム。何処で喧嘩しよるか」
「オイサン知らんけえ」
「知らん」
「停車場でしよるがな」
「あっちの方じゃな」
「どっちか知らん」
「ウーム。さようか。しかしどっちが勝ちよるか」
「ドッチかわからん。そやけど玄洋社強いなあ。玄洋社が投げると皆死によるで……」
「ウーム。さようか。さようか」
 と楢山社長は大きくうなずいた。大方嬉しかったのだろう。
「楢山のオイサン何処から来たんや」
「アッチから来た」
「植木チュウ処けえ」
「さようじゃ。昨日まであすこの友達の処で寝とった。水瓜を喰い過ぎて腹を下いてのう。ハハハハ。しかしお前はドウして知っとるか」
「知らいでか。皆言いよった。磯政の親分が迎えに行たやろ」
「そうか。磯政が俺を迎えに行とるか」
「サイヤ。ハンマの源が、そげに言いよった。警察の巡査も、今夜アンタを縛る言うとったで……」
「アハハハハ。そうかそうか」
「どうして縛られんでここまで来たんけえ」
「ウーム。どうもせん。あんまり月のよかけん、寝巻なりい散歩あるいて来たとたい」
 と言ううちに楢山社長は、相変らず悠々とした態度で横を向いて小便をし始めた。

     百二

 吾輩は指を銜くわえながら、小便をする楢山社長の姿を見上げていたが、よく見ると楢山社長は丸裸体にドテラ一枚らしく、臍の処まで剥き出している。吾輩はこんなダラシのない人間を生まれて初めて見たので、内心些なからず呆れさせられた。しかし同時に、最前からの緊張した気分が、楢山社長と話し合っているうちに、いつの間にかノンビリと融け合ってしまって、何とも言えない親しい気持ちになったのを子供心に不思議に思った。それに連れてさすがは玄洋社長、と言ったような尊敬の気分もイクラか起って来たので、今更のようにお月様と、楢山社長のホイトウ姿を見比べていると、楢山社長は吾輩の真似をするかのように、なおも黄色い小便を長々と垂れながら頬冠りを吾輩の方に向けた。
「貴様は天沢先生の処におった奴じゃろ」
「サイヤ。天沢のお爺様に生命いのち助けて貰うたんや」
「ウム。恩義を知っとるか」
「オンギて何や」
「アハハハ、そげな事あインマわかるがのう。知事は何処にいるか貴様は知らんか」
「知らんけど青柳にいるてて巡査が言いよった」
「青柳チュと料理屋か」
「サイヤ。スケベエの行くとこや」
「アハハハハ。途方もない事知っとるのう……アハハハ。その青柳に俺と一緒い行かんか」
「何しに行くのや」
「知事を叱りに行くのじゃ」
「何で禿茶瓶を叱るのけえ」
「知事が巡査を使うてのう……悪い事をばさせよるけんのう……言うて聞かせて喧嘩をば止めさせるとたい」
「ウン。そんなら行こう」
「ウム。サア来い。俺が肩車に乗せて遣るぞ」
 と言ううちに小便を放ひり終った楢山社長は、ニコニコと笑いながら吾輩を抱き上げて軽々と肩車に乗せた。普通の人間がダシヌケにコンナ事をしかけたら、すぐ逃げ出す処であったが、この時に限って何だか有難いような、嬉しいような気持ちになったのは、返す返すも不思議であった。のみならず全身血まみれの上に、泥だらけの足をしている吾輩を、絹の上等のドテラの上に担ぎ上げて、頬冠りの白い手拭が、吾輩の手に残った血で汚れて行くのも構わずに悠々と歩き出したその無頓着さに、吾輩はスッカリ愉快になってしまったのであった。
 吾輩はその楢山社長の頭を頬冠りの上から抱きかかえながら問うた。
「オイサン……」
「何かい……」
「あんたスケベエけえ」
「ウン。スケベエじゃ」
「……………」
 今度は吾輩が行き詰まらせられた。多分否定するだろうと思ったのに、案外無造作に肯定されてしまったので、チョット二の句が継げなくなった形である。同時にコンナ男がスケベエなら、スケベエと言うものはそんなに嫌なものじゃないとも考えさせられた。
 吾輩は楢山社長の頭を平手でタタキながら又問うた。
「そんならオイサン」
「何かい」
「知事さんはスケベエけえ」
「ウン。彼奴あやつもスケベエじゃ」
「あんたと知事さんと、どっちがスケベエけえ」
「知事の方が女好きじゃろう」
「アンタ負けるのけえ」
「ウム。負けもしまいが」
「そんなら知事さんとおんなじもんじゃろ」
「ウン。おんなじもんじゃ」
「イヤアア……」
「アハハハハハハ……」
「ワテエ女おなご嫌いや」
「ウム。そうかも知れんのう。しかし大きうなったら女から好かれるぞ」
「大きうならんでも女から好かれとるで」
「ウム。誰から好かれた」
「天沢の美しいお嬢さんが頬ずりしてくれたで」
「アハハハハハ……。タマラン奴じゃあ貴様は……アハハハ……」
「あぶない……そないに笑うたら落ちるやないか」
「落ちて死んでしまえ。今のうちに……」
「ワテエ死んだらお嬢さんが泣くで……」
「イヤア……モウイカン……ここで下りれ……アハハハ……。おらあキツウなった」
「弱っぽうやなオイサンは……そないに弱いと女が好かんで」
「女に好かれんでもええ」
「ワテエも好かんで」
「アハハハハハ。そんなら止むを得ん。アハハハ。貴様はナカナカ豪い奴じゃ。人間を御する道を知っとる。アハハハハハ……」

     百三

 楢山社長はこんな風に傍若無人の高笑いをしながら、悠々と歩いて行ったが、青柳という家の在る処を知っていると見えて、小さな家の間を迷いもせずに右に曲り、左に曲りしながら抜けて行く。吾輩も生まれて初めて乗った肩車の気持ちよさにコクリコクリと居ねむりを始めたが、やがて大きな通りへ出てから一町ばかり真直に行くと、夜目にも料理屋らしく見える立派な門構えの前に来た。その間人ッ子一人出会でくわさなかったが、その家の前に来ても犬の影すら見えなかった。
 楢山社長は、その忍び返しを打った瓦葺きの門の前まで来ると、吾輩を首の上に乗せたままツカツカと門の扉に近づいたので、半分眠りかけていた吾輩は軒先の瓦にオデコをイヤと言う程打ち付けられてスッカリ眼が醒めてしまった。
「痛いやないかオイサン」
「アハハハハ。そこいおったか」
「おらいでか。オイサンが自分で乗せたんやないか」
「ウム。忘れとった」
「馬鹿やなあ。アホタレ……」
 と吾輩は楢山社長の頬冠りの上からコツンコツンと拳骨を下ろして遣った。
「ウム。痛い痛い。堪えてくれい」
「そんだら堪えて遣る。ああ痛かった」
「首が除のきはせんじゃったか」
「除いたけんど又粘着ひっついた」
「ウム。それはよかった」
 と言ううちに楢山社長は腰を屈めて門の扉に近付きながら、ドンドンと二ツ三ツ叩いた。すると家の中から待っていたように、
「ハア――イイ――」
 と言う女の声が聞こえて、カタカタと敷石の上を走って来る音が聞こえたが、その足音が門の傍まで来ると立ち止まって、
「……どなた……」
 と問うた。何処かの隙き間から様子を見ているけはいである。
「ウム。俺じゃ。楢山じゃ」
「まあナア様……」
 と門の中の女は急に怯えたような声を出したが、
「……どうしてここに……」
 言ったなり後が言えないで息を詰めてしまった。
 しかし楢山社長は依然としてゆるやかな、平気な声で口を利いた。
「お前はお近か……」
「ハイ……」
「ウーム。女将おかみはおらんとか」
「ハイ……この間から小倉の病院に入院しておりまして……」
 と言ううちに女の声が次第に、蚊の啼くような細い声に変って行った。
「ウム。そうか。知らんじゃった。……巡査どもはおらんとか」
「ハイ……あの今……大友さんの方が……あの……怪我人が多いとか言うて、お使いの人が見えまして……」
「ウーム。皆加勢に行たか」
「……ハイ……あの……そのお使いが来ますと知事様の御機嫌が損ぜまして、ここは宜ええけに、皆加勢に行け……一人もおることはならん……あとは戸締りして、打ち破られても開ける事はならんと仰言おっしゃいまして……」
「アハハハ。例のカンシャクを起いたか」
「ハイ。大層な御立腹で御座いまして……私ども恐ろしゅうして恐ろしゅうして……」
「アハハハハ。俺が来ればモウ心配する事は要らん。喧嘩はモウ千秋楽じゃ。手打ち祝いは貴様の処でするぞ」
「ありがとう御座います」
「開けてみやい」
「ハイ」
 と言いながら女は素直に閂を外しにかかったが、それでも気味悪そうに……独言のように……言った。
「……あの……只今……お休みで御座いますが」
「ウーム。知事は寝とるのか」
「ハイ。中二階でお休みになっております。ちょっとお起しして参りますから」
「ウン。楢山が会いに来たと言え」
「ハイ」
 と言ううちに門の扉が開あいたが、その間から出て来た三十位の仲居らしい女の眼の前に、楢山社長が吾輩を抱え下すと、女は一眼見るか見ないかに、声を立てないで扉に縋り付きながらヨロヨロよろめいた。
「アハハハ。この児を知っとるじゃろう。俺が途中で拾い出して来た」
「ハハ……ハイ……」
「……恐ろしい事はないけん。アトをばシッカリ堰せいて置け。大友でも磯政でも、署長でも玄洋社の奴でも入れてはならんぞ。ええか」
「……ハ……ハイ……」

     百四

 お近という仲居さんらしい女は、楢山社長が口を利くたんびに慄え上って行った。今にもブッ倒れそうなのを一所懸命に我慢しているらしく、門の扉に取り縋って唾液を飲み込み飲み込みしていたが、その怯え切ったマン丸い眼は、片時も吾輩から離れなかった。尤もこれは無理もない話で、月の冴えた真夜中に、血塗れのお合羽さんの子供がニコニコ笑いながら入って来たのだから、大抵の女なら気が遠くなるにきまっている。それを一所懸命で踏みこたえた処を見ると、このお近という女はかなりのシッカリ者であったろう。それでも辛うじて一つうなずいたと思うと、脱けかけた腰を引っ立てるようにして、ガタンガタンと門を閉め始めた。
 その間に楢山社長は吾輩の先に立って、ノッソリと玄関から上った。吾輩も後から上ろうとしたが、小便だらけの泥足のままなので遠慮して、そこに脱ぎ棄ててあったお近さんの赤い鼻緒の上草履を穿いて上って行った。ちょうど内と外と反対になってしまった。
 ところで玄関を上った楢山社長は、うしろを振り返ってお近さんが上って来るのを待っていたが、お近さんはまだ門の扉に縋ったまま真青になって吾輩の姿を見詰めている。そうして吾輩が振り返ったのを見るとイヨイヨ気分が悪くなったらしく、両手を顔に当てて門の扉の蔭に跼しゃがみ込んでしまったので楢山社長はチョット困ったしい。玄関の奥の方を向いて、
「オイ。誰かおらんか」
 と二、三度大きな声で呼んでみたが、処々ランプが赤々と灯いたなりに、広い家の中がシンカンとして鼠の走る音すら聞こえない。ただ一度、何処か遠くの隅から虫の啼くようなふるえ声で、
「……ハ……イ……」
 と返事した者があったようにも思ったが、それでも出て来る者が一人もなかった。深夜の玄関の明りの下に、泥棒然たる大男と、血だらけの子供が突立ったら、男でも取次に来ないのが当然であったろう。
 楢山社長はそこで決心したらしかった。予かねてからこの家の案内を知っているらしく、玄関横の階段の処へ来ると、吾輩の手を引いて遣りながらドシンドシンと二階へ上って行った。それから長い暗い二階廊下へ出ると、向こうの突き当りが知事の寝ている室へやらしく、キリコ細工の置ランプの光と、金屏風の片影が、半分開いた硝子障子ごしに見える。その金屏風の片側には美しい裾模様の着物と、赤いダラリとした扱帯しごきが掛かっているのが、幽霊のようにホンノリと見えた。
 楢山社長はそうした室の様子を見るとチョット躊躇したかのように立ち止まった。しかし間もなく又、思い返したと見えて、吾輩の手を引きながら、その室に近づいて、半分開いた硝子障子の間からノッソリと中に入ったが、室に入ると同時に、何とも言えない奇妙な、噎むせっぽい匂いが鼻を撲ったので、吾輩は思わず鼻を抓つまみながらキョロキョロと見まわしてみると、それは正面の床の間に据えて在る大きな瀬戸物の蛙の口から出て来る煙の匂いである事がわかった。今から考えるとそれは蚊遣り香で、この節では格別珍しいものでもないが、その当時は王侯貴人的な贅沢物であったろう。
 室は十二畳ぐらいの大きな室で、まん中には大きな白い敷蒲団が二枚か四枚重ねて敷いてあったように思う。その上に被さった薄青い掛蒲団の中から紫色の括くくり枕に乗った知事の禿茶瓶頭と、赤い房の下った朱塗りの高枕が並んで見えていたが、イクラ知事でも枕を二つ使うなんて馬鹿な奴だと、吾輩はすぐに軽蔑して遣りたくなった。
 しかし楢山社長はそうでなかった。室の中に入ると、何処となく恭しい態度に変って、頬冠りを取り除けたばかりでなく、褞袍の前をキチンと繕つくろって、知事の枕元にピタリと正坐した。だから吾輩もベタベタとクッ付き合う血だらけの着物の前を、いい加減に両手で合わせながら、畳の上に草履を脱ぎ棄てて、楢山社長の横にペタリと坐り込んだが、知事はグッスリと眠っていると見えて身動き一つしない。
 頬冠りの手拭を鷲掴みにして膝の上に載せた楢山社長は、そこでその禿茶瓶を見下しながら、
「知事さん……知事さん……」
 と二声呼んだ。しかし知事は依然として身動き一つしなかった。眠っているのか起きているのかわからない。その頭をジッと見下していた楢山社長は、なおも顔を近付けながら呼んだ。
「筑波子爵閣下……起きて下さい。玄洋社の楢山がお眼にかかりい来ました」
 しかし筑波子爵閣下は依然として禿頭をテラテラさせたまま動かない。ちょうど御本人が死んでしまって、禿頭だけが生き残っているかのように見える。

     百五

 吾輩はおかしくもあり自烈度くもなった。すぐに立って行って鼻でも抓んで遣ろうかと思って腰を上げかけている処へ、今来た反対側の廊下からペタリペタリと言う絹ズレの音がして来たので吾輩は中腰のまま振り返った。……楢山社長がタッタ今、誰も来る事はならんと言っていたのに……家中の奴が震え上って動けないでいる筈なのに、コンナに悠々とこの室に入って来る奴は何者か知らん……と怪しみながら室の入口を凝視していると……驚いた。
 半分開いた硝子障子の隙間からしなやかに辷り込んで来たのは、若い、美しい、真白にお化粧をした女であった。頭に銀のビラビラの付いた簪を一パイに挿さして、赤や青のダンダラのキレをブラ下げて、燃え上るような真紅まっかの長襦袢を長々と引きずり引きずり入って来たのであったが、よく見るとまだ半分眠っているらしく、両手で眼のふちをコスリコスリ知事の枕元に近づくと、そこでヘタヘタと坐り込んだ。そうしてその枕元に寄せて在る茶器盆の上から金色の茶碗と、銀色の急須を取り上げながら、何気なく吾輩二人の方を見たが……そのままピタリと動かなくなった。
 糸のように細くなっていた左右の寝ぼけ眼まなこが見る見る大きく開きはじめて、今にも飛び出すくらい真白に剥き出されて行った。それにつれて小さな唇がダンダン竪長くなって、腮あごが外れるかと思う位顔が長くなったと思うと、左右の手から急須と茶碗がぬけ落ちてガチャンガチャンと音を立てた。同時に、
「キャ――ッ……」
 と言うオモチャの笛みたいな音がしたと思うと、赤い長襦袢が虚空に翻えった。白い手足が眼まぐるしく交錯した。入口の硝子障子が一枚ブチ倒されて、廊下の板張りで二、三度尻餅の反響がしたと思うと、階段を転り落ちる人間の遽あわただしい物音と、モウ一度、
「キャ――ッ……」
 と叫ぶ咽喉笛の音がゴチャゴチャになって、階段の下の方へ消え失せて行った。
 するとその声と物音が消えるか消えないかに、
「何事か――ッ……」
 と怒鳴る声がツイ鼻さきに起って、白い寝巻を着た知事の禿茶瓶がムックリと跳ね起きた。その声は紛れもなく予てから印象づけられていた知事特有の癇癪声で、額にはチャンと二本の青筋まで出ていたが、しかし眼はまだ醒めていないらしく、真赤になった白眼を片っ方ずつ閉じたり開いたりしながら坐り直した。大方いい心持ちで眠っている処へ大きな音が聞こえたので、夢うつつのままカンシャクを起したのであろう。膝小僧を出して坐ったまま、モウ一度眼を閉じて眉を逆立てながら、
「何事か――ッ」
 と大喝したが誰も返事をしない。ただ吾輩がタッタ一人あんまり可笑おかしかったので、ゲラゲラと笑っただけであった。
 ところがその笑い声を聞くと、知事はヤット気が付いたらしかった。慌てて両手で顔でコスリまわしながら、真赤な眼を剥き出してキョロキョロとそこいらを見まわしたが、間もなく吾々二人の姿を見つけると、見る間に颯さっと青くなった……と思ううちに又、見る間に真赤になりながら大喝した。
「貴様達は……ナ……何者かアッ……」
 その声は深夜の青柳の家中をピリピリさせたかと思う程スバラシク大きかった。しかし楢山社長は一向平気で、膝の上に両手を突いたまま静かに頭を下げた。極めて親しみ深い、落ち着いた声で言った。
「知事さん。私じゃ。玄洋社の楢山じゃ」
「ナニッ……楢山……」
「……チョット用があるので会いに来ました」
 知事の額から青筋が次第次第に消え失せて行った。それに連れてカンシャクの余波らしくコメカミをヒクヒク噛み絞めていたが、しまいにはそれすらしなくなって、ただ呆然と吾々二人の異様な姿を見比べるばかりとなった。
 楢山社長は半眼に開いた眼でその顔をジット見上げた。片手で山羊髯を悠々と撫で下したりしながら今までよりも一層落ち着いた声で言った。
「知事さん」
「……………」
「今福岡県中で一番偉い人は誰な」
「……………」
 知事は面喰らったらしく返事をしなかった。又も青筋が額にムラムラと表われて、コメカミがヒクヒクし始めたので、何か言うか知らんと思ったが、間もなくコメカミが動かなくなって、青筋が引込むと同時に、冷たい瀬戸物見たような、白い顔に変って行った。
「誰でもない。アンタじゃろうが……あんたが福岡県中で一番エライ人じゃろうが」

     百六

 楢山社長の言葉は子供を諭すように柔和であった。同時にその眼は何とも言えない和なごやかな光を帯びて来たが、これに対する知事の顔は正反対に険悪になった。知事の威厳を示すべくジッと唇を噛みながら、恐ろしい眼の光でハタハタこちらを射はじめた。
 しかし楢山社長は一向構わずに相変らず山羊髯を撫で上げ撫で上げ言葉を続けた。
「……なあ。そうじゃろうが。その福岡県中で一番エライ役人のアンタが、警察を使うて、人民の持っとる炭坑の権利をば無償ただで取り上げるような事をば何故しなさるとかいな」
「黙れ黙れッ」
 と知事は又も烈火の如く怒鳴り出した。
「貴様達の知った事ではない。この筑豊の炭田は国家のために入り用なのじゃ」
「ウム。そうじゃろう、そうじゃろう。それは解っとる。日本は近いうちに支那と露西亜ば相手えして戦争せにゃならん。その時に一番大切なものは鉄砲の次に石炭じゃけんなあ」
「……………」
「……しかしなあ……知事さん。その日清戦争は誰が始めよるか知っとんなさるな」
「八釜しい。それは帝国の外交方針によって外務省が……」
「アハハハハハハハ……」
「何が可笑しい」
 と知事は真青になって睨み付けた。
「アハハハハ。外務省の通訳どもが戦争し得るもんかい。アハハハ……」
「……そ……それなら誰が戦争するのか」
「私が戦争を始めさせよるとばい」
「ナニ……何と言う」
「現在いま朝鮮に行て、支那が戦争せにゃおられんごと混ぜくり返かやしよる連中は、みんな私の乾児こぶんの浪人どもですばい。アハハハハハ……」
「……ソ……それが……どうしたと言うのかッ……」
 と知事は少々受太刀の恰好で怒鳴った。しかし楢山社長はイヨイヨ落ち着いて左の肩をユスリ上げただけであった。
「ハハハ……どうもせんがなあ。そげな訳じゃけん、この筑豊の炭坑をば吾々の物にしとけあ、戦争の始まった時い、都合のよかろうと思うとるたい」
「……バ……馬鹿なッ……馬鹿なッ……この炭坑は国家の力で経営するのじゃ。その方が戦争の際に便利ではないかッ」
「フーン。そうかなあ。しかし日本政府の役人が前掛け当て石炭屋する訳にも行かんじゃろ」
「そ……それは……」
「そうじゃろう……ハハハ。見かける処、アンタの周囲ぐるりには三角とか岩垣とか言う金持の番頭のような奴が、盛んに出たり入ったりしよるが、あんたはアゲナ奴に炭坑ば取って遣るために、神聖な警察官吏をば使うて、人民の坑区をば只取りさせよるとナ」
「……そ……そんな事は……」
「ないじゃろう。アゲナ奴は金儲けのためなら国家の事も何も考えん奴じゃけんなあ。サア戦争チュウ時にアヤツ共が算盤ば弾はじいて、石炭ば安う売らんチュウタラ、仲い立って世話したアンタは、天子様いドウ言うて申訳しなさるとナ」
「しかし……しかし吾輩は……政府の命令を受けて……」
「……ハハハハハ……そげな子供のような事ば言うもんじゃなか。その政府は今言う三角とか岩垣とかの番頭のような政府じゃなかな。その政府の役人どもはその番頭に追い使わるる手代同様のものじゃ。薩州の海軍でも長州の陸軍でも皆金モールの服着た、金持のお抱え人足じゃなかな」
「……………」
「ホンナ事い国家のためをば思うて、手弁当の生命がけで働きよるたあ、吾々福岡県人バッカリばい」
「……………」
「熟じっと考えてみなさい。役人でもアンタは日本国民じゃろうが、吾々の愛国心まごころが解らん筈はなかろうが」
「……………」
 知事はいつの間にか腕を組んで、うなだれていた。今までの勇気は何処へやら、県知事の威光も何もスッカリ消え失せてしまって、如何にも貧乏たらしい田舎爺おやじじみた恰好で、横の金屏風にかけた裾模様の着物と、血だらけの吾輩の姿を見比べたと思うと、一層悄気返ったように頭を下げて行った。
 その態度を見ると楢山社長は、山羊髯から手を離して膝の上にキチンと置いた。一層物静かな改まった調子で話を進めた。
「私はなあ……この話ばアンタにしたいばっかに何度も何度もアンタに会いに行った。バッテンが貴下あんたはいつもおらんおらんちゅうて会いなさらんじゃったが、そのお蔭でトウトウこげな大喧嘩いなってしもうた。両方とも今停車場の処で斬り合いよるげなが、これは要するに要らぬ事じゃ。死んだ奴は犬死にじゃ」
「……………」
「そればっかりじゃなか。この喧嘩のために直方中は寂さびれてしまいよる。これはみんなアンタ方役人たちの心得違いから起った事じゃ」
「……………」
「あんた方が役人の威光をば笠に着て、無理な事ばしさいせにゃ人民も玄洋社も反抗しやせん」
「……………」
「その役人の中でも一番上のアンタが、ウント言いさえすりゃあこの喧嘩はすぐに仕舞える。この子供も熱心にそれを希望しとる」
「ナニ。その子供が……」
 と知事は唇を震わしながら顔を上げた。
「そうじゃ。この子供は直方町民の怨みの声ば小耳に挟んで喧嘩のマン中い飛び込うだとばい。生命がけで留めようとしてコゲニ血だらけえなっとるばい」
「ウーム」
 と知事は青くなったまま又腕を組んで考え込んだ。それを眺めていた楢山社長は、山羊髯をナブリ始めた。

     百七

 吾輩は自烈度くなった。
 これ位わかり易い話がドウして知事にわからないのだろう。今まで解からなかった喧嘩の底の底の理屈が、子供の吾輩にもハッキリと呑み込めたくらい噛んで含めるような談判をされているのに、まだ腕を組んで考えているなんて、ヨッポド頭の悪いアホタレに違いない。しかもそれを又、ニコニコ然と眺め遣りながら山羊髯を撫でまわしている楢山社長も楢山社長で気の長いこと夥しい。四の五の文句を言わせるよりも、手っ取り早く拳骨を固めて、ポカーンと一つあの禿茶瓶をナグリ付けたら宜よさそうなものと思ったが、そのうちに又吾輩は、最前からの談判を聞きながら、たまらない空腹を感じ始めている事に気がついたので、横合から楢山社長の顔を見上げながら尋ねて見た。
「オイサン」
「何かい」
 と楢山社長はニコニコしながら吾輩を振り返った。
「下で御飯喰べて来てええけえ」
「おお。そうそう。腹が減っつろうのう。ええとも、ええとも。お前だけ先に行て喰うて来い」
「ここい鯣するめと昆布を持っとるけんど……」
「ハハハハ。そげな物な喰わんでもよか。オイオイ誰かおらんか」
 と言ううちに楢山社長はポンポンと手を叩いた。すると直ぐに……ハ――イ……と言う返事が下の方から聞こえて、最前のお近という女が上って来たが、見るとまだ青い顔はしていたけれども、気分はスッカリ落ち着いたらしく、モウ震えてはいないようである。
「この子供に飯を喰わしてくれい。それから何か丁度ええ着物はないか」
「……あの……生憎男のお児さんのお召物が御座いませんが」
「ウム。何でも構わんがのう」
「……あの……女将さんの娘御の着古しをば私が頂いておりますが」
「ウムウム。それがええ、それがええ」
「ハハイ……かしこまりました」
 お近さんはそのまま吾輩の手を引いて下に降りて行った。見ると階段の下に続いている長廊下にはそこいらの女中と芸者を総動員した程立ち並んで何かしらヒソヒソと話し合っていたが、吾輩の姿を見ると皆一斉に口を噤つぐんでしまった。中には吾輩がまだ行かぬうちに顔色を変えて、廊下をコソコソと逃げ出す者もいたが、これは血だらけの吾輩とスレ違うのを嫌がったのであろう。
 お近さんはその中の二、三人に小さな声で、何か二言三言言い付けると、まず吾輩を湯殿に連れ込んで、雑巾でも抓むような恰好で着物を脱がせて、洗粉を身体中にまぶしながらスッカリ洗い上げてくれた。それから女中が持って来た袖の長い、赤と青の紋の着物を着せて、何か知らん桃色のキューキュー言う帯を巻き付けてくれたが、吾輩はその時に板の間に落ち散っていた鯣と昆布を両手で掃き集めて、シッカリと懐中に捻じ込んだので、お近さんは青い顔を急に真赤にしてクスクスと笑い出した。
 そこでやっと顔色の直ったお近さんは、吾輩を台所に連れ込んで、まだ生あたたかい御飯を喰べさせてくれたが、その副食物の種類の多かったこと……多分戸棚の中の余り物を総泄ざらいにしてくれたものであったろうが、何にしてもコンナに沢山の副食物を貰ったことは生まれて初めてだった。参考のため勘定してみると容れ物の数が十一あった。
「お近さん」
「ハイ」
「コレ……みんな喰べてええのけえ」
「……ヘエ……よござっせにゃあコテ……」
「……おお嬉し……」
 と吾輩は飛び上って喜んだのでお近さんはトウトウ声を立てて失笑ふきだしてしまった。
 ところが残念なことに吾輩は、その副食物を残らず平らげて見せる訳には行かなかった。
 否、全部どころか、まだ半分も片付けないうちに裏の方と表の方からと同時にワ――ッと言う鬨かちどきの声が起って、門の扉か何かをドカンドカンと叩く音が聞こえ出した。
 ところでその音を聞くと吾輩は直ぐに、これは玄洋社と磯政の同勢が喧嘩に勝ったので、この家をタタキ破りに来たものだと直感したが、しかし台所に集まっていた連中は、まだ何が何やら見当が付かなかったらしかった。ただ真青になって顔を見合わせているばかりであったが、その中に誰かがタッタ一口、
「玄洋社」
 と言う声が聞こえると、五、六人の男女が一斉に、電気に打たれたように悲鳴をあげた。同時に坐ったまま腰を抜かして這い出すものや、当なしに面喰らって右往左往に走りまわる者が、そこいら中をドタバタ言わせ始めたが、間もなく誰かが台所のまん中にブラ下がった洋燈ランプに行き当ったらしく、ガチャンガチャンと言う音と共に、四方が真暗になってしまった……と思う間もなく台所の板の間から一面に青い火がメラメラと燃え上り始めた。

     百八

「ウワ――ッ。火事火事ッ……」
「あらあ……火事じゃが、火事じゃがア……」
 と言ううちに二、三人走り寄ってタタキ消しかかったが、何を言うにも石油の火だからナカナカ思うように消えてしまわない。そのうちに板の間の床の下からムウ――と黒い煙が噴き出したと思うと、赤茶気た焔がメラメラと伸び上って、真黒な煤煙が吾輩のいる次の間まで一パイになってしまった。
 ウロウロしていた男も女も、これを見ると又もや悲鳴をあげて逃げ迷った。その中にお近さんの声がして、
「知らせにゃ、知らせにゃ……早よう、早よう……」
 と言いながらバタバタと走って行く足音がしたが、ソレッキリそこいら中がシンとして、ボロンボロンと燃え上る石油の音ばかりになってしまった。
 ところであとに取り残された吾輩はタッタ一人でドウしようかと思い迷った。お箸と茶碗を両手に持ったまま顔中にモヤモヤと群らがり蒐かかる煙けむりの渦巻きを撫でまわし撫でまわしていたが、やがてその渦巻きがズンズン室の外へ流れ出し始めて、板張りから燃え上る焔の光にヤッと眼の前のお膳が見え出すと、吾輩は又尻を落ち着けた。お手盛りで一杯飯を装よそいながら、残った副食物を平らげ出した。むろんそれは大急行おおいそぎで一番おしまいの楽しみに取っといた玉子焼を一番先に口に入れたくらいであったが、そのうちに又火が天井裏に入ったらしく、頭の上の天井板がミシリミシリと鳴り出したので、吾輩も少々慌て気味になって、最後の一杯をお茶漬にしながら、フウフウ言って掻き込んでいた。
 するとその時であった。今まで聞こえていた裏口の扉をタタキ破る音が、いつの間にか静まったと思う間もなく、台所の小潜り付きの大戸がメリメリバリバリと大音響を立てて内側へ倒れ込んだので、一旦内側へ靡なびいた天井の焔と煙が一斉に外へ流れ出し始めた。その光で見ると裏口から雪崩なだれ込んだ大勢の人間が、鳶口や竹槍で力を合わせて無理矢理に大戸をコジ離した事がわかったが、その連中が真正面から火気を浴びて、
「ウワア……火事ぞッ……」
「消防、消防……」
「井戸は何処かい、井戸は何処かい」
 と口々に叫んで雪崩退のく中に、タッタ一人両眼をカッと見開いて吾輩を凝視しながら、仁王立ちに突立っている大男があった。その男は頭に白い布を巻いていたのでチョット誰だか解らなかったが、よく見るとそれはハンマの源太で、両手に持った鉄槌ハンマが手首まで真赤に染っているのであった。
 そう気が付くと吾輩も、台所の次の間から板の間一面の焔を中に置いて、両手に茶碗と箸を持ったまま眼が痛くなる程睨み返して遣った。その序に口の中の蒲鉾と沢庵を、味噌ッ歯でモゴモゴと噛み始めたが、そうした吾輩の姿をハンマの源太の背後に犇ひしめいていた連中が見付けると、我勝ちにワイワイ騒ぎ出した。
「いるぞ、いるぞッ。子供がいるぞッ」
「真黒い顔して振袖ば着とるぞッ」
「また火放つけといて飯喰いよるぞッ」
「仙右衛門ば焼き殺した外道じゃろ」
「この序に片付けてしまえッ」
「ニコニコ笑いよる……不逞な餓鬼ばい」
「油断すんな。魔法ドグラマグラかけられるな」
 そんな文句を罵り立てて、手に手に吾輩を指ゆびさしながら押し合いヘシ合いしていたが、何しろ天井と床板から燃え上る焔が、見る見る猛烈になって来て、顔が熱くなる位なので、誰一人飛込んで来る者がない。それを見ると吾輩は急に面白くなって来たので、大急で沢庵と蒲鉾を嚥み込んで、お茶を一パイ呑み干すと無言のまま両手でベッカンコウをして見せた。
 すると、それと殆んど同時に、大砲の弾丸たまのような音がして、膝の前のお膳や皿が粉微塵になって飛び散ったので、吾輩は肝を潰して飛び退のいた。見るとハンマの源太が投げ付けたに違いない血だらけの鉄槌ハンマがお膳の破片の中に逆立ちをしている。これはと思って振り返るとハンマの源太はモウ一つ左手に持っている鉄槌を右手に持ち換えて、タッタ今投げ付けそうなモーションを執っていた。
 吾輩はその第二の鉄槌と殆んどスレ違いに室を飛び出した。その鉄槌が障子か襖かを突き抜けて、戸板を撃ち破る猛烈な音響を振り返りながら、取りあえず楢山社長の処に帰るべく手近い処にある二階段を馳け上ろうとすると、早くも二階へ火が廻っているらしく、白い煙が濛々と渦巻き降りて来る中から、逃げ迷ったらしい芸者が一人盛装のまま物も言わず真逆様に転がり落ちて来た。
 吾輩は又も少々面喰らいながら横に外それて、長い廊下を左へ一直線に走った。すると間もなく真正面に丸い月見窓が、薄い外あかりで透かして見えたので、コレ幸いと手を突込んで障子と雨戸を引き開あけて、二本渡した竹の棒の間から脱け出して見ると……何の事だ。
 外はお庭かと思ったのが広い往来になっていて人ッ子一人通っていない。ただズット遠くの町の角から梯子を持って出て来る二、三人の人影が見えるばかりである。月はもう西に傾いて、夜が明けかかっているのであった。
 吾輩はその人影に見付けられないうちに一散走りで右手の横町に逃げ込んだ。それから青柳の家と離れるように離れるように走り続けたら、間もなく鉄道の踏切を越えて山の岨道そまみちにかかった。そこでホッとして振り返ってみると、青柳の家は直方の町の真中で盛んに黒煙をあげて燃えている。
 それを見ると吾輩は急に恐ろしくなって又走り出した。
 昨夜の喧嘩も、今朝の火事も、直方中の騒動は何もかも、みんな自分一人で仕出かしたような気持ちになりながら、何処かわからなくなった山の中を滅法矢鱈に走った走った……走った……。

 底本:「夢野久作全集5」三一書房 1969年11月15日

 初出:「福岡日日新聞」 1931年9月23日から1932年1月26日まで連載

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    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。