「なぜボードレールか」松山俊太郎
松山俊太郎「なぜボードレールか、という問題は、自分にとっての問題でもまずあるけれど、他人にとってなぜボードレールかという問題も、いつでもそれと並行してあるわけです。
ところが、ボードレールの場合は、自分にとって大変好きな作家であるということが、他人が好きだというボードレールとは必ずしも重ならないんじゃないか。ボードレールは非常に複雑な作家だから、一人一人が違う形でボードレールを好きになってもいいんじゃないか、ということですね。
ぼくの場合は、ポーが好きだったから、ポーの単なる翻訳者としてだけではなく、ポーの先へとボードレールが延びてきているということがあって、それでまず好きになったわけです。
もともとこっちは一冊の詩集のなかに十か十五好きなものがあればすぐれた詩集に違いないと決める。あとの『パリの憂鬱』とか『赤裸の心』はもうボードレールが好きになっているから良く読めるわけで、批判的に読んでいるわけじゃない。L'Invitation au Voyage にしても、それから髪の詩篇にしても、人間が人間としてある限り、非常に古い頃から持っているテーマで、そういうテーマを扱っているから好きですね。いつでもそこへ戻っていけば、そういうものに触れられるという安心感がひとつあるわけです。そういう意味での古さに惹かれますね。ボードレールは戻ってみたときに揺るがない感じがある。こっちの退嬰的な心と対応するものとしてのボードレールが、非常に懐しいし安心できる。ある意味で、ボードレールは西洋の詩の古さを代表した、なんというか、フランス文学じゃなくて、むしろラテン文学といいたいような系譜の、いっとう終りの頽廃する寸前の一番輝かしくて、同時にいっとう最後だから、ぼくらにも身近な詩人なんじゃないか、と思う。」
『ボードレールの世界』青土社「共同討議・なぜボードレールか」より
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