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2014年2月22日 (土)

「犬神博士」夢野久作 21~30

     二十一

 美しいアネサンの黄色い声で、場面がスッカリ急転してしまった。折角吾輩が花札の神技を見せて遣ろうと思っていた二人の警官と、吾輩の男親の視線は一斉に、吾輩を連れて行くという美しいアネサンの、ツンとした鼻の頭に集中した。そのアネサンの白いヒラキをかけた水々しい銀杏返しが何かしら物々しいものに見えた。
「ウーム。そうするとお前はこの児を引き取って育てようと言うんか」
 と髯巡査はモウ一度髯を逆撫でにして乗り出した。
 アネサンは無造作にうなずいた。その鼻の頭の処で、青い絹扇を使いながら、いよいよツンと反りかえった。
「まあ聞いちゃってんなざい。こげな仔細わけだすたい。この頃この子供の踊りが貴方ア、博多中の大評判だっしょうが」
「フーム。そうかなあ。俺あ知らざったぞ」
「イヤラッサナア。知んなざれんと。中券なかけんの芸妓げいしゃでもアレだけ踊り切る者なあなかちゅうて、言いよりますっちゃが」
「ハハア。成る程。そこでお前が憤慨したちゅう訳か」
「フンガイか何か知りまっせんばって、妾も中券のトンボだす。道ばたの非人と……アラ御免なざっせなあ……こげな子供と競せり合おうたあ思いまっせんじゃったけんなあ……ハハハハ……、宜よか加減くらい聞いとりましたところが貴方、チョウド一昨日の仏様迎えの晩だすたい。相券あいけんの蝶々さんとお座敷で会いましたりや、その話の出とりますったい。蝶々さんが貴方、アノ大きな眼んクリ玉ばマン丸うないて、まあ一遍あの子供の踊りば見てんなざい。妾や大浜のお恵比寿様えびすさまのお鳥居の下で踊りよるとば見て気色の悪うなった。トテモ大人おせにゃあ出来んと思うて感心しとったりゃあ、荷の腐るとも構かんまんな立ち止まって見とった魚市場いちばの兄哥あんちゃんから『ドウナ姐あねたん。アンタ達よか上手ばい』て言われて、返事の出来ん儘なりい赤恥かいて逃げて来た。それからあの子供ばあん儘い棄てとくたあ惜しかちゅうて、車引きさんに頼んで昨日一日探させたばってん何処さい行たかわからじゃった。アンタも一ペン見てんなざい。地唄も上方仕込みで口切れのよかばってん。踊リイ合うちゃ勝ち切らん。福岡博多であが程おどり切る者もんなあチョットおるめえやチュウ話だっしょうが」
「フーン。そんなに踊りが上手なんかお前は……」
 髯巡査は眼を丸くして振り返った。吾輩も臆面もなくうなずいた。皆唖然となった。
「そげな風だっしょうが、気色のよかの何のって……。生まれ付き爪外れの揃うとるとだすやなあ」
「そりゃあその筈じゃ。役者の子じゃから……」
「アラ。それがくさ……それが違うとりますっちゃが」
 とトンボ姐さんは髯面を扇であおぎ退のけた。
「この子供は貴方ア、拾い児で、何処の者もんやら解らんとだすが」
「ふうん。その通りか。コラッ」
 と髯巡査は男親を睨み付けた。男親は一縮みになってしまった。その男親の頭と、髯巡査の顔の間にトンボ姐さんは扇を突き込んで話を引き取った。
「チョット待っとっちゃんなざい荒巻さん。この子の親元があんまり詳しゅう解ると妾が困りまっしょうが。察しの悪かなあ貴方ア……」
「フーン、成る程成る程」
 と髯巡査は急に思い出したように苦笑しいしい頭を掻いた。若い巡査と吾輩の男親は不思議な顔をして眼をパチパチさせた。しかしトンボ姐さんは構わずに話を進行させた。
「まあ聞いて遣ってんなざい。こげな訳だすたい」
「ウンウン」
 と髯巡査はテレ隠しらしく顔を撫でまわして身体からだを乗り出した。
「あたしゃ蝶々姐さんからその話ば聞いて、あんまり不思議だすけん、昨日から心探ししよりましたとたい。幇間の淀八さんば大将にして、男衆やら、俥引きさんやら三、四人頼うでそこここ探させて見ましたったい」
「ふうむ。何でソンナに熱心に探したんか」
「そりゃあ……その……何だすたい」
 と今度はトンボ姐さんがチョット鼻白はなじらんだ。
「それがチョット言われん訳のありますったい」

     二十二

「言われんチュウても俺ならよかろうもん」
 と荒巻部長は大人物らしく反りかえって髯をしごいた。その顔をマジリマジリと見ていたトンボ姐さんは、やがていかにも真剣らしく顔をさし寄せて声を落した。
「人い言いなざんなや」
「うん言わん」
「言うたにゃ大事件おおごとになりますばい」
「ウン言わん言わん」
「こげんだすたい」
 とトンボ姐さんは又一段声を落した。
「……これだけ評判になっとる子供ばチョット相券に取られて見なざっせえ。中券の恥いなりまっしょうが貴方。蝶々さんにゃ済まんばってんが」
「フーン。成る程なあ。この頃中券はなにかに付けて相券と競争しよるからナ。ウンウン」
「その子供をばドウしても相券より先い見付けて、上方いのぼせて一廉かどのお師匠さん株いしょ、中券に置いとかにゃならんチュウて、意地いなっとりますったい」
「ふうん。まあだこの児の踊りをば、お前が見もせぬうちにか……」
「そりゃあ貴方。相券の蝶々さんが魂消たまがったて言いなさりゃあ、折紙の付いたようなもんだすけんなあ」
「ううむ。えらいもんじゃなあ。そこでその後ろ立てに大友が付いたチュウ訳か」
「それがだすたい。まあ聞いて遣ってんなざい」
 中券のトンボ姐さんが、これから手よう眼ようをして話し出した事実は、何だか妙に理屈っぽくて子供の耳には入りかねたが、何しろ自分の一大事と思って一所懸命で聞き分けた処によると、このトンボ姐さんと言うのはかなり勝気の気短もので、昨日から吾輩を探し出すべく、かなりヤキモキと慌てまわったものらしい。何でもカンでも相券の先を越して置きさえすればいいと言うので、昨日の朝から八方へ人を出して雲を掴むような人探しをさせながら、一方の金の工面を考え考え待ち構えている処に、探しに遣った連中の中の二、三人がいい事を聞き出して来た。何でもその踊りの上手な子供は出来町の方から毎日出て来るらしいという噂をきょうの正午ひる前に飯喰いかたがた報告して来たのであった。
 そこで今度はこの出来町の木賃宿を一軒一軒調べさせると果して、その子供の女親というのが、出来町名物の楠の木の木賃宿に寝ていることがわかったので、そんな談判に慣れた遊び人の何とか言う男を遣って、その児の引き取り方を掛け合わせると、その女親はナカナカ強硬で、容易に承知しなかったが、その何とか言う男は前以て、その児が現在の両親の子でないらしい噂を聞き込んでいた。しかも何処かで誘拐したものらしく、毎日ヒドイ目に会わしていることがチャントわかっていたので、そこを突込んで威おどかして行くと女親も身体の不自由な折柄とて閉口したらしく結局八十円で話がついた。今のところでは柳町で最極上の花魁おいらんの相場が五百円で行き止まりの世の中だから、八十円という相場はかなり張った相場であったが、急ぐ話だったからそこで見切りを付けて、手付をいくらか遣って木賃宿の亭主を保証に立たして来た。
 しかしまたカンジンの玉と男親が、どこをウロ付いているか見当が付かなかったので、明日の朝早く引取りに来る約束をして来たのであったが、とにかくそれでまず一安心をしたトンボ姐さんが、大友親分と連れ立って新築劇場の敷地を見に行った序に、共進館の前を通ると、運よく目的の親子の乞食が川縁の栴檀の根方に昼寝しているのを見付けたので、早速券番の前に連れて来て踊らせて感心しながら見ていると横寺巡査が飛び出して来て、風俗壊乱の廉かどでここへ引っぱって来た。そこで大友親分が署長さんの処へ二人引きで駈け付けて談判をする。一方にトンボ姐さんは取りあえず着物の算段をして、あとから署長さんの処へ押しかけたので、署長さんも気持ちようこの手紙を書いてくれた。
そこでその手紙を持って署長さんの家の男衆とトンボ姐さんとが待たせて在った二台の人力車くるまに乗って汗ダクダクでここへ来た訳であるが、何しろこの児のためではあるし、この児を拾ったのは女親で、男親ととさんは後から一緒になんなざったチュウ事じゃけん、可愛かろうがどうぞ承知して貰いたい。あなたには別に、女親かかさんに内密ないしょで手切金を二十円上げる。女親さんの手付の受取証文はここに在る。話がきまれば、すぐ女親の方へ人を遣って話をつけさせる。この児は裏の川縁で小使さんの盥ば借りて行水させて持って来た着物ば着せて、今夜から妾が抱いて寝て遣る。貴方だち夫婦もどこか別府あたりで小間物店でも出いて暮らしゃあ、その方が気楽でよかろう。大友親分の言う事をば聞いときゃあ悪い事あなか。済みまっせんばってん承知して遣んなざい。荒巻部長さんも署長さんの代りい立ち会うて遣んなざい……と言ったような訳で、トンボ姐さんは一息にまくし立てると、又も暑い暑いと言って扇づかいを始めるのであった。

     二十三

 荒巻巡査部長は腕を組みながらトンボ姐さんの雄弁を傾聴していた。しまいにはシッカリと眼を閉じて、気味の悪いほど恐ろしい顔をしいしい、時々思い出したように髯をしごいて思案をしているらしかったが、トンボ姐さんの話が終ると、やっと思案がきまったらしく、おもむろにうなずいた。そうして徐しずかに眼を開くと、今までとは打って変った威厳のある態度で両手をチャンと両膝の上に置いてトンボ姐さんを見下した。
「……ウーム。いかにも。お前の言う事はよう判った」
「ありがとう御座います」
 とトンボ姐さんは慌てて頭を下げた。荒巻巡査はそれを押し止めた。
「まあ待て。礼を言うのはまだ早い。まだ俺の合点の行かん事がタッタ一つある」
「ヘエ」
 とトンボ姐さんは急に暗い顔になって髯巡査を見上げた。髯巡査はその顔を半眼に見下して咳払いを一つした。
「ほかでもないのじゃ。お前がこの児を引き取るのはまあええとして、もしこの後にこの児の本当の親が出て来た時には、文句なしにこの児を引き渡すかどうか」
 トンボ姐さんの顔が又急に明るくなった。髯巡査の前に逆立ちする程頭を下げた。
「ヘエー。そりゃあ渡しまっせにゃあこて。大友さんも人い知られた顔だす。妾も中券のトンボだす」
「俺が転任しても、その言葉に間違いはあるまいな」
 トンボ姐さんの顔が又サット緊張した。見る見る真青になって、眼をキリキリと釣り上げながら、髯巡査を睨み返した様子の恐ろしかったこと……眥めじりに涙がニジンでいるようにも見えた。そうして唇をブルブルと震わしながら言った。
「ヘエエ……あたしゃドウデが芸者だす。お客ば欺だますとが商売だす。……ばってんが……バッテンガ巡査さんば欺さにゃならんようなお粗末な事をばした事あー一ペンも御座いまっせん」
 と言い切って唇をキリキリと噛んだ。
 荒巻巡査は、しかし返事をしなかった。依然として緊張した表情を、そのまま男親の方に向けると重々しい口調で命令した。
「お前はこの児を女に渡せ。直方の大友親分が引き取るのじゃ。文句はなかろう」
「ヒエ――」
 と男親は一縮みになった。その拍子にズルズルと腰掛バンコの端からズリ落ちてベタリと坐り込むと、塵埃ごみだらけの板張りに両手を突いてヘタバッタ。しかし髯巡査は、眼じろぎもせずに言葉を続けた。
「お前達夫婦は元来野合なれあいの夫婦じゃろう。のみならずこの児は、何処からか誘拐して来たのじゃから、正式に咎とがめ立てすれば誘拐罪が成立して、お前達は懲役に行かんけりゃあならんのじゃぞ。ええかわかったか。……のみならず、お前達は旅から旅へ流れ歩く者じゃから、お前達にこの児を渡して置くと、いつ本当の両親に会えるかわからん。そんな機会はまずないと言うてもええのじゃ。しかるにこの女に渡してさえ置けば、この児はキット名が高うなる。そうすればいつかは両親にめぐり会う機会が出来るというものじゃ。ええかお前達もこげな小さい子供ば残酷むごい目に会わせて、ワイセツな尻振り踊りをおどらせて、道ばたで非人がするような苦労をせずとも、何か小さい商売を始めて、気楽な身体からだになった方がええではないか。な……そこを考えて俺が立ち会うて遣るのじゃ。どうじゃ理解わかったかええ……コラ。わかったかと言うのじゃ。返事をせんか」
「ホンニイ済みまっせんばって……」
 とトンボ姐さんも半分ばかり顔色を和やわらげながら言葉を添えた。

     二十四

 吾輩は少々癪に障って来た。お金の力と警察の力で無理矢理に吾輩を今の両親から奪い取ろうとしている髯巡査とトンボ姐さんの目論見もくろみが子供心にもハッキリと判明わかったように思ったので、どうしてくれようかと思いながら、キッカケがないので黙って見ていると、男親の方はモウ髯巡査の説論にスッカリ叩き付けられてしまったらしく顔を上げる力もなくなったかして泥だらけの板張りの上にヘバリ付いてしまって、メソメソ泣いては水洟をすすりあげ、すすりあげては涙をこすり付けていたが、あんまりいつまでも返事をしないので、トンボ姐さんが自烈度くなったと見えて、髯巡査にチカット眼くばせをすると、帯の間から用意して来たものらしい紙包みを取り出して、ひれ伏している男親の手の甲に載せた。
「それならドウゾ。承知してやんなさいなあ」
 と念を押すように言い言い元の椅子に返った。
 すると男親はドウヤラ泣き止んだらしく、女のように袖口で両眼をコスリコスリ金の包みを取り上げて額に当て押し戴こうとしたが、かの時遅くこの時早く我慢し切れなくなった吾輩は横寺巡査の前をチョロチョロと走ってその金の包みを男親の掌から取り上げるとすぐに、トンボ姐さんの膝の上に投げ返した。
 二人の巡査と姐さんは勿論のこと、男親も口をあんぐりと開いて、包みを押し戴いた恰好のまま吾輩の額を見上げた。
 その中で吾輩はピッタリと男親に寄り添うて肩に両手を廻した。
「ワテエ。アネサンの処へ行くのは嫌や。父ととさんと一緒にいるがええ」
 四人の大人はイヨイヨ唖然となった。髯巡査はモウ一度物々しく腕を組み直した。
 トンボ姐さんの眼に涙が一パイ溜った。それを鼻紙で押えるとイキナリ吾輩の傍へ走り寄って背中を撫でた。
「ホンになあ。こげな親孝行な児ばなあ」
 とトンボ姐さんは水洟をすすり上げたが、又もや髯巡査と顔を合わせると二つ三つうなずいて、唾つばきをグッと嚥み込みながら鼻の詰まった声で吾輩に言い聞かせた。
「あのなあ。ようとききなざいや。あんたの父ととさんと母かかさんな、外の処いおんなざるとばい。あんたの帰って来なざるとば待ち焦こがれとんなざるとばい。そのホンナ父さんと母さんの処へ妾が連れて行て上げるとじゃ故けんな……あたしが言う事ば聞きなざいや」
「ワテエ。父さんも母さんもモウ要らん。この父さんと母さんと、二ふたア人りだけでモウ結構や……」
 トンボ姐さんの眼に泪が又も一パイになった。
「ふうん。なあ。どうしたまあ親思いの……」
 と言いさしたが、その泪を拭い拭い髯巡査の顔を見上げると、絶体絶命の恰好で吾輩の前に顔をさし寄せた。
「あのなあ。この姐さんナア、ホンな事言いよりますとばい。あんたがなあ。妾の処へ来なざれあナア。毎日敲たたかれも蹴られもせん……」
「蹴られても宜ええ。踊りおどるのが好きや」
「踊りゃイクラでも踊られるけん……」
「この父さんの歌でのうて踊るのは嫌や」
「……まあ……どうした解らん人じゃろうかいなあ。この父さんは、これから毎日あんたの処へ来なざるとばい」
「嘘や。父さんと母さんは、お金を貰うたら、ワテエを棄てて何処かへ去いんでしまうのや」
「まあ。どうしたまあ物の解った……わからん人じゃろうカイナア……それならチョット見てんなざい。こげな美しい着物ば毎日着せて上げるとばい」
 と言いながらトンボ姐さんは、手早く傍の風呂敷包みを解いた。その中の折り畳んだ新聞紙の下から、今まで見た事もないような美しい振袖と、端の方に金筋の入った赤いシゴキ帯と、鈴の入ったカッポレを出して吾輩の鼻の先にブラ下げて見せながら、最前大友親分にして見せたような笑い顔をニッコリとして見せた。
 吾輩はイヨイヨ腹が立って来た。今まで担がせられた荷物でさえ重たくて堪まらないのに、この上に着物が殖えてたまるものか。大人というものはどうしてコンナに聞き分けのないものだろう……どうぞ来て下さいと手を下げて頼めば、何もくれなくとも踊りに行って遣るのに……と思いながら返事もせずに男親の肩に縋り付いていると、今度は髯巡査が、大きな目を刮むいて吾輩を睨み付けた。
「コラ。言う事を聴かんと懲役に遣るぞ」
 しかし吾輩はチットも怖くなかった。子供ながらこっちの方が正しいと思っていたから平気の平左であった。
「懲役に行ってもええ。父さんと母さんと一緒ならどこへでも行く。これワテエの父さんや」
 と男親の背中越しに首ッ玉へカジリ付いた。
 ところが吾輩がこう言うと間もなく室中に不思議な現象が起った。
 髯巡査の目から涙がポロポロ流れ出した。ちょうど棕梠しゅろ箒に小便を放ひりかけたように……。トンボ姐さんの目が真赤になった。首を切り落される魚のように……。男親が四ツン這いになったまま、身体をゆすり上げゆすり上げして、エヘッエヘッと区切りを付けて泣き出した。この頃毎日見る機関車の止まりがけのように……。その中央まんなかに坐った横寺巡査が両方の二の腕で涙を薙ぎ払い薙ぎ払いし始めた。
 吾輩は可笑おかしいのを我慢しながらニコニコと見まわしていた。

     二十五

 吾輩は四人の大人が代る代るシャクリ上げては涙を拭き拭きしているのを面白そうに見まわしていたが、あんまりいつまでも泣き止まないので自烈度くなって来た。その上にお臍のまわりから背骨の処へかけてグルグルと言う物音が廻転し始めて、急にお腹が空すいて来たので男親の耳へソット口を寄せて、
「帰らんけえ」
 と囁いた。
 吾輩がそう言うと男親はピッタリと泣き止んだが、ジット考え込んだままナカナカ起ち上ろうとしなかった。これは多分、木賃宿に寝ている女親の事を思い出したので、あんまり遅くなったからと言って叱られはしまいかと心配しているらしかったが、これは吾輩も同感であった。都合によってはこのまま男親と一緒にどこかへ逃げて行ってもいいと考えながら、男親の首すじへアゴを載せていると、そのうちに漸やっと、トンボ姐さんが泣き止んで口を利きき出した。
「アーア。泣かせられた。こげな親孝行な子供あなか。一夜添うても妻は妻ばいなあ」
「馬鹿」
 と髯巡査が姐さんを睨み付けた。
「それとコレとは訳が違うぞ」
 トンボ姐さんの顔が泣き笑いに変った。
「おんなじ事だすたい貴方ア、一晩抱かれても親は親だっしょうもん。お蔭で妾ア自分の親不孝まで思い出させられた。両親の言う事をば聴かんナ芸者になったりして……あアあア。芸者ば止めとうなった妾ゃア」
「勝手に止めて帰るが宜ええ」
 髯巡査はイヨイヨ不機嫌な顔になった。
「その両親がモウ死んどりますったい。アハハハハハハ」
「……コ……この馬鹿奴ばかめえ……親が死んだチュテ笑う奴があるか。よくよく親不孝な奴じゃなあ貴様ア……ええコレ……」
 と髯巡査が掴みかからんばかりに身体からだを乗り出した。その剣幕を見るとトンボ姐さんはビックリして身を退ひきながら、急に笑い顔を呑み込もうとして眼を白黒さした。
「あたしが悪う御座んした。親孝行には勝たれません」
「勝たれんのが当り前じゃア、親不孝作りが商売じゃもの……」
 と言い言い髯巡査はヤット自分の椅子に落ち着いた。その顔をジロリと横目で見い見いトンボ姐さんは、ヤケに襟を突越した。唾液つばをグッと嚥み込みながらキッパリとうなずいた。
「何でもよございます。こうなりゃ妾も中券のトンボだす。意地でもこの児ば両親込みに引き受けて匿かくまいます。二度と非人ナアさせまっせん。大友さんにゃ妾から承知させます」
「ウムッ。よしっ……」
 と髯巡査が突然に大きな声を出したので、皆ビックリしてその顔を見た。その中で髯巡査は皆にわかるように幾度も幾度も首肯いて見せながら眼を光らして一同を見まわした。
「ヨシッ。それで話の筋が通るようになった。俺も立ち会うて大友君を説き伏せて遣る」
「ありがとう御座います。ホンニ済みまっせん」
 髯巡査は又もうなずきうなずき威儀を正して男親を振り返った。
「わかったか」
「ヒエー。わかり……ました」
「ウム。よしよし、それならば、モウ用はない。この事を帰って女親によう話せよ。そうしてこちらから誰か行くまで何処へも出ずに待っておれ。違背すると承知せんぞ」
「ヒエー。わかり……ました」
「これというのもこの児の親孝心のお蔭じゃ。これから決してこの児を粗末にする事はならんぞ」
「ヒエー」
「女親にもヨク言うて聞かせよ」
「……か……かしこまり……ました。ヒエ――ヒエ――……」
「よし。わかったならモウ晩おそいから帰れ」
「チョット待っちゃんなざい」
 とトンボ姐さんが白い手をあげて制し止めた。そうして御飯でも喰わせるのかと思ったらコンナ事を言い出した。
「チョット待っちゃんなざいや。着物の寸法ば合わせてみるけん」

     二十六

 気の早いトンボ姐さんは、吾輩をモウ自分の抱え妓こにしたかのように思い込んでしまったらしい。躾のかかった振袖と帯を取り上げて左腕に引っかけながら、チョコチョコと吾輩の傍へ寄って来た。そうして男親の背中に凭もたれている吾輩を狎なれなれしく引き起して、赤い振袖に両手を通させて、これ見よがしにタメツすがめつし始めた。
「まあ。ちょうど良かたい。立派な別嬪しょうもんさんばい。なあ荒巻さん」
「うむ。行く末が案じられる」
「要らん事ば言いなざんな。この児は何事なんでもわかるとじゃが」
「ハハハハハ。この姐さんが如なりさいせにゃ良か」
「なりまっせん……。あたしゃ親孝行者もんだすけん、トンボ姐さんた違いますッて言いなざい……ばってんがチョット身幅の狭かごとある。チョット帯ば解いてんなざい」
「おい横寺君。ソッチから帯を解いて遣り給え」
「イイエ。よう御座す。妾が……アラ済みません」
 と言ううちに二人がかりで吾輩を丸裸体にしてしまった。
「アラ。此人あ出臍でべそばい。嫌らっさなあ」
「アハハ。これ位なら治るもんじゃよ」
「そうだっしょうか……そうしてアナタア猿股ば何ごと穿いとんなざるとナ。こげな穢きたなか猿股をば……」
 とトンボ姐さんは不審そうに吾輩に問うた。ところが吾輩も実は猿股を穿かせられている理由をこの時までは知らなかったので、至極単純にお合羽頭を振った。
「ワテエ知らん」
 トンボ姐さんはチョット妙な顔をして吾輩を見上げた。そうして手早く爪の先で猿股の紐を引いてスッポリと下に落したが、
「アラッ」
 と言ったなりにヒンガラ眼をして真青になってしまった。ちょうど吾輩の出臍の処に喰い付きそうな顔で気味が悪くなった位であった。それと同時に吾輩の足下に坐っていた男親がゴソゴソと縮まって、頸を抱え込みながらブルブルと震え出したので吾輩はイヨイヨ不思議な気持ちになった。
「何じゃ何じゃ、どうしたんか」
 と髯巡査がトンボ姐さんの銀杏髷越しに覗き込んだ。それに釣り込まれて横寺巡査も、吾輩のうしろからさし覗いたが、二人とも同時に腰かけの上にドタンと尻餅を突いて引っくり返らんばかりに噴飯ふきだした。
「ワッハッハッハッハッハッ」
「ウワアッハッハッハッハッ」
 それは文字通りに笑いの大爆発であった。二人とも靴で床板をガタンガタンと踏み鳴らして笑いコケた。制服の手前も何も忘れて、胸を叩いて、横腹を押えまわって、涙と汗を拭いもあえず右に左に身体を捻じりまわったが、しまいには眼が眩くらみそうになったらしく、横寺巡査は慌てて立ち上って、室の隅のテーブルに逃げて行こうとした拍子に、又も自分の佩剣に引っかかって、物の見事にモンドリ打って、髯巡査の前に引っくり返った。そのまま机に匐い付いて、尻を押え押え笑いこけた。それが可笑おかしかったので吾輩もついゲラゲラと笑い出した。ビックリして顔を上げた男親も思わずプーと吹き出してしまったので、トウトウ室中がクンクンゲラゲラアハハハハという笑い声だらけになってしまった。
 しかしその中でトンボ姐さんはタッタ一人笑わなかった。振袖を床の上に取り落したまま白い眼をギョロギョロさして、吾輩の顔と股倉とを何度も何度も見上げ見下していたが、やがて幽霊にでも出会ったかのように血の気のない唇をワナワナと動かした。そうして独り言のように気の抜けた声で問うた。
「あなたア男だすな? モシ……」
「ワテエ知らん」
 と吾輩は笑い止めて答えた。あんまりトンボ姐あねさんの態度が真剣ったので……。
 しかし吾輩の返事を聞くと荒巻髯巡査もトウトウ我慢が出来なくなったらしく、帽子を落っことして、禿頭を丸出しにしながら、テーブルの処へ逃げて行った。横寺巡査と差し向いに板の平面に匐い縋って、テーブルの奪い合いを始めた。
 それをジッと睨みまわしたトンボ姐あねさんは、これも泥だらけの床の上に匐い付いて笑っている男親の背中にチョット眼を配ると、又も吾輩の顔を見つめた。額のまん中に青すじを立てて唇をギリギリと噛んだ。
 吾輩も指を啣えたまま、その顔をジッと見上げていた。

     二十七

 そのうちに丸裸体のまま吾輩は少々寒くなった。元来みんなが何故こんなに笑いころげるのか、そうしてトンボ姐ねえさんが何故こんな怖い顔をするのか、チットモ見当が付かなかったので、キョロキョロと室の中を見まわしながら、早く着物を着せ換えてくれるといいと思っていると、そのうちにトンボ姐さんがヤット魘おびえたような声を出した。
「あなたあホンナ事い、自分で、男か女か知んなざれんと?」
 吾輩はモウ一度無造作にうなずいた。
「知らん。そやけどドッチでもええ」
 トンボ姐さんはいよいよ我慢し切れなくなったと言う見得で、だしぬけに金切声を立てて吾輩にシガミ付いた。
「どっちでもええチュウがありますかいな。歯掻はがいタラシ気げなかこの人ア。大概知れたもんたい。セッカク人が足掻あがき手掻たがきして福岡一番の芸妓い成いて遣ろうとしよるとい……」
「芸妓さんは嫌いや。非人がええ」
「太平楽ば言いなざんな。芸者いどうしてなられますな。こげな物もんば持っとって……こりゃあ何な……」
「チンコじゃがな」
「こげなもんをば何ごと持っとんなざるな。馬鹿らしげなか」
「モトから持っとるがナ」
「そりゃあ解っとります。後から拾い出いたもんなあおりまっせん。バッテンが持っとるなら持っとるごとナシ早よう出しんしゃらんな。フウタラヌルカ……」
「アホラシイ姐さんや。早よう出せて、ここで小便されるかいな」
「小便も小便。大小便じゃないな。見てんなざい。何もかんもワヤいなってしもうて……」
「まだ小便しとらヘン。これから小便するのや。最前から辛抱しとったんや……」
「……知らんッ……」
 とトンボ姐さんは吾輩を突き離した。床の上に落ちた美しい振袖と帯を拾ってツンケンしいしい椅子に帰ったが、まだ腹が立っているらしく吾輩を睨んでいる。
「……モ……モウ……堪えてくれい。カンニンしてくれい」
「ああ。死に死ぬ。アハ……アハ……モウいかん……」
 と言う二人の巡査の声が同時にテーブルの上から聞こえた。トンボ姐さんは恨うらめしそうに唇を噛んでその方を振り返ったが、
「喧嘩過ぎての棒千切りてこの事こったい。ホンナ事オ……」
 と吾輩を睨み付けながら言った。しかし吾輩は別段睨まれるオボエがなかったから、指を銜くわえたまま睨み返して遣った。その吾輩の足もとへトンボ姐さんはチリメンの着物を包みごと投げ付けた。
「持って行きなんせえ」
「いらん」
 と吾輩は下駄で蹴かえした。包みの中でカッポレの鈴がチロチロと鳴った。
「まあまあそう腹立はらかくな」
 と髯巡査が言い言い席に帰って来た。横寺巡査の西洋手拭いで顔を撫でまわして、無理に真面目な顔を作りながら……。
「男の児なら男の児で話のしようがあるじゃないか。これ程の孝行者じゃから、大友君に話したら何とかしてくれるじゃろう……アハ……アハ……」
「あなた話いて遣んなざっせえ」
 とトンボ姐さんは投げ返すように言った。
「コゲエナ恥掻いた事あなか。両親も両親たい。往還バタで拾うた男の児ば知らん振りして芸者い売ろうとして……詐欺さぎだっしょうもん、こらあ」
「ヨシヨシ。俺が知っとる。コラ非人。貴様達はモウ帰れ。そうしてこちらから通知するまで木賃で待っとれ」
「ヒエッ。かしこまり……ました」
 と言ううちに男親は、トンボ姐さんが投げ棄てた包みを慌てて拾って、結び目を締め直したが、その素早かったこと……。その隙に吾輩は丸裸のまま警察の裏手へ駆け出して、石垣の上から立小便をし始めたが、二人の巡査は叱りもドウもしなかった。

     二十八

 吾輩が警察の中で立小便をしたのはこの時が皮切りであった。
 ところがその小便が、最前から我慢していたせいかいつまでもいつまでも出る。そのうちに夜の河風に吹かれてだんだん寒くなりながらも、河向うにさして来る汐が最前よりも倍も倍も高くなって、東中洲の灯がイヨイヨ美しく行列を立てて、吾輩が放ひり出す小便の下まで流れ漂よって来る……その美しさ。吾輩は身ぶるいしいしいそれを眺めながら、自分の身の行く末がドウなって行くのか考えてみた。そうして何が何だか解らないまま「明日は何処にいるだろう、面白いなあ」と思い思いいい心持ちになって、もう一つ二つ身ぶるいをしていると、そのうちに男親がダシヌケに慌てた声で、
「チイよチイよ」
 と呼んだので、何事かと思って走って帰ってみると何だか室の中の様子が変テコである。
 第一みんなが笑い止めて、真面目腐った顔になっている上に髯巡査が大急ぎで釦ぼたんをかけ直して、床に落ちた制帽の泥を払い払い坐り直している。
 トンボ姐さんが粉白粉を首のまわりから、額から、頬ペタにコスリ付けて平手でタタキまわした上から兎の手で撫でまわしている。
 吾輩の男親が、膝や掌のゴミを払い落しているのを、うしろから横寺巡査が西洋手拭片手に手伝ってやっている。
 そこへ丸裸体の吾輩が飛び込んで行くと、有無を言わさずトンボ姐さんと男親に引っ捉えられて、古い方の着物を着せられた。新しい方の着物は男親が包みごとしっかりと抱えこんだ。ちょうど親の死目か火事場へでも駆けつけるような形勢である。そのさなかで、
「ワテエもう一度小便がしとうなった」
 と言う吾輩を三人が、
「警察で小便する事アならん」
 と叱り叱り手とり足とりしかねない恰好で警察の門前に来ると、そこに来ている四台の人力車のうち一番先頭の車に乗せられた。そうして、
「タッタ今裏でしたやないか」
 と言う吾輩一流の口返答をする間もなく、その次の車に男親、その次の車にトンボ姐さん、ドン尻に荒巻髯巡査という順序で乗り込んで一斉に梶棒を上げると、
「……ハイッ……ハイッ……」
 と言う素晴らしい勢いで行列を立てて馳け出した。
 吾輩は背後うしろを振り返る間もなく夢のような気持ちになった。生まれ付き恐ろしい事を知らない吾輩もこの時ばかりは少々気味が悪くなった。ちょうど田舎者が飛行機に乗せられたような塩梅あんばいで、何処へ連れて行かれるのかマルッキリ見当が付かない。おまけに身体が小さいものだから俥の上ではね上ることはね上ること……。
 そのうちに中島の橋を一気に渡って、両側の町の灯が一しきり行列を立ててうしろへうしろへと辷ったと思うと、どこをどう曲ったのか解らないうちに、最前吾輩と男親がフン捕まった券番の前の広場に来た……と思ううちに、その横の大きな待合の入口に四台の車が威勢よく馳け込んだ。
 すると、まず先に梶棒を下した吾輩の車屋が、立派な玄関に向って大きな声で、
「お着きイ――」
 と怒鳴った。
 吾輩は又ビックリして了しまった。何しろ今日が今日までどこへ行っても「サッサト歩みおろう」式でお着きになった事なぞは一度もなかったので、どうしていいか解らないまま、シッカリと人力車の左右の幌に掴まっていると、あとから来た三台の車から降りた荒巻部長とトンボ姐さんがドンドン玄関から上り込んで行ったから、吾輩も俥から飛び降りて、あとから来た男親と一緒に玄関から上ろうとするとそこへドヤドヤと五、六人出て来た女達の中でも、一番年をとった意地の悪そうな奴が片手を上げて、
「アラ。あんた達あ。こっちイ来なざい」
 と言い言い庭下駄を穿いて玄関から降りて来た。

     二十九

 今から考えると、その人相の悪い奴は、この待合の女中頭か何かであったろう。揃いの浴衣に揃いの前垂かけた女中たちの中でタッタ一人眉を剃そって、オハグロをつけて、小さな丸髷に結って、黒っぽい涼しそうな着物を着ていたようであるが、そいつが髯巡査に二言三言愛想を言うと、庭下駄をカタカタ鳴らしながら、吾輩親子の先に立って、玄関の横の茂みの蔭に突っ立っている巨大な瀬戸物の狸の背後から築山のうしろへ案内して行った。
 吾輩はその時にもスッカリ腹ペコになっていた。おまけに俥の上でサンザンゆすぶられて来たのでそこへ坐り込みたい位に弱り切っていたのであったが、その瀬戸物の狸があんまり意外な処に突立っていたのに驚かされたせいか、又、ちょっと元気を回復したようであった。そうしてその狸の巨大おおきな睾丸ふぐりの横顔を振り返り振り返り男親に手を引かれて行くと、やがてガチャガチャと音のする台所の前を通り抜けて行ったが、その時に、出来かかっている御馳走のたまらない匂いを嗅がされたので、又もやハッキリし過ぎる程、空腹を思い出させられて、目が眩みそうになったのには弱らされた。お腹の空すいたのならば、今日まで鍛われ続けて来たお蔭で、かなりの抵抗力を持っている積りであった吾輩もこの時ばかりは少々屁古垂れかけた。男親はドウしてコンナにいつまでも飯を喰わないで我慢出来るのか知らんと今更に不思議なような恨めしいような気持ちにさえなった。
 そのうちに先に立った婆ばばあは台所の横を一まわりして、暗い壁に取り付けてある小さな潜り戸をコトンと押し明けると、
「ここから入んなざい」
 と吾輩親子を追い込んであとから自分も、
「ドッコイショ」
 と入って来た。
 見ると内部なかは狭い湯殿になっていて、濛々と立ち籠むる湯気の中に小さな二分芯ぐらいのランプが一個ポツネンとブラ下っている。
「さあ。ここで行水ばして、充分ようと汚垢あかば落しなざい。あとでお化粧ばして、美しか衣服きもんと着がえさせて遣る故けんな」
 と婆ばばはヒシャゲた声で、命令的に言うのであった。
 ところが吾輩にはその命令が少々癪に障って来た。むろん腹が減り過ぎた棄て鉢のヤケ気味も交っていたようであるが、とにもかくにも初めて会った人間の癖に、他人ひとの気持ちも構わないで、イヤに押し付けがましい口を利く婆だと思ったから、とりあえず吾輩の帯を解きかけた婆の手をスリ抜けながら断然反抗して遣った。
「ワテエ。お湯に入らんでもええ。着物も要らん」
「何故なしな」
 と婆は吾輩を取り逃がした恰好のまま、跼かがみ込んで眼を丸くした。そのうしろから男親が、
「コオレ……チイよ……」
 と眼顔でたしなめたが、しかし吾輩はひるまなかった。
「何故言うたて、お腹が空いてたまらんやないか」
 と思い切って唇を突とんがらしたが、また後の文句を言わないうちに、たまらなく胸にコミ上げて来た。どうしてコンナ眼に会わされるのだろうと思ったので……。
 ところが、その吾輩の顔を見ると婆がだしぬけに笑い出した。
「エヘヘヘヘヘ……」
 と薄紅を塗った唇の内側を引っくり返して、狒々ひひみたいな顔になったが、その拍子にウッスリと塗ったお化粧が、顔中に白い浅ましい皺の群を描きあらわした。腹の減った子供に取っては一番コタエるであろう実に冷酷無情を極めた笑い顔であった。そうしてその声が薄暗い湯殿の中に反響して消え失うせると、何だか鬼婆にでも見込まれたような情ない不愉快だけが、シインとして残った。吾輩が所謂婆ばばなるものの大部分を好かなくなったのはこの時の印象が残っているせいかも知れない。
 しかし、それでも婆は吾輩を親切にアヤナシている積りらしく、
「エヘヘヘヘ。千松さん千松さん」
 と言いながらモウ一度手をさし伸ばして吾輩の帯を解きかけた。その手を吾輩は慌てて振り解いて逃げ出しながら睨み付けた。
「センマツて何や……」
「フウンなあ」
 と婆がまだニタニタしながらうなずいた。
「あんたあ芝居ば見なされんけん知んなさるめえ。おなかが空いてもヒモジュウないて言う忠義な子たい」
「それ芝居やから、そないに言うのや。お腹が空いたらヒモジイのが本当ほんまや」

     三十

「まあ……この人ア……ドウシタ口の利いた……」
 と婆は眼を丸くした。そこを吾輩は隙すかかさず追撃した。
「ワテエ。口が利いとらせん。芝居の千松やたら御飯たべとるからヒモジュウない言うのや。ワテエ御飯喰べとらんからヒモジイ言うのや、当り前やないか」
 婆は吾輩に言い込められて真赤になった。しかし、それでも乞食の子供にやられたのが口惜しいらしく、衣紋を突っ越して詰め寄った。
「それでもアンタア……千松は忠義者じゃろうが」
「忠義て何や」
 と吾輩は男親に裸体にされながら反問した。事実吾輩が忠義という言葉を聞いたのはこの時が初めてだったのだからね。
「まあ。この人あ。どうしたまあ、日本人に生まれて忠義ば知んなざれと?」
「知らんがな。知らんけんど日本人やがな」
「まあこの人あ……」
 と婆はイヨイヨ呆れ返ったらしい。裸体のまま流し板の上に突立っている吾輩を、白い眼で見上げ見下ろした。
「忠義ちゅうたあなあ。目上の人の言わっしゃる事をば何でも聞くとが忠義たい」
「目上の人の言う事なら何でもよう聞きよるがな。尻振れ言うたら振りよるがな。どないな悪い事でも……」
 と言ううちに男親が、頭からザブリと熱い湯を引っかぶせたので眼を口も開あかなくなった。
 婆は慌てて飛び退のいたらしい。
「それそれ、それたいそれたい。何でも目上の人の言わっしゃる事を聞いとりゃあヨカトたい。どげな事でもカンマン。……その上なあ。今夜のお客は又特別のお方じゃけんなあ。充分ようと気ばつけて要らん事をば子供に言わせなさんなや。よかな? わかったな若い衆さん」
 男親は吾輩の顔から背中へ石鹸を塗りながらペコペコ頭を下げて首肯うなずいたらしい。しかし吾輩の方はまだ忠義の意味を呑み込み得ないうちに婆は、
「エヘヘヘヘヘヘヘ……」
 と嘲るような笑い声をして出て行った。
 そのうちに男親の手でスッカリ洗い上げられた吾輩は、迎えに来た女中の手に引き取られると、綿のような柔かい感じのする大きな手拭いみたようなもので、身体中の雫しずくを拭い上げられた。その序によく見ると、その柔かい布というのは、この頃往来でハイカラな書生さんが襟巻にしているソレで、身体を拭くものとは夢にも知らなかったタオルの大きいのであった。しかし何にしてもステキにいい心持ちだったので、腹の減ったのも忘れて、される通りになっていた。ヤッパリこれも忠義の一つか知らん……忠義というものはコンナにいい心持ちのものか知らん……なぞと子供心に思いながら……。
 ところがそのうちにスッカリ拭い上げられて、あとから出て来た背の高い丸髷の叔母さんに引き渡されて、大きな鏡台が五ツと、ステキに明るい丸芯のランプが二つギラギラと輝き並んだ部屋に連れ込まれると、又もや大変な事が始まった。
 女中と二人がかかりで吾輩のお化粧をし始めたのだ。それも平生いつものように安白粉やすおしろいを顔に塗りこくった程度の簡単なものではない。まず頭は生え際を剃って、首すじの処で一直線に切り揃えて、スキ腹にコタエる程いい匂いのする油を塗り込んで、その上から櫛目をキチンと入れた。それから、その次には足の爪先から指の股まで、全身残る隈なく真白に塗り上げたものだ。それからモウ一度、腮から首すじへかけて白壁のように固ねりを塗り付けて、眉の下と、眥めじりと、頬へ薄紅をさして、唇を玉虫色に光らせると、眉とマツ毛を黛すみで黒々と上げたので、自分でも誰だかわからない、妙テケレンな人形じみた顔になった。それから新しい白足袋を穿いて、肌に泌み入るような赤いゆもじと、桃色の薄い肌着と、最前の美しい着物を着せられて、金糸ずくめの板のような帯をギューギューと巻きつけられると、腹の皮が背中にくっ付きそうになった。腹が減ったのか、それとも満腹しているのか、自分の身体からだだか他人ひとの身体だか解らないような変テコな気持ちになってしまった。
 しかし吾輩の扮装よりも男親の扮装それの方がモット物騒で大変であった。

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