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2014年2月24日 (月)

「犬神博士」夢野久作 81~90

     八十一

 その翌々日の事であった。
 吾輩は朝早くから天沢老人に引き起されて、お嬢さんが縫ってくれた白飛白しろがすりの着物を着せられて、水色のサワイの帯を締めて貰って、顔を洗うと直ぐに、約三十分ばかりの約束で小太刀の稽古を付けて貰うことになった。勿論熱はモウ前の日一日中、全然出なかったばかりでなく、吾輩の身体からだは生まれ付き頑健に出来ている上に、行く先々の雨風と、毎日毎日の烈しい乞食踊りと、重たい荷物に鍛い上げられていたので、僅か二、三日のうちに半死の疲労から回復したらしい。見る見る非常な食欲と元気が付き出して、ジッとしていられない位、身体がウズウズして来たので、何か遣って見たくて堪まらない処であった。
 一方に天沢老人も、吾輩がハンマの源太を遣っ付けた時の情況をお嬢さんから聞いて、吾輩の度胸や気合いが、とてもスゴイものがあると見込んだ結果、ためしに武芸を仕込んでみる気になったものらしい。
「サア。来て見なさい。朝飯前の仕事に、これから毎日指南して遣る。ええか。すべて武術というものは人を殺すのが目的でない。自分の身を護ると同時に、刀を抜かずして相手の悪心を押え付けるのが目的じゃ。ええか。薬を使わずに病気を治すのが医者の一番上手と同じ事じゃから、その積りで稽古せんといかん」
「何でも勝ったら良ええのやろ」
「ウム。まあそんなものじゃ。そこで向うに、わしと向い合って坐って見なさい。今すこし間を置いて……もうすこし離れて……そうじゃそうじゃ。その襖の付け根の処に坐るのじゃ。すべてこの小太刀というものは、ことさらに得物が小さいのじゃから、何よりも先に、身体の構え一つで相手を押え付けんといかん。長い刀や槍が正面に構えているのに、小太刀は背後うしろに構える場合が多いのじゃから、チョットでも身体に隙があると、すぐに長い刀が切り込んで来るからの……サアこの糊押し箆へらを持って構えて見なさい」
「これでお爺様を突くのけえ」
 と吾輩は、尖端さきの丸い大きな竹箆をヒネクリまわしてみた。
「アハハハ。まだ突いてはいかん。気の早い奴じゃ。突く前に一度ソレを持って坐って見い。右膝を突いて、左足を前に出して……イヤイヤ、反対じゃ反対じゃ。左足を引くのは受け身の構えじゃ」
「こうけえ……」
「さようじゃ、さようじゃ。ウーム。構えはなかなか立派じゃ。何処かで小太刀の構えを見たことがあるな」
「アイ。一昨日見た。お嬢さんが、こないな風にしてハンマの源に向いよった」
「成る程。さようか、さようか。しかし、それにしても初手からさように立派には行かぬものじゃ。踊りの名人だけの事はあるわい。ウーム」
「突いてもええけえ」
「ハハハハ。突かれては堪まらんが、そう無暗に人が突けるものでない」
「そんでも突いたら、あの懐剣くれるけえ」
「あの懐剣とは……」
「おとつい、お嬢さんが使うたのんや」
「ああ赤い房の下ったのか。あれはイカン。あれは娘に遣ったのじゃから……」
「そやけどお嬢さんは、ワテエに約束したで」
「ホホオ。何と約束した」
「ワテエがお嬢さんに、あの懐剣欲しい言うたら、お嬢さんが老父様ととさんに小太刀習うて勝つようになったら遣る言うたで」
「アハハハハ。馬鹿な奴じゃ」
「そやからワテエ。そんだら明日稽古して貰う時に、老父様を突いて見せる言うたら、突いたらアカンけんど、老父様のアタマのツルツルした処を一つたたいたらあの懐剣を遣る。続けて二つたたいたらお前のお嫁さんになって遣る言うたで……」
「アハハハ。イヨイヨ途方もない奴じゃ。まあ、そんな事はドウでもええ。稽古じゃから……」
「稽古でも何でもホンマにたたいてええけえ」
「それは構わんが、それでは稽古にならんからのう」
「ならんでも大事ない。ワテはあの懐剣貰うのや。お嬢さんお嬢さん。チョット来て見てや、来て見てや。ワテエがお爺様のアタマのツルツルした処タタクよってん……」
 と言ううちに吾輩は竹箆を持って老人に突っかかって行った。

     八十二

 むろん吾輩は、糊押しの竹箆で天沢老人を付く気は毛頭なかった。ただお嬢さんの秘蔵の懐剣が欲しさに、あわよくば老人に突っかかる振りをして、その隙に乗じて天窓あたまの禿た処を一ツピシャリと叩いて首尾よく約束の通り懐剣をせしめる積りであったが、それにしても吾輩の飛び込んで行き方があんまり素早かったので、天沢老人は少々狼狽したらしい。元来が子供に教える気構えで、何の用心もしないでいた処へ飛び込まれたので、ハッと面喰らいながらも、老人に似合わぬ素早さで身を交しながら、
「コレッ。コレッ、待て待て、と言うに。あぶないあぶない」
 と言って鬼ゴッコみたいな気軽さで逃げまわった。それを吾輩が矢継早に飛びかかって追いまわすので、冗談のつもりの老人は動ややもすれば座敷の隅に追い詰められそうになった。
「アハアハ。これは堪らん。恐ろしい鋭い奴じゃ。コレ娘。チョット来い。この児が俺を……おれのアタマをたたくと言うて聞かんのじゃ。チョット来てくれい……来てくれい。この児を止めてくれい。アハハハハ。アハハ、アハハ、アハハ。これは敵わん」
 台所の方で何かガチャガチャやっていたお嬢さんは、この声を聞いたらしく、バタバタと走って来たが、この情景ありさまを見ると、襷を半分外したま、お縁側に笑いこけてしまった。
「オホホホホホホホホホ」
「コレコレ。笑ってはいかん。この児を捕まえてくれい」
「オホホホホホ。ハハハハハハ」
「いかんいかん。アハハハ。早う止めい止めい。突かれそうじゃ。タタかれそうじゃ」
 と言ううちに老人は火鉢の向う側に追い詰められて絶体絶命になったらしく、うしろの襖を開いて玄関の方へ逃げ出した。
「爺さん逃げるのけえ。逃げたら敗けやぞ。アタマ叩かれるよりも卑怯やぞ」
 と叫ぶなり吾輩もすぐにあとを追っかけたが、老人は、そのまま玄関の方へ姿を消したようである。そこで吾輩も逃のがしてなるものかと竹箆を逆手に持ちながら玄関の前の板張りに飛び出す。とハッとして立ち止まった。
 広い玄関の正面の患者控室らしい八畳ばかりの畳敷のまん中に、お茶やお菓子や蒲鉾の切ったのがチャンと出て、平服を着た五人の男が坐っている。それを見た最初に吾輩は患者が来ているのかと思ったが、病人らしいものは一人もいないばかりでなく、揃いも揃ってイガ栗頭の色の黒い、逞しい屈強の男ばかりで、眼の光が皆それぞれに一癖も二癖もありそうな面魂である。のみならず昨日から顔馴染になった台所のお徳婆さんと、俥屋の平吉さんと言うのがお酌をして一杯飲ましている処で、二、三人はモウ真赤になっている処であった。
 その五人が五人とも通りかかった吾輩の足音をきくと一斉に振り返って吾輩の顔を見たので、その鋭い視線の一斉射撃に遮り止められて吾輩はハタと立ち止まった。そうして竹箆を逆手に持って身構えたまま五人の視線を一つ一つに睨み返したのであった。
 五人の男は、そのまま瞬き一つせずに吾輩を凝視した。盃を持ったまま、酌しかけたお徳婆さんは燗瓶を持ったまま呆れ返ったように吾輩の顔を見ていたが、やがて正面の中央にあぐらを掻いていた八の字髯のズングリした男が、思い出したようにニヤリと笑ったと思うと、前に在る饅頭を三つ重ねて吾輩の方に出して見せながら、眼を細くして手招きして見せた。
 それを見ると吾輩はツイ以前の習慣を出して、竹箆を投げ棄てながら板張りに両手を付いて、
「おわりがとう御座います」
 と超特急のお辞儀をしてしまった。
 五人の男はそれを見ると一斉にドッと吹き出した。
 それにつれて吾輩も、何だか冷かされたような気がして、急に極まりがわるくなったので、慌てて逃げ出そうとすると、その饅頭をさし出した八の字髯のズングリ男が慌てて吾輩を呼び止めた。
「オイ。チビッ子チビッ子」
「チョット待て、チョット待て。聞きたい事がある」
 と外の男も口を添えた。
 吾輩も実を言うと、内心大いに饅頭が欲しかったので、すぐに立ち止まって振り向いた。
「何や」

     八十三

「何でもええからここへ来てこの饅頭を喰べい。欲しければ未まだいくらでも遣る」
「アハハハ。ドウセイこの家から接待に出たものじゃからノウ。ナカナカ気前がええわい。アハハハハ」
 と酔っているらしい右側の大男が高笑いした。その顔を八の字髯はチョット睨み付けた。
「要らん事を言うな。大事な事を聞きよるのじゃないか」
 大男はうなずいて黙り込んだ。
 そんな事を言っている間に吾輩は貰った饅頭を三つともペロリと呑み込んだ。そうして舌なめずりをしながらモウ一度八の字髯に問うた。
「ワテエに訊ききたい事て何や」
「ヤッ。貴様モウ三つとも饅頭を喰うてしもうたか」
「アイ。久し振りやで美味うまかった」
「途方もない喰い方の荒い奴じゃのう」
「三つぐらい何でもあらへん」
「ウーム。まっと喰いたいか」
「アイ。いくらでも喰べたい。そやけど訊きたい事て何や」
「ウム。それはのう……」
 と八の字髯は、言葉尻を残してそこいらを見まわしたが、お徳婆さんも俥引きの平吉もいつの間にかいなくなっていた。表の通りにはちょうど人影が絶えているようであった。
 その様子を見定めると八の字髯の男は、吾輩の耳に口をさし寄せるようにして問うた。
「おとついナア」
「アイ……」
「一昨日おとつい、お前を誘拐かどわかしに来た男なあ」
「アイ」
「大きな男じゃったか、小さい男じゃったか」
「大きな男じゃった。あそこへ達とどくくらい大きな……」
 と吾輩は鴨居を指して見せた。
「その男は眉毛に刺青しとらせんじゃったか」
「アイ。しとった」
「ウーム。それでわかった。天沢老人が、自分は中立じゃから内通は出来んと言うて、詳しい事情を話さんものじゃから、昨日押しかけて来た奴どもの目星が付かんじゃったが、それであらかた見当が付いた。やっぱり彼奴あいつじゃ」
「ハンマの源じゃろう」
「ウム」
 皆頭を合わせた。その顔を見まわしながら八の字髯は腕を組んで説明し出した。
「ウム、彼奴なら磯政親分の片腕と言われとる直方一の乱暴者じゃから、彼奴のした事を磯政が知らん筈はない。磯政は一日も早う喧嘩のキッカケを作ろうと思うて焦燥あせっとるに違いないのじゃ」
「焦燥っとるて、どうして焦燥るとかいねえ」
「それはこうじゃ。磯政の一党は何でもかんでも玄洋社長の楢山が直方に来る前に喧嘩を始めて、知事閣下を初め、吾々官憲と大友一派の勢いを直方から一層して筑豊の炭田を残らず押えてくれようと言うので、盛んに小細工をして見ているのじゃ」
「ウム。そう言えば事実らしいのう。つまり万一手違いがあっても楢山に責任がかからぬようにしようと巧らんでいるのじゃろう」
「ウム。その通りじゃ。彼奴きゃつ等は皆首領思いじゃからのう。殊に彼奴等は吾々官憲を軽蔑しおってのう。吾々を直方から追い払うのはこの子供が饅頭を喰うよりも容易たやすいように思うとるでのう。喧嘩さえ始まればと皆思うとるらしいのじゃ」
「ウム。人数から言えば玄洋社の壮士だけでも吾々の三倍ぐらいいるのじゃからのう」
「玄洋社の柔道は強いげなのう」
「講道館へ持って行けば二段三段の奴が、いくらでもいるちゅうじゃなかか」
「ウム。しかし喧嘩となれば別物じゃと大友親分も言いおったがのう。近頃の柔道は体育を主眼としとるで武術のうちには入らん。刃物を持って蒐かかれば一も二もない……と署長も笑いよったが……」
「撃剣ならば自信があるわい。アハアハ」
 と横から大男が笑い出した。その尻馬に付いてほかの三人も自信ありげに腕まくりをして見せた。……面白いな……と思いながら吾輩は丼どんぶりの中の饅頭を二つ一緒に引掴んだ。

     八十四

「ところがここに一つ問題と言うのはこの子供じゃ」
 と八の字髯は仔細らしく腕を組んで皆の顔を見まわした。それにつれて四人の男が交る交る吾輩を振り返ったので、吾輩は二ツ一緒に頬張りかけた饅頭を一つに倹約した。
 八の字髯はニヤニヤ笑いながら、説明を続けた。
「のう。この子供は見かけの通りナカナカヨカ稚児じゃでのう。知事閣下がトテモ夢中になって愛着して御座ることを、先方でもチャント知っとるのじゃ。そこでこの児を人質に取って楢山社長のお手のものにして献上するとなれば、楢山社長も評判の稚児好きじゃから喜んで育てるにきまっとる。そればかりでなく、この児を取られた事が知事の方に知れたなら、知事が夢中になって逆上のぼせ上って、無理にも取り返しに来るに違いないと見込んでヤンギモンギ連れて行こうとしているのじゃが、天沢先生がこの児を押えて御座るもんじゃからナカナカ思う通りにならん」
「成る程……しかし天沢先生は温柔おとなしくこの児を知事に渡いたらよかりそうなものじゃが……」
「そこじゃ。そこが天沢先生の流儀違いのとこじゃ」
「流儀違いとは……」
「ウン。その……流儀違いと言うと、すこし言い方が違うかも知れんが、天沢老人はあの通り一寸見たところ柔和な人格者じゃが、あれが漢学仕込みの頑固おやじで、役人でもゴロ付きでも後へは引かんと言うナカナカの強情者じゃそうじゃ」
「成る程。そう言えばそげな処もある」
「そこでこの直方におっても人格者とか何とか立てられたもんじゃが、その天沢先生の眼から見ると、知事が官憲の力を利用してこの筑豊の炭田を押えようとするのは大きな間違いであると同時に、これに反抗して玄洋社が炭坑取りを思い立ったのも大きな心得違いと言うのじゃ」
「アハハハハ。成る程。それならば公平でええな」
「イヤ。笑いごとじゃない。全く公平な議論に違いないのじゃ。のみならず今の通りじゃと直方の町々はいつ喧嘩が始まるかわからんと言うので一軒残らず戸を閉め切りの有様じゃから、商売も碌に出来ん。そこでこの喧嘩を仲裁して直方の町をモトの繁昌に返すには是非ともこの児を手の中に握り込んで置かねばならんと天沢老人が頑固に構えているらしい。一方に又知事閣下は知事閣下で、なるべく喧嘩を楢山が来るまで引っぱって置いて、来ると同時にワーッと始めて、そのドサクサに乗じて楢山を縛り上げて監獄にブチ込むという方針じゃから、とにかくにもそれまではこの児を敵の人質に取られんようにせんければならん……と言う訳で、その用心棒として吾々はこの家に派遣された訳じゃ」
「成る程なあ。道理でやっと理屈が飲み込めた。今朝署長から、あの天沢病院におる子供を保護しに行けと命ぜられた時までは、何の事やら意味が解らんじゃったが……成る程なあ」
「それじゃから万一この喧嘩が、天沢老人の手で止まるとなれば、直方の人民どもはドレ位助かるか解らん」
「そうなれば天沢老人はこの直方の守り神になる訳じゃな」
「ウン。天沢老人に限らん。誰でもええ」
「しかし、この炭田争いは当分止やまるまいなあ」
「止まるものか。神様の力でも困難むずかしかろう。何にせいこの筑豊の炭田を皆押えたら日本帝国の世帯を引き受けるだけの財産じゃそうじゃからのう。ことに将来支那や露西亜と戦争する段になれば何よりも先に立つものは石炭じゃそうじゃからのう。政府でも一所懸命になる訳じゃ」
「しかし。今ではその炭田争いがヨカチゴ争いになりかけとるじゃないか。ハハハ」
「ウム。言わばまあソゲナものじゃ。アハハ。しかもその争いの中心を守っとるのじゃから、吾々の任務たるや頗る重大なもんじゃ」
「酒と饅頭が出る訳じゃのう」
「アハハハ……」
「いかにものう。見れば見るほどヨカチゴじゃのう」
「アハハハ。そこでチョット一杯酌をして貰おうか」
「馬鹿。そげな事すると首が落つるぞ。知事閣下のお気に入り様じゃないか」
「ヒヤッ。危ない危ない。いかにもいかにも」
「やあ。お前はモウあれだけの饅頭を喰うて了しもうたか」
 不意にこう問われた吾輩は、ちょうど最後の一個を頬張っていたので、返事が出来なかった。大急ぎで口をモグモグやりながら、涙ぐんだ眼で八の字髯を見上げてうなずいた。同時に気が付いてみると吾輩は、五人の話を一心に聞き聞き、いつの間にか七つ八つ在った饅頭をペロリと平げてしまっているのであった。

     八十五

「呆れた喰い助じゃのうお前は……。そげに喰いよると虎列刺コレラにかかるぞ」
 吾輩はしかし依然として返事が出来なかった。無言のまま咽喉に詰まった饅頭をタタキ下げて、横に在った茶碗を取り上げながら一口飲むと、渋茶と思ったのが酒だったので、忽ち噎むせ返ってしまった。
 それを見ると五人の巡査は、又も引っくり返るほど笑いこけたが、そのうちにヤットの思いで冷えた茶を飲まされて落ち着いた吾輩は、さすがに久し振りの満腹を覚えると同時に、思わず大きなゲップを一つした。
「ウ――イ美味かった」
「アハハハ。成る程大きな顔をする児じゃのう。アハハハハ」
「ドッチが美味かったか。酒と饅頭と……」
「ドッチも美味かった」
「アハハハ。トテモ物騒な稚児さんじゃのう。アハハハハ」
 吾輩はそうした五人の笑い顔を舌なめずりしいしい見まわしていたが、やがて笑い声が静まると、今度はこっちから問いかけた。
「叔父さんえ」
「何じゃ」
 と八の字髯の横の大男が坐り直した。
「戦争が始まるん真実ほんまかえ」
「ウムウム。本当じゃ本当じゃ」
 と大男が腕を組んでうなずいた。
「何処で戦争が始まるのけえ」
「それはのう」
 と大男が、片手で茶碗酒をグイグイと引っかけながら、玄関の横の方のはるか向うを指して見せた。
「それはのう。このズーッと向うにのう。鉄道線路を越して行くと多賀様と言う、山の上の神様が御座る。そこの近くに陣取っとる玄洋社という国と、それから、こちらの方のズット向うの賑やかな通りに在る青柳という家に陣取っとる知事さんの家来とが戦争をするのじゃ」
「いつ頃始まるのけえ」
「いつ始まるかわからんが、相手の大将が来ればすぐに始まる」
「相手の大将て誰や」
「玄洋社の大将の楢山到という男じゃ」
「こっちの大将は知事さんけえ」
「そうじゃそうじゃ」
「知事さんと玄洋社とドッチが悪いのけえ」
「そりゃあ玄洋社の方が悪いてや」
「そんならワテエはどっちの味方や」
「そりゃあ言う迄もない。知事さんの味方や」
「あの禿茶瓶の味方けえワテエ」
「コレ。そげな事……」
「アハハハハ。いやナカナカ痛快な児じゃのう。知事さんの味方好かんちゅうのか」
「好かん」
「アハハハ。面白いのう。何で好かん」
「あの禿茶瓶スケベエやから……」
「アハハハハハハ」
「ワッハッハッハッハッハッ」
「そんだら叔父さん」
「何じゃ。アハハ」
「そんだら玄洋社の大将はスケベエけえ」
「ウン。好色漢すけべえとも好色漢とも。知事さんよりマットマット好色漢じゃ」
「そんだら二人とも悪いのやろ」
「その通りその通り」
「そんだら二人の喧嘩止やめさせてもええやないか」
「アハハ。それがナカナカ止められんのじゃ」
「何で止められんのけえ」
「アハハハハハ」
「何で笑うのや。叔父さんは……」
「お前知らんけえ……」
「知らんから聞くでねえけえ」
「お前があんまりヨカ稚児じゃからよ」
「ヨカチゴて何や」
「知らんかのうお前は……」
「知らん。教えてや」
「アハハハ。これは困ったのう。教えて遣りたいのは山々じゃがのう。アハハハハ」
「ワハハハハハ……」
 酒に酔った五人は止め度もなく笑い崩れてしまった。その時に天沢老人が奥の方から慌しく、
「チイヨ、チイヨ」
 と呼ぶ声がしたので、吾輩は素破すわこそ又も一大事御参なれと言う勢いで、足を宙に飛ばして廊下を一足飛びに駈け付けてみたら何の事だ。一緒に朝飯を喰えと言うのであった。

     八十六

 吾輩はもう饅頭でウンと言うほど満腹していたので朝めしなんかどうもよかったのであるが、それでも沢庵がステキにお美味かったので、三杯ほどお茶漬を掻っ込んだ。
 それから天沢老人にねだって最前の糊押しの竹箆を貰って、硯箱の小柄を借りて、短刀の形に削り始めた。
 それは天沢老人が診察に出かけた留守中の事であったが、お嬢さんも古い糸屑箱を貼り直すと言って、秘蔵の千代紙を取り出して、火鉢で糊を煮始めたので、吾輩がその横に坐って無調法な手付きで竹箆を削り始めると、お嬢さんは、糸屑に交った竹屑を抓つまみ除のけながら、
「まあ、その箆を削って何にするの」
 と問うた。
「何にするて、コレ短刀にするのや」
 と吾輩は正直に答えた。
「まあ嫌……短刀を作って何にするの」
「玄洋社と知事の喧嘩を止めさせるんや」
「オホホホホホホホ」
 とお嬢さんは半分聞かぬうちに笑いこけた。このお嬢さんは実に申し分のない親切な、天女のように美しいお嬢さんであるが、タッタ一つの欠点は何を見ても笑い出すことであった。
「知事と玄洋社の喧嘩やめさせるくらい何でもあらへんがな」
「まあ。えらいのねえ。オホホホホ。どうして止めさせるの」
「知事の禿茶瓶と、玄洋社の楢山やたら言う馬鹿タレをこの短刀で突く言うて威おどかすのや」
「オホホホホホホホ。止めやしないわよ。オホホホホホ」
「止めん言うたら真実ほんとに殺いたる。そうしたら喧嘩ようせんやろ」
「オホホホホホ。面白いのね貴方は……東京にだってアンタみたいな児はいやしないわ」
「東京にいたんけえ。お嬢さんは……」
「ええ。東京の伯母さんとこにいたわ」
「そんだら何でも知っとるんやろ」
「何にも知らないわ。女学校を卒業しただけよ」
「そんでもヨカチゴ言うたら知っとるやろ」
「知らないわ。そんな事……」
「そんでも表にいる警察の人がワテエを見て、ヨカチゴ言うたで」
「……………」
 お嬢さんは何と思ったか吾輩の顔から視線を外そらすと、真赤になってさしうつむいた。しかし吾輩にはその意味がわからなかった。
「なあ。ワテエ真実ほんまにヨカチゴけえ」
 お嬢さんはヤット泣き笑いみたような顔を取り繕って吾輩をチラリと見た。
「知らないわ。そんな事……それよりもいいものを上げましょうか」
「アイ。何や」
 お嬢さんは無言のまま、膝の上に重ねた千代紙の中から、銀色のピカピカ光る紙を二、三枚引き出して、その中うちの一枚を鋏で半分に切って吾輩に渡した。
「ソレはねえ。妾わたしが東京から持って来て大切にしている銀紙よ。それをその短刀に貼って御覧。キット本物のように光ってよ」
「コレ。どうして貼るのけえ」
「ちょっと妾に借して頂戴……その竹箆も一緒に……妾が貼ったげるから……ね……」
 そう言ううちにお嬢さんは箱貼りをソッチ除けにして、吾輩の竹箆をイジリ始めたが、如何にも細工好きらしく、見る見るうちに竹箆が細身の短刀の形に削り直されて、ピカピカ光る銀紙が本物みたいに貼り付けられた。それからお嬢さんは、古い砂糖の箱の馬糞紙を切って、柄と鞘の形を作って、その上から紫と赤のダンダラ模様の紙を貼って、四ツ目錐で目釘穴をあけて、そこへ古い琴の飾りに使った金糸交りの赤い房を通して結んでくれたのでトテモ立派な短刀が出来上った。
 お嬢さんはそれを日当りのいい縁側に吊して、乾くまで触ってはいけないと言ったが、吾輩はそれが待ち遠しくて待ち遠しくてたまらないので、何度も何度も縁側から手を伸ばしかけては叱られた。ところが、それが日暮れ方になってヤット乾いたので、大喜びでお嬢さんから受け取って、ちょうど診察から帰って来た天沢老人に見せると、老人は眼を細くして吾輩の頭を撫でながら、自分の事のように喜んでくれた。
「ウムウム。立派なもんじゃのう。それならば危のうないから持っておってもええぞ」
「お爺さま。これで戦争出来るけえ」
「おお、おお。出来るとも出来るとも。武術の名人じゃと竹箆でも人を斬ると言う位じゃからのう。ハハハハ。明日からその短刀で稽古をせい。そうして早よう小太刀の名人になれ。ハハハハ」
 吾輩は躍り上らんばかりに嬉し喜んだ。そうしてその夜、次の間に寝かされる時に、出来立てのオモチャの短刀を枕元に置いて寝たが、それを見てお嬢さんは又笑った。
「まあ用心のいいこと。泥棒が見たら怖がって逃げて行くでしょ。オホホホホ」

     八十七

 ところが困ったことに吾輩は、この晩に限って眼がハッキリと冴えて眠れなかった。玄関の時計が十時を打っても十二時を打ってもマンジリとも出来ないばかりでなく、夜が更けるに連れて、途方もない考えばかり頭の中に往来し始めて、トテモジッとしておれない気持ちになった。
 今から考えてみるとこの晩、吾輩が眠れなかったのは、やっぱり枕元に置いたオモチャの短刀のせいに違いなかった。何しろ臍ほぞの緒を切ってからこの方オモチャなぞ言う贅沢なものを一度も手にした事のない吾輩が、本物と違わぬくらい立派な、赤い房の付いた短刀を貰ったのだから、その嬉しさというものはトテも形容の限りでない。普通の家庭に育った子供が本物の豆自動車を買って貰った嬉しさの一万倍と形容してもいい位であったろう。
 眠られぬままに何度も何度も暗闇の中に手を伸ばして枕元の短刀を探ってみる。探り当ると抜いてみる。又手探りで鞘に納めてみる。そのうちに鼠が出て来て、引いて行きそうな気がするので、シッカリと抱いて寝ると、腐った米で作った糊の甘酸っぱいにおいが夜具の中でプンプンする。それが又嬉しくていろいろな想像を描いてみる。……鬼を退治たいじる処だの……大蛇と闘うところだの……瘤おやじの幽霊を追いかける処だの……そのうちにだんだん自信が出来て来て、玄洋社だろうが、警察だろうが、この短刀一本で撫で斬りに出来そうな気がして来たので、吾輩は思わずムックと起き直った。同時に室の隅に逃げ込む鼠の音がガタガタとしたが、あとはそこいら中が森閑として、襖越しの座敷に寝ている老人とお嬢さんの寝息とがスヤスヤと聞こえて来るばかりである。
 吾輩はそのまま寝床の上に立ち上って、味噌ッ歯で短刀を銜くわえながら、帯をシッカリと締め直した。それから、抜き足さし足で玄関へ出て見ると、ゴリゴリキューキューと言う鼾の音が聞こえる。これは今夜用心のために患者控室に泊り込んでいる二人の巡査の中のドチラか一人なのだ。
 吾輩はその奇妙な鼾の音が可笑しかったので、一人でクックッ笑い出しながら診察室に忍び込んだ。見ると外にはヤット屋根の上に出たばかりの片われ月が光っている。その月の下の西洋式の硝子窓のネジ止めを音を立てないようにジリジリと捻じ外して、そこから外に飛び降りると、ヤット手の届くくらいの高さの窓をモトの通りに念入りに押え付けた。
 ところがそこから跣足はだしのまま横露地の闇づたいに往来の処まで来て、首をソーッと出してみると驚いた。すぐ向家むかいの乾物屋の軒の下に私服の巡査が二人立っていて、こちらを見ながらヒソヒソと話し合っているではないか。
「屋内なかには二人泊り込んでいるのだな」
「二人とも御馳走酒に酔っ払って鼾を掻いているようだ」
「吾々が二人新たに張り込んだ事を知らせて遣ろうか」
「イヤ。それはいかん。近所に知れるといかん。秘密警戒じゃからな」
 二人はソレッ切り話をやめた。そのうちの一人のサアベルの鐺こじりが半分ほど月の下に突き出て、ピカピカ光っているのがトテモ凄い。
 吾輩は二人の話ぶりから、何かしら形勢が切迫していることを直感しいしい、ソーッと首を引っこめて、反対の方向に爪先走りをした。すると間もなく横露地が行き止まりになって、張り物屋らしい広場と花畠がある。その花畠の向うはズーッと黒板塀になって、その向うが往来か何からしく見える。
 吾輩は、その黒板塀の内側の横木に飛び付いて、難なく幅の狭い冠板の上に突っ立った。見るとそこは往来でなくて、深い大きな溝どぶになっているので飛び降りる事が出来ない。仕方なしに吾輩はその板塀の上を綱渡り式に渡って、土塀に取り付いた。その土塀から煉瓦塀、煉瓦塀から又板塀と一町ばかり渡って行くうちにようようの事で小さな橋の袂に来たので、ヒラリと往来の上に飛び降りた。その拍子に懐中から飛び出した短刀を拾い上げて念入りに懐中ふところへ押し込むと、多賀様と思う方向へ一所懸命に走り始めた。

     八十八

 その頃の直方は今の三分の一ぐらいしかない、小さな町であった筈であるが、子供の足で走ってみるとナカナカ広い町のように思えた。ことに福岡市と違って吾輩に取っては全然不知案内の処だったので、多賀様が町のどっちの方向に在るかマルキリ見当の付けようがなかったが、何でも昼間大男の刑事巡査が指さした方向に走って行ったら何処かで鉄道線路に行き当るだろう。そのうちに汽車の音が聞こえたらその方へ走って行ってもいい。そこでその鉄道線路を越したら山にブツかるだろう。そうしてその山の中を探したら何処かに神様の鳥居が在るだろう。それが多賀様で、玄洋社の根拠地に違いない……と言う例によって無鉄砲な見当のつけようであった。
 そこでその多賀様に着いたら、壮士が何人いようが構わない。この短刀を突き付けて、直方の町の人のために喧嘩を止めるか止めないか談判して遣ろう。楢山と言うスケベエの大将の言う事を聞くような奴の家来だったらドッチにしても高が分しれている。知事でさえ吾輩に頭を下げる位だから、大抵の奴なら睨めくらだけでも吾輩に降参するだろう。
 万一言う事を聞かなければ片っ端から突き殺すまでの事だ。瘤おやじやハンマの源太やぐらいは言う迄もない。天沢老人でさえ吾輩に敵わない処を見ると、大人と言うものは存外無調法な、意気地のないものとしか思えない。
 そこで玄洋社側をヤッツケたら今度は、青柳とか言ううちへ行って、ジカに知事に会って一談判喰らわせてくれよう。そうしてこの喧嘩を止めさせて、直方中の人々を助けて遣ったらドンナに喜ぶ事だろう。世の中に商売の出来ないくらい辛い事はない事実を、吾輩はこの年月の乞食商売の経験で骨身に泌みるほどよく知っている。商売が出来ないと言って吾児に八ツ当りをする親がまだほかにドレ位いるか解らないのだから、そんなのをミンナ一時に助けて遣ったら吾輩はそれこそ無数飛び切りの日本一のヨカチゴさんになるだろう……。
 ……なぞと子供らしい空想を、次から次に湧かしながら、前後を振り返り振り返り、月あかりの町を走って行くうちに、とある横町を曲り込むと間もなく、アカアカと明りのさす、大きな西洋館が見えて来た。
 吾輩はその時チョット不思議に思った。
 第一この界隈にコンナ大きな家は一軒もなかったし、ことにこの真夜中に、商売でもするように表の戸を開け放している家なんか滅多にある筈はないのだから、子供心に不思議に思い思い、懐中ふところの短刀の柄を握り締めて、軒の蔭のドブ板を一つ一つに爪先で拾いながら近づいて見ると、何の事だ。それはこの直方の警察署で、軒の上に取り付けてある大きな金色の警察星と、赤い軒燈の光が、満月のように明るい夏の夜の片割れ月の光に紛れていることが間もなく吾輩にうなずかれたのであった。
 吾輩はそう気が付くと同時に、誰もいない入口の石段の上に素足を踏みかけて、人民の受付口からソーッと室の中を覗いてみた。
 見ると室の中は福岡の警察よりもずっと広いようであるが、高い高い天井裏から黒い鎖が一本ブラ下がって大きな八分心のランプが一個つつるして在る。その下の青い羅紗を被かぶせた大きなテーブルを取り囲んで三人の巡査が茶を飲みながら、何事か低声こごえで話し合っていたが、その言葉のうちに「天沢」とか「玄洋社」とか言う言葉がチラチラ聞こえたから、吾輩は思い切って石段を上ると、受付の窓口に取り縋りながら、自分の事のように耳を傾けた。
「楢山が今夜来ると言うのはホントウか」
「ホントウとも。福岡から確かな情報が入っとる。それじゃから知事閣下は三池炭坑にいる兄弟分の鬼半の乾児こぶんを呼び寄せるように電報打ったという話じゃ」
「楢山が来ればすぐに喧嘩を始める積りじゃな」
「ウン。その積りらしい。何でもその鬼半の乾児が四十名ほど三時の貨物列車で直方に着くという話じゃが。これはまだ誰も知らんそうな」
「ウム。まだ二時間ばかりあるな」
「しかし、そんな事をせずとも、楢山が直方に着く前に縛くくり上げてしまえばイザコザはなかろうが」
「それがナカナカそう行くまいて。第一どこから来るかわからんし、それにシッカリした壮士が護衛して来る筈じゃからのう」
「ところで、楢山がこっちへ着いたら、直ぐに多賀神社の方へ行くだろうか」
「それは、今言う通りで、直接に天沢老人を訪問するという説が多いのじゃ」
「やはりかの子供のためじゃろうな」
「そうじゃろうと思う」
「英雄色を好むかな。ハハハハ」

     八十九

「ハハア。成る程。そこで今夜は天沢老人の家を内外から警戒しとる訳じゃな。来たら直ぐに有無を言わさず引っ括くくる方針で……」
「ウム。その積りでこっちはいるし、大友一派もその積りで青柳に集結しとる訳じゃが、玄洋社側ではこっちの計略をチャンと感付いていて、楢山には指一本も指させんと豪語しとるそうじゃ」
「知事閣下もあの子供には指一本指させる事はならんと言うて御座るそうじゃからのう」
「何にしても高が乞食の児の癖に途方もない大問題になりおったものじゃのう」
「イヤ。大問題になるのも無理はないてや。署長の見込では容易ならぬ悪性の無頼少年チンピラか、それとも天下取りの卵かも知れんと言うとる位じゃからのう」
「それに天下無類のヨカ二世チュウ話ではないか」
「ヨカニセて何の事かい」
「知らんか……玄洋社の連中はヨカチゴの事をヨカ二世と言うのじゃ。二世さんとも言うげなが。二世て契るという訳じゃろう。アッハッハッ……」
「それでもまだ七ツか八ツと言うじゃないか」
「ウン。しかし一眼見るとポーッとなる位、可愛い顔しとるげなぞ」
「お前まだ見んのか」
「ウン。しかし村岡が言いよった。きょう天沢の処へ警備に行ったのでのう。酒の酌をさせたと言うて自慢しよったが……」
「ウーム。一眼見たいものじゃのう」
「けれども饅頭の喰い方の荒いのには魂消たまげったと言うぞ」
「アハハハ。馬鹿な……」
「イヤ。全く呆れたと言うぞ。二十近く在ったのを瞬く間にペロッと喰うたちゅうぞ」
「……違う……」
 吾輩は思わずこう叫んだが、後から気が付いてハッとした。巡査が一斉にこっちを向いたので……しかしその揃いも揃ってビックリした制服の顔がアンマリ可笑しかったので、吾輩はモット戯弄からかって遣りたくなった。
「アハハハ。みんなで饅頭十一や。アハハハハ……」
 三人の巡査は魔者まものにでも出会ったように、青くなった顔を見合わせた……と思う間もなく一番向うにいた青髯巡査が、佩剣はいけんをガチャリと机の脚にブッ付けながら、一足飛びに駈け出して来たので、今度は吾輩の方が驚いて鉄砲玉のように表に飛び出した。そうして飛び出すと同時に吾輩は左右を見まわす間もなく、警察の横露地に逃げ込んだが、入れ違いに往来へ出た青髯の巡査のあとから、ほかの二人も往来へ出て来たと見えて頓狂な声で評議を始めた。
「何もおらんじゃないか」
「いや。たしかに子供の声じゃったぞ」
「ウン。饅頭は十一じゃ。アハハハと笑いおったが」
「不思議じゃのう。おらん筈はないが」
「何かの聞き違いじゃないか」
「イヤ。二人とも聞いとるのじゃから間違う筈はない」
「そこいらの横露地に逃げ込んどりゃせんか」
 と言ううちに一人の巡査の靴音が、向うの家の間を覗きに行った。同時に吾輩は警察の奥へ逃げ込むべく身構えていたが、間もなく一人の巡査が口を利き出したので、又立ち止まった。
「待て待て、これは事に依ると切支丹の魔法かも知れんぞ」
「ナニ、魔法?」
「ウム。あの子供は魔法使いと言う噂があるからの」
「アハハハ。そげな馬鹿な事が……」
「イヤ。あの磯政の乾児のハンマの源太でさえも、あの子供に遣っ付けられたと言う位じゃないか」
「ウム。そう言えばそげな話も聞いた」
「何でもあの子供がヤッと言う気合いをかけると、ハンマの源は息が詰まって引っくり返ったと言うぞ」
「そげな話じゃのう」
「あの家の評判娘が手裡剣を打ったとも言うとるではないか」
「そげな話もあるが、しかしハンマの源は実際、何処にも傷を負うておらん。その代りに息が詰まって、命からがら逃げて帰ると、大熱を出いて、まあだ寝とるチュウ話ぞ」
「フーム。それが真実ほんとなら、やっぱりあの子供の幻魔術ドグラマグラかも知れんのう」
「ウーム。今の声ものう」
 三人の巡査がそのまま黙り込んでしまったので、そこいらが急に森閑となった。三人が三人とも吾輩の魔法を信じて気味が悪くなったらしい気はいである。
 吾輩は又も、たまらなく可笑しくなって来た。しかし今度は一所懸命に我慢をして、三人の巡査が引っ込むのを待っていると、間もなく吾輩が来た方向の横町から、
「オーイ、オーイ……大事ぞオー……」
 と呼ぶ声と一緒に、バタバタと走って来る靴の音が聞こえた。

     九十

「オーイ。何かあ……」
「荒川じゃないか。どうしたんかあ……」
 とこっちの巡査が交る交る返事をした。そのうちに荒川と呼ばれた巡査の佩剣と靴の音が入り乱れて近づいて来た。
「オイ。大事件じゃ大事件じゃ」
「何が……どうしたんか」
「天沢病院の子供がのう……」
「それがどうしたんか」
「誘拐ゆうかいされたぞッ」
「ナニ。誘拐された」
「……かどうかわからんがのう……家の中におらん事がわかったのじゃ……小便に起きた天沢老人が発見して、今大騒ぎをしとるところじゃ。……すぐ手配してくれい」
「手配してくれいと言うたとて、皆青柳に詰めかけとるで、ここにいるのは留守番の三人切りじゃ。三人ではドウにもならんがのう」
「天沢病院の戸締りは全部検あらためたんか」
「チャンとして在ったそうじゃ。それに子供はお嬢さんに懐なついとるで、逃げて行く筈はないと天沢老人は言いよるげなが……」
「……そんなら今の声は……」
「何じゃ、今の声とは……」
「タッタ今ここで子供の声がしたんじゃ」
「ナニ。あの子供の声が、ここでしたんか」
「ウム。その子供の声かどうかわからんがのう。アハハと笑う声をたしかに聞いたんじゃが」
「そんなら、まだそこいらに……」
 と言ううちに四人の巡査は慌てて四方に別れながら、近まわりの露地を覗いてまわるけはいである。
 ここに於て吾輩も慌てざるを得なくなった。ここにいては袋の鼠と考える隙もなく、警察の奥へ逃げ込んで、裏口からソーッと忍び込むと、最前三人の巡査が評議していた室のまん中の大テーブルに掛かった青い羅紗の下へ這い込んだ。同時にここへ入ってはイヨイヨ袋の鼠と気が付いたがモウ遅かった。
「おらんのう」
「ウン。何処にもおらんようじゃ」
 とガッカリした口調で話し合いながら四人の巡査がドカドカと入って来て、吾輩の周囲を取り巻きながら腰をかけた。
「とにかく署長殿に報告してくれい」
「お嬢さんも、やはり誘拐されたと言うて泣きよるげなが」
「そげな事はどうでもええ」
「署長殿は青柳に行っておられる。知事閣下と一緒に飲み御座るじゃろ」
「困ったのう。報告したら大眼玉を喰うがのう」
「それはそうじゃ。又、知事閣下のカンシャク玉が破裂するぞ。四人も張り込んどって取り逃がいたのじゃから……」
「とりあえず貴公達四人は免職になるかも知れん」
「困ったのう。報告せんうちに探し出す工夫はないか知らん」
 と荒川巡査は半分泣きそうな声を出した。
 吾輩は四人の巡査が可哀そうになった。
 今更に悪い事をしたと気が付いたので、すぐにテーブルの下から飛び出して、温柔おとなしく縛られて遣ろうと思いかけたが、まだそう思うか思わぬかに、又も突然表の方からバタバタと走り込んで来る靴音がして、息も絶え絶えに叫ぶ若い男の声がした。
「大変じゃ……タ……大変……」
「何だ何だ。木村巡査。何が大変じゃ」
「ああ苦しい苦しい。息が切れて……たまらん。署長殿はどこにおられますか」
「署長殿は青柳じゃ。福岡から来た私服連中と一緒に御座る」
「そんならそちらへ報告して下さい。私はモウ……眼が眩くらんで……」
「……何を……何を報告するんか」
「私は……直方駅の、南の踏切の処から、多賀神社の方向を監視しておりました。そうしたら……そうしたらあの方向の、民家の燈火あかりが急に殖えて……見えたり隠れたり……ああ苦しい」
「サア茶を飲め。燈火が殖えたのがドウしたんか……しっかりせい」
「ケヘン、ケヘン……それで私は……怪しみまして……思い切って神社の裏手から、遠まわりをして近付いてみますと……玄洋社の壮士連中が皆起きて、出発の準備をしております」
「ウーム。何処へ行くんか解らんか」
「鬼半が加勢に来るから、その加勢が来んうちに、知事をタタキ伏せると言うて……ケヘン、ケヘン」
「イヤア。それは大変じゃ……」

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