武田泰淳氏の「才子佳人」について 三島由紀夫
武田泰淳氏の「才子佳人」について 三島由紀夫
これは物語の由来記である。物語といふ人工の運命が編み出されるのは、人々か執拗な運命の履行に飽きる時だ。人々はいつも自分たちと並行し、やヽ離れて、はげしい純粋な哀歓か貪歓それ自身の力で生きてゐる領域を夢みてゐる。才子佳人はそこに住む一族だ。彼らはありもしない典型といふ幻に追跡される。彼らは「……であるかのやうに」生きることを強ひられる。運命の履行に飽いた人々によって才子佳人の運命の履行か妨げられるといふ、一種暗示的な悲劇である。
勇気ある雙卿は叛逆するのだが、人々はその主張を歌かと聞き、物語作者はそれを夢の場面の如く装ふ。彼女は却って、更に一つの物語の中に瓜なにとぢこもる他はないのだ。かうして強ひられてゐたものが生々と虚しい残光を放ちはじめる。あたかも典型か生き、動きだしたかのやうに。
「才子佳人」は介妙に複雑な小説だ。この小説は三重の額縁をもつ。読八をはると自分のまわりにまだ一つ、読みのこした額縁が感じられる。物語作者は一体史震林なのか。否、実は双卿なのか。かういふ人工と自然との鷹揚な馴れ合ひには一方しづかな諦念かくすんで来て、双卿か死なずに突如として転華夫人の死ぬすぐれた結末に到達してゐる。
「才子佳人」の作者はディレッタンディズムを気にしてゐない。作品の構成は転華夫人登場の前後からゆるみ出すか、物語に入ってゆくのに読者に恰かも自分か物語をつくってゆくやうな感興を覚えさせる巧みな曰頭の二、三頁の優婉嫺雅な趣や、きはめて乱れない礼節に満ちた筆致は、今は喪はれた住人の剛彫を見るやうに、輓近の小説をよみなれた目には感じられた。
(三島由紀夫「人間」昭和21年10月)
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