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2014年3月 7日 (金)

 「初期漫才のにない手たち」森秀人

落語や歌舞伎のように定型をもち、しかも早くから都市に寄生して、専門的になり、大衆芸術が本来そなえているダイナミックな破壊性というものをほとんど喪失している安全な大衆芸術は、明治になってからも、極端な変化を起こきなかった。いっぼう明治以後にできた演歌・浪曲・漫才などのほうは、さんざんな有様であった。これらのものの初期は、国家権力にとってはかなり危険な大衆芸術であったから、演歌師も浪曲家も漫才師も、いつも警官に狙われており、禁止されたり、逮捕されたり、ゴーモンをうけたりしなければならなかった。専門家になった以上、かれらも食べなければならず、そのためには、大衆芸術を捨てるわけにはいかず、そのために、内容を安全なもたけれどもこれらの大衆芸術を守ろうとはしなかった。

 このような考え方の根底には、いまの組織労働者が未組織労働者を守ろうとせず、自分たちは日分のことで一杯だ、というあのリフレーンを繰り返しているのとまったくおなじ貧しく悲しい発想がある。日本の進歩的運動はその当初からエリート的な発想にさきえられていたのである。したがって、大衆芸術家たちは、まったく孤立し、独力で権力と闘い挫折していった。演歌は、あのするどい風刺の精神を抜き去って流行歌に変質し、浪花節は浪曲に、そうして万才師はホームライクな放送漫才に、それぞれ内容を変質させていった。

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 円辰や豊丸らがいちおう漫才の創始者と考えられているので、かれらを中心とした、初期漫才についてふれてみたい。もちろん、このころは漫才と書かずに万才と書き、そうして古い、すたれるいっぼうの三河万才などと区別するために名古屋万才とした、という話は、まえにのべた。したがって、わたしは、初期漫才を、日露戦争の終った年の明治38年から、高級万才と名づけて東京行をした大正七年をとおり、漫才がはじめて寄席に登場を許された昭和初年までの22年間とする。大正末年以後から現在までは、現代漫才とよぴたい。現代漫才以来、だいたいの原型はきまってしまった。

 初期漫才について秋田実は「唄を楽しむお客を対象に出発した名古屋漫才であるが、出る組も出る組も河内音頭では、いかに眠が好きとはいえ食傷してしまう。そこで二つのくふうがくわえられた。一つは、のど自慢のほかに、曲芸とか奇術とかいろいろのものを加えて番組面のバラエテーを作ったのである。色いろなものがはいっているので『包もの』という言葉がここから始まったという説がある。もうひとつは、河内音東だけではたりないので、銘々みな自分の足で民謡を覚えにほうぼうへ出掛けたのである。」

 初期漫才はこのように、はじめは民謡の復興リバイバルという形でうまれたのである。くわえて、大阪の下層社会の人間たちが対象であったから、その民謡も、おそらくは前出の名古屋甚句やごぜのくどきのような、強いエロスに充満したものが多かったであろう。楽器も、祭ばやしに使用きれるものであったろう。もともと日本の芸能は(祭)とともにはじまったが、万才や仁輪加や軽口などの民族伝統をいまだ忘れなかった当時の都市の下層社会の日本人たちにとって、このバイタリテーのある民謡復興は、青ばしいことにちがいなかった。民謡はもともと地域労働社会の産物である。都市の底辺族は、独力では、この伝統をうけつぎ発展させることはできなかったが、そういうものが出現すれば支持したのである。

 このように、初期漫才は、都市底辺族を直接の客として、かれらのみを対象とした、まったく新しい形式の芸術に育っていた。初期漫才のにない手たちは、卵の行商人であったり、扇子屋であったり、かご屋であったりした。なかには旅芸人である軽業師やごぜなどもいた。そして乞食小屋のようにみすぼらしい演芸場で、そのデラックスな漫才を独創的につくりあげていったのである。秋田実は、民謡を地方に習いにでかけていった漫才師たちが、地方のニュースをもち帰り、それをユーモアにのせて話したことから、歌と言葉による笑いの芸術がうまれたと指摘している。おそらく、このような才能は、物売りであったかれらがごく自然に身につけた才能なのである。いまでも辺地にゆくと、富士の薬売りがくるのを楽しみにしている日本人がいるが、ユーモアたっぶりに各地の話を知らせてくれる鼻薬さんたちは、民衆にとって、唯一の教師であり、芸術家なのである。いい芸術家でなければ商売も、また繁盛しなかったであろう。

 だから、漫才という形式は、行商人たちにとっては、ごく自然な発展であって、それがたまたま民謡復興の気運にのって契機をつかんだにすぎないのであった。これは余談にすぎないが、昭和に入って編集された民謡の本には、たいていわざわざことわり書きがついていて、歌詞の淫狼なのはのせていない。だから民謡研究はたいへんゆがめられてしまって、どうしても真実な研究をするた
めには昭和以前のものを探さねばならないが、これはほとんど絶望的である。だから、明治三八年に、かれらが集めた民謡が、もしそのままの形で残っていたならば、どれだけすばらしいことになったか、はかか知れないのである。

 とにかく、現在のわたしたちが「民謡」とよんでいるていのものとは、たいへん違った歌詞や唱法や伴奏によって、民謡の復興がなされたことは事実である。大正一二年九月の関東大震災は、日本中をゆるがした事件であったが、この事件なども、漫才師たちはすぐに数え唄にして関西の人間に知らせたのである。だがこのようなニュース性を漫才はもちはしたが、初期漫才の主なニュースは、大阪近辺のごく身近な話題にかぎられていたのであって、それがために、生活と密着できたのである。

 どこそこの村のAという男の女房が、Bというのんだくれと浮気をして、おまつりの最中に亭主にみつかり、裸のまんまで引っばりだされて大勢のまえでいじめられていると、くだんの間男がとぴだしてきて「赤の他人が赤鼻の俺のかかあを、赤裸にしてどうしようというのだ」とわめいた話などなど。このような、ごくありふれてはいたが、エロスにみちたニュースを、おもしろおかしく語り、前後にやはりエロスのある民謡や踊りをいれる。これが娯楽に飢えていた当時の都市底辺族にうけないわけはなかった。漫才師たちは、あの漁師町の女房たちを客に、広場に爆笑を起こきせた、ばあさんたちの生活芸術を、舞台芸術に発展させただけなのであった。なぜこうした漫才小屋に、サーベルをさげた巡査が監視にこなければならなかったのであろうか。

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 民謡をうたうことでほじまった迎才が、モドキという日本古来の伝統に、しぜんに回如していったのは、不思議なようだが、実は言葉としての日本語がそうさせたのである。日本では、1人で客を笑わせる語り物の芸術を(漫談)というが、この漫談には宿命的な欠陥があるのである。落語ならば、筋立のなかに、隈居と熊さんを登場させて、ごく自然にモドキをすることができる。和歌や俳句のむずかしい話題を解説し、きいただけではすぐに意味のわからない異義同音の言葉を明確にするこのモドキ法は、落語のなかでは、ぎやくに笑いを作る要素をつくりだす。
 ところが漫談はひとりである。かれ自身がモドキをしないかぎり誰もモドキをしてくれない。自分で話して自分で解説し、しかもなおかしこばらずに客を笑わせなければならない。話術的には困難である。だから日本の漫談は、残された二つの道を歩むしかなかった。第-は、モドキのぜんぜん不必要な突撃軽口である。だが、これは、極端に性欲と食欲と金銭欲を露呈させる以外にない。第二の道は客層をぐんとあげて、モドキを是ほど必要としない層嘉象にして、激烈な笑いを追わずあっさりと上品に、そして話題は豊富にしていく方向である。多くの漫談家は、後者をとつた。ラジオの出現以前に、方向を定めていた。したがって、漫談家は漫才師よりも早くからラジオに登場した。万才がラジオに出るころ(昭和三年ころ)に名称を替えようというので、すでに評判のよかった漫談の漫の字をもらったということからも、この間の事情は察せられるのである。

初期漫才師たちが漫談家の後を追わなかったのは、民衆から選ばれたユーモア・メーカーとしての誇りがあったからだと考えられる。あの楽しみを知っている者にとって、それを捨てるということは、できない相談であった。                      

 円辰や豊丸らは、やがて太夫となり、弟子である才蔵をつかって、モドキの原型に回帰していく。太夫は、知っているかぎりの話題を、民謡や浪曲や厨りなどにあわせて、しやべりまくり、才蔵はごく簡単にあいづちを打つだけだった。この段階では、モドキの機能はまだあまり発揮されずむしろ才蔵は、舞台をリラックスさせる機能を果たしていた。それまでのように、一人の太夫だけのときは客はその太夫だけに集中させられ、笑いと笑いの合間は緊張感をもたせられてしまい、太夫も客も、ある種の重さから解放されない。農家の庭先でなら五分二〇分笑わせるだけで足りるが、舞台となり、入場料をとって、一時間以上もみている客を相手では、事情がだいぶちがってくる。

森秀人(『思想の科学』編集長)『遊民の思想』虎見書房、1968
(大衆の水準よりさらに低下した地点への到達によってのみ芸術たりえる)

漫才からみていく、「笑い芸能世界」の着地点は興味深くある。初期漫才に才蔵が出現したことは、日本の芸術史を画期的にさせる重大事件であった。民謡などを主体とした雑芸から、お話を構成する漫才へとメディア発展していった

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