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2014年3月17日 (月)

能の空間と時間

 能は「間」の芸術であるともいわれる。だがその実、肝腎の「間」の概念規定が人によってまちまちである。試みに質問してみると、建築家はこれを空間であるといい、音楽家は時間だと答える。確かに、床の間・京間・間数・間柱などはそれぞれ、空間そのもの・空間の長さ・空間の単位・物と物とのあいだを意味する空間用語であり、束の間・間を持たせる・「間」がよいなどは、時間そのもの・事と事とのあいだ・リズムないしはタイミングを表わす時間用語である。これらほともに正解といってよい。「間」はもともと中国から漢字の間で渡来した概念でもっばら空間を表わしていたが、日本語への転化にあたって時間の意義も持つようになったとされているからである。

 このように異なる分野で語を共用しそれぞれ違う概念を表わしているぶんには、他にも例があることであり、さしたる混乱は起きない。だが、一方において「間を置く」「間合いを計る」「間伸び」などのように、時間と空間が複合された慣用句が数多く存在している事実をどう説明したらよいのだろうか。たとえば「間を置く」とは空間の距離をとることであり、時間をあけることでもある。おそらくこれは、われわれの祖先が民族特性とされている独特の日本的受容によって、本来異柘の存在であった時間と空間を、矛盾の統一においてすんなりと同次認識してしまったことの表われに違いないのである。したがってこのように、まには三通りの意義が含まれているところから、一見いかにも曖昧な語のように見える。だが実は、広義な内容を一語で言い表わす多様性と言語の基本的条件とされる簡撫さとにおいて、まは他国語に類例を見ない特異な概念用語であり、この曖昧さこそ日本語の優秀性を示す要素に他ならないのである。

この創出があったがゆえに、能における時間・空間を超えて舞台と鏡の間を繋ぐとともに、それ自体が舞台でもある橋掛りの機能をフルに生かして、時間を自在に操る夢幻能という優れた演出形式が生まれ、現世と別世・現実と非現実という対極を、ごく自然な形で同次存在させることを可能にしたのである。

「間」は構成要素としても、具体的に存在する。われわれは、事物の構成を常に「表現部分」と「余白・空白部分」という相対関係でとらえて、これが最も基本的な認識のしかたである。たとえば、絵画における主題と背景、あるいは音楽における音符と休止符の関係がそうである。
 
 これを「真・行・草」の「真」とすると、行の構成はやや複雑になり、両者の境目が判然としないような形をとる。
 典型例を図形で示すと「ルビンの壺(Rubin's vase)」と呼ばれる図のように一見は白い盃と見えた図柄が、じっと見つめていると向き合った二人の横顔に見えてくるような構成である。

 このような関係を、心理学では「図」と「地」と呼んでおり、先に知覚されたほうを図としている。したがってこれは、見る人の主観によって図と地が容易に逆転する性格を持っている。音楽でいえば、本来伴奏を行なう楽器がメロディーを奏で、歌手がスキャットで和音を歌うような演奏である。

 さらに「草」へ至ると、表現部分が逆に余白・空自部分の引立て役に廻るような高次の構成となる。そして極限においては、もはや前者は後者を形づくるために参与しているにすぎないものの存在となり、到達への過程には常に象徴化のための省略がある。このシンボル化された表現部分によって生じた余白・空白部分が実在のまであり、構成の核心なのである。
行の構成においては図と地の関係が観察者の選択に任されていたが、草では再び真に似た構成をとりながら、しかも本来の意図が図にはなく、地に隠されていると見るべきなのである。

Sks

【真行草】しんぎょうそう 
書道の書体の類型を示す言葉。さらに日本人の美意識の表現として広く用いられた言葉である。
中国の東晋時代に書道の基礎を作った王羲之によって,古代の篆書(てんしよ)・隷書(れいしよ)に対して真(楷書)・行・草の三体が確立したといわれ,日本では奈良時代後期の《正倉院献物帳》に王羲之の書として真行草の文字が見える。
書道の普及とともに,最も格式の高く整った真と,その対極に位置する最も破格の草,その中間項の行を,3段階の様式表現の用語として,書道以外のさまざまのジャンルでも用いるようになった。

以上のことがらをまとめてみると、

            (真) (行) (草)
 表 現 部 分 = 図→ 図→ 地(もの)

 余白・空自部分 = 地→ 地→ 図(「ま」)

 「ま」をつくるためには、ただ一本の柱か一人の人間が存在すればよい。造替後の伊勢内宮古殿地に置かれた真の御柱は、神域のシンボルであると同時に静のまを構成する要素である。また、能が原則として主人公を一人に限っているのも、実はシンボル化することによって舞台空間を時々刻々に変容・変質する動のまに仕立て上げようという、意志の反映に他ならない。

 このように、「ま」とは漠然とした存在ではなく、尺度と機能とを兼ね具えた、つまりデザインされたネガティヴ(陰)な時間・空間を指しているのである。この結論をもとに、さらに表現におけるまに話を進めよう。

 省略の極致に真の芸術的創造があるはずだという摸索は、かなり以前から洋の東西にわたって存在した。日く「芸術とは省略なり」また日く「より少ないことはより多いこと」などである。だがこれらの故言は、世阿弥の演技論にいう「せぬ所が面白き」という言葉の深淵さには、とうてい及ぶべくもない。なぜなら、彼は言外にまの存在を示唆しているからである。能の演技は、することによって何もしない余白と空自の時間であるまをつくり出すために行なうのであり、そのまに表現の核心があり、本来の面白さが隠されているのだといっているのである。

 その一例は「居グセ」という演出手法である。クセとは曲の中核をなす重要な小段であって、舞に重点が置かれた「舞グセ」を本姿としているのだが、この場合、演者は舞台中央に縛ったまま岩のように微動だにしない。
ただひたすら謡と磯子が流れる中で、心で舞うことによって視覚を超えた無限の表現としているのである。最も饒舌であるべき演技の時間を、寡黙な空間に置きかえる作業つまりまの表現の追求がここにある。

 この真意をとり違えて、一部の人は「能の最終的な表現は無である」などと美辞を弄しているが、空の間違いであることは言うまでもない。

 だが、このような表現技法は、なにも能に限ってあるわけではない。古来、逆説思考ともいうべき伝統がわが国に存在しており、心敬は「連歌は言わぬ所に心をつけ」といい、利休は「茶の湯とは、ただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなり」といっている。つまり余計なことをするなといっているのであり、俗を省略することによって風雅が生まれ、省略は常に象徴化を伴うことから、その度合いを進めてゆくと到達点はやはりまなのである。この論法でゆくと、雪舟の絵はさしづめ「措かぬ所が面白き」ということになる。
 世阿弥の「せぬ所」とは、演技についてだけではなく、能の音楽の本質をも言い表わしている。打楽器の必要不可欠な普だけを綴り合わせてリズムを構成しながら、実はそれによって生ずる無音の空白時間すなわちまに、リズムの主体があるとする音楽理論がそれである。つまり「鳴らさぬ所が面白き」なのである。

 こう眺めてくると、「能はまの芸術である」という定義は、他ならぬ冒頭にのべた能が時間・空間芸術であることを具体的にいっているのであって、それゆえに能にとって重要な概念であることが、わかっていただけると思う。序破急がすべてを覆う秩序の大原則であれば、まは芸術の性格を決定付ける要素であり、この二本の柱によって、能という建築が精密に構造されているのである。

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