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2015年2月18日 (水)

『沖縄文化論 忘れられた日本』岡本太郎

私はかつてない衝撃をうけた。---人間生命の、ぎりぎりの美しさ。それは一見惨めの極みだが、透明な生命の流れだ。いかなる自然よりもはるかに逞しく、新鮮に、自然である。かつて人間が悠久に生きつぎ、生きながらえてきた、その一こまであり、またそのすべてを戦慄的に象徴している。ヒューマニズムとか道徳なんていう、絹靴下のようなきめですくえる次元ではない。現代モラルはこれを暗い、マイナスの面でしか理解することができない。だがこの残酷である美しさ、強さ、そして無邪気さ。よそは知らない。しかしこういう根源的な人間生命が久しい間、そして今日まで、日本とその周辺を支えてきた。

まさにこの島の生活、その基底にこそ、そのような生命の感動が生きつづけているからだ。痛切な生命のやさしさ---この風土にふれるにしたがって、次第に感じとったことである。いまは何の用意もなく、この、私にとって新しい天地に入って行く。
(「何もないこと」の眩暈 P.8)

 人間、石垣、籠、舟と区別なく並べたてたが、決して奇妙ではない。 すべてがこの天地に息づく実存の多面性としてある。 同価値であり、同質のエキスプレッションである。
 これらすべては美しい。 意識された美、美のための美では勿論ない。生活の必要からのギリギリのライン。 つまりそれ以上でもなければ以下でもない必然の中で、繰りかえし繰りかえされ、浮び出たものである。
(「何もないこと」の眩暈 P.64)

 情感がもり上り、せまる。 そのみちひきのリズムの浮動の中に、私はとけ込んでしまう。 目で見ている、観賞している、なんて意識はもうない。 一体なのだ。 しかし、にもかかわらず、踊り手はまるでこちらを意識していないかのようである。 見る者ばかりではない。 世界に、身体が踊っているということの外には何もないという感じなのだ。
 日本舞踊の〈しな〉とか、バレエに見られる問いかけのような身ぶり、観客への訴えみたいなものがまったくない。 悲しんで見せたり、喜んでみせたり、押しつけがましい表情、そういう卑賤な説明的手段はない。 この絶対感こそ舞踏の本質である。 ここには充実した感動だけがうごいている。 それがたまたま見るものに歓びとして現われ、悲しみとして打ってくるだけだ。
 その点、能の感動に近いともいえる。 だがあの重さはない。 そのなまめかしさは開ききって、能のような殺した色気ではない。
 琉球女性特有の張りの強い、大きな眼。 見ひらかれたまま目ばたき一つせず、きっと凝視して動かない。 激しいが、不思議にどこも見ていない。 もし見入っているとすれば、それは心の中なのだろうか。
(《踊る島》P.127)

縄文土器と太陽の塔をむすぶ視点が、沖縄に伝わる風土や造形などから語られている。縄文人の作った形を見て、自分の真似をしていると信じた巨匠。岡本太郎さんは紙一重すれすれに、芸術を爆発していった。

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