« 「犬神博士」夢野久作 21~30 | トップページ | 「犬神博士」夢野久作 41~50 »

2014年2月23日 (日)

「犬神博士」夢野久作 31~40

     三十一

 吾輩がアヤツリ人形式の振袖姿に変装させられながら、生まれて初めて聞いた忠義という言葉の意味について、いろいろと考えさせられている一方に、男親は生まれが役者だけあって、芸妓に惚れられようとでも思ったものであろう。長いことかかって一所懸命でコスりあげたらしく、吾輩が羽子板結びの帯の上から赤い扱帯しごきを結び下げて貰っている時分に、ヤット、新しい越中褌ふんどし一つで上って来た。
 ところでそこまではよかったがアトがいけない。モトは役者とは言え、久しく白粉気を離れていた上にヒドイ黒アバタと来ているので、白粉のノリが迚とても悪いらしく、何べんも何べんも洗い落しては塗りコクリ、塗りこくっては湯殿に走り込んだ。しかし何遍洗い直してもうまく行かないらしく、
「モウあかん。顔じゅうがヒリヒリしよって……」
 と越中褌一貫でベソを掻き掻き鏡の前をマゴマゴしているので、吾輩の帯の間に赤い扇を挿込んで、顔を直しかけていた、着付け屋さんらしい丸髷の女と、手伝っている女中の二人は、可笑おかしいのをヤット我慢しているようであった。そうしてトウトウおしまいがけに見るに見かねたらしい二人の女から教わって、赤黒い砥との粉をベタベタと顔一面に塗たくってその上からモウ一度白粉を塗り付けて、見る見るうちに人間とも化物ともつかぬ、コンニャクの白和しろあえみたような呆れ返った顔を作り上げてしまった。そうしてそのまんま派手な浴衣を着て、茶色の角帯を締めて、襟元をグイと突っ越しながら、
「オホン。どんなもんや……」
 と言わんばかりにキョロリと吾輩の方を振り向いたのには、二人の女も仰天させられたらしい。殆んど同時に吾輩を付き離して、タッタ二人で押し合いヘシ合いながら立ち上ってバタバタと廊下へ逃げ出して行った。そうして長い長い畳廊下の向うの端まで行き着かないうちに、二人が折り重なってブッ倒れると抱き合ったり縋り合ったりして笑いころげている気はいが、吾輩のいる化粧部屋まで聞こえて来た。
 しかし吾輩は笑わなかった。何だか知らないが、これからイヨイヨ腹の減ったのも我慢して「忠義」というものを習いに行かなければならないと言うような大切な場合らしく感ぜられたので、妙に緊張した気持ちになったまま突っ立って、マジマジと男親の顔を見ていた。吾輩がコンナ大きな帯を背負わされたのも、男親がコンナ不手際な顔になったのも、やっぱりその忠義とやら言うもののためじゃないか知らんと考え付くと、何だか訳のわからない物悲しい淋しさをさえ感じていた位であった。そうして吾々親子に、こうした忠義を要求している当の相手はソモソモ何処の何者だろう。又銭を投げないで威張るような役人面じゃないか知らん。それとも最前、宵の口に、大友親分が投げてくれた一円銀貨の効能の残りを、ここでモウ一度発揮させられるのか知らん。一体全体吾輩親子の忠義の買い主はドンナ風態の奴か知らん。早く顔が見たいな。そうして出来るだけ早く忠義の取引を済まして夕飯を喰べさして貰いたいな……なぞと子供心に考えまわしているうちに、何処から来たのか最前の婆がペタペタと内股で入って来た。そうして、
「こっちい来なさい」
 と言い棄てたまま、いかにも冷淡なヨソヨソしい態度で先に立って行くのであった。その後から、チョコチョコ走りの吾輩と、乙に取り済ました男親とが付いて行くのであったが、そのうちに吾輩はこの家の中が、外から見て考えたよりもずっと広いことがわかって来たので、チョット不思議な気持ちになった。長い畳廊下から玄関へ出て筧かけいのかかった泉水の横を通って、月あかりのさした便所の前を通って、モウ一度竹藪みたようなお庭の前に出て、それから築山の蔭の外廊下をグルリとまわって行く間じゅう、猫の子一匹出くわさない。どの室もどの室もヒッソリ閑としているので、何だか化物屋敷にでも迷い込んで来たような気がした。
 尤もこれは今から考えてみると無理もなかった。第一先に立っている婆なるものが尋常の姿ではない。五十位の皺苦茶顔に薄化粧を塗って、薄紅をつけて、銀杏髷に結うて澄ましているのだから、普通の人間から見れば、たしかに変態の半化け婆である。
 化物屋敷の先触れには似合い相当の処であったろう。又、あとから来る男親と来たら、これは文句なしに金箔付きの化物であった。博多名物のドンタクにも出て来そうにない白黒塗り分けのノッペラボーが、派手な安浴衣の衣紋を抜きながら、両手を束ねた、伏し目勝ちの柳腰か何かでヘナヘナと踉縋ついいて来るのに気が付いたら、知らない人はヒックリ返るであろう。
 但し、その中に立ってチョコチョコ走りをして行く吾輩が又、前後の二人に輪をかけたバケモノの特選であることが吾輩自身にチットモ自覚されなかったのは是非もない事とは言え遺憾千万であった。しかしそれにしてもこの三人がお目見えに出かけたら、気の弱い妖怪は退散するにきまっていたので、そんな異様な気持ちが、何も知らない幼稚な吾輩のアタマに反映した結果、こんな感じがしたものであろう。
 そのうちにやっと外廊が尽きて、ここらしいと思われる中二階の階子段をトントンと五つばかり上ると、立派な簾すだれを下げた板張りの前に来た。その向うの襖の中で、大きな男の声とキイキイ笑う女づれの声が聞こえたが、何人ぐらいいるのか、よくわからなかった。

     三十二

 その襖の前の玄関みたような板張りの上で立ち止まった半化けの婆は、白眼をジロジロさせながら吾々親子を振り返った。そうしてサモサモ勿体らしく声を落して注意を与えた。
「……よかな……この襖ば開けて入るとなあ……正面に御座るとがなあ……」
 といううちにモウ一度声を落して眼を白黒さした。それこそ妖怪の巣窟にでも案内するような恰好である。
「よかな。正面に御座るとが知事さんだすばい。それから右に御座るとが署長さんばい。よかな……要らん事ば言わんとばい。そうして入るとすぐ父さんと並なろうで、坐ってお辞儀しなざいや。そうしてお礼言いなざいや」
 そう言ううちに半化け婆は今までと打って変った謹んだ態度で、襖の蔭にヘエツク這ばった。そうして襖をソーッと開くと、眼顔で中へ入れと指図した。それと同時に室の中の笑い声が急にシイーンとなった。
 吾輩はその中へ、おめず臆せず先に立って入って行ったが、入口に近い畳のまん中に立ち止まったまま室の中を一渡り見まわすと、思ったよりも明るくて広い座敷であった。
 奇妙な木目の板を張った天井のまん中から、これがランプかと思われるほど大きい硝子ずくめの盆燈籠みたようなものがギラギラ光りながらブラ下がっている。その上に、床の間の前から室のまん中あたりへかけて押し並んだ御馳走のあいま合い間に、雪洞ぼんぼり型の置ランプが四ツ五ツ配置してあるので、昼間よりもズットまぶしい位である。その真正面の床の間のまん前に、大きな紫色の座布団を二枚重ねて脇息に凭もたれている禿頭の爺じいが、知事さんと呼ばれる人間であろう。蚊蜻蛉みたいに瘠せこけた小柄な色の黒い梅干爺で、白髪髯をムシャクシャと鼻の下に生やしている。そこいらの辻占売りの爺よりもモット見すぼらしい恰好であったが、ただ眼の玉ばかりは鷹のように鋭く吾輩の顔を直視していた。ずっと後になって聞いた処に依るとこの爺が有名な錦鶏きんけいの間祗侯ましこうの筑波子爵であったが、有名なカンシャク持ちだったので宮中からも中央の政界からも敬遠されて、県知事に左遷されたものだそうで、福岡県庁支配下の役人どもは元よりの事、県下に充満している玄洋社式の豪傑ども初めとして、その時分から盛んになりかけていた筑豊三池にかけた炭坑界の生命いのち知らずの親分までも、頭ゴナシに大喝してピリピリさせているという豪傑だったそうであるが、むろん子供の吾輩にはソンナ事が解ろう筈がない。ただの禿茶瓶はげちゃびんにしか見えなかったのは返す返すも気の毒であった。
 それからその右に坐っている天神髯のノッペリした大男が署長さんであろう。ちょっと見たところこの男の方が華族様らしい上品な風付きであったが、それでも眼付きだけはやはり底意地の悪そうな光を帯びていた。それから、その又右手の座布団の上に窮屈そうに正坐しているのは最前の荒巻巡査部長であったが、胸と手足の毛ムクジャラが、まるで熊かアイヌの兄弟分のように見えた。
 又、知事の禿茶瓶の向って左手には、すこし離れて大友親分が坐っていたが、美事な竜の刺青ほりものをムキ出しにしているせいか、一番堂々とした、満場を圧する態度を構えていた。
 そんな男たちは全部揃いの浴衣で、打ち寛くつろいで一杯呑んだものらしく、天神髯の署長さんを除いたほかは皆真赤になっていた。そのあい間あい間から左手の縁側へかけて盛装をした十四、五人の芸妓や舞妓がズラリと並んで、手に手に団扇うちわを動かして男たちを扇いでいたが、吾輩が振袖姿で乗り込んで行くと、皆申し合わせたようにピタリと手を止めて吾輩の方を見た。知事の禿茶瓶の前で一パイ頂戴していた平常着ふだんぎ姿のトンボ姐さんも、盃片手に振り返った。そのほかの男たちも一斉に吾輩の方を見守ったが、吾輩は指を啣くわえて突っ立たまま、そんな連中の顔を一渡り見返すと、最後に正面にいる知事の禿茶瓶にピタリと視線を合わせた。
 この爺じじいが吾々親子に忠義を要求するのかと思って……。
 すると知事の禿茶瓶は一層眼の光を鋭くしてギューと吾輩を睨み付けた。そこで吾輩も、指を啣えたままジイッと睨み返した。そのまんま二人の視線が期せずして睨み合いにまで緊張して行った。

     三十三

 この時の睨み合いは、その頃の福岡の新聞に出たそうである。「乞食の子、雷霆かみなり子爵を睨み返す」という標題で大評判になったそうであるが、何しろ天下に聞こえた癇癪かんしゃく貴族の一睨みを受け返したものは、福岡県下に吾輩タッタ一人だったというのだから豪気なもんだろう。むろん列席していた連中も、眼の前に意外な情景が展開し始めたので、どうなる事かと手に汗を握ったそうであるが、しかし当の本人の吾輩に取っては左程の問題ではなかった。ただ……この知事とか何とか言う禿茶瓶は、よく往来で吾輩親子の興行を妨害しに来る無頼漢けだもの式のスゴイ眼付きをしているが、もしやそんなケダモノ仲間の親方みたいな人間じゃないか知らん。それが、おんなじケダモノ仲間の巡査の親分と棒組んで、吾々親子を取っちめようと企んでいるのじゃないか知らん……と疑いながら、ジイッと睨み付けていたのだから、子供ながらも一所懸命の眼付きをしていたに違いないと思う。
 ところで、カンシャク知事の禿茶瓶と、踊り子姿の吾輩とがコンナ風にして無言のまま、睨み合いを緊張させて行くと、シインとなった座敷の中で、芸者や舞妓の連中が一人一人に居ずまいを正して行った。トンボ姐さんも片手を支ついて振り返ったまま、呆れたような顔をして吾輩を見上げ始めた。大安座おおあぐらを掻いていた大友親分も、急に坐り直しながら、両腕を肩までまくり上げて半身を乗り出しつつ知事と吾輩の顔を互い違いに見比べはじめた。署長が天神髯を掴んだまま固くなった。髯巡査が腕を組んだまま微かなタメ息を一つした。
 一座が又もシイ――ンとなった。
 それでも知事の禿茶瓶は、横すじかいに脇息に凭れたまま吾輩を睨み付けていた。そこで吾輩も指を啣えて突立ったまま負けないように睨み返していたが、そのうち相手の禿茶瓶が、吾輩を睨み付けたまま豹みたような声を出して、
「ウ――ムムム」
 と唸り出したのでさすがの吾輩も気味が悪くなった。そのままあとしざりをして逃げ出そうか知らんと思った位モノスゴイ唸り声であったが、間もなくその禿茶瓶が二、三度ショボショボと瞬きをしてモウ一度、
「フ――ム」
 とため息をしたので、吾輩はヤット睨み合いに勝った事を意識してホッとさせられた。
「ウーム。これは面白い児じゃノウ大友……」
「ハイ。礼儀を弁わきまえませんで……甚だ……」
 と大友親分は如何にも恐縮した恰好になって頭を掻いた。しかし禿茶瓶はまじめ腐った顔付きで頭を左右に振った。
「イヤイヤ礼儀なぞは知らんでもええ。忠孝が第一じゃ。のみならずナカナカ意気の盛んな奴らしい。余の前に出て怯ひるまぬ処が頼もしいぞ。ハハハ……」
 と顎を天井に付き上げて嘯うそぶき笑いをした。自分の前に出て来る人間は一人残らず縮み上ることにきめているような笑い方である。
「ハハイ。イヤ恐れ入ります。ハハハ……」
 と大友親分が又頭を掻いた。
「オイオイ。そこな子供。こちらへ来い。爺の処へ来いよ。許す許す」
 と禿茶瓶が上機嫌になったらしく、眼を細くして吾輩をさし招いた。同時に皆がホッとしたらしく、四、五の団扇が一斉に動き出した。
 しかし吾輩は動かなかった。依然として突立ったまま反問した。
「何や。何かくれるのけエ」
「アハハハハハハハ……」
 と禿茶瓶がイヨイヨ上機嫌になったらしく大口を開いて笑いこけた。すると、それに共鳴するかのように満座の連中がアハアハ、イヒイヒ、オホオホと止め度もなく笑い崩れはじめたので、吾輩はイヨイヨ腹が立って睨みまわした。
「アハハハハ。氏より育ちじゃノウ署長……」
「御意に御座います」
 と署長は笑いもせずに頭を下げた。一方に吾輩は、何だか侮辱されているような気がしたので、青々と月のさしたお庭の樹を見上げながら鼻汁をススリ上げた。
「アハアハアハ。これは一段と変った座興じゃ。アハアハ……イヤナニ子供……そちはナカナカ親孝行者じゃそうじゃのう」
「そないな事ワテ知らんがな」
「イヤ。知らん方がええ。『知らざるは是れ知れるなり』じゃ。その親孝行に賞めでて余が盃を取らする。近う参れ。許すぞ……」

     三十四

「まああんたくさ。坐らにゃこて……そうしてこっち来て御前様のお盃ば頂かにゃこて……許すてお言葉のかかりよろうが」
 トンボ姐さんが、たまりかねたものか立ち上って来て、吾輩を押しやろうとした。しかし「許す」という言葉の有難味がピッタリ来なかった吾輩は依然として動こうともしなかった。
 その吾輩の背中をばモウ一度向うへ押し遣ろうとした。
「行きなざれんか。お許しの出とろうが」
「許されんでもええ」
「まあ何事なんことを言いよんなざるとな」
 とトンボ姐さんが、吾輩の顔を上から覗き込んで、大きな大きな眼を剥むいて見せた。それを吾輩は上目づかいに見上げた。
「許されんでもええ言いよるやないか。行こうと思うたら何処へでも行くがな」
「まあこの人あ……」
 とトンボ姐さんは二の句が継げなくなった。
「ハッハッハッ。これはイヨイヨ愉快じゃ。この児は生まれながらにして自由民権の思想があるわい。ノウ大友……」
「お言葉の通りで……」
「ウーム。生まれながらにして忠孝の志操こころざしと自由民権の思想があれば、日本国民として満足じゃ。国権党でも自由党でも木ッ葉微塵じゃア。ワハハハ……」
 とエラそうな事を言いながら禿茶瓶は反り返って笑った。大友親分もアグラを掻き直しながら腹を抱えた。
「アハアハアハ。イヤ愉快じゃ愉快じゃ。コレ子供。余が悪かった。こっちへ来て余に盃を指してくれい。ナ……そちの親孝行にあやからせてくれい……この通りじゃ……」
 と言ううちに禿茶瓶はかしこまって、盃を高々とさし上げながら、吾輩の方へ頭を下げた。それを見遣りながら吾輩は、お合羽さんを強硬に左右へ振り立てた。
「ワテエ。盃、要らん」
「……………」
 一座が急にシンと白らけ渡った。その中で吾輩はモトの通りに指を銜くわえたまま言い放った。
「御飯喰べたいのや」
「何。飯を喰うておらんのか」
 と禿茶瓶が急に機嫌の悪い顔になって、盃を下に置いた。
「アイ。最前からヒモジイてペコペコや。誰も喰べさしてくれんよってに……」
「フーム」
 と禿茶瓶が、前と違ったスゴイ唸り声を出しながら、室の中の顔を一つ一つに睨みまわした。そうするとその顔が一つ一つに青い顔になって行った。
「ムムム――。自分で飯を喰う隙ひまはなかったのか」
「あらへんがナ。ワテエと父さんと道ばたで寝とったんを、その旦那さんとこの姐あねさんが手招きして、この家の前に連れて来て、アネサンマチマチ踊らしたんや。そうしたら若い巡査のケダモノサンが、その踊りアカン言うて、警察へ連れて行きよったんや」
「フーム。ちょっと待て。アネサン待ち待ちと言う踊りを踊ったと言う廉かどで、警察へ拘引されたと言うのじゃな」
「サイヤ」
「フーム。それはドンナ踊りじゃ」
「ハハハ。爺とっさんも見たいのけえ」
「ウム。見たい。見せてくれい」
「ハハハハ。馬鹿やなあ」
「……まあ……あんたクサ……」
 と背後うしろからトンボ姐さんが吾輩の肩を小突いた。
「そげな事ば……御無礼な……」
 吾輩は振り返って唇をツキ出した。
「……阿呆な姐あねさんやなあ。最前ワテエに踊れ言うて銭投げたやないか」
「……ま……要らん事ばっかり……」
 とトンボ姐さんは泣き笑いみたような顔をしながら吾輩の頭の上で袖を振り上げた。吾輩は一尺ばかり逃げ退いた。それを見ると禿茶瓶の機嫌が又直ったらしい。
「アハハ……構うな構うな……その踊りをこの爺に見せてくれい」
「嫌や。ワテエの大嫌いの踊りやからモウ踊らん。ホントは父さんと母さんが一番喜ぶ踊りやけど……」
「フフム。何で喜ぶのか」
「みんなが銭投げてくれるよって……」
「それならば余も何か投げて遣つかわすから一つ踊って見い」
「イヤヤ。あないな踊り見たい言うて銭投げるお客シンカラ好かん」

     三十五

 吾輩から一本遣られた禿茶瓶は眼の玉を凹へこませながら杯をグット干した。フーッと息を吹いて眼を据すえた。
「フーム。ナカナカ一筋縄では行かぬ奴じゃな。成る程。しかし親孝行のために踊るのならば構わぬではないか。……ノウさようではないか」
「アネサンマチマチ踊るのが何で親孝行になるのヤ」
「余の言う事を聞いておれば、この上もない親孝行になるのじゃぞ。余は福岡の県知事じゃぞ。眼上の者の言う事は聞くものじゃ」
「それが忠義というものかいナ」
「ウーム。イヤ。ナカナカ明敏な児じゃノウ貴様は……その通りじゃ、その通りじゃ……」
「嘘や嘘や。アネサンマチマチ踊っても、親孝行にも忠義にもならヘン」
「フーム。それは又、なぜか」
 禿茶瓶は盃を置いて乗り出した。一座の連中も顔を見合わせた。
「何故言うたかて、親孝行やたら忠義やたら言う事は、人に賞められる良ええ事やろが」
「ウムム。それはさようじゃ。良え事どころではない。せねばならんと言うて、天子様がおすすめになっている位じゃ。この世の中で一番よい事じゃ」
「そんならアネサンマチマチ踊るのは良え事かいな……わるい事かいな」
「ウムム。これは六箇むつかしい事を言う児じゃぞ。まるで板垣か犬養の口吻こうふんじゃ。……余はその踊りを見んからわからん」
「そんならアノ踊り知らんのけえ」
「……知らん……知らんから見たいのじゃ」
「知らんけえ。知らんなら言うて聞かそか。あの踊りはフウゾク・カイラン言うて巡査に叱られる踊りやがな」
「ウッフッフッフッ。これは呆れた奴じゃ。どうしてそのような事を知っているのか」
「知らいでか爺とっさん。タッタ今、警察で聞いたばっかりじゃがな」
「ハッハッハッ。成る程ノウ……」
「あの踊り見たがるノンは田舎の二本棒ばっかりやがな」
「フーム。二本棒とは何の事じゃ」
「アネサンマチマチ見たがる鼻垂オヤジの事や」
「コレッ……」
 と髯巡査が末席から眼の色をかえて乗り出して来そうにした。しかし禿茶瓶の顔色を見た天神髯の署長に押えられて、不承不承に坐り直した。そのうちに禿茶瓶が又一杯酌をさせた。
「ウーム。それならば余も二本棒のうちじゃな」
「サイヤ。巡査さんやたら、知事さんやたら、親分さんやたら、みんなフウゾクカイラン見たがる馬鹿たれや」
「……………」
「往来で踊ることならん言うといて、ナイショで自分たちだけ見たがる阿呆タレヤ」
「……………」
「男はミンナ二本棒や。おおイヤラシ。ハハハハハ……」
 こう言い放した吾輩は、一人残らず顔色を喪っている一座の連中を見まわして、小気味よく笑いつづけた。何だか知らないが今日まで押え付けられ通して来た欝憤と、現在タッタ今、腹が減っても飯に有り付けない目に合わせられているヤケクソ気分を一ペンに吐き出したような気がして、涙ぐましいくらい清々すがすがした気持ちになってしまった。そうしてこの上にも禿茶瓶が命令がましい事を言うようだったら、サッサと着物を着かえて、男親と一緒に帰ってしまおう。そうして何処かで甘たれて饂飩うどんか何か喰わせて貰おう。その方がヨッポド早道だ……と一人で胸算用をしていた。
 ところが生憎当の相手の禿茶瓶がチットモ憤おこり出す様子を見せなかった。それどころか、吾輩と問答をしているうちに、いつの間にか酒の酔いも醒めてしまったらしく、青い顔になって、盃を下に置いて、両肱をキチンと膝の上に張って、何か御祈祷でもするかのように眼を閉じて、頭をうなだれていた。その禿茶瓶の滑々つるつるしたマン中に、猫の鬢ひげみたいな白髪が十五、六本バラバラと生えているのをサモ大切そうに七、八本ずつ左右に分けて並べているのを発見した吾輩は、大人なんてドウしてコンナ詰まらないお洒落をするものだろうと思うと、腹の立ったのも忘れてしまって、可笑しいのを我慢しいしい見惚みとれていた。
 その時に禿茶瓶はやっと顔を上げて吾輩の顔を見た。その眼は今までのスゴイ光をスッカリ失ってしまって、何だか吾輩を見るのが恐ろしくてたまらないような……妖怪ばけものにでも出会ったような怯えた眼付きに変っていた。そうして間もなく気味の悪い梟ふくろうみたいな声を出した。
「……ウムム……これは天の声じゃ……」

     三十六

 みんなは黙っていた。禿茶瓶の知事さんが言った「天の声」の意味がわからなかったらしい。無論吾輩も「テンの声」だのイタチの屁へだの言うものは聞いた事がなかったので、少々面喰らいながら指を啣えていると、その吾輩に向って禿茶瓶は、如何にも恭しく頭を一つ下げた。
「……天の声じゃ……神様の声じゃ。この児は神様のおつかわしめじゃ。皆わかったか」
 と言いながら今度は又スゴイ眼つきをして一同を見まわした。しかし誰にもわからなかったしく、ポカンとした顔になって禿茶瓶の顔を見守っていた。
「天の声じゃ。天の声じゃ。ええか。皆よく聞けよ。今この児が余に向って言うた言葉は、政治に裏表があってはならぬと言う神様のおさとしじゃ。余は福岡県下の役人に一人残らずこの児の言葉を記念させたいと思う。人民がしてならぬ不正な事で、役人だけがしてよいと言う事はただの一つもない事を骨の髄まで知らせて置きたいと思う。この一言さえ徹底すれば日本帝国の前途は万々歳じゃ。……ええか……わかったか……」
 一同は禿頭に向って低頭平身した。吾輩の方には見向きもしなかった。
「……えーか……この児は余の先生じゃ。同時に万人の模範として仰ぐべき忠臣孝子の典型じゃ。マンロクな両親を持って死ぬ程可愛がられて、腹一つ学問をさせて貰っても、その学問を屁理屈に応用して、自分の得手勝手ばかり働く青年男女が多い中に、このような境遇の中からかような純忠純誠の………」
 ここまで禿茶瓶が喋舌って来ると、吾輩は何が何だかわからなくなって来た。魚が死にかかったように欠伸が出て来た。けれども、ほかの連中は皆禿茶瓶の言うことがわかるらしく、揃って畏まり奉って傾聴していたが、その中でタッタ一人一番背後の縁側の近い処にいる、一番可愛らしい美しい女の子がソッと欠伸を噛み殺しながら吾輩の方を見てにっこりと笑った。ソレを見ると吾輩はスッカリ共鳴してしまって、思わずニッコリしながら今一ツ取っときの新しい、大きな欠伸をして見せてやった。モウ少し年を取っていたらすぐに恋に落ちてしまったかも知れないくらい嬉しかった。
 すると、そのうちに禿茶瓶のお説諭せっきょうがすんだらしく皆一斉に頭をさげたが、そのうちでも大友親分は両手を畳に支つかえたまま、切り口上で挨拶をした。
「……まことに御訓誡の程恐れ入りました。何にせい私共は無学な者で御座いますから、御趣意の通りに出来るかどうか存じまっせんが、この子の将来はきっと私が受持ちましてエライ人間に……」
 と言いながら又頭を下げた。それをエラそうに見下しながら禿茶瓶は、学校の先生のように片手を上げた。
「……イヤ……この子供はその方達には渡さぬ。他人と言わず余が自身に引き取って教育をして遣るからその積りに心得ていよ。この児に昔風の漢学教育を施したならば、キット今の天岡鉄斎のような偉人になる事と思う。現在滔々として流入しつつある西洋崇拝熱に拮抗して………」
 又わからなくなって来た。第一吾輩の身の振り方が、次から次へと変化して来たあげく、禿茶瓶のお蔭で又一転換したらしいので、どれが本当なのか見当が付かなくなった。そればかりでなく、その有難い勿体ない神様のお使わしめを放ったらかしたまま、見向きもしないで勝手な講釈を始めたり、それを拝み上げたり始めるので自烈度い事夥しい。とうとう我慢し切れなくなった吾輩は思い切って禿茶瓶の方へ一歩進み出た。
「爺とっさま、御飯の話ドウしたけエ」
「ウム。さようさよう。さようじゃったノウ」
 と禿茶瓶は慌てて返事をしながら、坐り直して左右をかえり見た。
「そうしてモウ何時かノウ」
 署長と、大友親分と、髯巡査が同時に時計を出してみた。
「ちょうど十時で御座います」
 と真先に署長が返事をした。
「ちょうどその頃で御座います……」
 とその次に大友親分が言った。
「小官のは十分過ぎておりまする」
 とあとから髯巡査が付け加えた。どこまで手数てかずのかかるおやじかわからない。

     三十七

「ウーム」
 と禿茶瓶が又唸り出した。ちょうど十時という時間に驚いたような恰好であったが、心持ち青い顔になりながらジロリと吾輩を見た。
「ウーム。そこでどこまで話を聞いておったかノウ、最前の話は……」
「アイ。警察に引っぱられた処までや」
「ウムそうそう。それからどうしたのじゃ」
「それから警察に来てその髯巡査さんに叱られよったら、この姐さんが来て、ワテエを芸者にすると言うてこの美しい着物くれたんや。そうしてここへ来て、お湯ぶ使うたり、お化粧したりしてこのお座敷へ来たんや。そうしたら又、爺とっさまが何じゃら解らん六箇むつかしい事ばっかり言うて、チョットモ御飯食たべさしてくれんのエ。そやから御飯喰べる隙がなかったのや。もう腹ペコで死にそうや」
「ウーム」
 と禿茶瓶が又唸り出した。ちょうど自分が腹を減らしたかのようにイヨイヨ青い顔になって眼の球を凹ましたが、最前から吾輩にサンザン遣り込められた上に、話の腰を折られたりしたので、多少御機嫌に触って来たらしい。芸者どもをジロリと見渡しながら、
「早く飯を喰わせんか」
 と顎で吾輩の方を指して頬を膨らました。
 芸者どもはこの言葉を聞くと同時にハッとしたらしく、三、四人一斉に中腰になりながらトンボ姐さんの顔を見ると、トンボ姐さんも中腰になったまま当惑した恰好になった。
「用意してないとだっしょ」
「……………」
 一人の芸者が黙ってうなずいた。同時に禿茶瓶の方をチラリと見たが、その意味が吾等にはよくわかった。お説教がはじまったので御飯の用意する隙がなかったという、不平の意味に違いなかった。
「誰かあちらへ用意して来てやんなさいや」
「台所でよござっしょ」
「サアー」
 とトンボ姐さんが又躊躇しながら大友親分の顔を見た。
「次の間いしまっしょか」
「サア……」
 と女共が三、四人中腰のままでポツポツ言い合った。その時であった。
「馬鹿ッ……何をしよるのかッ」
 と突然大砲のような声を出して、禿茶瓶が大喝したのは……しかもその顔の恐ろしかったこと。お祭りの見せ物にでも出したらキット人がビックリするに違いないと思われるくらい急激な大変化をあらわして見せたのであった。肩が逆立って、眼が皿のように光って、口が耳まで裂けたかと思われるくらいであった。
 それを見ると中腰になって向い合っていた女たちは、そのままペタリと坐り込んでしまった。大友親分も面喰らったまま座布団から辷り降りた。そのまん中で禿茶瓶は血相をかえたまま威丈高になった。
「馬鹿共がッ……貴様どもはみんな自分の事ばかり考えとるからコンナ残酷な事をするのじゃ。何の罪があればこの子供に夜の十時まで飯を喰わせんのか。第一警察で人を拘留したら、その晩は飯を喰わせん規則になっとるのか……」
 今まで座布団の上に頑張っていた二人の警官はこの一言を聞くと慌てて畳の上に辷り落ちて両手を突いた。
 吾輩は知事という役人の勢力の素晴らしいのに驚いた。まさかこれ程とは思わなかった。
「又女子どもも女子どもじゃ。非人の子を連れて来たら何より先に、飯を喰うとるか喰うとらんか聞いて見る位の気が何故つかんのか。腹を干し上げた子供を、御馳走の前で踊らせて余が喜ぶとばし思うているかッ……不注意も甚だしいッ。この馬鹿共がッ……」
 禿茶瓶の怒鳴る声は身体からだに似合わず益々大きくなって来た。永年のカンシャクで鍛え上げたものらしく、家の中は勿論の事、遠い処の屋根の上までワンワンと反響するくらい素晴らしいものがあった。ことにその言葉の切れ目切れ目にギラギラと光り出す、その眼の色の物すごい事……家の中の連中は一人として顔を上げるものがないくらいであったが、しかし、そのカンシャクの圏外に立たされた吾輩から言わせると、この禿茶瓶のカンシャクは全然なっていなかった。吾輩に腹を干させた責任は当然自分も負わなければならないのに、そんな事は気が付かないまま巡査や芸者たちを怒鳴り付けるなんて随分得手勝手な禿茶瓶と言わなければならなかった。大方これは吾輩に凹まされつづけて来た埋合わせにコンナ出鱈目なカンシャクを爆発させているのだろうと思うと、子供ながら可笑おかしくもあり可哀想にもなった。

     三十八

 しかし当の本人の禿茶瓶はとてもカンカンの白真剣であった。震え上がって平伏している一同を見まわしながら、額にみみず見たいな青すじを一本ウネウネとオッ立てて、コメカミをヒクヒク動かしていたが、又も突然に、
「……たわけ奴めがッ……その上余に恥を掻かせおって……エエッ……」
 と言うなり、手に持っていた盃を膳の上にタタキ付けた。お皿か何かが盃と一緒にガチャンと割れる音がした。それはスバラシイ勢いであった。とにも角にもこの世の中ではカンシャクの一番強い奴が一番エラクなるのじゃないかと、吾輩自身の女親に引き比べて思い当ったくらい大した威光であった。ところがその時に、
「ええ。恐れ入ります。皆私が不行届き……」
 と大友親分がヤット口を利き出した。すると、その真似をするかのようにトンボ姐さんが頭を畳にコスリ付けた。
「イエイエ。わたくしが最前から気付きませずに……」
「黙れ黙れッ」
 と禿茶瓶は二人の言う事を半分聞かずに怒鳴り立てたが、その拍子に額の青筋が二本になった。
「黙れ黙れ。そんな不注意なことで、どうしてこの児を引き取って……一人前に育てる事が出来るのかッ。まだ引き取らぬうちから虐待しよるじゃないかッ」
「ハイ……何とも……」
「……何とも申し訳が……」
 署長もトンボ姐さんのあとから両肱を張ってヘエ突く張った。
「イヤ。私が不注意で……」
「イヤ。本来を申せばこの私が……」
 と髯巡査も署長のお尻に向って三拝九拝した。
 指を啣くわえながらソンナ光景を見ていた吾輩は、モウたまらない位馬鹿馬鹿しくなって来た。吾輩は元来、毎晩木賃宿で夕食に有り付く際に、両親の晩酌が済むまで待たせられる習慣が付いていたのでコンナ眼に合わせられてもさほど驚きはしなかったが、それにしてもこれほど手数のかかる晩飯を喰った事は生まれて一度もなかった。政府の農民救済だってモウすこしは手ッ取り早いだろう。カンジンの飯を喰わせることは後まわしにして、怒鳴りクラとあやまりクラの共進会を開いているようなもんだ。しかも本来ならば吾輩が飯に有り付けなかったのは、あやまっている連中の不注意に違いないのだから、その方を怨まなければならない筋合いであったが、そんな気がチットモしなかったのは吾れながら不思議であった。それよりも何よりも、取りあえず、まん中でカンシャクを破裂させている禿茶瓶の馬鹿さ加減が、腹が立って腹が立ってたまらなくなった。一切合財が一つ残さず禿茶瓶の責任のような気がして来たので、思い切ってトンボ姐さんの背後うしろから口を突んがらして遣った。
「……爺さま。そないに憤おこったてアカンがな。それより早う喰べさしてんか。難儀な爺さんやなあ……」
 吾輩がこう言うと禿茶瓶は威丈高になったまま、白眼と黒眼をクルクルと回転さした。ヤット自分の不注意に気が付いたらしい。そうして突然にパンクしたように腰を落して、白茶気た顔になりながら脇息にグッタリと凭れかかった。スッカリ気の抜けた力のない声でトンボ姐さんに指図をした。
「早う喰わせい」
「かしこまりました」
 と言ううちに又も芸者が四、五人立ちかけた。禿茶瓶がパンクすると同時に室の中が急に景気付いたようなアンバイである。
「そこに一つ余った膳があるではないか」
「……はい……いえ……あのお次の間で……」
「ここで喰わせて苦しゅうない。喰わせるのが目下の急務じゃ。その膳をそのまま遣わせ」
 トンボ姐さんは慌てて立ち上って向うの端に置いてある膳を抱えて、吾輩の前に持って来た。そのあとから最前吾輩に笑って見せた美しい舞妓が二の膳を持って来て吾輩の足もとに置いた。
「さあ……おあがんなさいまっせえ」
 とトンボ姐さんが吾輩に向ってお膳の向うから三つ指を突いた。

     三十九

 吾輩の前にお膳が据えられたので皆ホッとしたらしかった。めいめいに顔を上げて眼を見交すと、皆申し合わせたように吾輩の顔を注視した。
 しかし吾輩は坐らなかった。指を啣えて突っ立ったまま、足下に並んでいる一の膳と二の膳を見まわした。それからマジリマジリとトンボ姐さんの顔を見つめながら言った。
「ワテエの父ととさんもまだ喰べとらんがな」
「おお、そうそう……」
 とトンボ姐さんは真赤になって片膝を立てた。
「ホンニイ、済みまっせんじゃったなあ。……ばってんが……父さんなあ……あっちの室で喰べさせるけん……」
「嫌や。父さんと一緒に喰べるのや」
「フーン。なあ……」
 とトンボ姐さんは一つ大きくうなずいたが、そのうちにモウ眼を真赤にしてしまった。この女は吾輩が父親の事を言いさえすれば泣く事にきめているらしく、警察で泣いた時と同様にあたり構わず鼻紙を出して眼がしらを拭いた。ところが、それと一緒にそこいらに坐っていた十四、五人の芸者どもがトンボ姐さんの真似をするかのように手に手にハンケチや鼻紙を取り出し始めたのには呆れた。最前吾輩に笑って見せた可愛い舞妓までもが、大粒の涙をポタポタと落しているので、吾輩は妙な気持ちになってしまった。
「やっぱなあ……親孝行もんなあ違うばい」
 という囁き声が聞こえた。
「苦しゅうない。男親もここで喰べさせえ。膳をモウ一つ用意せえ。早うせんか」
 と禿茶瓶が又もカンシャクを起しそうな声を出した。その声に応じて向うの縁側の端から、今まで見なかった女中が二人出て来て、膳を作り始めた。
「父さん。酒好きやから、一本貰うてや……」
 と吾輩はすこし調子に乗って甘えてみた。
 しかし誰も笑わなかった。たった一人禿茶瓶が鼻紙を顔一パイに押し当てたまま、うるみ声で言った。
「……飲めるだけ飲まして遣れえ。……ああ……感心な奴じゃ……オホンオホン……」
 お膳が出来上るとトンボ姐さんは、最前から開いたまんまになっている入口の襖の向うをさし覗いて、その蔭に小さくなっているらしい男親をさしのぞいた。
「……そんなら……アノ……どげん言やあよかかいな。…アンタクサ……あの……父さんクサ……こっちい入って……御膳をば……」
 と言いかけたが、その途端にドタンバタンと組み打ちみたような音がし始めたので、皆ビックリして中腰になった。吾輩も男親がどうかされているのじゃないか知らんと心配しいしい、駈け付けて見ると、男親は最前の半化けの婆ばばと何かしら掴み合いみたようなことをしている。そうして隙があったら逃げ出そう逃げ出そうとしているのを半化け婆がシッカリと袖を捉えて、逃がすまい逃がすまいとしている。それを又男親が無言のまま突き離して、俥に轢しかれた犬みたいに腰を引きずり引きずり這い出して行こうとする。大方腰が抜けていたのであろう。そこへトンボ姐さんが馳け付けて、加勢をして押え付けたので、男親はトウトウ悲鳴をあげてしまった。
「助けてえ……助けてえ……チイヨ……助けてエ……」
 吾輩は助けて遣ろうと思って傍へ寄りかけたが、芸者に押え付けられて縮み上がっている男親の恰好があんまり可笑しかったので、ついゲラゲラと笑い出してしまった。
「何事かいな。こりゃあ……」
 とその時にトンボ姐さんが男親の両手を掴まえて、尻餅を突いたままの半化け婆をかえりみた。
「……あなたあ……」
 と半化け婆は、珍妙なシカメッ面をしいしい、芝居がかりの大仰な恰好で起き上った。
「あなたあ……今御前様のお声のしましつろうが。そうしたら貴方あ……この人がガタガタ震い出して逃げて行こうとしてだっしょうが。それで貴女あ……あたしゃあ一所懸命で押え付けとりましたとたい」
「堪忍かにしとくれやす……堪忍しとくれやす……」
 と男親は芋虫のように自分の膝へ頭を突込みながら蚊の泣くような声を出した。
「何じゃ何じゃ、何をしよるのじゃそこで……」
 と又も禿茶瓶がカンシャクじみた声を出した。
「ととさんナ、ここで御膳たべんて言いおるがな。アンタがあんまり憤るよってに……」
「ウーム」
 と禿茶瓶が又眼を白黒して頬を膨らましたが、そのまま横を向いて宣言した。
「それならば仕方がない。どこか次の間で喰わせえ。しかしそのまま帰すことはならんぞ」
 大友親分と一緒に芸者一同が頭を下げた。そのうしろから女中が三、四人出て来てお膳を持って廊下へ出て来た。

     四十

 こんな風にして、前代未聞の手数の掛った晩飯が、やっとの事で我々親子に提供されたのであった。
 提供された場所は最前来た長い廊下を半分以上逆戻りした、玄関の横の狭い、みすぼらしい部屋であったが、それでも欄間や床の間がくっついていたから木賃宿より立派であったろう。その真中に据えられた四つの御膳に差向いに坐って、半化け婆に御給仕をして貰いながら今迄見た事もない御馳走の箸を取ったわけであるが、吾輩がまだ飯を一杯喰い終らないうちに男親は前に伏せてあった盃を取り上げて立て続けて五、六杯がぶがぶと呑んだ。その顔を半化け婆はあきれかえったように眼を丸くして見ていたが、やがて顔中を飯粒だらけにしている吾輩を振返るとニヤリと笑った。
「アナタも一杯どうだすな」
 吾輩は左手に茶碗をかかえたまま、箸を持った方の手で盃を取り上げて無言のまま婆ばばの方へつき出した。ちょうど何かしら液体が欲しくなっていたところだったので……。
 吾輩がその盃をがぶりと一口に呑み干すと婆が又目を丸くしてニヤリと笑った。
「ドウしたまあ……。こりゃあ感心……ま一杯どうだすな」
 吾輩は遠慮しなかった。それから二、三杯たて続けに飲んだが、しまいには口の中がエガラッポクなったので冷めたい御清汁おすましをぐっと呑んで残った飯をガツガツとかき込んだ。
 ところがそれから先、何杯御飯を食ったか……、生まれて初めて有りついた御馳走がどんなに美味しかったか、まるで記憶に残っていないのは残念であった。何の気なしに飲んだ二、三杯の酒が之以て生まれて初めての事であったばかりでなく、すき腹であったので、素敵にきいたらしく、振袖にオカッパさん姿のままベロベロに酔っぱらってしまった。そうしていい心持にふらりふらりしながら男親の方を見ると、これも空き腹に熱燗がきいたらしく、つい今先きの屁古垂れ加減はどこへやら、両腕を肩迄まくり上げて大気焔を上げていた。
「知事が何じゃい、署長が何じゃい、文句言うならここへ失せおろう。ハハハハハ。どんなもんじゃい、この鼻様を知らんかい」
 そう言ってペロリと舌なめずりをしながら盃を差出す男親の妖怪じみたトノコ面を見ると、吾輩も滅多無性に嬉しくなった。
「ああチイよ、知事やたら禿頭やたら、テントあかんなあ」
 と言い言い一杯干した男親が盃をさした。
「サイヤ、気のきかんヘゲタレ唐人や」
 と言い言い吾輩は受取った。
「アンタまあーだ飲みなさると、いやらしさなあ」
 と叱りながら半化け婆がにらみつけた。
「アホやなあ、呑まれるだけ呑ませれて禿茶瓶が言うたやないか」
「黙ってヘッコンデけつかれ、この糞たれ婆あ。市川鯉次郎はんを知らんかい」
 婆は面を膨らせながら酌をした。
「あんまれ、あの人達の事をば悪う言いよんなさると、あとで私が届けますばい」
「ハハ……。届けてもよかたい。なあ父さん。一寸もこわい事あらへん。可愛らしい禿茶瓶や」
「ワテやかて恐い事あらへん。あの禿茶瓶、親切者や。ああええ心持になった。チイよ一つ踊って見んかい」
 と言ううちに男親はヒョコヒョコと立上った。
「アイ、何でもええから唄うてや」
 と言い言い吾輩も立上りかけたが、酔っていたのであろう、ベタンと尻餅をついた。
 半化け婆は親子ばりの醜態にあきれ返ったらしく、慌てて御膳を引き始めたが、そのうちに男親は障子や襖に行き当りながら、両手をたたいて首を振り振り何やら唄い出した。我輩もその歌につれて立上りながら、ひょろひょろと踊り出した。
 それからどこをどう歩いたか、吾輩親子は手を引き合いながら長い廊下を伝って、最前の中二階の梯子段のところへ来ていた。その梯子段を男親がはい上っては滑り落ち、滑り落ちてははい登りしている内に、吾輩は半分開いたままの入口の襖のところに行って室内を覗いて見ると、あんまり様子が変っていたので、酔も何も醒めてしまう程ビックリしてしまった。

« 「犬神博士」夢野久作 21~30 | トップページ | 「犬神博士」夢野久作 41~50 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
フォト

22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。