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2014年2月24日 (月)

「犬神博士」夢野久作 71~80

     七十一

 天沢家の奥座敷には、こうして時ならぬ法廷が現出したのであった。すなわち黙って聞いている直方署長が差し詰め裁判長の立場で、吾輩に対する嫌疑を述べ立てている荒巻部長が検事格、又、これに対して反駁を加えている天沢老人が弁護士の役目を買って出た訳で、襖の蔭にお茶を入れながら一言一句も聞き洩らすまいと耳を傾けているこの家の令嬢がタッタ一人の傍聴人兼書記の役廻りになった。しかもそのカンジンカナメの被告人となった吾輩が、寝床の中から時々飛んでもない猥歌を歌い出す。ウカウカすると夜具の中から飛び出して夢うつつのまま尻振り踊りを始めるのを、検事と弁護人が慌てて元の穴へ押し込むというのだから、トテモ珍妙な場面であったに違いない。
 然るに吾輩の弁護に立った天沢老人の弁論なるものが又、頗る珍妙無類を極めたものであった。すなわち天沢老人は、直方署長と荒巻部長を前に置いて、威儀堂々とコンナ意見を述べ立てたという。
「私は骨相学上から見て、当局と全然正反対の意見を主張しなければならぬ事を、非常な光栄としかつ、欣快とするものである。
 元来骨相学なるものは古来一種の迷信、もしくは荒唐無稽な愚論として軽蔑されて来たものであるが、私が七十年間の経験によって判断してみると決して根拠のないものでない。殆んど恐ろしい位に適中するもので、現に古今の名判官と呼ばれる人で、有意識無意識にこの骨相の観察を判決の土台にした例が、数限りなく記録に残っているのを見てもわかる。
 ところで私はこの患者を引き受けた最初にこの児の骨相を一眼見ると、心中深く驚いたのであった。この児が尋常の生まれでない……必ずや身分家柄の正しい、立派な人物の血を引いた児でなければならぬのみならず、将来どのような偉大な人物になるかわからないと言う、殆んど理想に近い完全な骨相を持っておることを発見して、思わず襟を正したのであった。
 その中でも第一に御注意申し上げたいのは、この児の天帝に暗帯濛あんたいもうの気がミジンも見えない事である。骨相学上で天帝というのは、眉の間から中央にかけた白い平たい処であるが、一度でも悪事を働いたもの、又は生まれながらにして性質の曲っておる者は、ここの皮膚の下に、冬の日陰のような暗い、つめたい気分が滞とどこおっておるものである。見なれた者の眼にはその暗帯濛の形がハッキリと見えるものであるが、この児の天帝には、そんなものの影さえない。極めて天空快濶な奔放自在な性格であることが一眼でわかる。又、身分の正しい家柄の児であることは、その鼻筋の気品を保った通り工合でわかり、偉人となるべき将来を持っておることは、その重瞳が、遠くは豊太閣、近くは勝海舟なぞと同様、稀有のものであることによって判断される。又、頭脳の明晰なことは、その顱頂骨ろちょうこつの形によってわかり、殺伐残忍な性格でない事は、耳殻と、顴骨かんこつの高さでわかり、正義を主張する意志の強固さは、その顎の形が表明し、芸術的技巧に秀れておることは、その鼻翼の彎曲が左右均斉しておるのでわかる。これを要するにこの児の性格を綜合してみると、悪人としての要素は、過去、現在、未来を通じてミジンも認められないのみならず、却って諸悪の征服者として世に輝くべき天分を十分、十二分に持っておることが証明されて来るばかりである。
 だから私は、ただ今警察当局のお話を承っておるうちに、意外千万な感じに打たれざるを得なかった。警察当局のこの児に対する嫌疑を根本的に否定せざるを得なかった。同時に、たといその嫌疑が全部、事実と認められる証拠があったとしても、この児が悪人であるということだけは、何処までも、天地神明に誓って否定しなければならぬと、固い決心をした次第である」
 云々というので、荀子一流の性善説か何かを引き合いに出しながら滔々一時間に亙って、吾輩の骨相の効能書きを御披露に及んだものであった。
 ところでこうした超時代的な、ウルトラナンセンス式な無罪論は、さすがに物慣れた二人の警官を頗る面喰らわさしたものらしい。第一、漢学の素養が余ッ程出来ていないと、一言半句も反駁の加えようがない訳で、二人の警官は互い違いに「成る程、成る程」を連発しながら、髯をひねるばかりであったが、それでも髯巡査は老人のお説教が一段落ち着くと、次のような薄気味の悪い挨拶を残して立ち去った。

     七十二

「イヤ。いろいろと御高話を拝聴致しまして誠に有り難う御座いました。実はこの児の罪状と申しましてもまだ未決定のもので、この児の両親を捕えて訊問してみなければ判然しない訳であります。又私共とても御説の通り罪人を作るばかりが能では御座いません。過去の経験と、現在の証拠とによって的確な判断を下して行くばかりで御座いますから、その点は決して御心配ないようにお願い致します。
 但し……かような無邪気な少年が、自発的に容易ならぬ大罪を犯しました例は、私どもの職掌柄、たびたび見聞致しておる事を申添えさせて戴きます。すなわち或る異常な性格を持って、特殊な境遇に育った少年には、随分思い切った事をする者がありますので、しかも、この少年が特にそうした条件に叶った境界に育てられて来ましたという事は誰人も否定出来ない事実であります。現に知事閣下の前に出ましても、目上の者を屁とも思わず、又、忠義とか孝行とか言う言葉を冷笑的な態度を以て見流し聞き流すところを見ますと、実に不敵な根性を持っているとしか思われません。つまりこの少年の人並外れた性格からそのような嫌疑が割り出されて来ましたものでありますから、その辺は何卒なにとぞ悪しからず御諒察を願います。
 なお、これはホンノ御参考までに申し上げて置きますが、万一この児が今申しましたような大罪を犯したものと致しますれば、両親の罪が非常に軽くなると同時に、この児は丁年未満の事ですから処罰する事が出来ない。実に困ったことになるのであります。又は両親が罪を引き受けて収監されるとしましても、福岡にも小倉にもまだ少年を収容する設備が出来ておりませぬから、何処かでお預かりを願わねばなりません。
 一方に知事閣下は、この少年に対して非常な興味を持っておられまして、失礼ながら費用は何程でも負担するから、どうか大切に御介抱願いたい。いずれ有罪無罪にかかわらず、自分の手に引き取って世話をする積りだから、何分よろしくお頼みする……と言うお話で御座いまして、実はただ今伺いましたのも、そうした知事閣下のお言葉をお伝えに参りましたのが主要な目的で御座いました」
 云々という挨拶で、要領を得たような、得ないような事にして二人の警官は立ち去ったのであったが、今から考えるとこうした言葉の裏には、万一犯人が掴まらぬ場合、吾輩に何もかも結び付けて、有耶無耶の裡うちに責任をのがれようと言う、田舎警察一流のずるい方針がほのめかされていたように考えられる。しかし人の好い天沢老人は、自分の言いたい事だけ言ってしまえば、それで清々したという恰好で、却って二人の警官が徹頭徹尾自分の言い分に敬服して帰ったものと思ったらしく、まだ子供の吾輩に向って、さもさも得意そうに自分のお説教を繰り返して、噛んで含めるような註釈をつけて聞かせるのであった。
 ところが吾輩は、そんな話を聞いておるうちに、済まない話ではあるが、少々睡たくなって来た。それはタッタ今、少時すこしばかり起き上っていた疲れが出たものらしかったが、そうして半分ウトウトと睡りながらも、コンナ風に大勢の大人たちが寄ってたかって吾輩一人を問題にして騒ぎまわるのが、不思議で不思議で仕様がなかった。罪があるとかないとか、余計なオセッカイばかりされるのが、五月蝿うるさくて仕様がなかった。
 こんな事なら、深切な人間の世話になるよりも、邪慳な両親と一緒になって、乞食をして歩いている方が、よっぽど気楽でアッサリしている。仙右衛門爺が死んだのだって両親がしたことかどうか解ったものでない。吾輩と両親が逃げてしまったのを悲観して、自分で首に針金を巻き付けて自分で火を放つけて死んだかも知れないのを、現場を見届けもしない人達が寄ってたかって何とかかんとか言って騒ぎまわるところを見ると、大人というものは、よっぽど隙ひまなものと見える。
 そんなに罪人がきめたければ、何もかも吾輩が引受けてもいい。そうすれば両親は罪がなくなるから、髯巡査にイジメられなくて済む。吾輩も今の話によると、子供だから罪にならないとすれば、結局、何にもなしになるから都合がいいではないか。仙右衛門みたいな悪い奴はドウセ死ん方がいいにきまっているのだから、罪にならないものと解っていたら、ホントウに吾輩が殺してしまったかも知れない。イヤイヤ。これから後でもあること。罪にならないときまれば構うことはない。悪い奴は片っ端から殺して遣ろうか知らん……と言ったような事を考え考え、嵐の晩の恐ろしかった光景を眼の前に描いていると、そのうちに次の間から最前の令嬢の声がした。
「お父様……磯政さんの乾児こぶんで浅川さんという方がお見えになりました」
 その声を聞くと天沢老人は軽く舌打ちをして顔を撫でまわした。
「又遣って来たか。浅川というのは何度も来た若い男じゃろう。死んだ仙右衛門の遠縁に当るとか言う」
「さようで御座います」
「……執念深く付き纏う奴じゃのう。この児もナカナカ人気者じゃわい。アハハハ……」

     七十三

 天沢老人の笑い声を聞くと、令嬢は次の間でハッと固唾を呑んだらしかった。そうして心持ち怯えたような声で言葉を継ぎ足した。
「あの……今度は十人ばかり見えておりますが……」
「何人来たとて同じ事じゃ。今病人の傍に付いておるから会われんと言うたか」
「ハイ。申しました。そう致しましたら、ホンの一寸で、お手間は取らせんからと申しまして……」
「よしよし。それならば今度は待合室へ通して置け。茶も何も出す事は要らん。お前はこの児の傍に付いておれ」
「大丈夫で御座いますか、お父様……」
「アハハハハ。心配する事は要らん。高がユスリ、タカリを仕事にするナラズ者じゃ。武芸のたしなみさえあれば十人が二十人でも恐るる事はない。小太刀を持たせたら、お前一人でもよかろう。ハハハハハ……」
 老人はコンナ事を言ってスックリと立ち上ったが、その態度には痩せこけた老人に似合わないシャンとしたものがあった。そうして如何にも武芸の出来た人らしい悠々たる態度で室を出て行った。
 そのうしろ姿が、障子の向うに消えると間もなく、次の間に足音がして、隔ての襖がスーッと開くと、間もなくそこから、眼を瞠みはらずにはいられない位美しい人の姿が、ニコニコ笑いながら入って来た。
 それはツイ今しがたまで襖の向うで泣いたり、笑ったりしていたこの家の令嬢に違いなかったが、何の気もない子供の吾輩ですら眩しいような気持ちになった位だからよほど美しい人であったろう。年の頃や眼鼻立ちは説明の出来る程ハッキリと記憶していないが、眼に残っている幻影をたよりに想像してみると十七か八ぐらいであったろうか。頭には何か金色の紐が結ばっていたようだから、島田か何かに結っていたものと考えられる。質素な、洗い晒した浴衣を着て、幅の狭い赤い帯を太鼓か何かに結んだ、極めて色気のない姿であったが、それでもその顔の色が、桜の花のように美しくて、黒い眼の光が、何とも言えず柔和であったことだけは、今でもシミジミと印象に残っている。
 その令嬢は百年も前から吾輩と一緒に暮して来たかのように親しみ深い態度で、吾輩の枕元に坐ると今一度ニッコリ笑いながらさし覗いた。
「……気分はどう……」
 吾輩はこの時に初めてこの令嬢の言葉が、ここいらの人間の言葉の調子と違っているのに気がついたので、チョット面喰らった。そのまま眼をパチパチさせていると、令嬢は又も優しく寄り添いながら微笑した。
「咽喉のどが乾くでしょ」
 吾輩はその眼もと口もとの美しさを穴の開く程見惚れながら、無言のままうなずいたが、その時に飲ませて貰った水の美味おいしかったこと……美しいお嬢さんの親切と一緒に腸はらわたの底の底まで滲み透って行くような気持ちがした。
 吾輩が間もなくそのお嬢さんと姉弟きょうだいのように仲よくなったことは言う迄もなかった。生まれ落ちてから今日まで、女の人の親切というものに接した事のない吾輩は、こうした若いお嬢さんの心からの同情に包まれて、ほとんど悲しいくらいの喜びを感じた。そうしてそのお嬢さんといろいろな話を始めたのであった。
 吾輩はお嬢さんから尋ねられるまにまに今までの身の上話を前後取り留めもなくして聞かせたが、お嬢さんは一々眼を丸くしたり、感心したりして聞いてくれた。ずいぶん乱暴な事や、碌でもない事までもアケスケに話したのであったが、お嬢さんは不愉快な顔をする処か、面白がって聞いてくれたので非常に愉快であった。それから最後に吾輩が、今迄誰にも話す機会のなかった木屋の瀬の木賃宿の一件の真相をありのままに話して吾輩の無罪を一々承認して貰った。そうして火事の光に照らされながら、大風の中を逃げた時の恐ろしさを説明すると、お嬢さんは唇の色まで真白になって、満腔の同情をもってその時の苦痛に共鳴してくれたので、滅多に感傷的な気持ちになった事のない吾輩もとうとう涙ぐましくなってしまった。
 それから今度は、お嬢さんが話を引き取って、吾輩が人事不省のままこの家に担ぎ込まれてから後に起った出来事を、詳しく話して聞かしてくれたが、吾輩は、吾輩を中心にしてこの直方の町中に渦巻き起っているモンチャクが殆んど想像も及ばぬくらい猛烈なのに些すくなからず驚かされたものであった。

     七十四

 お嬢さんは……妾あたしによくわからないけれど……と謙遜しいしい話してくれたが、実はスッカリ事情を飲み込んでいるらしく、現在直方の町中を脅やかしておる、吾輩中心の渦巻き事件の真相が、当の本人の吾輩にも、手に取るごとくハッキリとうなずかれたのであった。
 遠賀郡の堤防の上で打ちたおれていた吾輩が、人事不省のまま天沢医院に担ぎ込まれたという噂が伝わると間もなくのことであった。直方署から来た警官と入れ違いに死んだ仙右衛門爺の縁家の者と称する浅川という男が、タッタ一人で天沢医院に尋ねて来て、玄関に低頭平身しながら仙右衛門の筆跡を見せてくれと頼み込んだ。すると好人物の天沢老人は、浅川という男がドンナ人間か知らないまま一途に仙右衛門の血縁の者と思い込んだので、まだ警察に渡してなかった吾輩の身売証文を、半濡のまま、応接間の机の上に拡げて見せて遣った。
 ところがその浅川という男は、天沢老人の隙を窺って、半濡の証文の上に左手をピタリと載せると、刺青だらけの腕を肩までまくり上げて脅喝を始めた。……この証文はたしかに仙右衛門の物に相違ない。それをこの家に匿かくまわれておる子供か又はその両親かが、仙右衛門を殺して奪い取ったものに相違ないものと考えられる。だからこの証文の文句通りにその子供をこっちへ引き渡せばよし。渡さぬとあればこの儘には帰らぬぞ……と炭坑地方一流の猛悪な啖呵を切って、威丈高になったのであった。
 しかし天沢老人はビクともしなかった。旧直方藩の御典医であった家柄として皇漢医学と、武芸の秘術を稟うけ伝えて来た天沢老人は、何の苦もなく荒くれ男の浅川の左腕を拗ねじ上げて、丁寧に下駄まで穿かせて往来に突き出すと、机の上に粘り付いていた証文を傍の火鉢で乾かして、茶箪笥の中へ大切に仕舞い込んだのであったが、しかし天沢老人はこの出来事を極めて些細なことに考えていたので別に警察へ届けるような事もしなかった。
 ところが事件はソレッキリで済まなかった。
 それから二、三時間経つと浅川は又も天沢家の玄関へ遣って来て低頭平身して最前の無礼を詫びながら、済まないが証文をモウ一度見せてくれと頼んだ。むろん天沢老人は面会もせずに追払わせたのであったが、その時に取次に出た台所の婆やの話によると、浅川の背後には二、三人の書生体のものが太いステッキを持って踉ついて来ている模様で、天沢医院の横露地や、診察室の奥の方を透かし覗いている処を見ると、どうやら家の中の様子を探っているらしい形勢である。それから昨日の正午ひる過ぎの事、久し振りに大風が晴れて日の目が出たので、婆やは洗濯して置いた吾輩の着物を干しに裏庭へ出て行くと、ずっと向うの裏長屋の屋根の上に立っていた二人の男が、こちらのお座敷を指しながら頻しきりに話し合っていた。そうして色の褪さめた女の児の着物が物干竿に引っかかって高く高く差し上げられるのを見ると、互いに顔を見交してうなずき合いながら、大急ぎで屋根の上から降りて行ったので、妙な事をすると思って気にかけていたが、今から考えるとあれはやはり浅川一味で、この家に評判の子供まで匿まわれているかどうかを慥たしかめに来た連中に違いない……気味の悪い事……と言うので婆やは早くも慄え上がっているのであった。
 この話を聞くと天沢老人はチョット暗い顔になった。そのまま吾輩の枕元に坐り込みながら頻りに髯を撫で下ろしていたが、そうした天沢老人の心痛の原因は、お嬢さんによくわかっていた。
 その当時の直方は現在の直方市の半分もない小さな町であったが、それでも筑豊炭田の中心地として日本中に名を轟かしていた。しかもその当時の筑豊炭田というものが又、まだ開けてから間もない頃のことで、鉄道がやっと通じたばかり……集まって来る人々は何よりも先に坑区の争奪戦に没頭して、毎日毎日血の雨を降らすと言う有様であった。
 ところでその坑区の争奪戦の中心となって、互いに鎬しのぎを削り合っている二つの大勢力があった。その一つは官憲派とも名付くべきもので、その当時の藩閥政府と、これに付随する国権党の一味であったが、福岡県知事はいつも党勢拡張と炭坑争奪の直接の指導者兼援助者として赴任して来るものと見做みなされていたので、吾が禿茶瓶のカンシャク知事もむろんその一人に外ならなかった。しかも、そのカンシャク知事は、お手のものの官憲の威力と、近頃売り出しの大友親分の勢力を左右に従えて、最も峻烈にして露骨な圧迫を各町村役場に加えつつ、片ッ端から坑区を押えてしまったので、一時筑豊の炭田は、尽く、官憲派の御用商人の手に独占されてしまいそうな形勢であった。

     七十五

 ところが、こうした筑豊炭田の争奪戦に関する官憲派の横暴に対抗して起ったのが、有名な福岡の玄洋社の壮士連であった。
 玄洋社と言うのは誰でも知っている通り、維新の革命に立ち遅れて、薩長土肥のような藩閥を作り得なかった福岡藩の不平分子が、国士を以て任ずる乱暴書生どもを馳り集めたもので、或は大臣の暗殺に、又は議会の暴力圧迫に、その他、朝鮮、満豪の攪乱に万丈の気を吐いて、天下を震駭していた政治結社であった。しかもその頭目と仰がれている楢山到という男は、玄洋社の活躍の原動力として、是非ともこの筑豊の炭田を官憲の手から奪取せねばならぬと考えていたらしく、当時直方で生命いのち知らずの磯山政吉という、やはり売り出しの荒武者を味方に付けて、大友親分に対抗させる一方に、玄洋社一流の柔道の達者な書生どもを多数直方方面へ入り込ませて、官憲の威力をタタキノメス気勢を示したのであった。
 直方の町々が、こうした二大勢力の対抗のために、極度の緊張を示したのは言う迄もない事であった。時ならぬ賑いを見せたのは町々の飲食店ばかりで、一般の民衆は今にも戦争が始まりそうな息苦しさを感じつつ夜を明かし日を暮している。その中に到る処で、書生やゴロつきの衝突が起って、血を見ることが珍しくないので、素破こそと固唾を呑む人々が多かった。サテなかなか本喧嘩が始まらない。筑豊の大炭田が果してどちらの手に落ちるかは、容易に逆賭出来ない形勢のまま暫く睨み合いの姿になった。
 ところへ突如として吹き起ったのが三、四日前の大暴風であった。あの大暴風は、一面から見ると、こうした二大勢力の睨み合いに一転期を画するために吹き起ったものと見てもよかった。
 直方の形勢が危機に瀕しておることを聞いていながら、自身に出かける機会を持たなかった福岡県知事筑波子爵は、風が止むと間もない一昨日の午後になって、多数の警官を随行させ、大友親分の一味に取り巻かれつつ、暴風視察を名として、堂々と直方の桜屋旅館に乗り込んで来たのであった。そうして玄洋社側の壮士に睨み縮められておる直方署の署員と大友親分配下の兄哥あにい連を激励しつつ、八方の村々に手を分けて、石炭採掘の承諾書に調印させ始めたのみならず、既に玄洋社側の有志の手で押えていた坑区までも手を廻して、否応なしに官憲派の御用商人の名前に書き替えさせ始めたのであった。しかも筑波子爵の蔭にはこのような仕事に慣れたものが付いているらしく、その手段が如何にも巧妙敏速で、玄洋社側の壮士連中は勿論のこと、磯政親分一味の手でも到底防ぎ止め得ない事がわかったので、この上はイヨイヨ腕力に訴えるより外に致し方がない。すなわち多大の犠牲を払う覚悟をもって知事以下の官憲一派を直方署と共にタタキ倒し、その勢いに乗じて一斉に筑豊炭田を官憲派の手から奪い返すよりほかに道はない。そうして直方に於ける玄洋社一派の勢力を確保して、社中以外の人間の炭坑経営を妨害し窒息させるよりほかに方法はない。と言うので、多賀神社の付近の民家へドシドシ暴力団を集結した。……サア官憲が勝つか……民権が勝つか。玄洋社の興廃この一戦に在りというので壮士連の勢いは正に天に冲ちゅうせんばかり。……真に箸が転んでも血の雨が降り出しそうな形勢となった。
 ところが折も折とて大風の副産物として、瘤おやじの仙右衛門が川向うで焼け死んだ事を磯政の身内の者が、慌しく報告して来た。同時に女の姿をした男の児が、天沢先生の処へ担ぎ込まれている。しかもその児の身体には仙右衛門の筆蹟らしい証文ようのものと円札が二、三枚ヘバリ付いていた……という事実が、やはり磯政の身内に聞こえて来たので、それならば新聞で評判になっている県知事のお声がかりの子供に違いない。その子供に何とか因縁をつけてこっちの手に奪い取ってしまえば、喧嘩のキッカケには持って来いの条件になるばかりでなく、こっちの強味になる事うけ合いである。ことに依ると知事と直接交渉の材料になるかも知れない……とか何とか言うので巧らんだものであろう。浅川嘉平という乾児こぶんに天沢病院を当らせてみることとなったのであった。

     七十六

 この浅川嘉平というのは一名タン嘉と呼ばれている脅喝の名人で、ナカナカ掛け引きの巧者な男であったが、好人物とばかり思い込んでいた天沢老人に見事に逆捻を喰わされたままスゴスゴと帰って来た。けれどもそのお蔭で天沢老人が世間で評判する通りの好人物の人格者であるばかりでない、容易ならぬ度胸と腕前の持ち主である事が初めてわかったので、今度は念入りに策略をめぐらし始めたものらしい。一方に浅川も名誉回復のためか何か解らないが、そうした策略の一手段らしく、何度も何度も遣って来て訳のわからない文句を並べては様子を見い見い帰って行くので気味の悪いこと夥おびただしい。しかしその来るたんびに付き添って来る壮士らしい者の人数が二、三人ずつ殖えて行くので、今にドンナ事をする積りか全く見当が付かない。天沢老人はたしかに、そうした形勢を心配していたものに相違なかった。
 しかし天沢老人は間もなく晴れやかな顔になってコンナ事を放言したそうである。
「アハハハ。考える程のことはないわい。この子供がワシの家へ来たのは、こっちのためにも良いキッカケじゃ。ノウさようではないか」
 これを聞いたお嬢さんは、老父の言葉の意味がわからなかったので、ただ柔順すなおにうなずいたばかりであったが、天沢老人は構わずに言葉を続けた。
「……おれはこの児をダシに使うて、知事公と、玄洋社の大将の楢山という男に会うて見ようと思う。そうしてこの大喧嘩がまだ起らぬうちに仲裁をして、仲よく筑豊の炭田を開発させてみようと思う。そうすればこの児は、この界隈の福の神になる訳じゃ。ノウそうではないか」
 何も知らない純真なお嬢さんが、こうした老人のスバラシイ思い付きに賛成しない筈はなかった。殆んど涙を流さんばかりに嬉し喜んだのであったが、老人は又チョット考えた後に、コンナ事を独言のようにつぶやいたと言う。
「……しかし……驚くことはないわい。万事は玄洋社の楢山社長が直方に出て来てからの事じゃ。……楢山は近いうちに出て来るに違いないからの……その時に両方を一緒に集めて仲直りさせねば、効能はないと言うものじゃ。何でも老後の思い出じゃからの……ハハハハ……」
 そう言って高らかに笑う老人の顔が、お嬢さんの眼には神様のように気高く見えたと言うが、これも尤も千万なことであった。
 ところで吾輩はそうしたお嬢さんの話を聞いているうちに面白くて面白くてたまらなくなって来た。吾輩を中心とする大人同士の騒動がイヨイヨ眼まぐるしく大きくなって行くのが何かなしに愉快で仕様がなくなった。何が馬鹿馬鹿しいと言ってもコレ位馬鹿馬鹿しい事はないと思われたが、それと同時に、そのスバラシイ大騒動がイヨイヨ大きくなったら面白いだろうと言う気がしたので、吾輩は勢いよく寝返りを打ちながらお嬢さんに尋ねてみた。
「そんならその禿茶瓶とゲンコツ屋とドッチが悪いのけえ」
「ホホホホホ。まあ面白いことを言うのねえ。禿茶瓶て何の事……」
「知事の禿茶瓶のことやがな。知事の頭テカテカやがな」
「まあ……そう……妾チットモ知らなかったわ。この前をお通りになったのを拝んだけど……」
「シャッポ冠っとったんけえ」
「……え……黒い山高を召していらっしたわ。……だけど……そう言えばミンナがお辞儀をしたけど一度もお脱ぎにならなかったようだわ。ホホホホ……」
「あの禿茶瓶アホタレヤ。フーゾクカイラン見たがる二本棒や」
「……まあ……」
 とお嬢さんは眼を丸くしたが、二の句が継げないまま顔を真赤にした。
「……ゲンコツ屋の親分も見たんけえ」
「ホホホホ。ゲンコツ屋じゃないことよ。玄洋社よ」
「どっちでもええ……見たんけえ」
「いいえ。まだ見ないけど、エライ方だってお父様おっしゃったわ」
「そんだら、ゲンコツ屋の方が強いのけえ」
「そんな事あたしにはわからないわ」
「そんだらドッチが悪いのけえ」
「なおのこと解りゃしないわ」
「そやけど……あんたドッチが好きや」
「ホホホホホ。あたしドッチも好きじゃないわ」
「何でや……」
「ホホホホホ。ドッチも嫌らしい男ばっかりだから妾嫌いなのよ」
「……姉さま男嫌いけえ」
「……ええ……あたし貴方のような男の子が一番好きよ」
 と言ううちにお嬢さんはイキナリ顔を寄せて、吾輩に頬ずりをしてくれた。

     七十七

 吾輩は生まれて初めて女の人に頬ずりされたので思い切り赤面してしまった。するとお嬢さんも真赤になって笑ったが、吾輩がモウ一度、
「あんたはホンマに男好かんけえ」
 と尋ねたのでなおの事真赤になってしまった。
「ワテエも女大嫌いや。ただ、あんただけ好きや」
「ホホホホホホ。まあ、お愛想のいい事……」
「真実ほんまやで……そやけど、あんたの言葉何処の言葉けえ」
「ホホホ。オカシナ人ねえ。どうしてそんな事尋ねるの……」
「どうして言うたて違うやねえけえ」
「そりゃ違うわ。東京にいたんですもの」
「そんだらここの家の人じゃないのけえ」
「いいえ……ここの家の者よ」
「どうしてここの家へ来たんけえ」
「……貰われて来たのよ」
 と言ううちに又もお嬢さんの顔が真赤になった。しかし吾輩にはその意味がわからなかった。
「どうしてここの家に貰われて来たんけえ」
「知らないわ。そんなこと……」
 といううちにイヨイヨお嬢さんは真赤になった。
「そんだらお嬢さんはこの家に来て何しとるんけえ」
「何もしていないわ。時々小太刀のお稽古をしている位のもんよ」
「コダチて何や」
「小さな刀のことよ。お父さまがね。この直方と言う処は人気が荒いから、身体からだを守るために覚えておけと仰言おっしゃってね、時々教えて下さるのよ」
「コダチ知っとると強くなるのけえ」
「ええ。刀で向って来ても大丈夫よ。女でも子供でも覚えられてよ」
「ワテエに教えておくれんけえ」
「ええ教えたげるわ。だけど今は駄目よ。貴方が病気だから……」
 吾輩は今にも起き上って、小太刀を習いたいのを我慢しいしい家の中を見まわした。
「このうちには男の人ほかにおらんのけえ」
「ええ。いらっしゃるわ。今東京に行って、お医者の学問をしてお出でになるのよ。その方がお帰りになったら、あなたもキット好きになれてよ」
「ワテエこの家のお爺様の方が好きや」
「ホホホホ」
 とお嬢さんは口に手を当てて笑った。
「こっちのお爺様占いさっしゃるのけえ」
「ええ。占いもなさるけど人相を御覧になるのがお上手よ」
「ワテエが悪い事しよらんと顔見ただけでわかると不思議やなあ」
「ほんとにね」
「ワテエに額でぼちんにナタイモが入っとるてホンマけえ」
「オホホホホ。奈多芋なたいもじゃないわよ。アンタイモウよ」
「そんならアンタ、イモ好きけえ」
 と吾輩は大人の真似をして洒落を言った。お嬢さんは引っくり返って笑った。
「好きならワテエが天帝になった時にタンマリ喰べさせて遣るがな」
「ホホホホホホホホ。ハハハハハハハハ」
 とお嬢さんは止めどもなく笑いこけたが、やがて急に真面目な顔になって笑い止やめた。玄関の方で何事か談判をしている天沢老人の朗かな声と、その相手になっている男のシャガレタ声とがだんだん高くなって来たからであった。
「……成る程……浅川君の言われることはよう解りました。あなた方が知事と張り合いになっておられる事情も、今のお話で残らず判然しました。貴方がたのお話の通りならば、私は是非とも玄洋社の味方になって、官憲の横暴を懲らしめねばならぬ処じゃが、しかしその問題と、あの児の問題とは全然別の話じゃ。あの児は私が医者として預かっているのじゃから、あの児の病気が回復する迄は、この家から一歩も出すことはなりません」
「楢山先生からのお話でもですか」
「無論じゃ。それが医者としての責任じゃからのう。ハハハハ……」

     七十八

「それでは彼の児はドウしても渡されんと仰言るのですな」
 そう言う男の声は何となく息苦しく角張って来た。しかし天沢老人の声は依然として朗かに落ち着いていた。
「そうじゃ、そうじゃ。たとい又あの児が元気になったとしても、あんた方より先に知事閣下からのお話を承っている以上、その方へお答えせずに、お渡しする事は出来ません」
「八釜しい……」
「何と……」
「知事が何かい。俺達は相当の権利があって来ておるとぞ」
 と今度は別の声が言った。
「おれ達はあの子供の両親から頼まれて来ているのだ」
「ホホオ。これは意外じゃ」
「意外でも何でもないぞ。あの子供の両親は昨日から吾々の友人の処へ来ている。涙を流してあの子供の事を頼むから吾々は来とるとだぞ」
「ハハア。それならばその両親をここへ連れて来なさい。私からジカに尋ねたい事がある。まことに良い序じゃ」
「……エッ……」
「驚く事はない。あの児の両親はあの児を仙右衛門に売り渡したとあんた方は言うていられるではないか。それならばあの児を引き取る権利はモウのうなっているじゃろう」
「……………」
「それともあの児を売り渡しておらんと言うなれば、ええ幸いじゃから両親を連れて来なさい。わしから尋ねてみたい事がある。あれ程親孝行な子供に永年養われた大恩を忘れて何であのような恐ろしい証文に爪印を捺おしたか。あの子供はいつ、何処の村里で、誘拐かどわかいたかと問い訊してみたい」
「ウ――ム」
「あんた方の親分の磯政ドンや玄洋社長の楢山到という人は、その辺の事情を残らず承知の上でアンタ方をよこされたのか」
「……ソ……それは………」
「それとも両親に頼まれたのは嘘か……」
「……エッ……」
「アハハハハ。大方嘘じゃろう。磯政ドンでも楢山君でも、そげな筋道の通らん事を言うて遣る人間ではないじゃ。アハハハハハ……」
「……イヤ……恐れ入りました。しかし……」
 と又別の男の声がした。
「……しかし……これにはいろいろと秘密の事情がありますことで……」
「ハハア。まだ秘密の事情がありますかな」
「……さようで……実はその事に就きまして私と貴方と二人切りでお話したい事があるのですが……ほんの二、三分でよろしいのですが……」
「ハハア……どのような事じゃな」
 それから先の話声は、ドカドカと廊下を出て行く足音と、扉がギイーと閉まる音に掻き消された切りパッタリと聞こえなくなってしまった。
 吾輩は自烈度くなった。今にも活劇が始まるだろう……始まったら直ぐに飛び出して、天沢老人の武術の腕前を拝見して遣ろう……事によったら加勢して遣ってもいい……くらいに考えながらワクワクして待っていたが、サテなかなか始まらない。いや。始まらない処か、血気の壮士が十人も来ていると言うのに、一人残らず天沢老人の理屈に押し詰められたらしく、チュウの音も挙げ得ない様子である。勿論、天沢老人も人格の点では福岡県知事や玄洋社長の上手を行く人物だったそうだから、さすがの我武者羅連も自然と頭を押え付けられたのかも知れない。そこで今度は「欺すに手なし」という訳で、密談に事寄せて老人を診察室に閉じ込めて、その間に或る仕事をする目論見らしかったが、しかしそんな事を知らない吾輩は甚だ詰まらなくなった。一体十人の男たちはどんな顔をしているのか知らん。玄洋社の壮士なんてドンナ風体のものだろう。ソーット見に行って遣ろうか知らん……なぞと考えながら小豆枕を傾けて、見るともなしに横に坐っているお嬢さんの顔を見ると、驚いた。
 お嬢さんは顔色を真青にして、眼をマン丸く見張ったまま、吾輩の右手のお縁側の障子を見ている。吾輩もビックリして何事か知らんと怪しみながら、その方を振り返ってみると、いつの間に開いたものかお縁側の障子が一尺ばかり動いていて、そこから、お庭の向う側に咲いている、赤と黄色の見事な鶏頭の花が見える。
 ……と思う間もなくそこから、頭の毛を蓬々もやもやさした、人相の悪い浴衣がけのライオンみたいな男の顔が覗いた。

     七十九

 その人相の悪い男は、眉毛の上から太い一文字の刺青をしていたが、その刺青の両端が、外の光を受けてピカピカと青光りに光っていたことを今でもハッキリと記憶している。
 その男は、その刺青の下の凹んだ眼で、お嬢さんと吾輩の顔を見比べると、白い歯を剥き出してニヤリと笑った。……と同時に、ほとんど鴨居に閊つかえそうなイカツイ身体からだを障子の蔭から現わしたと思ううちに、突然、疾風の如く飛びかかって来た。
 お嬢さんはその時に
「……アッ……」
 と小さな叫び声をあげたようであった。その瞬間に吾輩も無我夢中になって、額に乗っていた濡手拭を引っ掴みながら、片手ナグリに投げ付けたが、その手拭は四角に畳まったまま、大男の鼻と口の上へヘバリ付いて、パーンと烈しい音を立てた。
 ……と思うとその次の瞬間に、不思議な現象が起った。
 その男は濡れ手拭を顔にクッ付けたまま、座敷のまん中に仁王立ちに立ち止まった。眼の球を二、三度クルクルと廻転させてヒンガラ眼を釣り上げた。両手をダラリとブラ下げたまま仏倒しにドターンと畳の上に引っくり返ると、間もなく、手足をヒクヒクと引き釣らせながら、次第次第にグッタリとなって行った。
 それは実に見ている間の出来事で、驚く隙すきも怪しむ余裕もない場面の急変化であった。
 吾輩はそれからズット後になって、この時の出来事の原因を理解する事が出来た。それは吾輩が福岡に残っている双水執流そうすいしりゅうという当て身や投げ殺しを専門みたいにする珍しい柔道の範士に就いて「合い気の術」というものを研究しているうちに成る程と首肯うなずいたもので、この時にこの屈強の大男が、まだおかっぱさんの吾輩に、何の他愛もなく引っくり返されたのは、所謂「逆の気合い」に打たれたものに相違なかった。つまりアッと言う間に吾輩を奪い去るべく飛び込んで来た、その極度に緊張した一本槍の気合いが、偶然に投げ付けた吾輩の濡れ手拭に顔を打たれて、ピタリと中断されたばかりでなく、最前から詰めて来た呼吸をスッと吸い込みかけたそのショッ鼻を、一気に完全にハタキ止められたので、その一瞬間に呼吸機能の神経的な痙攣を起して、気絶してしまったものらしかった。
 しかしその時の吾輩には、そんな事が理解されよう筈がなかった。
 眼の前の出来事がアンマリ意外なので、スッカリ面喰らってしまった。吾れ知らず寝床の上に起き上って、畳の上に伸びている男の姿を凝視した。そうしてどうしたらいいか知らんと言ったような気持ちで、お嬢さんの顔を振り返ると、お嬢さんも真青になったまま吾輩を振り返った。そのうちに巨男おおおとこの戦慄が、又、一しきり激しくなって、手足がヒクリヒクリと引き釣り縮まって行く模様である。
 それを見ると吾輩は、ヤット自分の仕出来しでかした事に気が付いた。夢中で投げ付けた手拭がこの巨男を殺しかけている事に気が付いたので、今更のように狼狽して、大急ぎで大男の傍へ馳け寄って、顔の下半部にヘバリ付いている濡れ手拭を取り除のけて遣ったが、その序に見るともなく見ると、唇の色がモウ変りかけている模様である。
 吾輩は急に胸がドキンドキンとし始めた。おなじ思いに駈け寄って来たお嬢さんと二人がかりで、巨男の襟首に手をかけて、エンヤラヤッと抱え起こそうとこころみたが、ナカナカ動く事でない。そこで今度は方向をかえて、二人で左右の胸倉を掴んで、思い出したように掛け声をかけた。
「いち……にの……さんッ……」
「ひの……ふの……みいッ……」
 と引き起しかけたが、生憎なことに、半分ばかり成功したと思うと、死んだかと思った巨男が突然反抗するかのように、
「……ムムムムムム……」
 と反そりくり返ったので、二人とも引きずり倒されながらヨロヨロとブツカリ合った。その拍子に巨男のドテッ腹をめがけて、左右から思い切り膝小僧を突いてしまった。すると又その拍子に二人とも襟元を取り放したので、又も仰向に引っくり返った巨男は後頭部うしろがみをイヤと言うほど畳の上にブッ付けて弾ね返されながら、今度は御念入りに、
「……ギャギャッ……」
 という奇妙な叫び声をあげた。

     八十

 お嬢さんと吾輩はモウ一度ビックリして左右に飛び退のいた。同時に吾輩は落ちていた濡手拭を引っ掴んで、モウ一度タタキ付ける身構えをした。
 一方にお嬢さんは、床の間の横の袋戸へ走り寄って、赤い房の付いた黒鞘の懐剣を取り出すと、大男から一間ばかり隔たった床柱の前に片膝を突きながら、袂を啣えて身構えたが、それはよく芝居の看板に描かいてある……アンナような、何とも言えない美いい恰好であった。
 その間に大男はやっと意識を回復したらしかった。畳の上に大の字になって眼を閉じたまま、ペロペロと舌なめずりをしていたが、やがて眼を開いて天井をキョロキョロと見まわすと、自分が何処に来ているか忘れたらしく、しきりに眼をこすりまわしていた。
 それから誰か呼ぶ積りらしくモウ一度舌なめずりをして、オイオイと呼びかけたが、その声は咽喉に詰まって、蚊の啼くようなヒイヒイ声にかわってしまった。
 大男はここで初めて、自分が他所よその家の中にブッ倒れているのに気付いたらしい。そうして呼吸が辛うじてしか出来ないと言うような奇妙な目に合わされていることがヤッと判然わかったらしく、ガバと跳起きて左右を見まわした。
 吾輩とお嬢さんは、それと見るや否や、同時に一歩退いて身構えた。
 そのお嬢さんの手に握られた懐剣の光と、吾輩が振り上げた濡れ手拭のピッチャー第二球式の構えを見ると、男はハッと息を引きながら、ライオン式の表情を真青にしてしまった。辷りたおれんばかりに飛び上って猫のように四ツン這いになったが、その拍子に詰まっていた呼吸が出て来たらしく、
「ワ――ッ」
 と叫ぶなり身を翻えして、半分開いた障子を蹴離して縁側伝いに玄関の方へ馳け出した。
 すると、それと同時に今まで鳴りを静めていたらしい玄関の方から、
「どうしたかい」
「遣り損のうたか」
「子供はおったか」
 と口々に叫びながら、五、六人ドカドカと踏み込んで来る足音が聞こえたが、それに入れ交って今の男の声が、押し戻すように響き渡った。
「帰れッ……みんな帰れッ……あの児は幻術ドグラマグラ使いぞ、幻術使いぞ。逃げれ、逃げれッ。殺されるゾーッ」
 と怒鳴り続けるうちに、その声は表の方へ駈け出して忽ち聞こえなくなってしまった。その足音がチットモ聞こえなかった処を見ると多分下駄を穿かないまま飛び出して行ったものであろう。
「何や何や」
「どうしたとかい、どうしたとかい」
「ハンマの源太が青うなって逃げて行ったぞ」
「奥座敷で遣られたらしい」
「何かいるとじゃろ」
「殺されるぞ……て言うたが」
「ウン。何やら解らん……」
「源太が言うならよくよくの事じゃろ」
「帰って見ようか」
「ウン。帰って見よ……」
「ウン。帰ろう帰ろう」
 コンナ問答をせわしなくしているうちに、みんな臆病風に誘われたらしい。ガタガタと下駄を穿く慌しい音がした。それと一緒に診察室の扉が開く音がして、
「まア。……ええではないか」
 という落ち着いた天沢老人の声がしたが、
「ヘイ。ヘイヘイ。又いずれ……」
 という挨拶もそこそこに、あとから今一人帰って行く下駄の音がした。その下駄の音が遠ざかるに連れて、玄関の方が急にシンとしてしまったようである。
 一方に奥座敷で身構えていたお嬢さんと吾輩は、当の相手のハンマの源太に逃げられたので、スッカリ張合いが抜けてしまった。思わず顔を見合わせた二人は、そこで初めてお互いの大袈裟な身構えに気が付いて、急に噴出ふきだしてしまった。
「オホホホホホホ」
 とお嬢さんが、鞘に納めた懐剣を投げ出して笑いこけると吾輩も、
「ハハハハハハ。ヒヒヒヒヒヒ」
 と笑いながら、濡手拭をモトの額の上に載せようとすると、いくら押え付けても、うまく額の上に乗っからないで、バタリと畳の上に落ちてしまった。その時に吾輩はヤット、自分が起きている事に気が付いたので、慌てて夜具の中にモグリ込んだが、それが又可笑しかったので、お嬢さんと吾輩はモウ一度腹を抱えて、汗の出るほど笑いこけたのであった。

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