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2014年2月23日 (日)

「犬神博士」夢野久作 61~70

     六十一

 コンナ調子に蚊帳の外で、吾輩は大威張りに威張りながら、思う存分に毒舌あくたいを吐つきはじめると、瘤おやじは果せる哉、こっちの計略に引っかかり過ぎるくらい引っかかって来た。
 最初、蚊帳の中に取り残された両親と瘤おやじは、吾輩の行動があんまり神速すばしこかったので、呆気に取られたまま見送っていたが、続いて瘤おやじを嘲弄し始めた吾輩の言い草が又、極端に傍若無人だったので、一々肝を冷やしたらしく、三人が三人とも首を縮めて息を殺していたようであった。……と思うと間もなく瘤おやじが、弾き上げられたように大きな身体を四ツン這いにした。そうして吾輩に掴みかかるべく眼の前の蚊帳の内側に飛んで来たのであったが、あの時遅くこの時早く、吾輩はイキナリ蚊帳の隅に飛び付いて、釣り紐てを引っ切ってしまったので、瘤おやじは急に出られなくなって、手ごたえのない蚊帳天井を掴みながらモガモガし始めた。おまけに其の足か帯際かに両親が獅噛み付いたらしく、忽ちドタンドタンと組み打ちになった。
 しかし組み付いたのは二人とは言え、高が女と、女以下の腕力しかないヘナヘナ男だから、大した組打ちになる筈はなかった。何の苦もなく左右へ突き放されてしまったらしく、階段の下へ降りて行こうとする吾輩を、瘤おやじは走り寄って反対の方へ追い詰めながら蚊帳越しに大手を拡げて捉とらまえようとした。
 そこで吾輩は又、一隅の釣り紐を引き落す。又一方から出ようとする。又釣り紐を引き千切る。とうとう四隅とも引き落した蚊帳の中で、三人の男女のヤッサモッサが始まる事になったが、その中にランプの前に畳まった蚊帳の天井から、まん丸い瘤おやじのアタマが、青い蚊帳に包まれたままニューッと突き出て来た。そうして蚊帳越しに見当を付けながら、倒れかかるようにして吾輩を捉えようとしたが、ツイ眼の前にランプが在るのに気が付いたらしく、よろめきながら立ち止まって眼の球ばかりをギョロギョロ回転さした。その恰好があんまり可笑しかったので吾輩は逃げる事を忘れてしまって、ついゲラゲラと笑い出してしまった。
「……おじい……ここまでヨウ来んかい」
「……チ……畜生……ウムムッ……」
 瘤おやじは青鬼みたように歯をバリバリと噛んだ。そうして蚊帳の中を泳ぐようにして盲目滅法界に飛びかかって来ようとしたが、その両足に両親が武者振り付いているのでドタリと前にツン倒のめって、お尻を高くして四ツン這いになってしまった。
 吾輩はイヨイヨ笑い出した。
「ハハハ。面白いなオジイ。まっと面白いインチキ見せたろか……コレ……」
 と言うなり吾輩は、風呂敷包みを下に置いて、両手で前をまくって見せた。
「……コレ見い……おじい。ワテエ男さがなハハハ……こんでも芸者になるならばア。三味線弾いたり踊ったりイ。チンチンドンドン、チンドンドン……」
 と踊り出しかけたが途中で止めた。それは瘤おやじがこの時、憤怒の絶頂に達したらしくイキナリ両手で蚊帳の天井を引き裂いて首から上だけニュッと出したからであった……が……その顔の恐ろしかったこと……さすがの吾輩も大慌てに慌てて風呂敷包みを抱えるなり横っ飛びに逃げ出したほどであった。
 ところで梯子段を転がるように駈け降りると下は真暗である。しかし夕方見当を付けて置いたから、手探りで上り框の処へ来て、下駄を探しているうちに、二階でドタンバタンという組打ちの音と、ガチャンガチャンという物の毀こわれるような音とを殆んど同時に聞いた。すると又、それにつれて真暗になってしまった二階から、雷の落ちるようなスバラシイ音を立てて、何かしら巨大おおきなものが畳の上までズシーンと落ちて来たので、吾輩はビックリしてしまった。そのまま下駄も穿かないで、表の戸口にぶつかって、やはり手探りで心張棒と掛け金を引き外した。そのまま小さな潜り戸を引きあげて表に飛び出すと、忽ち風に吹き倒されそうになって、戸口を閉める間もなくヨロヨロとよろめいた。

     六十二

 この時の大風は明治十何年とか以来の猛烈なものだったそうで、豪雨を含んでいたために遠賀川や筑後川の下流には大氾濫が出来るし、倒壊流失家屋が何千、死人が何十とか何百とか言う騒ぎだったそうであるが、その大風の中を、大きな風呂敷包みに抱き付きながら、一丁ばかり村の方へ走り出ると、きょうの昼間、両親と一緒に帆かけ船から上陸した処に出る。そこの河岸かしに一艘の小さな川船が繋つないであったのを、昼間上陸しがけにチャンと見て置いたから、それに乗って河のまん中に出れば、自然と川下へ流れて行って、きょう汽車を降りた、ウドン屋の在る町へ来るに違いない。だからそこの石の段々を昇って汽車に乗ればイヤでも福岡へ着くにきまっている。そこで案内知った警察へ乗り込んで行って、髯巡査にスッカリ事情を話して、吾輩の身売り証文を見せたらば、瘤おやじの悪い事がわかるだろう。そうして両親を助ける事が出来るだろう……と言う……如何にも子供らしい盲滅法な吾輩の計画であった。
 ところがサテ大風の中を匍はうようにして川縁に辿り着いて、薄い月あかりに透かしてみると、川岸には舟らしい物の影も見当らない。それどころか水嵩がずっと増して、堤防の半分以上の処をドブドブと渦巻きながら流れている。川の中心に近い処はゴーゴーという音を立てて眼のまわるようなスピードだ。おまけに時々車軸を流すように降りかかる雨は、まるで小石のようにピリピリと頬や手足を乱れ打って、ウッカリすると川の中へタタき込まれそうな猛烈さである。
 吾輩はトウトウ立っていられなくなって、風呂敷包みを抱いたまま、路ばたの草の上にヒレ伏してしまった。そうして声を限りに、
「……トトさん、トトさん、トトさん、トトさん……カカさん、カカさん、カカさん、カカさん……」
 と叫んだが、その声はまだ自分の耳にも入らないうちに、何処かへ吹き散らされてしまった。
 それでも吾輩は又叫んだ。その声は又、風に吹き散らされた。それでも構わずに吾輩は又叫んだ。今度は頭をすこし擡もたげて……けれども何の役にも立たない処か、風呂敷包みごと猛烈な風に吹き起されて、そのまま空中に持って行かれそうな気がするので、なおもシッカリと草の根に獅噛み付きながら、叢くさむらの中に顔を突込んだ。そうして襟元からチクチクと刺すようにタタキ込む雨の痛さをジット我慢しいしい顔を横向けてモウ一度叫んだ。
 するとその返事は依然として何処からも聞こえなかったが、その代りに、ゴーゴーと言う風の音の下をビシャビシャと言う人間の足音が近付いて来た。しかもその足音が、吾輩のすぐ傍まで迫って来ると、不意に左右から腋の下に手を入れて抱え起されたので、ビックリして顔を上げてみると、それは意外にも吾輩の両親であった。のみならず二人とも三味線と鼓とをチャント包んで荷造りをしている上に、頬冠りをして尻を端折っている様子である。それを見ると吾輩は不思議に思って、
「瘤のオジイは……」
 と問うたが、両親は何とも答えなかった。或は聞こえなかったのかも知れないが、そのままダンマリで吾輩を引き立てると、風呂敷包みを吾輩の首ッ玉に引っかけて、グングンと引きずって行った。
 ……それから先の恐ろしかった事……それは吾輩の記憶にあんまり強く印象され過ぎて、却ってハッキリした説明が出来かねる位であった。
 そうした途方もない大風の中を、親子三人が手を引き合いながら横に並んで行くのは、まるで洪水を堰せき止めながら押し上げて行こうとするようなもので、絶対不可能な仕事であることが間もなくわかった。しかも、こんなに無理をしてまでも風上の方に逃げる必要があるか知らん。それよりも風下の方に逃げた方がよっぽど楽で、歩きよかったに違いないと、その時に吾輩はチョット気が付かないでもなかったが、そんな事を尋ねる隙もなく雨と風が吹きつけて来るので眼も口も開あけられない。ウッカリすると三人とも手を繋ぎ合ったまま宙に浮いて行きそうな気持ちになるのであった。

     六十三

 三人はいつの間にか女親を先に立てて、その蔭に隠れるように男親が行く。その又蔭に吾輩が踉ついて行くという順序になったが、それでも風に吹きまくられて思うようにあるけない。おまけに大きな包みを背負わされている吾輩は何度も何度も転んでは起き、起きては転びするのを、両親は無言のまま引き起しては歩かせ、歩かせては押し遣りする。
 前からは雨と風がタタキ付ける。堤防の両側に並んだ櫨はぜか何かの樹の枝がポンポンと折れて虚空に飛ぶ。又は足もとにバサバサとタタキ付ける。よく気を付けて見ると、足もとの泥濘ぬかるみの中は木の葉で一パイである。頭の上には時々月が出て四囲まわりが明るくなり又暗くなる。そのうちにそこいら中が突然にパアーッと明るくなったので、ビックリして振り返ると又驚いた。
 ツイ今しがた出て来たばかりの村外れの木賃宿が火事を起している。屋根の上に出来た大穴から吹き上ぐる大火焔が、すこし離れて並ぶ村の家々を朱の色に照し出しつつ、地を這う滝の水のように火の粉を浴びせかけている。最前吾輩が寝しなに閉め切った南側の雨戸は二枚とも倒れたらしく、二階一パイに満ち満ちた火の光が、風のために白熱されて、四角い太陽を見るように眩しく照り輝やきつつ、吾々の行く手に続く櫨の並木を照し出しているのだ。
 その大光明を振り返りながら吾輩は思わず風の中に立ち止まった。……瘤おやじはどうしたろう……と子供心にモウ一度心配し始めたが、反対に吾輩の両親たちはこの光を見ると急に慌て出したようであった。やはり無言のままイキナリ吾輩の風呂敷包みを奪い取った男親が、真っ先になって逃げ出す。あとから三味線の包みを逆さに抱えた女親が、大きな図体をよろめかしながら追っかける。そのあとから身軽になった吾輩が一所懸命の思いで踉いて行くのであったが、何を言うにも子供の足と大人の足だからイクラ走っても走っても後れがちになるのは止むを得ない。そのうちに二、三度風のために吹き転がされて泥まみれになった吾輩は、トウトウ遣り切れなくなって、
「ととサアーン……かかサアーン……」
 と叫んだ。
 けれどもその声は両親の耳に入らなかったのであろう。右に左によろめきながらグングンと急ぎ足になって、赤い光に照らされながら見る見る小さく遠ざかって行くのであった。
 それを見ると吾輩はイヨイヨ絶体絶命の気持ちになった。ビッショリと雨に濡れて重たくなった着物の裾が、足首にまつわって鞭でタタクようにヒリヒリするのを、両手で引き上げ引き上げ走った。跣足はだしの足の裏がヌカルミの底にある砂利に刺されて針の山のように痛いのも我慢しいしい走った。けれどもそのうちに息が切れて苦しくてたまらなくなるのをどうする事も出来なかった。今にも泣き出したい位情なくなったが、泣いたらイヨイヨ後れてしまって、この嵐の中に取り残されることがわかり切っているので、転こけつまろびつ走りに走った。持って生まれた性分とは言いながら、この時の吾輩の剛情さばかりは今でも吾ながら感心している位で、思い出しても身の毛の竦立よだつ体験であった。
 そのうちに大きな橋の袂に来たが、両親はその橋を渡らずに、依然として真直に堤の上を走って行った。吾輩もむろん後を慕って行ったが、間もなく道幅が次第に狭くなって、草の中をウネウネと走る小道になった。しかし火事の光はイヨイヨ強くなるばかりで、川向うに並ぶ町らしい家々をズラリと照らし出している。今思うとそれは直方の町らしかったが……その町の上の雲の破れから出て来る満月の光の青かったこと……余りの物すごさに思わず立ち止まって、喘ぎ喘ぎ振り返って見ると、木賃宿の火はモウ木屋の瀬の本村に移ったらしく、空が一面に真赤になっている。
 吾輩は顔を流れる雨の雫しずくを嘗めてホット一息した。けれどもその次の瞬間に顔にまつわるおかっぱさんの髪の毛を撫でのけながら振り返ってみたが、吾輩の両親は堤どての上の遠くに豆のように小さくなっているのであった。
 それを見ると吾輩は何かしら胸がドキンドキンとしたので思わず泣き声をあげてしまった。

     六十四

 それから何時間経ったか、何日過ぎたかサッパリわからないが、気が付いた時にはどこかの立派なお座敷のまん中に、柔らかいフワフワする蒲団に包まれて寝ていた。コンナ上等の夜具の中に寝た事のない吾輩は、まるで空中に浮いているような気がしたが、それはかなり高い熱に浮かされていたせいばかりではなかったように思う。それと一緒にどこからかクックッと笑う若い女の声がきこえて来たが、これも何だか夢を見るような気持ちで聞き流しながら、又もウトウトしかけていた。
 すると間もなく枕元でパチャンパチャンと金盥かなだらいに水の跳ねる音がして、冷たい手拭が額の上に乗っかったので、急に気持ちがハッキリしてキョロキョロとそこいらを見まわして見ると、直ぐ枕元の左っ側に、白い髯を長々と生やした、仙人みたいに品のいい老人が、濡れた手を揉み乾かしながらニコニコと眼を細くして、吾輩を見下ろしていた。若い女の声はそのお爺さんの背後に在る襖の向うから聞こえて来るのであった。
 その老人は血色のいいスラリとした身体からだに、灰色の着物を着て、黒い角帯を締めていたように思うが、吾輩が眼醒ましたのを見ると、膝まで垂れた白い髯を長々としごいて一層眼を細くした。そうして如何にも親切そうな柔和な声を出した。
「……どうじゃな気分は……」
「キブンて何や……」
 と吾輩はすぐに反問した。この老人に、早くも言い知れぬなつかしさを感じながら……。
「ハハハハ……」
 と老人は如何にも朗かに笑い出した。それと同時に襖の向うの若い女の笑い声が一層高くなった。如何にも我慢し切れないと言う風に、
「ホホホホホホ。ハハハホホホホホ……」
 と聞こえたが、そうした笑い声の中に、何とも言えない和なごやかな、ノンビリした家の中の様子が感じられた。
「ハハハハハ。わしの言う事がわからんのか。気持ちはええかと尋ねているのじゃ」
「ワテエの気持ちけえ」
「そうじゃそうじゃ、眼がまわりはせんかな」
「ワテエの眼の玉けえ。まわそうと思えばまわるがな」
「ハッハッハッハッ。いよいよ面白い児じゃのウ。ハハハ」
「何でそないに笑うのけえ」
「ハハハハハ……いやのう。お前が寝言に面白い歌を唄うたから、家の者が皆笑うているのじゃ」
「……………」
 吾輩は思ず赤面した。今まで寝言を言って笑われたことは一度もない上に、他人の寝言なら毎晩木賃宿で飽く程聞かされて、その醜態さ加減を知り過ぎる位知っていたからである。しかしそれにしても一体ドンナ歌を唄ったのであろう。万一アネサンマチマチの替え歌でも唄ったのだったらどうしようと思うと、殆んど泣き出したいくらい情ない気持ちになって、モウ一度そこいらをキョロキョロと見まわした。
「ハッハッハッハッ。イヤ。心配せんでもええ。何を唄うても構わんがの……わしは医者じゃからノウ」
「お医者様けえ。トッサマは……」
 と吾輩は小さな溜息をしいしい問うた。
「ウム。そうじゃ。この直方に住んでいる医者じゃ。伜は東京に上って学問しよるから、今は娘と二人切りじゃ。何も心配することは要らんぞ」
「そないなこと心配しやせんがな……」
「ウム。そうじゃそうじゃ。そうしてゆっくり養生せえ。お前は今病気じゃからの……」
「わてえ何ともあらへんがな。起きてもええがな」
 と言いも終らぬうちに吾輩はムックリと起き上りかけた。それを白髪の老人は慌てて両手で押え付けたが、その拍子に吾輩は座敷の天井、柱も、床の間の掛物も何もかもがグルグルと回転し始めたような気持ちがしたので、両手でシッカリと眼を押えながら、モトの処に頭を押し付けた。
「ソーラ見い。眼がまわるじゃろ。静かにしとらんといかん」
「眼はまわりはへんがな。お座敷がまわるのじゃがな」
 と吾輩は気持ちの悪いのを我慢して言った。老人と少女の笑い声が一層高まった。
「アッハハハハ……成る程負けぬ気な児じゃな。県知事さんを睨み返すだけの器量は持っとるわい」
「エッ。県知事さんがいるのけえ。あの禿茶瓶がここに来とるのけや……」
「アハハハ。口善悪くちさがない児じゃなア。ハハハ……」
 と老人は反り返って笑いながら又も長々と白い髯をしごいた。
「……県知事閣下はここにはお出でにならぬ。しかし荒巻という巡査部長が知事閣下のお使いで、わざわざここへ見えてノウ」
「……アッ……髯巡査さんが来たのけえ」
「そうじゃ。最前からお前の枕元に見えてのう。お前の事をくれぐれも宜しく頼むとお話があったのじゃ。お前は眠っていたから知るまいが……」
 吾輩は眼がまわるのも忘れてガバと寝床の上に飛び起きた。
「……髯巡査と会わしてや。大切な用があるのや……今すぐに会わしてや……」

     六十五

「……何……髯巡査に会わせてくれと言うのか……」
 と老人は、白い髯を掴んだまま、眼を光らした。そうして吾輩を寝かし付ける事も額から落ちた濡れ手拭を拾うのも気が付かずに、吾輩の顔を見詰めていたのだからよっぽど驚いたのであろう。それと同時に次の間の笑い声もピッタリと止んだようであった。
 しかし吾輩は、そんな事を気にも止めないまま無造作にうなずいた。
「サイヤ。髯巡査に会いたいのや。あの瘤おやじの悪い事申告とどけて、父ととさんと母かかさんをば助けんならんよってん……」
「フウ――ムムム……」
 老人はいよいよ驚いたらしく眼を瞠みはった。
「フムムム……あの瘤おやじの仙右衛門は、そのように悪い奴じゃったのかのう」
「サイヤ、インチキ賭博ばくち打って父さんと母さんを負かしよったんや。そうして一文も遣らんとワテエを買うたように証文書かしよったんや……それでワテエは寝とったけんど起きて来て瘤おやじのインチキをワテエのインチキで負かして遣ったんや」
 老人は驚きの余り眼をショボショボさした。
「……お前が……あのカラクリ賭博に勝ったと言うのか……あの名高い仙右衛門おやじに……」
「さいや。何でもあらへん」
「……まあ……」
 という軽い嘆息の声が襖の向うから洩れた。
 その声を聞くと吾輩は急に意気昂然となった。
「……おじい……おじい様。あの瘤おやじはインチキ下手なんやで……。そやから花札でもサイコロでも皆ワテエに負けよったんや。……ワテエが一番で証文取り返して遣ったんや。そうしたらな……あの瘤おやじがえらい憤おこり出しよってな……蚊帳の天井引き裂いて追っかけて来よったから、ワテエ蚊帳の紐を引落いて逃げたんや。そうした後から父さんも母さんも来て、一緒に逃げよったけんど、ワテエ子供やから途中で後れたんや。……そやからワテエ、その証文と、勝った時の金あんじょ持って来たんや。……コレ……ここに在るがな」
 と言い言い吾輩は懐中ふところを掻い探ったが、その時にやっと気が付いた。吾輩はいつの間にか白ネルの小さな着物に着かえさせられていて、大切な振袖はどこへ行ったか解らない。懐中は無論カラッポで薬臭いような汗のにおいがプンプン出るばかりである。
 吾輩は又もそこいらをキョロキョロと見まわした。
「オジイ様。ここに入れといたのはどこへ遣ったのけえ」
 老人は急に返事も出来ない位、何かに驚いているらしかった。ただマジリマジリと吾輩の顔を見ているばかりであったが、やがて思い出したように切れ切れに言った。
「……それは……荒巻巡査部長が……持って行ったが……」
「……エ……荒巻巡査がけえ……髯さんがあの証文見よったのけえ。そんなら父さんと母さんが悪者でないことモウ解ったんけえ」
 老人は又も思い出したように渋々とうなずいたが、それを見ると吾輩は躍り上らんばかりに喜んだ。
「……おお嬉し……そんならワテエ……もう髯さんに会わいでもええ。おお嬉し嬉し……そやけど……そやけど……」
 と吾輩は急に思い出しながら、老人の顔と、室の中の様子を見比べた。
「……そやけど……そやけんど……ととさんと母さんは今何処にいるのけえ」
 けれども老人は返事をしなかった。
 県知事が吾輩にお辞儀をした時の通りに、両手を膝の上にチャント置いたまま、眼を半眼に開いて吾輩と向い合っていたが、その心持ち血の気をなくした顔色を見ていると、ちょうど彫物の人形か何ぞのように静かで、少々気味が悪かった。

     六十六

 しかし吾輩は何が故に老人が、コンナ改まった態度に変って、謹しみ返っているのか、その気持ちがわからなかった。だから構わずに畳みかけて問うた。
「……おじい……おじい様……。父さんと母さんはどこにいるのケエ」
 こう言って蒲団の上でムキ出しになった膝を撫で撫で乗り出したのであったが、それでも老人は返事をしなかった。その代りに、心持ち伏せた瞼の下から泪をポロポロとこぼし始めたので、吾輩はイヨイヨ妙な気持ちになった。何という可笑しなお爺さんだろう……? それともこっちが何かしら悪い事を言ったのじゃないかしらんと、最前から話し合った言葉を一ツ一ツに思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。仕方がないからスッカリ手持ち無沙汰になったまま、老人の泣き顔を見まいとして俯向いていると、そのうちに老人は突然にズイズイと吾輩の前にニジリ寄って来て皺だらけの両手でピタリと吾輩の肩を押えたのでビックリした。慌てて逃げ退のこうとしたが、そのソッと肩に掛けられた手の中に何とも言えない親切な力が籠もっているようで、逃げようにも逃げられない気持ちになってしまった。
 老人はそのまま吾輩の顔をジッと見た。そうしてその眼から溢れ出て来る泪を拭おうともしないまま、唇をワナワナと震わした。
「コレ……お前は、あの両親に会いたいと言うのか」
 吾輩は面喰らった。この老人は前から吾輩の両親と心安いのか知らんと思った。しかし、それにしても恐ろしく念入りに口を利くお爺さんだ……と考え考え指を啣えたまま答えた。
「アイ……早う会いたいのや。ワテエがおらんと母さんが三味線弾いても、ととさんが鼓を叩いても銭くれる人がおらんのや。踊りをおどるワテエがおらんよって……」
 と老人はなおも唇をワナワナと震わしながら、吾輩にお辞儀をするように頭を下げた。それを見ると吾輩はイヨイヨ困ってしまって、弁解いいわけをするように切れ切れに言った。
「……ワテエがおらんと……父さんも……母さんも、お飯まんまヨウ喰べんよってに……」
「……………」
「……ワテエも……早う踊りたいのや。会わしてや……」
「エッヘヘヘヘ……」
 と老人が突然に妙な声を出した。それと同時に薄い白髪しらがを分けた頭をイヨイヨ低く垂れたので、吾輩はタッタ今泣いていた老人が急に笑い出したのかと思って、下から顔をのぞき込んで見たら、豈あに計らんやの大違いであった。老人は吾輩の肩に両手を載せたまま感極まった態ていでシャクリ上げているのであった。
 それを見ると吾輩はもう、身の置き処もないくらい面喰らってしまった。何しろ世の中に、声を出して泣く者は女と子供だけで、コンナ老人が、コンナ奇妙な声を出して泣くだろうとは夢にも想像していなかったのだから、ちょうど生まれて初めて汽車を見たくらいにビックリしたのは当然であろう。しかもその上に驚いた事には、襖の向うでタッタ今まで笑っていた女の人がヒソヒソと声を忍んで泣き出している気はいが、洩れて来たのであった。……大人というものはどうしてコンナ変テコな処で泣き出すのだろう……一体、何が悲しくて泣くのであろう……と思うと、吾輩は呆れを通り越して可笑しくなってしまったくらいであった。
 するとその時に老人は、力を籠めて吾輩の肩をグイと一つゆすぶったので、又ビックリさせられた。そうして叱られるのか知らんと思いながら、頭を下げ加減にしていると、老人は泪に曇った激しい声で、吾輩に喰い付くように問うた。
「……コレ……」
「……アイ……何や……」
「……お前は……あれほど無慈悲な双親ふたおやの事をまだソレほどに思うているのか……」
 吾輩は水ッ洟をススリ上げながら顔を擡もたげた。
「……ムジヒ……て何や……」

     六十七

 老人は吾輩の質問に答えないでなおも新しい涙を両眼から湧き出さした。あんまり沢山に涙を流しだすので、鼻の頭の方へシタタリ落ちるのを拭おうともしないまま唇を震わした。
「無慈悲にも何も、お話にならん親たちではないか。あの両親は、何処かの非人同士が引っ付き合うたもので、お前は真実の子供ではない。お前を生みの親から引き離してカドワカシて来たものと言うではないか」
「どうしてそないな事知っとるのけえ」
「髯の荒巻巡査が、何もかもこの爺に話したのじゃ。しかもお前の両親は、そのお前のお蔭で永年養われて来た大恩を忘れているのじゃ。お前の親孝行につけ込んで、人間の道を外れた盗人じゃの人殺しじゃのを教えて、その上に放つけ火までさせているのじゃ。……そればかりではない。今の話でようよう訳がわかったが、お前の両親たちは、自分たちの罪を逃れるために、何もかもお前に投げ付けて行方を晦ましているのじゃ。……何と言う邪慳な親か。親で無のうてもそのような無慈悲な事が出来るものではない。……然るにお前はその親でなし……人でなしの親を、なおも親と思うて、行く末を案じて遣るとは……遣るとは……世が逆様とはこの事じゃ……この事じゃ……エッヘッヘッヘッヘッ……」
 吾輩は馬鹿馬鹿しくなって来た。親でなしであろうが、人でなしであろうが、永年一緒に暮して来た父さんと母さんが何処へ行ったか解らないとなれば、誰でも心配するにきまっている。極めて自然な、当り前の事でしかないのだ。大人というものはドウしてコンナに下らない事ばかり感心するのであろう。おまけに泣いたり、お辞儀したりしてばかりいて、要領を得ない事おびただしい。この品のいい老人よりもあの仙右衛門おやじの方が悪い奴には違いないが、それでも悪いなりにヨッポド要領を得ている。言う事がハッキリしていて、相手になっても張り合いがある……と子供心に考えた。
 しかし、それにしても未だハッキリしない事が、あんまり沢山あり過ぎる。第一両親が吾輩にナスリ付けて逃げて行ったと言う、その罪の正体がわからない。吾輩の記憶によると、吾輩の両親は何一つ悪い事をしていないように思えるのに、何で警察から睨まれるのか知らん。そればかりか、知事の禿茶瓶と、大友の刺青いれずみ親分と、髯達磨の荒巻巡査部長は仲よしにきまっているのだから、髯部長が吾輩の両親を睨んでいるとなると、知事も大友の親分も髯部長の味方になって、吾々親子に敵対する事にならないとも限らない、福岡で知事の禿茶瓶が威張り腐った時には吾輩が思い切りヤッツケてあやまらせて遣ったが、今から考えるとアレが悪かったかも知れない。是は容易ならぬ事になって来たぞ……と子供心に思案をすると、今度はこちらから老人の方にニジリ寄った。
「……おじい様……」
「……何じゃの……」
「そんなら父さんと母さんは、ホンマニ何処へ去いんだか解らんのけえ」
「ウム。今日で三日になるが、まだ捕まえられんのじゃ」
「……三日……」
「そうじゃ。あの遠賀川の川堤の上にお前がたおれておったのを、消防組の若い者が、ワシの処へ担ぎ込んでからきょうで三日になるじゃ」
「……その間ワテエは眠っとったのケエ」
「そうじゃ。歌ばかり歌うておったのじゃ」
 と言ううちに老人はやっと鼻紙を取り出して涙を拭いた。
「どないな歌うとうとったのけえ」
「一々は記憶おぼえんがの……」
「アネサンマチマチやたら、カッポレやたら、棚の達磨さんやたら……」
「そうじゃそうじゃ。そのような歌じゃ」
 吾輩は自分の顔が赤くなるのがよくわかったくらい気まりが悪かった。

     六十八

「そんなら父さんと母さんは、モウ髯さんから捕まえられん遠いところへ逃げてしもうたんけえ」
「そうじゃそうじゃ。モウ大分県か何処かの管轄違いへ逃げ込んだのじゃろう。それじゃから、お前も安心して寝え寝え、寝とらんと又熱が出るぞ」
 吾輩は又もホッと一息安心をした。そうして老人に押え付けられるまにまにフワフワする夜具の中にモグリ込んだ。
「そんならお爺様……」
 吾輩はモグリ込むと直ぐに横を向いた。タッタ今額に載せて貰った新しい冷たい手拭を片手で押えながら……。
「何じゃな……」
「そんならお爺さま……その父さんと母さんが、ワテエにさせた悪い事言うのは、どないな事や」
「……ウ――ム。それはのう」
 と老人は言い淀んだ。しかし間もなく、如何にも慈悲深い、気高い顔になって、吾輩の額の手拭に手を添えた。
「それはのう。お前に言うて聞かせても仕様のない事かも知れんが……物を盗んだ事と、人を殺した事と、よその家に火を放つけた事じゃ」
「……阿呆らし……」
 と吾輩は思わず叫んだが、そのまま口を噤つぐんで老人の顔を穴の開く程見上げた。……ドウして……何処からそんなトンチンカンな、恐ろしい話が出て来たのだろうと疑いながら……。ところが老人は吾輩が叫んだ言葉を聞くと、いかにも吾意を得たりという風に何度も何度もうなずいた。
「そうじゃろうと思うとった。ウンウン、そうじゃろうと思うとった。わしは息も絶え絶えのお前を引き受けた最初から、お前には罪はないと固く信じておったのじゃ。わしは聊いささか骨相を見るでの」
「コッソーて何や」
「骨相とは人相を見ることじゃ」
「……アレ……お爺様人相見るのけえ」
「フーム。ほかに人相を見る人をお前は知っとるけえ」
「知らないでか。空家の前で提灯とぼいて、四角い木とサーラを机に並べて銭貰うとるあの爺さまやろ」
「アハハハ。よう知っているのウ」
「知らないでか。木賃宿に一緒に泊ったこと何度もある。やっぱりお爺様のように白い髯引っぱっとったがな。この髯はわしの大切な商売道具や。そやけど、わしの人相見は当らんよってに、一つ処に永うおられん言いよったがな」
「アッハッハッハッハッハッ」
 と老人は又高らかに笑い出したが、それに連れて次の間でも又、ヒソヒソと笑い出す声がきこえて来た。よく泣いたり笑い出したりする連中だ。
「アハハハハハ。口の悪い児じゃのう」
「そんでもホンマやがな」
「そうじゃそうじゃ。その通りじゃその通りじゃ。しかしこの爺はのう。空家の前で提灯もとぼさんし、お金も貰わんのじゃが、その代りに、わしの言う事は必ず当る。お前のこれから先の事でもチャント見透いとるからのう。何でもこれから、わしの言う通りにするのじゃぞ。そうすればお前は今の病気が治っても、警察へ呼ばれんで済むのじゃ」
「呼ばれてもええがな。恐いことあらへん。ワテエ。警察の裏で小便して遣った」
「ウムウム。その話も聞いた。髯の巡査部長から詳しゅう聞いたが、しかし、それは罪がのうて呼ばれた時じゃ。悪い事をした疑いを受けて警察に呼ばれると、それはそれは地獄よりも恐ろしい眼に合うのじゃぞ」
「ワテが何じゃら悪い事したて、髯巡査が言いよるのけえ」
「したにも何も大変な嫌疑うたがいがかかっているのじゃ……そればかりではない。お前にはまだまだ世にも恐ろしい災難が、あとからあとから付き纏まとうて来よるのじゃが、それをこの爺と娘が、タッタ二人で助けて遣ろうと思うて一所懸命になっとるのじゃ。お前はまだ子供じゃから解り難にくいかも知れんが、しかし大凡おおよその道筋みちすじでも解っていると都合がよいと思うから、話して聞かして置こうと思うが、よう聞けよ……ええか……」

     六十九

 これから天沢老人が吾輩に話して聞かせたことは、所々むずかしい漢語が入るので些なからず弱らされたが、それでも大体の意味はよくわかった。その話と、今の吾輩の見聞と想像を綜合して考えてみると、まだ七つにしかならない吾輩が、この遠賀川ぶちで巻き起した事件というのは、実に二重三重の恐ろしい意味で付近を騒がしたのみならず、その前後に行なわれた選挙大干渉以上のセンセーショナルな大事件として全県下の新聞に報道されたものであった。
 ちょうどその時から三日前のこと、直方から見ると遠賀川の川向う、木屋こやの瀬せの南の村外れに在る一軒の木賃宿から火を発して、木屋の瀬の全村に燃え移り、折柄の烈風に煽られて猛烈この上もない火勢を示した。これを見た直方を初め付近各村の消防組は時を移さず馳け付けたが、何を言うにも立っておられない程の大風の中とて、自由な行動が出来よう筈がない。遂に木屋の瀬全村を烏有に帰し、焼死者、負傷者各若干を出して漸くの事で鎮火したのであった。
 然るに、一方に大風は、鎮火後も引き続いたのみならず、稀有な豪雨をさえ交えて、川筋の堤防が危険に瀕して来たので、警察と消防は全力を竭つくして警戒に当ったのであったが、力及ばず、各方面に各種の被害が続出したので県当局は総出のありさまで救護に奔走し、県知事筑波子爵も、安永保安課長、荒巻巡査部長以下の一行を従えて直方地方まで巡視して来た。
 ここに於て直方の警察署内は非常な緊張を示し、とりあえず木屋の瀬の出火の原因について極力調査を遂げてみると、火元の木賃宿は南側の柱二、三本を残して殆んど完全に近く灰になっている。その中央の上り框かまちと思われる処に、並外れて大きな人骨が、雨と風とに晒し出されて横たわっていたが、その首の周囲まわりには、ランプの釣り手に使われたらしい、両端に鉄の鈎の付いた銅線が巻き付いていたばかりでなく、その一方の端は大黒柱に巻き付けたものと見えて四角に折れ曲っていた。その状況によって推察すると、一旦打ち殺して置いて、あとから息を吹き返しても急に起き上れないようにして、火を放つけたまま逃げ去ったものと見ることが出来る。極めて浅墓な手口ではあるが、その残忍さに到っては近来出色の事件であった。
 そこで直方署ではイヨイヨ緊張してこの事件に当る事になったので、まずこの死骸を近隣の人々に見て貰ったが、無論誰の骨だか解る筈がなかった。ところがその中に、木屋の瀬の北の村外れに住んでいた、タッタ一軒類焼を免れた火葬場の番人のオンボウ佐六という男が遣って来てその骨を一目見ると、これは瘤おやじ仙右衛門に相違ない。第一この骨は普通人よりズッと大きくして六尺豊かの大男のものであるし、その上に仙右衛門は生前オンボウ佐六に冗談を言ったことがある。……俺が死んだら無料ただで焼いてくれなあ。焼き賃には福岡で入れた金の奥歯を遣るけんな……と大きな口を開いて見せたことがあるが、その時に見覚えのある歯がこの骸骨にも付いているから、イヨイヨ仙右衛門に間違いはないと、警官の前で断言したのであった。
 そこで直方署では早速手をまわして博奕打ちの仲間の噂を探ってみると、元来仙右衛門という男は直方の遊び人仲間でも一番の古顔で、この頃大友親分に対抗して売り出した荒親分、磯政事、磯山政吉という男の大兄哥あにい筋に当る名人なうてであるが、その賭博のインチキ手段が余りに卑劣で巧妙なために、所の人から忌み嫌われて、殆んど仲間外れと同様の冷遇を受ける事になった。そこで仙右衛門は仕方なしに木屋の瀬の村外れの木賃宿を一軒買って自分はその亭主となり、行き来の旅人を相手にして小銭をカスリ始めたもので、この頃はドンナ詐欺いんちき手段を用いていたか知っている者すらない。だから、仙右衛門の死骸が他殺ときまれば、その犯人は必ず仙右衛門のために絞上げられた旅渡りの者に違いない……と言う噂であった。
 然るに一方に直方署では、その大風の最中に、何処かの村の若い者が、河岸にたおれているこの辺には見慣れない女の児を発見した。そうしてその女の児をこの界隈に徳望の高い天沢老先生の処へ持ち込んだと言う噂を聞き込んだので事の序に巡査に当らせてみると、意外にもその女の児というのは実に七、八歳ぐらいの男の児で、しかもその身体からだには、仙右衛門の筆跡に相違ない仙右衛門宛の身売り証文と二十円が雨に濡れたままヘバリ付いていた……という事実が挙がった。

     七十

 この事実を探り出した直方署内は又も一層の緊張を示した。
 その子供の身体にヘバリついていた身売証文と円札こそ、仙右衛門殺しの真相を物語る重大な証拠物件ではないかと睨んだので、直接に吾輩を取り調べて、事実を掴もうとこころみたが、生憎吾輩は雨風に打たれながら過度の激動をしたせいか、天沢老人の処へ引き取られると間もなく高熱を発して歌ばかり歌っているし、天沢先生も当分のうち重態と認めて取調べを遠慮して貰いたいと主張しているので手が付けられない。又吾輩を天沢医院に担ぎ込んだ二、三人の若い者も、唯、川向うの消防組と名乗っただけで、まごまごすると橋が落ちて帰れなくなるからと罵しり合いながら、殆んど死骸を投げ出すようにして風の中を駈け出して行ったので、この上に探索の進めようがない事になった。
 ところがこの事を聞き込んだ知事随行の荒巻巡査部長は大いに驚いた。すぐに……もしや……と感づいたので、早速、直方署長を同伴して天沢先生の処へ来て見ると果せる哉、福岡の警察署が知事の厳命によって懸命に探索しているその当の本人の吾輩が寝てたので非常に喜んだ訳であったが、同時に、その髯巡査の話と、天沢先生が提供した証文と、お金との二つの証拠物件によって、吾輩……もしくは吾輩親子三人の罪状が、殆んど確定してしまったのであった。
 吾輩の両親はその頃まで珍しくなかった山窩の一種で、警察仲間ではカゼクライと名付けている持て余し者の一類ということになった。
 すなわちカゼクライと言うのは大道芸人を装いつつ各地で悪事を働いて行く無籍者の総称であるが、その悪事の手段の一つとして、乞食仲間でカゼと称する子供を使って人眼を欺きつつ、チボ、万引、走り込み、駆け抜け、掻っ浚い、シノビ、パクリ、インチキなぞ言う各方面に亙わたって稼ぐのがある。しかもその中でも吾輩の両親が使っていたカゼ……すなわち吾輩は単に、見るからにイタイケなカゼであり、かつ、大道芸人として勿体ない程の舞踊おどりの天才であったばかりでなく、実に世にも珍しいインチキ賭博の名人であり、かつ大胆不敵な窃盗の卵であることが、吾輩自身で公言した言葉や、東中洲の待合で、知事以下三、四人のガマ口を失敬した手口によって遺憾なく証明されている。こんな素晴らしいカゼは乞食仲間でも非常に高価な売買価値を持っているもので、木屋の瀬の瘤おやじが吾輩を狙ったのも多分そこに着眼したものと考えられる。のみならずその身売証文を吾輩自身に持っていたのは、吾輩が直接に瘤おやじから盗み返したものとしか考えられないので、いずれにしても吾輩は、まだまだドレ位、悪事の天才を隠し持っているかわからないシタタカ者でなければならぬ。後世恐るべしとは吾輩のために言い残された言葉に外ならぬ……と言うのが福岡県当局の定評であった。
 だから木屋の瀬の殺人と放火の犯人が吾輩と認められて来るのは自然の結果として止むを得なかった。その残忍さや拙劣さから推測して、子供の吾輩が手を下したものではないかと考えれば、考え得る余地が充分にあるので、いずれにしてもこの子供は決して取り逃がさないように監視して貰いたい。そうして一日も早く取調べの出来る程度に回復さして貰いたい……というのが、ツイ先刻まで来ておった荒巻部長の言い分であった。
 ところで、今から考えると荒巻巡査は、同伴した直方署長の説明か何かで、天沢老人の人格を信頼した結果、このような腹蔵のない意見を述べたものらしかったが、しかし天沢老人は、こうした当局の「見込み」の内容と、事件の経緯いきさつをチャンポンに聞いてい

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