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2017年5月21日 (日)

『鳥』安房直子

ある町に,耳のお医者さんがいました。
小さな診療所で,来る日も,来る日も人の耳をのぞいていました。
とても, 腕の良いお医者さんでしたから待合室は, いつも満員でした。

遠い村から, 何時間も列車にゆられて通う人もありました。このお医者さんのおかげで,耳の病気がすっかり治ったと言う話は, 数えきれません。
そんなふうで,毎日が,あんまり忙しかったものですから,お医者さんは,このところ,少し, 疲れていました。
「私も,たまに,健康診断しなくちゃいけないな。」
夕方の診療室で,カルテの整理をしながら,お医者さんは,つぶやきました。

いつも,看護婦役をしてくれる奥さんは,ついさっき出かけてしまい,今,お医者さんは,たった一人でした。夏の夕日が,その小さい白い部屋を,赤々と照らしていました。
と不意に, 後ろのカーテンが,しゃらんとゆれて, 甲高い声が響きました。
「せんせ,大急ぎでお願いします! 」
耳のお医者さんは,くるりと回転いすを回しました。カーテンのところに,少女が一人立っていました。片方の耳をおさえて,髪を振り乱し, まるで,地の果てからでも走ってきたように ,あらい息をしていました。
「どうしたの。いったいどこから来たんだね。」
お医者さんは,あっけにとられて訊ねました。
「海から。」 と少女は答えました。
「海から。ほう,バスに乗って?」
「ううん,走って。走ってきたの。」
「ほう。」

お医者さんは,ずり落ちた眼鏡を上げました。それから「まあ,かけなさい。」と,目の前の椅子を示しました。
少女は,真っ青な顔をしていました。
その目は,大きく見開かれ,まるで,毒を飲んでしまった子供のようでした。
「それで ? どうしたの? 」
お医者さんは,手を洗いながら, いつもの調子でたずねました。
すると,少女は自分の右の耳を指して叫びました。
「耳の中に,大変なものがはいってしまったんです。早く取つてください。」
そこで,お医者さんはガーゼやピンセットを取り出しました。そうしている間にも,少女は甲高い声で,早く早くとせきたてます。けれどお医者さんは,落ち着いていました。こんなことは,しょっちゅうでしたもの。

昨日も小さな虫が 生きたまま耳の中に入つたという人が,飛び込んで来て,うるさいうるさいと大騒ぎしたのでした。今日もそれにちがいないと,お医者さんは,思いました。そこでゆったりと椅子に座り
「何が入ったんだね。」とたずねました。すると少女は,とても悲しい顔をして,
「あのね,秘密なんです。」と言いました。お医者さんは,顔をしかめました。
「秘密ってことはないだろ。それじゃ,治せないじゃいか。」
すると少女は,しょんぼりうつむいて,「だから,秘密なんです。秘密があたしたちの耳の中に入ってしまったんです。」
「あたしはね,決して聞いてはいけない秘密を,たった今聞いてしまったんです。だからそれを,おおいそぎで取り出してほしいんです。
今すぐ取り出せば,だいじょうぶなんです。ちょっと前に,コトンと,耳のなかにおちたんだから。
でもね早くしないと,手遅れになります。日が沈んでしまったら,もう,おしまいです。」

お医者さんは目をしばしばさせました。こんな患者は初めてでした。そこでこれはまず,ゆっくり話し合うことだとおもって ,
「で,いったい,どんな秘密を聞いたの。」優しく尋ねました。
すると少女は,ぼそぼそとこう言いました。
「あたしのだいすきな人が,実は,鳥なんだっていう話。魔法にかけられカモメなんだっていう話。」
「ふうん。」とてもみょうな顔つきで,お医者さんはうなずきました。

それから,いすを引き寄せて,少女の顔をのぞきこみました。もっとくわしく聞きたいな,君の話。それから耳をみてあげることにしても,ちっともおそくないと思うよ。

日がすっかり沈むまでには,そうあと三十分はあるからね。なあにそんな秘密のひとかけらぐらい,すぐ取り出せるよ。ぼくは名医なんだから。

少女は素直にうなずくと, こんな話をはじめました。あたしが初めて,あの人と会ったのは,夕暮れの海の,ボートの上でした。あたしは,独りぼっちの女の子で,貸しボートの小屋で働いていました。

小屋の前に一列につながれた 十九隻のボートの一番前に,その時あたしは座ってていました。日が沈んでも戻ってこない,たった一隻のボートを,あたしは待っていました。
けれどこの時,あたしはすっかり待ちくたびれて,うとうと眠りかけていました。とそんなあたしの耳もとで,ぴしゃっと水の跳ねる音がしました。
「すみません。」 
その声で,あたしは,はっと目を開けました。目の前に,ボートに乗った,少年がいました。青いペンキぬりのボート,それは,たしかに,うちの店のものでした。たちまち,あたしは,不機嫌になりました。
「どうしたの? もうとっくに,時間,切れてるんですよ。」
すると少年は,恥ずかしそうに笑って,こう言いました。
「ずっと沖の方まで行ってたものだから。」

小年の目は,不思議な灰色でした。
「いったい,何処まで行ってたの。?」
あたしは半ばあきれた顔つきでたずねました。すると少年は すまして言いました。
「水平線のずっと向こう。ふたご岩のまだむこう。かみなり島のもっと向こう。」
「うそばっかり。」
「うそなもんかい。鯨が潮をふいていたよ。大きな客船がいたよ。」
「ふざけないで,早くボート返してちょうだい。」
すると少年は,立ち上がって,ひょいと,あたしのボートに跳び移り,それから,まるで石けりでもするように,ぴょんぴょんと,十九隻のボートを伝わって岸に行ってしまいました。

最後に「さよなら!」と言いました。少年の乗り捨てたボートには,白い花びらが散っていました。あたしは思わず,それを手に取りました。すると,花びらは,羽に変わっていました。鳥の羽でした。
あたしは,不思議な,夏の夢を見たような気がしました。
その少年が,浜の貧しい小屋に住む海女の息子だと知った時の,あたしの驚きは,たとえようもありませんでした。
その海女は,すっかり年をとっていましたから,海に潜るのはやめて,貝や魚を売り歩いていました。
茶色い肌は,くしゃくしゃで, おちくぼんだ目は,とろんと曇っていました。

そんな年寄りの海女が,あの少年の母親だということが,あたしには,とうてい信じられないほど不思議でした。
けれど,海女は,ある日,ボート小屋へ来て,確かにこう言ったのです。
「こないだは,息子が,迷惑かけて,すまなかったね。」
海女は,笑いました。
ぞくっとするような笑顔でした。
「だけど,もう,ボート遊びは,させないでおくれ。あれは,あたしだけの,大事な息子なんだから。」
けれど少年は,それから毎日ボートに乗りにきました。
あたしの耳もとで「ほんのちょっとだけさ。母さんには,ないしょだよ。」と,ささやいて。やがてあたしは,少年と,友達になりました。
初めはおずおずと,それからだんだん親しく。夕方になると少年はあたしが,ボートを杭に繋ぐのを手伝ってくれました。あたしよりずっと速く,まるで,水のうえに散らばった木の葉をまとめるように。
「これ全部, 僕のボートだったら,すてきだろうな。」と少年は言いました。
「そうしたら,一列に繋いで,先頭のボートを漕いで,沖へ行くんだ。」
「あら,そんなこと,出来るかしら。」
「うん。僕には出来るだろうな。僕の腕は,強いもの。ずっと前には,もっといろんな冒険をしたもの。」
「冒険? どんな?」
あたしは体を乗り出して尋ねました。すると少年は急に,気のぬけたような声で,「もう,忘れたな。」と言いました。それから虚ろな目で,遠くを見つめました。
この人は,いつも,そうなのでした。昔の事は,みんな忘れているのでした。
まるで,忘れ薬を飲まされた王子のように。もっともあたしも,そうでしたけども。
心に残っている,昔の思いでなんて,一つもないのでしたけれど.ボートをしまってから,日が暮れるまでの一時を,二人は,楽しく過ごしました。
貝を並べたり,ほおずきを分け合ったり,花火をしたり。ほの暗いボート小屋のかげで,せんこう花火は,小さく,ちりちりと燃えました。けれど,あたしたちは,もっと広い所で,一緒に遊びたかったのです。

昼の日ざかりに,砂浜や海で,おもいっきり,走ったり泳いだりしたかったのです。があたしたちは,いつも海女の目をおそれていました。
小屋の後ろで,二人の様子をうかがっているかもしれない海女のかげに,何時もおびえていました。
ある時,少年は言いました。
「ねえ,二人で遠くへ行かないか。」
「遠くってどこへ?」
「水平線のずっと向こう,ふたご岩のまだ向こう,かみなり島のまだ向こうさ。」
「だって,母さんは?」あたしは,声をひそめて聞きました。
「あなたの母さんは,いけないって言うでしょ。」少年は,うなずきました。
「うん。母さんは,ぼくたちのこと,怒ってるんだ。おまえは,あの娘といっしょに,どこかに逃げていく気だろうって。だけど,決してそうはさせないよって。母さんは,こわい人なんだよ。魔法を使うんだから。」

あたしは息をのみました。そういえば,あの顔は魔法使いの顔でした。
特に,あの目は繙繩Cの底に,百年も二百年もすんでいる魚の目の,不思議なよどみに似ていました。
「ね,だから,ぼくたち,こっそりにげなけりゃいけない。」
少年は,とても,真剣な顔をしました。
あたしは,胸をドキドキさせながら,うなずきました。
「ねえ,あした,にげよう。」
「あした ! どうして急に。」
「母さんが,海にもぐれっていうんだもの。海の底から,貝をたくさん採つておいでって言うんだもの。僕は, 嫌なんだ。あれは,とっても苦しいから。」
「・・・・」
「僕は,思いっきり広い所へ行きたいんだ。ね,だから,あした逃げよう。
ボートを一隻, あの岩の陰に隠しておいて欲しいな。」
少年はずっとむこうの岩を指さしました。

海に突き出た, 大きな岩の陰に,ボートが一隻, すっぽり隠せるくらいの窪みのあることを,あたしも知っていました。
「あしたの夕方, ボートの上で, 待ってるよ。」
少年は, 灰色の目で笑いました。この時, 後ろで, カサリと音がしました。
黒い影が水のうえに, ゆらっと動いたような気がしました。

あたしは, ぎょっとして振り向きました。が,誰もいませんでした。
ああ,それが,つい昨日の出来事なのです。
なんだかずっと昔みたいな気がするけれど,ほんの昨日の事なのです。
そうして,今日の夕方--ついさっきになります--, 約束どうり, あたしは,あの岩影に急ぎました。

朝のうちに, こっそり隠しておいたボートの上で, あの人が待っているはずなのです。
あの人は,青い海水パンツをはいているでしょうか。大きな麦わら帽子をかぶっているでしょうか。

そして,灰色の目でじっと, あたしを待っているでしょうか・・・・
あたしの胸は,コトコトとおどりました。
これから,素晴らしい冒険が始まるのだと思いました。浜の西日は,大きな黄金の車でした。ぎんぎん音たてて回る, まぶしい光の輪でした。
急げ,急げ。 あたしは,いちもくさんに走りました。まぶしい砂浜から,岩の陰に回ると, 急に, 薄暗くなりました。
あたしのゴム草履が,ぴたぴたと,水を跳ねました。と「ご苦労さん」 突然, しわがれ声がしたのです。
あたしは,ドキリと顔を上げました。

青いボートの上には,少年の代わりに,海女が一人, ひざをかかえて座っていました。あのぞくっとするような笑顔をうかべて。にわかに,あたしは, わなわなと震えました。
うわずった声で, あの人は何処にいるのかと尋ねました。
「うちにいるよ。」
つっけんどんに, 海女は答えました。

「鍵をかけた小屋に閉じ込めてあるよ。だけど, 屋根に小さい穴があるから,逃げてしまうだろうな。もう逃がしてやっても,いいとおもってるんだがね。」
「 屋根の穴ですって ? そんな所から出たら, 危ないわ。」
「 危ないもんかい。あいつには,翼があるんだから。」
あたしは,きょとんと海女を見つめました。すると,海女は,そっくり返って笑いました。

それから,不意に手招きをして,「こっちへおいで。とっておきの秘密を話してあげるから。」と言ったのです。
あたしは, どぎまぎしながら, ボートのへりに腰掛けました。
すると,海女は, こちらへ,にじりよってきて, あたしの耳に,ぴったり口をつけました。
そして,たった一言, こう言いました。
「あいつは, 鳥なんだよ。」
この一言は,鋭いナイフのようになって, あたしの耳の中で踊りました。
すると海女は,ひどく意地悪な目をして,なおもこんな話をしました。
「実は, 魔法をかけられたカモメなのさ。もう, だいぶ前になるけどね,わたしの小屋に,怪我をしたカモメが迷いこんできた。可愛そうだから,
薬をつけて,包帯を巻いて, 毎日食べ物をやっているうちに,わたしゃ,このカモメが,すっかり気に入ってしまった。
なんだか,息子みたいに可愛くなった。怪我が治っても, ずっと,手元に置きたくなった。ところが,ある日, 海から雌のカモメが一羽やってきて,
毎朝, 窓のところで鳴くんだ。その時, 私は鳥の言葉がわかったんだよ。
雌のカモメが,「海へ行こう, 海へ行こう。」って,
呼び掛けているのが,本当にちゃあんと聞こえたのさ。すると,うちの息子は,治りかけた翼を,パタパタさせて飛び立とうとする。
雌のカモメの歌声は, 日に日に高くなった。いくら追っぱらっても,またやって来る。
私は, 雌のカモメが, ただもう憎らしくてたまらなかった。今のあんたほどにね。」

ここで,海女は,あらい息をして,あたしをにらみました。
それから,低い声で,また続けました。
「そのうち,わたしは,いいことを思いついた。魔法を使ってうちのカモメを,人間に変えてしまうことさ。ほんものの, わたしの息子にしてしまうことさ。

わたしは,箪笥の中に, 赤い海草の実を,二つぶしまっておいた。
昔, 海の底で見つけた, とても珍しいものさ。
わたしは,これに, はっはっと息をかけて,カモメ食べさせた。
すると,その効き目の良さといったら !
一つぶ食べただけで, カモメは, 人間の男の子の姿になった。
わたしは,嬉しくて嬉しくて, 残りの一つぶを,どこかに落として仕舞ったのも気がつかない程だった。立派な息子が出来て, なによりだと思った
これから,海に潜ることも,魚を売ることも教えようと思った。
ところが,どうだろう。ほんの一月もたたない内に, 今度はおまえさんが現れて, また,あいつといっしょに遠くへ行こうとする・・・・。
だから,わたしは,もうあきらめたよ。もう,あいつは,海へ追っ払ってやることに決めたよ。だけどね,」
急に,海女は,声を大きくし,はきすてるように言いました。
「あんたが,一緒に行くことは出来ないよ。あいつは,鳥なんだから。」
けれど,あたしは,怯みませんでした。
「それでもいいのよ!
あの人,今は,ちゃんと人間の姿してるんだから。あたしは,それでいいのよ。」
すると,海女はにんまり笑いました。
「ところが,もうすぐ魔法がとけるんだ。この秘密を,誰か一人でも知ったら,その日のうちに,魔法は解けてしまうんだ。
だから,今日,海に日が落ちるまでに,あいつは鳥に戻ってしまうよ。
もっとも,あんたが,今の話を,ケロリと忘れる事が出来るなら別だけどね。
腕のいい,耳のお医者にでも駆け込んで,大急ぎ,秘密を取り出して貰えるなら,別だけどね。」

<耳のお医者・・・・>
この時,あたしの頭に,先生のことが浮かんだのです。
浜の人が,とても立派なお医者様だって言ってました。

それであたし,走ってきたんです。
ね,あなたなら,簡単でしょ。長いピンセット使えば,すぐできるでしょ。
日が沈んでしまったら,もうおしまいなんです。早くしてください。

「なるほど。」
耳のお医者さんは,うなずきました。
自分を頼って駆け込んで来た,この少女の願いを,是非きいてあげたいと思いました。
「それじゃ,ちょっとみてあげよう。」
お医者さんは,貝殻のような少女の耳の中を,のぞきこみました。
それから<はあん>と,うなずきました。確かに耳に奥に,何かが光っているのです。ちょうど,こぶしの花が一輪咲いているような感じでした。
< あれだな,あれが秘密なんだな。> とお医者さんは思いました。

けれど,それは,あんまり奥でした。
どんなに長いピンセットを使っても,届きそうにありません。
「ねえ,早くして,早く,早く。」
少女は,せきたてます。
その声が,変に頭に響いて,お医者さんは,腕が上手く動かなくなりました。

薬の瓶を取り出したものの,それがなんの薬だったか,分からなくなりました。
<今日は調子が悪いな。疲れてるせいだろうか。>
お医者さんは,頭をふりました。と,急に,少女が,大声をあげたのです。
「あっ,鳥だわ。鳥,鳥。」
「鳥?」 お医者さんは,思わず窓へ目を移しました。
窓の外には,ほんの少しの,細長い夕空が見えるだけでした。
「何言ってるんだ。」
すると少女は,目をつぶって,こう言いました。
「あたしの耳の中よ。ほら,海があるわ。砂浜があるわ。砂の上にカモメになったあの人がいるわ。あの鳥を,早くつかまえなけりゃ。」
お医者さんは,駆け寄って,少女の耳の中をもう一度覗きました。
そして「ほう。」と,大きな声を上げました。

本当なのです。少女の耳の中には,確かに海があるのでした。真っ青な夏の海と,砂浜とが,ちょうど,小人の国の風景のように納まっているのです。
そして,その砂浜の上に,白い花が一輪 ---
いいえ,それは花でなくて,鳥なのでしょうか。
そうカモメが一羽,羽を休めているようにも思える小さいものが,ぽつんと見えるのでした。
お医者さんは, 急に, 頭がくらくらして,目をつぶりました。ほんの,二,三秒。
それから目を開けた時, お医者さんは,なんと,自分がその海岸に,ぽつんと立っていることに気づきました。
一面青い海原。
長い長い海岸線。
そして,ほんの五メ-トルほど先に, カモメが一羽 , 羽を休めていました。

「しめた。」 お医者さんは,両手を伸ばすと, 後ろから,ぬき足差し足近寄りました。
そっと,そっと,・・・・・・。
けれど,ほんの二,三歩近ずいただけで,鳥は, ぱあっと,翼をひろげたのです。
まるで,つぼみの花が開くように。
そして,ついと,飛び立ちました。
「しまった。」 お医者さんは, 追いかけました。
「おおい,待てえ,待てえ。」
お医者さんは,走りました。
ただもう,めちゃくちゃに走りました。
走りながら,お医者さんは,自分が今,少女の耳の中にいることを,なんとなく分かっていました。
ちょうど人間は皆,自分が,地球の上にいることを,分かっていながら,忘れているように。
ともかく,あの二秒ほどの間に,何かがあったのです
お医者さんの体が, 虫のように小さくなるか, 少女の耳が, 途方もなく大きくなるか,それとも, もっと別のなにかが起きたのです。
でも, お医者さんは, そんな事をあれこれ考えていませんでした。
鳥をつかまえることで, 頭はいっぱいでした。
あれをつかまえてもどらなくては, 診療所の名前にかかわるような気がしました。
けれど, カモメはずんずん高く上がっていき, やがてゆらりと海へ出ました。
「あっ, ああ,ああ。」 お医者さんは, 砂の上にぺたんと座って, カモメを見送りました。と,突然, 「ねえ,早くして, 早く, 早く。」という声が, まるで, かみなりにように辺りにひびいたのです。
お医者さんは, 思わず目をつぶりました。ほんの, 二, 三秒。
「どうしてもだめ?」
そんな声がして,お医者さんがはっと目を明けると, 少女がじっと自分を見つめていました。薄暗い診療所でした。
「秘密, 取れませんか」と少女はたずねました
お医者さんは, すっかりどぎまぎしてうなずくと,
「ええ。今, のがしてしまいました。」と,小さな声で答えました。
「今日は, 少し疲れているんでね。」
すると,少女は立ち上がって, とても悲しい顔をして, 「じゃあ,もうだめだわ。」と言いました。
「日が沈んでしまったもの。あの人, 鳥になってしまったわ。」

お医者さんは, うつむきました。何だか, とてもすまない思いでいっぱいでした。
少女は黙って, 帰っていきました。診療室のカーテンがしゃらんとゆれました。
耳のお医者さんは, 大きな溜め息をついて, 自分の椅子にどしんと座りました。

この時です。お医者さんは, 目の前の椅子の上に, 白いものが散らばっているのを見たのです。
「・・・」お医者さんは, それを取り上げて, しげしげとながめました。

羽でした。 それも, カモメの。お医者さんは,驚いて立ち上がりました。
それから,しばらく考えて,
「なるほど。」と, うなずきました。
「教えてやらなきゃいけない! 」
そうさけぶと, お医者さんは, 外へ飛び出しました。夕暮れの道を, いちもくさんに走りました。

あの子は, 知らずにいるんだ。自分も, カモメなんだっていうことを。
たぶんあの時, 海女が落とした赤い実を食べた雌のカモメなんだっていうことを,ちっとも知らずにいるんだ。>

耳のお医者さんは走りました。
少女の耳に中に, もう一つの, 素敵な秘密を入れてあげるために, 一心に, 追い掛けていきました。

短編集「きつねの窓」鳥より

作者 安房 直子 1943 東京都に生まれた。児童文学者。 作品に 「ハンカチの上の花畑」「白いおうむの森」「銀のくじゃく」「きつねの窓」などがある。1993 没


〔現在比較的入手しやすいと思われる作品集〕
「夢の果て」(瑞雲舎、2005年)
収録作品=ほたる/夢の果て/声の森/秋の風鈴/カーネーションの声/ひぐれのひまわり/青い貝/天窓のある家/奥様の耳飾り/誰にも見えないベランダ/木の葉の魚/花の家/ある雪の夜のはなし/小鳥とばら/ふしぎな文房具屋/月の光/星のおはじき

「きつねの窓」(ポプラポケット文庫、2005年)
*ポプラ社文庫1980年版の「きつねの窓」の新装版
収録作品=きつねの窓/さんしょっ子/夢の果て/だれも知らない時間/緑のスキップ/夕日の国/海の雪/もぐらのほった深い井戸/サリーさんの手/鳥

「風と木の歌」(偕成社文庫、2006年)
*1972年、実業之日本社より発行された作品集の文庫版
収録作品=きつねの窓/さんしょっ子/空色のゆりいす/もぐらのほったふかい井戸/鳥/あまつぶさんとやさしい女の子/夕日の国/だれも知らない時間

「白いおうむの森」(偕成社文庫、2006年)
*1973年、筑摩書房より発行された童話集の文庫版
収録作品=雪窓/白いおうむの森/鶴の家/野ばらの帽子/てまり/長い灰色のスカート/野の音

「銀のくじゃく」(筑摩書房、1975年)
収録作品=銀のくじゃく/緑の蝶/熊の火/秋の風鈴/火影の夢/あざみ野/青い糸

「南の島の魔法の話」(講談社文庫、1980年)
収録作品=鳥/ある雪の夜の話/きつねの窓/沼のほとり/さんしょっ子/南の島の魔法の話/青い花/木の葉の魚/夕日の国/きつねの夕食会/もぐらのほったふかい井戸/だれも知らない時間

●重版で入手しやすくなっている作品集
「花のにおう町」(岩崎書店、1983年)
収録作品=小鳥とばら/黄色いスカーフ/花のにおう町/ふしぎな文房具屋/秋の音/ききょうの娘

●「うさぎ屋のひみつ」(岩崎書店、1988年)
収録作品=うさぎ屋のひみつ/春の窓/星のおはじき/サフランの物語

●『春の窓~安房直子ファンタジスタ~』(講談社X文庫ホワイトハート、2008年11月)
収録作品=黄色いスカーフ/あるジャム屋の話/北風のわすれたハンカチ/日暮れの海の物語/だれにも見えないベランダ/小さい金の針/星のおはじき/海からの電話/天窓のある家/海からの贈りもの/春の窓/ゆきひらの話

●「ひぐれのお客」(2010年5月、福音館書店)
収録作品=白いおうむの森/銀のくじゃく/小さい金の針/初雪のふる日/ふしぎなシャベル/ひぐれのお客/(エッセイ)絵本と子どもと私

●「遠い野ばらの村」(2011年、偕成社文庫)
収録作品=遠い野ばらの村/初雪のふる日/ひぐれのお客/海の館のひらめ/ふしぎなシャベル/猫の結婚式/秘密の発電所/野の果ての国/エプロンをかけためんどり

●「風のローラースケート」(2013年、福音館文庫)
収録作品=風のローラースケート/月夜のテーブルかけ/小さなつづら/ふろふき大根のゆうべ/谷間の宿/花びらづくし/よもぎが原の風/てんぐのくれためんこ

●電子書籍発行
「銀のくじゃく」(筑摩書房、2013年9月-紙の本は1975年発行-)
収録作品=銀のくじゃく/緑の蝶/熊の火/秋の風鈴/火影の夢/あざみ野/青い糸
kindle版
http://www.amazon.co.jp/dp/B00F5W0EHC/

「白いおうむの森」(筑摩書房、2013年9月、-紙の本は1973年発行-)
収録作品=雪窓/白いおうむの森/鶴の家/野ばらの帽子/てまり/長い灰色のスカート/野の音
kindle版
http://www.amazon.co.jp/dp/B00FB3FXAS/

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    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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