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2014年2月26日 (水)

「犬神博士」夢野久作 百

     百

 吾輩はそこに短刀の鞘と柄を捨てた。惜しくて仕様がなかったが仕方がない。
 それと同時に、オレは一体何の目的であの喧嘩の中に飛び込んだのだろうと考えてみたが、イクラ考えても理屈がハッキリしなかった。……これでは喧嘩を留めに入ったのじゃない。喧嘩のキッカケを作りに入ったようなものだと考え付いたので、タッタ一人で極りが悪くなった。
 しかしモウ喧嘩は見飽きてしまった上に、方角さえわからなくなっているので、今更引返してどっちが勝ったか様子を見に行くほどの興味もなくなっていた。おまけに何だか疲れが出て眠くなった……で、大きな欠伸を一つした。するとそれにつれて恐ろしく咽喉が乾いている事に気が付いたので、何処かに井戸はないか知らんと思って、キョロキョロそこいらを見まわすと、ズット向うの長屋の間を出抜けた処に井戸らしいものが見える。近づいて見ると果して背の低い車井戸で、まわりはチョットした草原になっていて、シイ――ンと言う虫の声が、そこここに散らばっている。
 吾輩はその車井戸の桶釣瓶おけつるべを一つ汲み上げると、井側の外へ引き出して、頭と、顔と、手足の血をいい加減に洗い落した。
 それからその水を捨てて、モウ一パイ汲み上げて、井側の縁に乗せかけて飲もうとしたが、髪毛から薄黒い、腥なまぐさい血の雫が滴るのでナカナカうまく飲めない。それを片手で撫で上げ撫で上げ腹一パイ飲み終ると、今度は小便が詰まっているのに気が付いた。
 吾輩は井戸の横の草原に走り込んで、虫の声のする方に見当を付けて小便を垂れ始めたが、その小便が思ったよりもズット長いのに呆れた。考えてみると天沢老人の処を飛び出してからここへ来る迄の間、小便の事なんか考える隙もないくらい忙しくて、緊張していた上に、停車場の屋根瓦の上で長い間お尻を冷やして来たのだから無理もない。自分でもまだかまだかと思うくらい気持ちよく、あとからあとから迸ほとばしり出る。それが月の光に透きとおって銀色の滝のように草の葉に落ちかかって、キラキラと八方に乱れ散るそのおもしろさ……美しさ……。そのうちに何だかジクジクと気持ちよく寒くなって来たようなので、二つ三つ身ぶるいをしながらクッサメをしていると、何処から来たのかわからないが吾輩の背後の方から、黒い、大きな影法師がニューと近付いて来たので、ビックリして小便をやめた。そうしてそのままの姿勢で振り返ってみると、何だかエタイのわからない案山子の出来損ないみたような奇妙な者の姿が、吾輩のすぐ背後うしろにノッソリと突立っている。
 吾輩はさすがにギョッとしながらその者の姿を見上げ見下した。新しい手拭で頬冠りをしているから顔付はハッキリとわからないが、眼の玉の引っ込んだ、鼻の高い、天狗と狸の間の子見たような薄気味の悪い人相に、占者みたような山羊髯をジジムサく生やしている。それが青だか紫だかのダンタラ縞のドテラに、赤い女の扱帯しごきをダラシなく巻き付けて、竹の皮の鼻緒の庭下駄を穿いていたが、何か考えているのか懐手をしながらジッと吾輩を見下して突っ立っている。むろん喧嘩をしに来た風体ではないが、何だかニコニコ笑っているらしい目付きを見ると、田舎によくいる低能男アニヤンではないかとも思われる。いずれにしても大きな男ではあるが、吾輩に敵意を持っていない事だけはすぐに直感されたのであった。
 そうした相手の風采を見て取ると吾輩は安心して、又も小便を放ひりはじめた。しかし何となく気にかかるので、小便をしいしいうしろを振り向いて物を言ってみた。
「お前何や……」
 その大男は返事をしなかった。相変らず懐手をしたまま吾輩を見下してニヤニヤと笑っているらしいので、イヨイヨこの男は馬鹿かキチガイに違いないと吾輩は思った。
「……お前馬鹿けえ……キチガイけえ……」
「……………」
「人が小便しよんの何で見とんのけえ」
「アッハ、アッハッハッハッハッ」
 とその大男が突然に笑い出した。しかも河童みたいに大きな口を開けて、お月様が見える程あおむきながら、心から可笑しそうな無邪気な笑い声を出したので、吾輩は少々気味が悪くなった。これはキチガイに違いないと九分九厘まできめてしまった。

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