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2014年2月22日 (土)

「犬神博士」夢野久作  11~20

     十一

 当世流に言うと吾輩の両親は、コンナ風になにかにつけて資本家根性丸出しであった。一厘一銭でも吾輩を搾取しないと、自分達の生活が脅かされるかのように考えているらしかったが、それでも男親の方はイクラカ温情主義の処がないでもなかった。
 吾輩が、懐中ふところに仕舞って置いた短い箸を出して、ボロボロの唐米飯とうまいめしをモソモソやっていると、その途中で、女親の眼を盗ぬすみながら蒲鉾だの、焼き肴ざかなの一切をポイと椀の中へ投げ込んでくれる事がチョイチョイあったが、これは今になってよく考えて見ると、単純な温情主義ばかりではなかったように思う。男親も吾輩と同様に、女親から絞られている組だから所謂同病相憐れむと言ったような気味合いがあったと同時に、吾輩の踊りに対して非常な同情を持っていたせいであったと思われる。つまり男親は、吾輩に踊りの手振りを仕込んでくれた師匠だけに、吾輩の天才に対しては深い理解を持っていたので、稼ぎ高の多し些なしにかかわらず、吾輩の踊りがピッタリと地唄や鼓に合った時には、吾輩自身は勿論のこと男親も嬉しくて嬉しくてたまらなかったらしい。その御褒美の意味でコンナ事をしたらしいので、吾輩も、その蒲鉾や干魚の一片を貰った翌る日は、前の日に倍して一所懸命に踊ったものであった。しかも女親から分けて貰った御本尊の飯の方はチットモ有り難くなくて、男親が投げてくれた蒲鉾の喰いさしの方がピーンとこたえるなんて、随分勝手な話だが、人間というものは元来ソンナ風なカラクリに出来ているものらしい。特に吾輩はソンナ種類の電気に感じ易く生まれ付いているのだから仕方がなかろう。
 そんな事で、とにも角にも汁椀に山盛りの唐米飯を片付けていると、そのうちにモウたまらない程睡くなって来る。ウッカリすると箸や汁椀を取り落して女親に叱られる位だ。
 そこでお先に床を取って貰って寝る訳だが、どうかすると飯を喰ってしまってもチットモ睡くない事がある。そうするとエライ事が見られるのだ。
 それは大抵、興業の途中で山門や拝殿に転がって午睡ひるねをした時か何かであったに違いないが、夕飯を喰ってしまっても睡くならないままに、寝床の中でモゴモゴやっていると、お膳を片付けた両親は、そのまま直ぐに差し向いでバクチを始めるのだ。
 そのバクチの戦場は普通の場合一枚の古座布団で、それをさし挟んで、真赤な、妖怪じみた大女と小男が、煤けたランプの光を浴びながら、花札を引いたり骨子さいころを転がしたりする。調子に乗って来ると男の方はイヨイヨ固くなって襟元を繕ったり、膝をかき合わせたりして気取り始めるのに反して、女の方は片肌脱ぎから双肌脱ぎになって、しまいには太股までマクリ出すから痛快だ。しかもその結果はと言うと、これが又一年三百六十五日、一度も間違いはないオキマリなので、十遍のうち七、八遍まで男親の方が負けるにきまっているから不思議である。そうして折角ひるまのうちに一厘半厘を争って領わけて貰ったお金をキレイに捲き上げられるばかりか、毎晩チョットずつ借りが出来るのが、積りつもってかなりの額に達しているらしい。
 そこで男親はいよいよ一所懸命になって、その借銭を返すべく、飯が済むのを待ちかねて、サア来いとばかり座布団を借り出して来る。座布団がない時には、古毛布でも褞袍どてらでも、何でも構わず四角に畳んで女の前に店を出す。それを見ると女はニヤリと笑って、
「又負けに来るのけえ……今夜頭痛がヒデエからイヤだよ」
 とか何とか口では言いながら、実はチャント期待している恰好で、ユタユタと男の方に向き直る。実はソンナ事を言って焦じらすのが女の一つの手なのであるが、男はむろん気付く筈はない。最初からカンカンになって、坐った時から眼の玉を釣り上げているのだから勝てないのは当り前であろう。
 のみならず、相手の女が百戦百勝する理由はモット深い処に在るのだからたまらない。

     十二

 吾輩は元来勝負事が大嫌いである。一方が勝てば一方が負ける事が最初から解り切っているのだから、これ位つまらない物はない。両方勝てば五分五分だからイヨイヨ詰まらない事になるのだ。
 ところがこの理屈は百人が百人とも骨の髄まで心得ていないから一度コイツに引っかかると止められなくなるのは、その百人が百人とも自分の運命に対する自惚れを持っているからだと博奕ばくち哲学の本に書いてあるが、成る程そう言われると一言もない。吾輩だって人生五十、七十は古来稀なりと言う事実は飽きるくらい見たり聞いたりしている筈であるが、目下の処ではいつまで生きるかわからない思惑買いで、ノウノウと山勘をかけて酒を飲んでいる。つまる処人間万事はバクチ心理から出来上っているので商売をするのも、学問に凝るのも、天下を取るのも同じ事、成功を夢みて働く以上、バクチ心理を伴わない仕事は一つもない。その中で運よく当った奴が歴史に載っているので、世界歴史は要するに賭博の当った奴の歴史と言う事になる。但しここにタッタ一つ例外があるのは源平屋島の戦いで、能登守教経のとのかみのりつねが、源氏の大将義経を狙って平家随一の強弓を引き絞った時に、スワ主人の一大事とばかり大手を拡げて、矢面に立ち塞がった佐藤嗣信つぎのぶだそうだ。つまり十が九つまで当らぬ積りだったと言うが、そこまで研究すると賭博哲学も当てにならなくなる。
 しかし万人が万人そうした意味の賭博心理を持っているのは否定出来ない事実であると同時に、その賭博心理をスポーツ化したバクチという奴が、いろいろな形式であらわれて来るのは、すべてのものの遊戯化を文化の向上と心得ている人間世界の事とて止むを得ない現象であろう。しかもそのスポーツには労力の報酬として受け渡しするお金を賭けるのだから悪い事にはきまっている。さもなくとも電車や自動車が足りないと言うくらい働き疲れている人間世界のただ中で、運動にも修養にもならない不生産的な時間をブッ潰すのだから、誠に相済まないスポーツに相違ないのであるが、しかもその相済まない気持ちが又、よくて堪まらないと言う奴が多いのだから遣り切れない。
 しかも、そうして又、その相済まない気持ちを楽しむ心理がモウ一ツ昂たかぶって来ると、今度は相済まない序に是非とも百戦百勝したい。
 どんなインチキ手段でもいいから、相手の金を全部巻き上げたいと言う絶対に相済みようのない気持ちを楽しむ心理にまで殺到して来るから手が付けられない。つまりバクチ中毒の第三期という奴で、この手の人間に比較すると、金を賭けるだけでインチキを知らない人間は第二期、金を賭けない奴は第一期という事になるだろう。
 吾輩の両親のうちでも、女房はこの第三期のパリパリで、男親の方は第二期のホヤホヤだったらしいが、第三期と第二期とではイクラ何だって勝負にならないのは当り前である。何の事はない、男親は女親にバクチの相手をして貰いたいばっかりに一生無代償で御奉公をしているようなもので、女親も又、その積りで夫婦になっているのだからコレ位馬鹿げた夫婦はなかろう。おまけにそうした馬鹿げた夫婦であることを二人ともチットも自覚しないで、毎晩夢中になって「めくったア」「振ったア」をやっているのだから馬鹿を通り越しているだろう。
 吾輩は子供だからそんな理屈はむろん解らなかったが、それでもそれ位の馬鹿馬鹿しさはたしかに感じながら、両親のバクチを眺めていた。すると又不思議なものでそんな冷評的なアタマで眺めているうちに、女親がやっているインチキ手段が一つ残らず判然わかって来たのには、子供心ながら驚いたね。
 今から考えると吾輩はインチキ賭博の方でも天才だったらしいね。生まれながらの第三期という奴だ。これでバクチが好きだったら今頃は臭い飯と上白米をチャンポンに喰っている訳だが、しかし嫌いだったからなおの事インチキがよく解ったのかも知れないだろう。
 女親のやっているインチキ手段は、博奕打仲間で「サシミツ」とか「テハチ」とか言う奴だったらしい。手の中に一枚か二枚都合のいい札を隠して置いて配る時に素早く差し換えたり、札を切る時に自分の記憶おぼえている札を自分の番に来るように突き合わせたりするので、ナカナカ熟練したものであったが、それでも煎餅布団の中から覗いていると、手付きが丸で違うからスグにわかった。どうして是がわからないのだろうとヒヤヒヤするのだった。
 しかし自分でやって見たいと思う気持ちには全然なれなかった。第一その頃の吾輩には金の有難味がわからなかったし、物心付いてからイジメられ通しで、正義観念が人一倍強くなっていたからね。
 ところが或る晩のこと、その吾輩が子供ながら憤然として起ち上らなければならぬ大事件が起った。小学校にも行かない年頃でバクチを打たなければならぬ言語道断な破目に陥った。
 その成り行きをこれから話すが、まあゆっくり聞き給え。

     十三

 それは忘れもしない吾輩が七歳の時の夏で、大牟田の近くの長洲ながすという処で長雨を喰った時だった。
 その頃の長洲と言ったら実にミジメな寒村であった。熊本へ行く街道の片側に藁屋根や瓦葺かわらぶきが五つ六つ並んでいるばかり。その北端の木賃の二階から眺めると、小雨の中を涯てしもなく広がった青田が海岸線で一直線に打ち切られている向うに、雲仙嶽がニューと屹立している。それが灰色の雲の中で幽霊みたように消えたり顕われたりするのを眺めているうちに、吾輩の背後うしろでは両親がコソコソ汚い座布団を持ち出して、パチリパチリと六百ケンを始めているのであった。
 吾輩はその音を聞きながら、ボンヤリと来し方行く末の事を考えまわしていたが、その時に吾輩が幼稚なアタマで考えていた事は今でもハッキリと印象されていて、現在の吾輩の生活に深刻な反映を見せているくらいで、実に堂々たる社会観であった。
 今までの話でも判然わかる通り、吾輩の育った家庭は、極度に尖鋭化された資本主義一点張りの家庭であった。何処の鳶とんびか鴉からすかわからぬ男女が夫婦になって、何処を当てともなく流れまわりながら、女が三味線を弾き出すと、男が唄をうたって鼓を打ち始める。それに合わせて、ヤハリ何処の雀かわからない吾輩が、尻を振り振りエロ踊りをおどる。その収入は一文残らず女親の懐中ふところに流れ込むように仕かけてあるので、その中でも一番過激な労力を提供する吾輩は、文句なしの搾取されっ放しであるが、いくらか理屈のわかる男親は、花札とサイコロのインチキ手段で絞り上げられる。そこに親子夫婦の関係が成立して、太平無事な月日が流れて行くので、根を洗って見れば三人が三人とも、縁もゆかりもない赤の他人同士というのがこの家庭の真相であった。
 だから今の赤い主義みたいに物質本位の根性玉で考えて行くと、この三人は血を啜すすり、肉を啖くらい合っても飽き足らぬ讐敵かたき同士でなければならなかった。一口でも権利義務を言い出したら忽ち大喧嘩になる筈であった。
 ところが妙なもので、人間という動物は犬猫みたように虚無的な、極端に合理的な世界には生きていられないらしい。そこに人情という奴が加味されて行くので、物事が何処までもトンチンカンになって行くのであった。話がスッカリ馬鹿げて来て、筋道の見当が付かなくなって、善悪の道理がウラハラのチャンポンになって、七ツや八ツの子供には考え切れなくなって行くのであった。その辻褄の合わない世の中の悲哀を、七ツや八ツの吾輩が何と言う事なしに感じていたんだからステキだろう。
 むろん吾輩はズット前から、今言ったような家庭の事情を察しるには察していたが、それがだんだんハッキリとわかって来るに連れて、何よりも先にそうした両親の生活が阿呆らしくて、焦燥じれったくて堪まらなくなって来た。他人から金を絞るのならばともかく、両親が内輪同士でコンナに無駄な骨を折って、金の遣り取りに夢中になっているのが苦になって苦になって仕様がなくなった。殊に女親のインチキ手段を発見して以来というものは、一層この不愉快がヒドくなって、毎晩寝がけになると、両親のバクチを止めさせる手段ばかり考えるくらい神経質になってしまった。
 しかし何を言うにも子供の事だから、適当な方法がナカナカ見付かる筈がない。つまる処モットお金が出来たらバクチを止めるのじゃないか知らん。それならばモットモット上手にお尻を振ればいい訳になるがと、その翌る日から茣蓙の外にハミ出すくらい跳ねまわったり「オワリガトウゴザイマス」を今までよりもズット悲しそうな声を張り上げて言って見たりしたが、無論何の効果もなかった。却って収入が殖えれば殖えるほど両親とも一所懸命になってバクチを打つ傾向が見えるばかりでなく、男親の借銭が目に立って増大して行くのが毎晩の二人の口喧嘩くちいさかいでもハッキリとわかって来るのであった。
 吾輩は悲観せざるを得なかった。同時に自業自得とは言え女親から引っかけられ通しでいる男親が可哀想で可哀想で仕様がなくなって来たので、何とかして男親をこのインチキ地獄から救い出す手段はないものか知らんとその時も、走馬燈まわりどうろのように明滅する雲仙嶽を眺めながらいろいろ苦心惨憺していたのであったが、そのうちに何だかそこいらが妙に静かになったので気が付いて振り返ってみると、両親はいつの間にかバクチを打ちくたびれたらしく、花札を枕元に放り出したままグーグーと八の字形じなりに午睡ひるねをしているのであった。それを見ると吾輩はフイッとステキな手段を考え付いたので思わず胸をドキドキさせたね。
 吾輩が花札を手にしたのは、無論、その時が初めてだった。しかも、コイツでインチキ手段を上手になって、女親をピシャンコにして遣ろうと言うので、早速練習に取りかかったものであった。
 まず女親の真似をして、一枚の札を手の中に振り込んで、残りの四十七枚の札を全部切って、最後の手札を配りがけに握り込んだ一枚を自分の処へ置く真似をしてみたが、最初は掌が小さいのでチョット巧く行きかねたけれども、慣れて来るうちに三枚ぐらいまでは何でもなくなった。それから今度は札の裏を記憶する方法を研究してみたが、これは札を切るのよりもズット易やさしい。封を切ったばかりの札ならともかく、二、三度使ったものだから一枚毎に眼印のない札はない。猪鹿蝶の三枚なぞは女親がした事らしく片隅に小さい爪痕が付いている有様だった。
 そこで正直の処を告白すると吾輩も少々面白くなって来たね。賭博ばくちというものってこんな容易やさしいものならば勝つぐらいの事は何でもないと思い思い、かねてから見覚えている役札を自分の方へ配る練習を幾度となくやっているうちに、又も大変な大発見をした。それは吾輩の指先の感覚がダンダン鋭敏になって来る事であった。

     十四

 眼をつむったまま指の先でチョット触っただけで、そこに現われている色模様が何でも判ると言ったら、世間の常識屋はトテモ本当にしないであろう。しかし生物の特殊感覚というものを研究した科学者は皆知っている筈である。七六つかしい理屈は抜きにしても、盲人めくらが他ほかの着物を撫でまわしながら、
「まあ結構な柄で……ほんとによくお似合いで……」
 なぞ挨拶をするのを見たら、成る程とうなずけるであろう。あんなのは盲人特有の知ったか振りか負け惜しみ位に思っている人があるかも知れないが、それは大変な間違いである。カンのいい盲人に取っては着物の縞柄や、散らしの模様を探り当てるのは大した困難な仕事ではないので、自分の娘に手探りで紅化粧をして遣って、お客に連れて行く瞽女ごぜさえあるくらいである。つまり普通の人間は、その眼の感覚があんまりハッキリし過ぎているので、色を指先で探る必要がないために、そんな感じが鈍ってしまっているので、吾輩みたような指先のするどい人間ならば、すこし練習をしているうちには、くら暗に慣れて物の形が見えて来るのと同様に、いろいろな色合いが指先に感じられて来ること請合いである。
 しかも今言うような実感は皆、一度も見た事のない色模様を指先だけで探り当るのであるが、吾輩のはソンナのに比べると何でもない。幾度も幾度も見飽きるほど記憶したキマリ切った毒々しい絵模様を触ってみるのだから気楽なものだ。チョット撫でるか押えるかしただけで、青丹なら青丹、坊主なら坊主とわかるように絵模様そのものがなっているのだから訳はない。おまけに裏の黒地や赤地のデコボコが一枚として同じ物はないのだから、二、三度札を切りまわしているうちには眼をつぶっていても札の順序がわかって来るのだ。
 しかもタッタそれだけの練習と記憶力の動かし方で、別段インチキを使わなくとも、相手の持ち札と、この次に出て来るメクリ札がわかるのだから、世の中に花札ぐらい馬鹿馬鹿しいものはないだろう。
 吾輩がそこまで練習をして結局文字通りに馬鹿馬鹿しくなって花札を投げ出してしまったのは、それから一週間ばかり後の事であった。しかもいつでも両親が眠っている間を狙って練習をしたので、チットモ気付かれないままで済んだ。そうしてそのうちにお天気がよくなったので、三人は又も、雨上りのカンカン照る日の下を、村々の鶏の声を聞きながら、久し振りの巡業に出かけなければならなかった。
 ところで夏になると吾々三人は日盛りの間三時間ばかり、キット何処かで午睡ひるねをするのであった。しかもなるべく田圃の仕事の忙しくない都会の夕方を狙って興業をするので、夜になっても吾輩は睡くない事が多かったから、両親のバクチをまぜ返す機会は充分にあった訳である。ところが又生憎あいにくな時には生憎な事が起るもので、この夏は三人がこの福岡に着くと間もなく、女親が何だかエタイの判らないブラブラ病気にかかって、大水で流れて来たような恰好をして木賃に寝込んでしまったので、バクチなんか打つ元気はトテもないらしかった。
 そこで吾輩は男親と二人切りで毎日稼ぎに出なければならなくなった訳であるが、これが吾輩に取って願ってもない幸福であったことは言う迄もない。第一寝がけに大嫌いなバクチを見なくて済む上に、男親がすこしずつ小遣を溜め込んでチョイチョイ吾輩に菓子を買ってくれる。その上に女親の三味線でウンザリさせられる事なしに踊り抜けると言うのだから、踊り好きの吾輩たるもの有頂天にならざるを得ない。花札の事なんかキレイに忘れてしまって、喜び勇んで稼ぎに出かけたものであった。恐らく吾輩の子供の時分で一番幸福な時季と言ったらこの福岡へ来てから一週間ばかりの間であったろう。
 ところがその幸福があんまり高潮し過ぎたために大変な事件が持上る事になった。二人の興業があんまり成功し過ぎて警察へ引っぱられる事になったのだ。
 吾輩の一行が泊っている木賃宿は、今の出来町の東の町外れで、大きな楠の木の在る近くであったが、その頃はまだ博多駅が出来立てのホヤホヤで、出来町の東口はまだ太宰府往還の出入口の面影を残していた。その店屋だらけの往来へ男親と一緒に初めて繰出した時に、男親は肥料車こやしぐるまの間で吾輩の耳に口を寄せてコンナ事を囁いた。
「福岡の町は警察が八釜しいよってに、あんまり尻振るとあかんで……」
 吾輩は大ニコニコで首肯うなずきながら男親を見上げた。きょうこそは本当に一心籠めて踊って遣ろうと子供心に思いながら……。

     十五

 その頃の福岡市の話をしたら若い人は本当にしないかも知れぬ。東中洲がほとんど中島の町一通りだけあったので、あとは南瓜かぼちゃ畑のズット向うに知事の官舎と測候所が並んでいて、その屋根の上に風見車がキリキリまわっているのが中島橋の上から見えたの、箱崎と博多の間は長い長い松原で、時々追剥ぎが出ていたの、因幡町の土手の町の裏は一面の堀で、赤坂門や薬院門の切れ途を通ると蓮の花の香が噎むせ返るほどして、月夜には獺かわうそがまごまごしていたの、西中洲の公会堂のあたりが一面の萱原かやはらであったの、西公園に住む狐狸が人を化かしていたのと言ったら、三百年も昔の事と思われるかも知れない。第一、そんな風では何処に町が在ったのかと尋ねる人が出て来るかも知れない。しかしそれでも、九州では熊本と長崎に亜つぐ大都会だったので、田舎ばかりまわっていた吾輩は、かなりキョロキョロさせられたものであった。
 吾輩はこの福岡市中を、父親の鼓に合わせて、心ゆくまで踊りまわって、心ゆくまで稼いだものであった。ところがさすがに福岡は昔からドンタクの本場だけあって芸ごとのわかる人が多かったらしい。男親の鼓調子にタタキ出される吾輩の踊りは、最初の約束通り全然エロ気分抜きの、頗る古典的なものであったが、却ってその方が見物を感心させたらしく、二十銭銀貨を一つや二つ貰わない日はなかったので、吾輩はトテモ得意になったものであった。生まれて初めて稼ぐ面白さを感じたように思った。
 その或る日の午後であった。男親と吾輩とは福岡部の薬院方面から柳原へかけて一巡すると東中洲へ入り込んで、町裏の共進館という大きな建築の柵内へ入り込んで、那珂川縁に並んでいる栴檀せんだんの樹の間の白い砂の上に茣蓙を敷いて午睡ひるねをした。これはこの頃夕方になると中洲券番のあたりへ人出が多い事がわかったので、夕方になってからそこを当て込んで一興業する準備の午寝ひるねであったが、やや暫く眠っているうちに、あんまり蟻が喰い付くので眼を醒ましてみると川一面に眩しい西日の反射がアカアカとセンダンの樹の間を流れてワシワシ殿の声が空一パイに大浪を打っていた。男親を振りかえって見ると、腐った蜊あさりのような口を開あいてガーガーとイビキを掻いている。
 その時であった。何処からか、
「チョットチョット」
 という優しい女の声がしたのでムックリ起き上って、キョロキョロとそこいらを見まわしてみると、木柵の向うから派手な浴衣を着たアネサンが、吾輩の顔を見てニコニコ笑いながら手招きしているのであった。
 吾輩はチョット面喰らった。コンナ美しいアネサンに知り合いはなかったから……。しかし元来見知りをした事のない吾輩は、すぐに茣蓙の上から立ち上って、チョコチョコ走りに柵の処へ来て見ると、そのアネサンの連れらしい肥った旦那が、そこにあった石屋の石燈籠の蔭に立って、やはりニコニコしているのが眼についた。
 アネサンは近づいて行く吾輩を見るとイヨイヨ眼を細くした。
「アンタクサナー。チョット妾達わたしたちと一緒に来なざらんナ。父ととさんも連れて……ナ……」
 と言い言い吾輩におひねりを一つ渡した。それを柵の間から猿みたいに手を出して受け取りがけに触ってみると、十銭銀貨が三枚入っている。吾輩は何故そんな事をするのか意味はわからなかったが、しかし、そんな意味を問い返す必要は毛頭ない金額であった。
 吾輩は眼を丸くしながら男親の処へ飛んで行ってゆり起した。そうして三十銭のおひねりを見せると、これも何だかわからないままねぼけ眼をこすりまわして、鼓と茣蓙を荷ぎ上げて、頬ペタの涎よだれを拭い拭い大慌てに慌てて吾輩のあとから踉ついて来た。
 立派な旦那とアネサンは、共進館前のカボチャ畠の間から町裏の狭い横露地に曲り込んで十間ばかり行ってから又一つ左に曲がると券番の横の大きな待合の前に出た。そこは十坪ばかりの空地になっていたが田舎の麦打場のように平かで、周囲の家にはまだ明るいのにランプがギラギラ点いていた。その中を夕方の散歩らしい浴衣がけの男女がぞろぞろしていたが、遠くの方の横町には大勢の子供が、
「燈籠燈籠灯とぼしやあれ灯ぼしやあれや。消えたな爺さん婆さん復旧まあどいやあれ復旧いやあれやア」
 と唄う声が流れていた。
 その声に聞き惚れてボンヤリ突立っていると吾輩の振袖を男親が急に引っ張ったので、ビックリして振り返ってみると、その空地のまん中に今まで見た事もない四枚続きの青々とした花茣蓙が敷いてある。男親はその一角にかしこまって鼓を構えている。その真正面に今の旦那とアネサンがバンコを据えて団扇を使っていたが、アネサンは赤い酸漿ほおずきを赤い口から吐き出しながら旦那を振り返った。
「見よって見なざっせえ。上手だすばい」
 旦那は二つ三つ鷹揚にうなずいた。見れば見る程脂切った堂々たる旦那で、はだけた胸の左右から真黒な刺青いれずみの雲が覗いているのが一層体格を立派に見せた。コンナ旦那は気に入るといくらでも金をくれるものである……と吾輩はすぐに思った。
 男親がその時に特別誂えの頓狂な声を立て、
「イヤア……ホウ――ッ」
 と鼓を打ち出した。吾輩は赤い鼻緒の下駄を脱いで、青い茣蓙の上に飛び上ると、すぐに両袖を担いで三番叟さんばを踏み出した。
 旦那とアネサンが顔を見交して黙頭うなずき合った。

     十六

 茣蓙の周囲にはモウ黒山ではない白山のように浴衣がけの人だかりが出来ていた。その中でチラチラと動く団扇や扇が、そこいらの二階のランプを反射して眩しかった。そのまん中で大得意になった吾輩は、赤い鼻緒の痕の付いた小さな白足袋を茣蓙一パイに踏みはだかって、色の褪めた振袖に夕風を孕はらませながら舞いまわった。
「三番叟」が済んで一足飛びに「奴さん」に移ると見物の中で「ウーン」と感心する者が出来て来た。竹のバンコの上のアネサンも団扇の手を止めて旦那と頻しきりに耳打ちしていたが、しまいにはそれさえしなくなって、二人ともバンコからズリ落ちるほど身を乗り出したまま動かなくなった。
 そのうちに銀貨や銅貨や、その頃出来たての白銅の生々しい光の雨がバラバラと降り出した。それを見ると吾輩が踊りながらの相の手に、調子よく身体を曲げながら、「オワリガトウ……ゴザイマス」を遣ったら見物が一斉にどよめいた。
 それはよかったが、その見物の中から頓狂な声が飛び出して、
「……ウーム……真実ほんな事言いよる。名古屋の方が大阪よりか遠か……」
 と言うより早く皆ドッと笑い出したのにはギョッとさせられた。成る程博多は油断のならない処だ。田舎とは違うというような感じをハッキリ受けたので、今一度ヒヤリとさせられた。
 けれども、そんな連中も男親の唄が「雪はチラチラ」に移ると又も「ウーム」と唸り出した。「おぼえとるおぼえとる」と言う者もあった。それから「棚の達磨さん」が済んで「活惚れ」が済んで「寝忘れた」「宮さん宮さん」「金毘羅フネフネ」とゴチャゴチャに続いて「踏破る千山万岳のーウ、書生さんに惚れエてエー」と来た時には、さすがの吾輩も踊り疲れて汗ビッショリになった。そうするとバンコの姉さんが吾輩を招き寄せて、懐中から取り出した小さな兎の足で、吾輩の化粧崩れを直してくれたが、そのうちに、
「ああ臭さ臭さ。あんた何日風呂い入らんとナ」
 と言ったので見物が又もやドッと笑い崩れた。
「ホンニなあ。可哀想に……」
 と言う者もあった。
 それを聞くと吾輩は心の底で大いに憤慨した。今まで踊って来た元気が急に抜けてしまったような気持ちでスゴスゴと茣蓙の上に戻ると、何を感ずったのか竹バンコ上の刺青の大旦那が、吾輩の足下に大きな一円銀貨をペタリと投げ出して、太いドラ声でわめいた。
「マット面白かとば遣れエ」
 吾輩は呆れた。一円銀貨なるものは見た事はあるが、それを貰おうなぞとは夢にも思わなかったので、その銀貨と旦那の顔を見比べながらボンヤリ突っ立っていたが、そのうちに、ゴソゴソと茣蓙の端から匐い出して来た男親が、その一円銀貨を恭しく押し頂いた上に額をコスリ付けてひれ伏した。黒痘痕くろじゃんこだから表情はよくわからなかったが、感激の余りガタガタ震えていたようで、そのミジメな恰好と言ったらなかった。
 けれどもその態度があんまり真剣なので、見物が皆シンとさせられていたようであった。何処か隅の方で……一円……三斗俵一俵……とつぶやく声が聞こえていたようにも思う。
 そのうちに茣蓙の隅に退却した男親が、細引絡からげの鼓を取り上げながら、何を唄い出すかと思うと誰でも知っている「アネサン待ち待ち」であった。見物は皆アンマリ詰まらない物を出したので失望したらしく、ザワザワと動き出して帰る者も四、五人あったが、しかし吾輩は、その唄い出しを聞くと同時にハッとした。
 何故かと言うとこの「アネサンマチマチ」は巡査が絶対に来ない村でしか遣らない一曲であった。つまりこのアネサンマチマチの一曲までは頗る平凡な振り付けに過ぎないので、普通の女の身ぶりで文句の通りのアテ振りをして、おしまいに蚊を追いながら、お尻をピシャリとたたく処で成る程とうなずかせるというシンキ臭い段取りになっていたのであるが、しかし是はその次に来る「アナタを待ち待ち蚊帳の外」の一曲のエロ気分を最高潮に引っ立てる前提としてのシンキ臭さに外ならなかったのだ。だから、お次の「アナタ待ち待ち」の文句に入ったら最後、ドウニモこうにも胡麻化しの絶対に利かない言語道断のアテ振りを次から次に遣らねばならない。そうしてそのドン詰めの「サチャエエ。コチャエエ」の処でドット笑わせて興業を終る趣向になっているので大方男親の手製の名振付だろうと思うが、タッタこの一句だけの要心のために吾輩が、いつも俥屋の穿くような小さな猿股を穿かされているのを見てもその内容を推して知るべしであろう。恐らく吾輩が好かない踊りの中でも、これ位不愉快を感ずる一曲はなかったのである。
 しかし吾輩が如何に芸術的良心を高潮させてみた処が、一円銀貨の権威ばかりはドウする事も出来なかった。今更に最初の約束が違うと言っても追付く沙汰ではなくなっていたので、泣く泣く男親の歌に合わせて「アネサンマチマチ」を踊ってしまって、ビクビクもので茣蓙の上にペッタリと横坐りしながら「アナタを待ち待ち」に取りかかっていると、まだ蚊に喰われないうちに、果せる哉、群集のうしろで、
「コラッ」
 という厳いかめしい声が聞こえた。同時にガチャガチャと言うサアベルの音が聞こえたので、吾輩はすぐに踊りを止めて立ち上った。群集と一緒に声のする方向を振り返った。

     十七

 その頃の巡査は眉庇ひさしの馬鹿に大きい、黄色い筋のまわった、提灯の底みたいな制帽を冠っていた。サアベルも今の佩剣はいけんの五倍ぐらいある、物々しいダンビラ式で、奉職するものは士族の成り下りが多いと聞いていたが、タッタ今、吾輩の踊りを大喝したのは、その士族の倅ぐらいの若い巡査であった。しかもわざと帽子を脱いで、佩剣の茄子環を押えて群集のうしろから覗いていたものらしく、そのままの姿勢で満面に朱を注ぎながら靴のままツカツカと茣蓙の上に上って来たが、帽子を冠るとイキナリ、吾輩の襟首と男親の襟首を、両手で無手むずと引っ掴んだ。
「怪しからん奴じゃ。内務省の御布告を知らんか。……拘留してくれるぞ」
 と言うより引っ立てた。
 男親はモウ鼓をダラリとブラ下げたまま土気色になって、死人のように横筋かいに伸びながらズルズルと引っ立てられた。吾輩も悪い事をしたと思ったので、悪びれもせずにうなだれたまま突立っていた。
 巡査はそこでいよいよ得意になったらしい。そこらをグルリと睨みまわしながら茣蓙の外に二人を引き出して、
「下駄を穿けッ」
 と怒鳴り付けて引っ立てようとしたが、その時にバンコの上の旦那がヤット立ち上って、巡査の前にノッソリと立ち塞がった。
「エエ……旦那……」
 と気取った声で言ったが、団扇を片手にニヤニヤ笑っている処を見ると巡査を物とも思っていないらしい。巡査はその態度に威圧されたように一足後に退りかけるとサアベルが足の間に引っかかったので、あぶなく尻餅を搗つきそうになった。それを吾輩の肩で支え止めながら慌てて、
「何じゃ貴様はッ」
 と怒鳴りかけたが、その拍子に立て直しかけた両足が、又もや自分のサアベルに引っからまって、今度は前の方へノメリそうになったので、群集が思わずゲラゲラと笑い出した。そこで巡査はイヨイヨ真赤になって、モウ一度怒鳴り立てた。
「何ジャッ。貴様は本官の職務の執行を妨害するのかッ」
 旦那はそうした巡査の昂奮を見ると、正反対に落ち着いた態度を執った。団扇を使い使い眼を細くした。
「イヤ。そげな訳じゃあがアせん。あっしゃア直方の大友と申すもので……」
 といかにも心安そうに反りくり返った。ところが又生憎な事にこの巡査は他県の人間か何かで大友親分の名前を知らないらしかった。ビクともしない大友親分の顔の前に自分の顔を付き付けて歯を剥き出した。
「それが何じゃッ。大友じゃろうがコドモじゃろうが、官憲の職務執行を妨害するチュウ法があるかッ」
 大友親分はこの巡査の頑固一点張りに驚いたらしい。団扇使いをやめて眼をパチクリさせた。そうして今度は態度を改めて、団扇をブラ下げると無恰好な不動の姿勢を取った。胸の刺青を取り繕いながら恭しく巡査に向って一礼した。
「そう仰言おっしゃると一言もがアせん。しかし高が町流れの乞食でがアすから……キット後来を戒めますから……」
「ナニ。何を言っちょる。後来は後来じゃ。本官は後来を咎めよるのじゃないぞッ。今の踊りを咎めよるんじゃぞッ」
「イヤ。そう仰言ると……」
「言う必要はなかじゃないか。後来を戒めるのは官憲の仕事じゃ。アーン貴様に法律の執行権でもあるチュウのか」
「イヤ。その……」
「黙れッ。第一貴様はタッタ今までこやつどもの踊りを喜んで見とったじゃないか」
「ハイ……」
 さすがの大友親分もピシャンコになって頭を垂れた。理の当然に行き詰まったらしい。そこで却って親分らしく見えて来た。吾輩も子供心にこの巡査の六法全書式論法が、訳はわからないまま痛快に感じられたので、大きくなったら巡査になろうか知らんと思い思い傾聴していた。
「来い……」
 と突然に巡査は言いながら男親の襟首を右手に移して小突き立てた。同時に襟首を放された吾輩はこれからどうなるかと言う事が急に心配になり始めたので、男親の袂にシッカリと縋り付いてチョコチョコ走りして行った。
「フ――ン。慣れとると見えてナア。泣きもせんばいナアあの子供は……」
 という声がその時に群集の中から聞こえた。しかし吾輩は何だかタマラなく恥かしくなったので振り返って見る勇気も出なかった。
 中島の橋のマン中あたりまで来ると巡査が男親の襟首を離したので、吾輩は何かしらホッとした。そうしてヤットうしろを振り返ってみると櫛田の大銀杏の向うの青い青い山の蔭からマン丸いお月様がノッと出て、橋の上の吾輩と向き合っていた。その光を見ると吾輩は妙に悲しくなった。
「モウ少し早くあのお月様が出てくれたらよかったのになあ。こんな事にならないで済んだかも知れないのにナア」
 というような理屈に合わない事を考えまわしながら、木橋の上をゴトンゴトンと小走りして父親の袂に縋り付いて行った。

     十八

 その頃の福岡警察署は今の物産陳列所の処に在った。自動車小舎を大きくした位の青ペンキ塗りの瓦葺きで、玄関の正面に直径一尺位の金ピカの警察星がはめ込んであったが、その当時では福岡市内唯一のハイカラ建築で、田舎者が何人も何人も立ち止まって見上げているくらいであった。
 男親と吾輩は、その玄関前の石段を追い上げられると、右手の留置所の前の訊問室の片隅に在る木製のバンコに並んで腰かけさせられた。そうして立派な建築に似合わない見窄みすぼらしい三分心のランプの下で、宿直の黒い髯を顔一パイに生やした巡査が立会いの下に、若い巡査から訊問される事になったが、男親は頭が膝の間に落ち込む程恐縮した恰好をしながら、蚊の鳴くような小さな声で巡査の言葉が終らないうちにオドオドと返事をして行った。吾輩は又吾輩で、窓越しに見える東中洲の芸者街の灯が、月を含んで青々となった那珂川の水にゆらめき流れるのを、夢のような気持ちで眺めながら、二人の問答を聞くともなく聞いていた。
「この児こはお前の本当の子か」
「ヒエ――。ワテエの女房が生みましたのや」
「つまりお前の子じゃな」
「さいや。ことし七つになります」
「チョットも似とらんじゃないか」
「ヒエ――。もとはよう似とりましたのんやけど、ワテエの顔がコナイになりましてからと言うものアンジョ……」
「フ――ン。とにかく誘拐したものではないじゃろな」
「ヒエ――。よう知りまへんけど七年前に夫婦になりますとアンジョ出来ましたのんや」
「ウーム。それはわかっとる。それはわかっとるが名は何というか」
「ヒエー。チイチイと申します」
「ナニ。チイチイ……」
「ヒエー。チイと申します」
「フム。一つだけなら一つだけ言え。二つ言う必要はない」
 と巡査は睨み付けながら、指の先に唾液つばをつけて帳面の上をこすった。
「ヒエー。どうぞ御勘弁を……」
「……そこでと……そこでお前の原籍は……」
「ヒエー。ワテ知りまへんのえ」
「フム。知らん。それならば山窩か、それとも……」
「ヒエー。サンカたら存じまへんがな」
「山の中に寝る乞食かと言うのだ」
「ヒエー。そない処とこへ寝たことおまへんのえ」
「木賃宿に泊っとるのか」
「ヒエー。踏みたおいた事一度もおまへんノエ」
「馬鹿、誰が踏みたおいたと言うたか、聞きもせん事言うな」
「そやから山に寝た事おまへんノエ。どうぞ御勘弁を……」
「わからん奴だな。本官の訊きいた事だけ返事せよと言うとるじゃないか。お前の名前は……」
「ヒエー、市川鯉次郎と申します」
「立派そうな名前だな。年は……」
「ヒエー。ワテよう知りまへんノエ」
「馬鹿。自分の年を知らんチュウのか」
「さいや……よう知りまへんけど若いうちに天然痘ほうそうしましてエライ難儀な目見ましてナ。とうとコナイな商売になりましたがナ。その時が十七やたら十八やたら言いましたけど、ワテにはようわかりまへんね」
「ははあ。白痴じゃったのかお前は……」
「ヒエー。バクチじゃおまへんね。ホーソだんがナ」
「イヨイヨわからん奴だな。お前の両親は……」
「ヒエー。ワテの両親は何処ジロアンジョしとるかも知れへんけど、ワテを放ひり棄ててアンジョにげよりました」
「フーン。生まれながらの孤児じゃナ」
「いえ。腹からの乞食じゃおまへん。ホーソするまでは役者しておりました」
「ナニ役者。その面でか」
「さいや。ええ男だしたがな立女形たておやまで……」
「プッ。イヨイヨ白痴だな。……そこで前科はないか」
「ヒエー、そないなものおまへん。情婦おなごは仰山いよりましたけんど、実のあるのは今の女房だけでやす。今患ろとりまして、吉塚の木賃に寝とりまんがな。わてヤ可哀想で可哀想で敵いまへんがナヘッヘッ……」
「馬鹿。泣いとるのか貴様は……」
「どうぞ御勘弁なさって下はりませや。女房子が……飢かつえて……死によりますよって……ヘッヘッ……ダ……旦那様ア……ア……」
 と言ううちに男親は手離しでオイオイ泣き出した。吾輩も何かしら堪まらなく馬鹿馬鹿しいような涙ぐましいように気持ちになって、汗の乾いた身体をモゴモゴとさせながら水洟をすすり上げた。
 すると最前から欠伸をしいしい横から様子を聞いていた髯巡査が、上役らしく膝を抱え直しながら笑い出した。
「アハアハアハ。こりゃあイカンイカン。オイ横寺巡査。手帳につけるのは止めた方がええ」
 若い巡査は不平らしく帳面と鉛筆を下した。
「全体君は何でコンナ者を引っぱり込んで来たんか。アーン」
「ハイ。その子供が風俗壊乱の踊りを踊っておりましたので……」
「その女の児がか……」
「ハイ……」

     十九

「フーム」
 と、髯巡査は大きな欠伸を噛み殺しながら、改めて吾輩の振袖姿を見上げ見下した。そうしていい退屈凌ぎという風に、黒いアゴ髯を撫で上げて、帽子をツルリと阿弥陀にすると、モウ一度片膝をグッと抱え上げた。
「ウーム。風俗壊乱も程度によりけりじゃが、子供じゃから高が知れとるじゃろう。ドゲナ踊りをおどったんかこの児が……」
 と髯の先で吾輩を指さした。若い巡査は自分が訊問されるかのように固くなって、髯巡査の方に向き直った。
「ハイ。そのアネサンマチマチとか言うのをこの男親が唄い出しますので……」
「ハッハッ。そりゃあ普通の流行歌じゃなッか。本官もヨウ知っとる……蚊が喰うて痒いと言うだけの事じゃ。チョットも差支えない」
「ハイ。ところがその……ソノ……踊りが怪しからぬ踊りで……」
 と若い巡査は又も激昂の気味で帳面と鉛筆を握り締めた。男親はイヨイヨ小さくなった。
「フーン。それはドゲナ踊りかな」
「ハイ。私には踊れません」
 と言い言い若い巡査は、腰から大きな西洋手拭を出して汗をふいた。
「アハハ。君に踊れチュウのじゃない。言葉で説明して見たまえと言うのじゃ」
「ハイ。それがその……実に言語道断な踊りで……トテモ私には説明が……」
「アハハ。成る程君は芸の方は不得手じゃったナ。ハッハッ。それならば論より証拠じゃ、オイ非人。貴様その娘の児をそこで踊らせてみい」
「ヒエー」
 と男親はバンコに両手を突いて尻ゴミした。
「遠慮する事はない。叱りもドウモせん。歌の文句だけでもええから唄うて見よ」
「ヒエー。どうぞ御勘弁を……」
 と男親はモウ一度尻ゴミをしたが、その拍子にアブナクうしろへ引っくり返りそうになった。それを見ると吾輩は、可笑しいよりも何よりも、男親の意気地のなさ加減が自烈度くなって来た。同時に一文も銭ぜにを投げないまま無理な注文を出して威張り腐っている二人の巡査が妙に癪に障って来た。警察でも何でも糞を啖えと言う気持ちになったのは吾ながら不思議であった。
 しかしソンナ事を知らない髯巡査はイヨイヨ調子に乗ったらしく、眼尻を垂らしてニタニタ笑い出した。
「ウム。勘弁して遣るから踊らせてみい。その風俗壊乱踊りチュウのをやらせて見い。……オイ娘の児、オジサンの前で一つ踊って見よ。ハハハ……踊ったら褒美を遣るぞ」
「いやヤ……」
 と吾輩は待ち構えていたように勢よくお合羽さんを振った。
「フ――ン」
 と髯巡査が面白そうに眼を光らした。
「踊らんと監獄へ遣るぞ」
「ワテ監獄に行きたい」
「……ナニ……」
「ワテ監獄に行きたい」
「フ――ン。何で監獄に行きたいんか。怖い処じゃぞ監獄は……」
「そんでも監獄へ行ったらアネサンマチマチ踊らんでもええから」
「アハハ。こりゃあナカナカ面白い児じゃぞ。お前はそんなにアネサンマチマチが嫌いか」
「アイ。銭投げて貰うて踊る舞踊おどりみな嫌いや」
「フーウ。ナカナカ見識が高いナ、貴様は……銭貰うて礼言うのが嫌か」
「礼は言わんがな。洒落言うだけや」
「ナニ洒落を言う?」
 男親が吾輩の振袖を引っぱった。しかし二人の巡査に睨まれて手を引っこめた。
「あい。オワリガトウゴザイマスと言うのや。ここから行くと名古屋の方が大阪より遠いと言う心や。最前一円くれた人には言うのん忘れたけど……」
 と言いさして吾輩は正面にいる若い巡査の顔を睨み上げた。
「ワッハッハッハッハッハッ」
 と髯巡査が天井を向いて反りくり返った。若い巡査も顔を真赤にしてうつむいた。
「アッハッハッハッ。ワッハッハッハッ。こりゃ愉快な奴じゃ。銭くれた奴こそエエ面の皮じゃ。アッハッハッハッ。愉快じゃ愉快じゃ、オイ横寺。君はええものを引っぱり込んで来たぞ」
 横寺巡査はいよいよ赤面して汗をふいた。すると髯巡査もすこし真面目に返りながら、吾輩の前に髯を突き出した。
「ウーム。しかしそれは子供にはチット出来過ぎた洒落じゃが、一体誰に習うたんか」
「父ととさんに習いました」
「この父さんにか」
「アイ。踊りも習いました。この父さんワテ好きや」
「ハハア母かかさんは嫌いか」
「よその人より好きやけど……」
 と吾輩はSの字形に身体を曲げた。すこし涙ぐましくなりながら……。髯巡査はイヨイヨ顔を近付けた。吾輩の答弁ぶりに何か曰くがありそうなのに気付いたのであろう。

     二十

「フフム。何故に父さんが好きで母さんが嫌いか。他所よその子と反対じゃないか」
「あい。そんでも毎晩母さんが、父さんに勝ちよりますよって」
「コレ……」
 と男親がたまりかねて吾輩を引き寄せようとした。それを髯巡査が一睨みして引き分けると、男親は真青になって震え出した。しかし吾輩は別に両親から口止めをされた記憶おぼえがないので、男親がコンナにふるえ上る理由わけがわからなかった。その様子を見て髯巡査はイヨイヨ眼を光らした。
「フーム。そんなに毎晩、夫婦喧嘩をするんか」
「アイ。イーエ。喧嘩やないけどバクチを打つのや」
「コレッ」
 と男親が又もタマリかねて近寄って来るのを髯巡査が、
「引っ込んどれッ」
 と大喝して押し退のけた。若い巡査はスワコソ一大事という風に、男親と吾輩との間に割り込んで腰をかけた。その横から髯巡査はイヨイヨ眼を光らして吾輩の顔を覗き込んだ。
「ハハア。バクチを打って父親てておやが負けるのか」
「サイヤ。毎晩父さんが負けて銭取られるよってワテが母さんを負かいて皆取り戻いて遣ろと思ったけんど、この間から母さんが病気しよったけんで、可哀想になって止めたんや」
「アハハ。こりゃあイヨイヨ出でてイヨイヨ奇抜じゃ。お前はその強い母さんに勝つ見込があるのか」
「アイ。何でもアラヘンがな」
「フーム。これは物騒じゃよ。それじゃあお前もバクチを余程打った事があるな」
「イイエ。バクチは嫌いやから打った事ないけど、勝つくらい何でもアラヘん。札の裏から一枚一枚手役が見えるよって……」
 と言ううちに吾輩はだんだん勢い込んで来た。髯巡査は面喰らったらしく顔を撫でまわした。
「ウウー。こらあイカン。この児は何か取り憑ついとるぞ。ノウ横寺巡査……」
 と言い言い眼をマン丸にした顔を吾輩にさし寄せた。
「ハイ」
 と横寺巡査も顔を撫でまわしながら、気味悪そうに吾輩を振り返ったが、吾輩はしかし臆面もなく言い張った。
「何も憑いとらヘンがな。札持って来て見なはれ。皆当てて見せるがな」
 三人が三人ともシインとなって、吾輩の顔を見守り始めた。吾輩も何で三人がソンナに驚くのか判らないままマジマジと三人の顔を見まわした。
 その時に表の玄関の方向で突然に甲走かんばしった女の声がした。と同時に下駄と靴の音がガタガタと石段を上って来たと思うと、最前の美しいアネサンと大きな風呂敷包みを抱えた小使らしい男が板張りの上へ案内なしに上り込んで来て大きな音を立てた。
「アラッ。どこい行たもんじゃろかい。あッ。此室ここいおんなざった。小使さん小使さん、チョトその風呂敷包みを此室に持って来ちゃんなざい。ああ暑つ暑つ。それからその署長さんの手紙は荒巻部長さんにイ上げちゃんなざい。……まあ……荒巻さんならチョウドよかった。御免なざっせえ。ああ暑つ暑つ」
 とアネサンは独りでペチャクチャ饒舌しゃべり立てながら、遠慮会釈なく吾輩が腰をかけているバンコの端にペタリと腰をかけた。鼻紙で汗を抑え抑え小さな扇を使った。
 荒巻部長というのは髯巡査の事であったが、小使が持って来た茶色の封筒を受取るとチョッと押し戴いた。帽子を冠り直して、威厳を正しながら読み終ったが、その眼を美しいアネサンの顔に移すと急にニタニタした笑い顔になった。
「フーン。直方の大友親分チュウのは、お主の旦那じゃったんか」
 アネサンはイキナリ扇を振り上げて髯巡査をタタク真似をした。そうして髯巡査が首を縮めた拍子にお尻を持ち上げて、横寺巡査の椅子に乗りかえた。
「まあ。嫌らっさなあ荒巻さんチュウタラ。アタシャそげなこと調べられエ来たとじゃ御座っせん」
「ホホオ。そんなら何しに来た」
「そこに書いてありましょうが。妾わたしゃ読み得きりまっせんばって……」
「ウム。その児は評判の孝行者にて、親を養わんがために犯したる微罪に相違なき旨、県会議員大友氏より内訴あり。穏便の処置を頼むと書いてある」
「そりゃあ微役に遣るなチュウ事だっしょ」
「ウム。その通りじゃ。よう知っとる」
「それで妾ゃあ。その児ば貰いイ来ましたとたい。あなた立ち会うてやんなサッセエヤ」

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