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一九七〇年、わたしは東京の若い画学生たちと作兵衛さんの絵を大きな壁画にする作業に取組んだ。この学校は当時出版社の現代思潮社が主宰するきわめて尖鋭的な塾のような学校で「美学校」と呼ばれた。左後高さ二米六〇糎、横十八米の大壁画が完成して、おじいさんと二人で東京への珍道中の旅に出た。これがおじいさんの最後の長旅になった。
六〇年代激動の思想界に勇名を馳せた現代思潮社の社主石井恭二氏は、作兵衛さんを一目見て、「薫風立ち匂う第一級の人物なり」と評した。
わたしが作兵衛さんを知ったのは、丁度六〇年代のなかばで、未曾有の高度成長をむかえ、間もなく開かれる万博を前に、美術界はてんやわんやの大騒動の中であった。わたしもその舞台の上で浮かれていた。だが作兵衛さんと出合ったとき、それまでの短絡的な反画壇、反芸術的な運動が、ふっとうつろなものに見えた。それはわたしの表現思想の死角を衝いているように思えた。万博前夜のまぶしい状況を、ここで自らはっきりと閉じた。そして、かつて作兵衛さんが這いまわった坑内の闇にもぐつて、ひたすらわが六〇年代の所業の総轄に着手した。それが作兵衛さんの大規模な壁画作業であり、太平洋戦争時に措かれた戟争画の究明であり、日本の歪曲した近代美術史の淵源を論究した一連の作業であり、百に余るオブジェの制作であった。わたしごときものにしてからがこうである。おじいさんと向い合って一升酒をくみかわしていると、いつの間にか、次第に作兵衛さんの姿が、古剃に端座する導師の姿に化して見えてきていたのはわたしだけではないだろう。
【菊畑茂久馬】
久々に力強い画文集を手にした。「美学校」で見せられて衝撃を受けてから幾星霜。芸術とはまったく無関係な地点より放出された「絵」の可能性には絶句してしまう。
<山本作兵衛炭鉱記録画 ユネスコ世界記憶遺産認定記念上映>「炭鉱に生きる」予告編
http://www.youtube.com/watch?v=k3toDmslunU
反芸術綺談 菊畑 茂久馬 http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-c0a0.html