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    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。
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2021年6月30日 (水)

『古畑任三郎傑作選』全十話放送

田村正和さん主演した名作ドラマ『古畑任三郎傑作選』をフジテレビ放送する。

10エピソードで放送日は75日~9日、16日、19日、21日、23日、27日~30日、84日・5日<メディアミックスα>枠(月~金 後245~ ※関東ローカル)


■75日(月)・6日(火) 『古畑任三郎』第2シリーズ「しゃべりすぎた男」前編・後編(1話/1996年1月10日放送)ゲスト:明石家さんま

■77日(水)・8日(木)・9日(金) 『新春ドラマスペシャル 古畑任三郎ファイナル』「今、甦る死」前編・中編・後編(200613日放送)ゲスト:石坂浩二・藤原竜也

■716日(金) 『警部補・古畑任三郎』第1シリーズ「さよなら、DJ」(11話/1994622日放送)ゲスト:桃井かおり

■719日(月) 『古畑任三郎』第2シリーズ「笑わない女」(2話/1996年1月17日放送)ゲスト:沢口靖子

■721日(水) 『古畑任三郎』第2シリーズ「赤か、青か」(4話/1996131日放送)ゲスト:木村拓哉

■723日(金・祝) 『古畑任三郎』第3シリーズ「忙しすぎる殺人者」(2話/1999420日放送)ゲスト:真田広之

■727日(火)・28日(水) 『ドラマスペシャル 古畑任三郎』「しばしのお別れ」前編・後編(11話/1996327日放送)ゲスト:山口智子

■729日(木) 『古畑任三郎』第3シリーズ「完全すぎた殺人」(8話/1999年6月1日放送)ゲスト:福山雅治

■730日(金) 『古畑任三郎』第3シリーズ「雲の中の死」(9話/199968日放送)ゲスト:玉置浩二

■84日(水)・5日(木) 『古畑任三郎』第3シリーズ「最後の事件」前編・後編(10話/1999615日放送、11話/1999622日放送)ゲスト:江口洋介

2021年6月28日 (月)

「ラジオ・モンタージュ」寺田寅彦

「ラジオ・モンタージュ」寺田寅彦


 プドーフキンやエイゼンシュテインらの映画の芸術的価値が世界的に認められると同時に彼らのいわゆるモンタージュの理論がだいぶ持てはやされ、日本でもある方面ではこのモンタージュということが一種のはやり言葉になったかのように見える。この言葉の意味については本家本元の二人の間にも異論があるそうであって、これについては近ごろの読売新聞紙上で八住利雄やすみとしお氏が紹介されたこともある。

 このモンタージュなるものは西洋人にとってはたしかに非常な発見であったに相違ない。そうしてこれに対する解説を近代的な言葉で発展させればいろいろむつかしくも言えるようであるが、しかしわれわれ日本の旧思想の持ち主の目から見れば実質的にはいっこう珍しくもなんともないことのように思われてしかたがない。つまり日本人がとくの昔から、別にむつかしい理論も何もなしにやっていた筆法を映画の上に応用しているようにしか思われないのである。

 たとえば昔からある絵巻物というものが今の映画、しかもいわゆるモンタージュ映画の先駆のようにも見られる。またいわゆる俳諧連句はいかいれんくと称するものが、このモンタージュの芸術を極度に進歩させたものであるとも考えられるのである。そうしてまたこのモンテーという言葉自身が暗示するように、たとえば日本の生花の芸術やまた造庭の芸術でも、やはりいろいろのものを取り合わせ、付け合わせ、モンタージュを行なって、そうしてそこに新しい世界を創造するのであって、その芸術の技法には相生相剋そうこくの配合も、テーゼ、アンチテーゼの総合ももちろん暗黙の間に了解されているが、ただそれがなんら哲学的な術語で記述されてはいないのである。

 ところがおもしろいことには、日本でエイゼンシュテインが神様のように持てはやされている最中に、当のエイゼンシュテイン自身が、日本の伝統的文化は皆モンタージュ的であるが、ただ日本映画だけがそうでないと言ったという話が伝えられて来た。彼は日本の文字がそうであり、短歌俳諧はいかいがそうであり、浮世絵がそうであると言い、また彼の生まれて初めて見たカブキで左団次さだんじや松蔦しょうちょうのする芝居を見て、その演技のモンタージュ的なのに驚いたという話である。これは近ごろ来朝したエシオピアの大使が、ライオンを見て珍しがらずに、金魚を見て驚いた話ともどこか似たところのある話である。また日本の浮世絵芸術が外国人に発見されて後に本国でも認められるようになった話ともやはり似ていて、はなはだ心細い次第である。

 それはとにかくモンタージュ芸術技法は使用するメディアムが何であっても可能である。たとえば食物でも巧みに取り合わせられた料理は一種のモンタージュ芸術と言われなくもない。そうだとすれば、ラジオによる音響放送の素材の適当なる取り合わせ、配列によって一種の芸術的モンタージュ放送を創作することが充分可能なわけであろう。

 もっとも、従来行なわれたラジオドラマふうのものの中には、やや前記のモンタージュに類する要素をいくぶんか備えたと思われるものもあるかもしれない。それはその創作者にそういうはっきりした意図はなかったにしろ、自然にそれと同様の効果をねらったものがあったかもしれない。しかし、もしこういう明白な意識を設定した上でその創作をするとすれば、かなり新しくておもしろい試みがいくらも行なわれうるのではないかと思われるのである。

 ただ一つラジオの場合に他の場合と区別しなければならない本質的の相違のある点は、ラジオはだいたい現在の瞬間にある場所で発している音楽をほとんど同時に他の場所に放送しているというところにある。それゆえに、いろいろな時にいろいろな場所で進行した音響的シーンを勝手な順序や間隔をもってモンタージュ的に配置することができないように見える。しかしこれには蓄音機というものがあって、その盤がちょうど映画のフィルムのごとく記録的に保存されうるのであるから、これを使えばかなりいろいろの勝手な技法を活用することができてもいいわけである。

 そう言えば、全部をレコードにして編集し、その編集の結果をまた一つづきのレコードとしてしまえば、結局ラジオの必要はなくなるのではないかという議論が持ち出されるであろう。それはある意味では実際そうであるが、しかし必ずしもそうばかりではない。第一に、蓄音機の存在にかかわらず音楽放送が行なわれている事実がこれに対する一つの答弁であるが、そればかりではない、もっと重要なことがある。現在同刻に他所で起こりつつある出来事の音響効果の同時放送中に、過去における別の場所の音的シーンを適当に插入そうにゅうあるいはオーヴァーラップさせ、あるいはまたフェード・イン、フェード・アウトさせることによって、現在のシーンの効果を支配し調節するということができるとすれば、それは蓄音機だけの場合にては決して有り得ない一つの現象を出現させることになるからである。

 たとえば満州まんしゅうにおける戦況の経過に関して軍務当局者の講演がある場合に、もし戦地における実際の音的シーンのレコードを適当に插入することができれば、聴衆の実感ははなはだしく強調されるであろう。また少し極端な例を仮想してみるとすれば、たとえばフランスでナポレオンの記念祭に大統領が演説したりする際に、もしも本物のナポレオンの声や、ウォータールーの砲声や、セントヘレナの波の音のレコードが(そういうものがあったとして、それが保存されていたとして)適当に插入そうにゅうされたとしたら、それは実に不思議な印象を与えるであろう。それほどでなくても、たとえば議院新築落成式の日に、過去の議会におけるいろいろな故人の演説の断片を聞くことができても多少の感慨はあるであろう。

 もしも、レコードと現場の放送との継ぎ目を自由に、ちょうどフィルムをつなぐようにつなぐことができれば、すでに故人となった名優と現に生きている名優とせりふのやり取りをさせることもできるであろう。九代目X十郎と十一代目X十郎との勧進帳かんじんちょうを聞く事も可能であり、同じY五郎の、若い時と晩年との二役を対峙たいじさせることも不可能ではなくなる。

 もしまた、いろいろな自然の雑音を忠実に記録し放送することができる日が来れば、ほんとうに芸術的な音的モンタージュが編成されうるであろうが、現在のような不完全な機械で、擬音のほうがかえって実際に近く聞こえるような状態では到底理想的なものはできないであろう。しかし、こういう機械的の欠点はだんだんに除去されるであろうから、いつかはここで想像されたような音響のモンタージュによる立派な詩や絵のようなものが創作されて一般の鑑賞を受ける日が来るであろうと思われる。

 こういうものができるようになった場合に、その「音画」のシナリオはどんなものが可能であろうか。これには実に格好な典型的なものがすでに元禄げんろく時代にできているように私には思われる。それは芭蕉ばしょうとその門下の共同制作になる連句である。その多数な「歌仙かせん」や「百韻ひゃくいん」のいかなる部分を取って来ても、そこにこの「放送音画」のシナリオを発見することができるであろう。もちろんこれらの連句はさらにより多く発声映画のシナリオとして適切なものであるが、しかし適当に使えばここにいわゆるモンタージュ的放送の台本としてもまた立派に役立つものと思われる。

 以上はただ、放送事業の実際にうとい一学究のはなはだしい空想に過ぎないのであるが、未来の放送に関する可能性についての一つの暗示として、思うままをしるしてみた次第である。

(昭和六年十二月、日本放送協会調査時報)


底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 

1948(昭和23)年5月15日第1刷発行

2021年6月27日 (日)

『有頂天家族2』再放送

『有頂天家族2』BS再放送

71日(木)深夜2:30~放送開始>

京の町を舞台に、人と狸と天狗の思惑が渦巻く毛玉絵巻第二集、ついに開幕!

京都・下鴨神社、糺ノ森に暮らす下鴨家。狸界の頭領であった今は亡き父・総一郎の血を継ぐ四兄弟たちは、タカラヅカ命の母を囲んでそれなりに楽しく暮らしていた。

総一郎の「阿呆の血」を色濃く継いだ三男・矢三郎を中心に起こった狂乱の一夜。次期「偽右衛門」選出も、叔父・夷川早雲の策略も、そして「金曜倶楽部」との一幕も、すべてが一陣の風と共に京の夜空に飛び去ったあの日から季節は流れ、洛中に心地よい香が溢れる若葉の候。毛玉たちは尻の冷えを気にもせず、うごうごと動き出す。

天狗に拐かされ神通力を得た人間の美女・弁天は京を離れ、愛弟子である弁天に恋焦がれる隠居中の大天狗・赤玉先生こと如意ヶ嶽薬師坊は、寂しさと不機嫌を撒き散らしながら相変わらずボロアパートの万年床で、赤玉ポートワインを啜る日々を送っていた。

そんな折、赤玉先生の息子であり、壮絶なる親子喧嘩の末、敗北し姿を消した二代目が英国紳士となって百年ぶりに帰朝を果たす。

大驚失色。驚天動地。吃驚仰天。天狗界、そして狸界を揺るがす大ニュースは瞬く間に洛中洛外へと広がった。

【出演者】

矢三郎:櫻井孝宏

矢一郎:諏訪部順一

矢二郎:吉野裕行

矢四郎:中原麻衣

弁天:能登麻美子

母(桃仙):井上喜久子

赤玉先生:梅津秀行

金閣:西地修哉

銀閣:畠山航輔

海星:佐倉綾音

淀川教授:樋口武彦

二代目:間島淳司

玉瀾:日笠陽子

呉一郎:中村悠一

天満屋:島田敏


【スタッフ】

原作:森見登美彦『有頂天家族 二代目の帰朝』(幻冬舎)

キャラクター原案:久米田康治

監督:吉原正行

シリーズ構成:檜垣亮

キャラクターデザイン・総作画監督:川面恒介

美術監督:竹田悠介、岡本春美

撮影監督:並木智

色彩設計:井上佳津枝

3D 監督:小川耕平

編集:高橋歩

音響監督:明田川仁

音楽:藤澤慶昌

オープニング主題歌アーティスト:milktub

エンディング主題歌アーティスト:fhána

音楽制作:ランティス

アニメーション制作:P.A.WORKS

製作:「有頂天家族2」製作委員会

2021年6月25日 (金)

6月のフルムーン🌕

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此方を見ております。

2021年6月24日 (木)

「蒸発皿」寺田寅彦

「蒸発皿」寺田寅彦


   一 亀井戸まで


 久しぶりで上京した友人と東京会館で晩餐ばんさんをとりながら愉快な一夕を過ごした。向こうの食卓には、どうやら見合いらしい老若男女の一団がいた。きょうは日がよいと見える。近ごろの見合いでは、たいてい婿殿のほうがかえって少しきまりが悪そうで、嫁様のほうが堂々としている。卓上の花瓶かびんに生けた紫色のスウィートピーが美しく見えた。

 会館前で友人と別れて、人通りの少ない仲通りを歩いていると、向こうから子供をおぶった男が来かかって、「ちょっと伺いますが亀井戸かめいどへはどう行ったらいいでしょう。……玉たまの井いという所へ行くのですが」と言う。「それなら、あしこから電車に乗って車掌によく教えてもらったほうがいいでしょう、」というと「いや、歩いて行くのです」とせき込んだ口調で言うのである。「それはたいへんだが、……それならとにかく向こうの濠端ほりばたを右へまっすぐに神田橋かんだばしまで行って、そのへんでまたもう一ぺんよく聞いたほうがいいでしょう」と言って別れた。

 かなり夜風が寒い晩だのに、男は羽織も着ず帽もなしで、いかにも身すぼらしいふうをしていた。三十格好と思われる病身そうな青白い顔に、あごひげをまばらにはやしているのが夜目にもわかった。そうしてその熱病患者に特有なような目つきが何かしら押え難い心の興奮を物語っているように見えた。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てたような格好でぐったりとして眠っていた。雨も降らぬのに足駄あしだをはいている、その足音が人通りのまれな舗道に高く寒そうに響いて行くのであった。

 しばらく行き過ぎてから、あれは電車切符をやればよかったと気がついた。引っ返して追い駆けてやったら、とは思いながら自分の両足はやはり惰性的に歩行を続けて行った。

 女房にでも逃げられた不幸な肺病患者を想像してみた。それが人づてに、その不貞の妻が玉たまの井いへんにいると聞いて、今それを捜しに出かけるのだと仮定してみる。帽子も羽織も質に入れたくらいなら電車賃がないという事も可能である。あの男の顔つき目つきはこの仮説を支持するに充分なもののように思われた。そうだとすれば実にかわいそうな父子おやこである。円タクでも呼んで乗せて送ってやってもしかるべきであったという気がした。

 しかし、また考えてみると、近ごろ新聞などでよく、電車切符を人からねだっては他の人に売りつける商売があるという記事を見ることがある。この男は別に切符をくれともなんとも言いはしなかったが、しかし、あの咄嗟とっさの場合に、自分が、もう少し血のめぐりの早い人間であったら、何も考えないで即座に電車切符をやらないではおかないであったろうと思われるほどに実に気の毒な思いをそそる何物かがあの父子の身辺につきまとっていたではないか。

 しかし、また考えてみると、切符をくれと言わずに切符をもらうという巧妙な手段を考えてそれを遂行するとすれば、だれが見てもいかにも切符をやりたくなるというだけの何物かを用意しなければならぬのは明らかなことである。それには寒空に無帽の着流し、足駄ばき、あごの不精ひげに背の子等は必要で有効な道具立てでなければならない。

 そう考えて来ると、第一この男が丸まるの内うち仲通なかどおりを歩いていて、しかもそこで亀井戸かめいどへの道を聞くということが少し解しにくいことに思われて来る。こういう男がこの界隈かいわいのビルディング街の住民であろうとは思われない。いずれ芝しばか麻布あざぶへんから来たものとすれば、たとえば日比谷ひびやへんで多数の人のいる所で道を聞いてもよさそうなものである。それがこのさびしい夜の仲通りを、しかも東から西へ向かって歩きながら、たまたま出会った自分に亀井戸かめいどへの道を聞くのは少しおかしいようにも思われる。

 そうは言うものの、やはり初めの仮説に基づいてもう一ぺん考え直してみると、異常な興奮に駆られ家を飛び出した男が、夜風に吹かれて少し気が静まると同時に、自分の身すぼらしい風体ふうていに気がついておのずから人目を避けるような心持ちになり、また一方では内心の苦悩の圧迫に追われて自然に暗い静かな所を求めるような心持ちから、平生通ったこともないこの区域に入り込んだと仮定する。見慣れぬビルディング街の夜の催眠術にかかって、いつのまにか方角がわからなくなってしまう、ということは、きわめて有りそうなことである。それが、たださえ暗い胸の闇路やみじを夢のようにたどっている人間だとすれば、これはむしろ当然すぎるほど当然なことである。それで急に道を失ったと気がついて、はっとした時に、ちょうど来かかった人にいきなり道を聞くのになんの不思議もないことである。

 しかし、こんなことを考えている元のおこりはと言えば、ただかの男が自分に亀井戸への道を聞いたというきわめて簡単なただそれだけの事実に過ぎない。たったそれだけの実証的与件では何事も実証的に推論できるはずはない。小説はできても実話はできないのである。

 こんなことを考えながら歩いているうちに、いつのまにか数寄屋橋すきやばしに出た。明るい銀座ぎんざの灯ひが暗い空想を消散させた。

 紫色のスウィートピーを囲んだ見合いらしいはなやかな晩餐ばんさんの一団と、亀井戸かめいどへの道を聞いた寒そうな父子おやことの偶然な対照的な取り合わせが、こんな空想を生む機縁になったのかもしれない。丸まるの内うちの夜霧がさらにその空想を助長したのでもあろう。

 それにしても、あれはやはり電車切符ぐらいをやったほうがよかったような気がする。もしだまされるならだまされても少しも惜しくはなかったであろう。そんな芝居をしてまでも、たった一枚の切符を詐取しなければならない人がかりにあるとすれば、それほどに不幸な哀れな人がそうざらにたくさんこの世にあるであろうとは思われない。これに反して、こんな些細ささいな事実を元にしてこんな無用な空想をたくましゅうしていられるような果報な人間もいるのである。やはり切符をやればよかったのである。



   二 エレベーター


 百貨店のひどく込み合う時刻に、第一階の昇降機入り口におおぜい詰めかけて待っている。昇降箱が到着して扉とびらが開くと先を争って押し合いへし合いながら乗り込む。そうしてそれが二階へ来ると、もうさっさと出てしまう人が時々ある。出るときにはやはりすしづめの人々を押し分けて出なければならないのである。わずかに一階を上がるだけならば、何もわざわざ満員の昇降機によらなくても、各自持ち合わせの二本の足で上がったらよさそうにも思われる。自分の窮屈は自分で我慢すればそれでいいとしても、他の乗客の窮屈さに少しでも貢献することを遠慮したほうがよさそうにも思われる。

 それほど満員でない時に、たとえば三階四階間の上下にわざわざ昇降機を呼び止めて利用する人もある。この場合には自分のわずかな時間と労力の節約のために他の同乗者のおのおのから数十秒ずつの時間を強要し消費することになるのである。これも遠慮したほうがよさそうに思われる。

 しかし、昇降機のほうから言えば何階で止まるも止まらぬのもたいした動力のちがいはないであろうし、それが違ったところで百貨店の損益にも電力会社の経営にも格別重大な影響を及ぼす気づかいはないであろう。また運転嬢の労力にしたところで二階で出る人のために扉とびらを開閉するのも二階ではいる人のために扉を開閉するのも同じであるからこれも別に問題にはならない。

 同乗客の側から言っても、他の便利のために少しの窮屈や時間の消費を我慢するくらいなことは当然な相互扶助の義務であろうから、なんの遠慮もいらないわけである。押し込まれるだけ押し込んでただ一階でも半階でも好きな所で乗って好きな所でおりればいいのである。また押し合いへし合うことのきらいな人間は遠慮なく昇降機を割愛して階段を昇降すればよい。それで問題はないのである。

 ただ問題になるのはこの昇降機というもののメンタルテストの前に人間が二色に区別されることである。

 何事でも人の寄る所へは押し寄せて行って群集を押し分けて先を争わないと気の済まない人と、そういう所はなるべく避けて少々の便宜は犠牲にしても人をわずらわさず人にわずらわされない自由の境地を愛する人とがある。この甲型の人の目から見ると乙型の人間は消極的退嬰的たいえいてきな利己主義者に見える。しかし乙はその自由のためにかえって甲の先をくぐって積極的に進出する事もあるし、自分の自由を尊重すると同時に人の自由を尊重するという意味では利他的である。反対に乙型の人間から見れば甲型の人々は積極的なようではあるが、また無用な勢力の浪費者であり、人の迷惑を顧みない我利我利亡者がりがりもうじゃのように見える。しかし甲はまたある場合に臨んで利害を打算せず自他の区別を立てないためにたのもしくあたたかい人間味の持ち主であることもありうるであろう。それはとにかくこの二つの型が満員昇降機のテストによってふるい分けられるように見えるところに興味がある。

 それとはまた別のことであるが昇降機の二つ三つ並んでいる前に立って、扉とびらの上にあるダイアルに示された各機の時々刻々の位置の分布を注意して見ていると一つの顕著な事実に気がつく。それは、多くの場合に二つか三つの昇降機がほとんど並んで相あい角逐かくちくしながら動いている場合が多いということである。理想的には、たとえば三つの内の一つが一階にいるときに他の二つはそれぞれ八階と四階のへんにいるほうがよさそうに思われる。換言すれば週期的運動の位相がほぼ等分にちがっているほうが乗客の待ち合わせる時間を均等にし従って乗客の数を均等に分布する点で便利であろうと思われる。しかし実際には三つがほぼ同時に同じ階を同じ方向に通過する場合が多いように思われる。もっともそういう場合だけに注意を引かれ、そうでない場合は特に注意しないために、匆卒そうそつな結論をしてはいけないと思って、ある日試みに某百貨店で半時間ぐらい実地の観測を行なってみた。観測の方法は、鉛筆と手帳をもって、数秒ごとに四つの昇降機のダイアルの示す数字を書き取るだけである。この観測の結果を調べた結果はやはり実際に予想どおりの傾向を示している。

 こういう現象の起こる原因は割合に簡単であって、ちょうど電車が幾台もつながってあるくようになるのとほぼ同様な原因によるらしい。すなわち、偶然二つが接近して同方向に動くようになるとそれからは、いつでも先へ立つほうが乗客の多いために時間をとってあとのを待ち合わせるような結果になるからである。これも結局は、多くの人間がただ眼前のことだけを見てその一つ先に来るものを見ようとしないことを示す一例に過ぎないであろう。これと似たことが人生行路にもありはしないかと思う。

 それはとにかく、先を争うて押し合う心理も昇降機の場合にはたいした恐ろしい結果は生じない。定員人数の制限を守りさえすれば墜落の恐れはめったにない。しかしこの同じ心理が恐るべき惨害をかもす直接原因となりうるのは劇場や百貨店などの火事の場合である。その場合に前述の甲型の人間が多いと、階段や非常口が一時に押し寄せる人波のために閉塞へいそくして、大量的殺人現象が発生するのである。

 しかし、また一方、この同じ心理がたとえば戦時における祖国愛と敵愾心てきがいしんとによって善導されればそれによって国難を救い戦勝の栄冠を獲得せしめることにもなるであろう。

 しかしまた、同じような考え方からすれば、結局ナポレオンも、レーニンも、ムソリニも、ヒトラーも、やはり一種のエレベーターのようなものかもしれないのである。 


     

  三 げじげじとしらみ


 父は満五十歳で官職を辞して郷里に退隠した。自分の九歳の春であったと思う。その九歳の自分が「おとうさんはげじげじだよ、げじげじだよ」と言って出入りの人々をつかまえては得意らしく宣伝したものだそうである。当時の陸軍では非職のことを「げじげじ」という俗称が行なわれていた。「非」の字の形がげじげじの形態と似通にかよっているためである。その当時だれかから聞きかじったこのげじげじという名称が、子供心になんとなく強く深い印象を与えたものと思われる。

 中六番町なかろくばんちょうの家を引き払おうという二三日ぐらい前の夜半に盗賊がはいって、玄関わきの書生部屋しょせいべやの格子窓こうしまどを切り破って侵入した。ちょうど引っ越し前であったから一つ所に取りまとめてあった現金や貴重品をそっくりそのままきれいにさらって行った。かなり勝手を知った盗賊であろうという事であったが、結局犯人は見いだされなかった。この、姿を見せないで大きな結果だけを残して行った「盗賊」と、形は見えないがわが家の生活に大きな変化をもたらした「げじげじ」とが幼時の記憶の中で親密に握手をしている。

 家を引き払ってからしばらくの間、鍛冶橋外かじばしそとの「あけぼの」という旅館に泊まっていた。現在鍛冶橋ホテルというのがあるが、ほぼあれと同位置にあったと思われる。

「あけぼの」の二階の窓から見おろすと、橋のたもとがすぐ目の下にあった。そこに乞食こじきが一人、いつ見ても同じ所で陽春の日光に浴しながらしらみをとっていた。言葉どおりにぼろぼろの着物をきて、頬ほおかぶりをした手ぬぐいの穴から一束の蓬髪ほうはつが飛び出していたように思う。

 しらみを取っているのだということはもちろんはじめは知らなかった。だれかから教わって始めて覚えたことである。きたない着物を引っぱっては何かしら指の先でつまみ取り、そうして口へ運んではかみつぶしている光景が、ひどく珍しく不思議なものに思われた。それがいつのぞいて見ても根気よく同じことを繰り返しているのである。ほかには何もすることがなくて、ただしらみを取るだけがこの男の一日じゅうの仕事であるかのように思われた。

 このしらみ取りの光景がよほど気に入ったものと見える。当時自分のいたずら書きをした手帳が近年まで郷里の家に保存されていたが、その手帳にこの鍛冶橋外かじばしそとの乞食こじきがしらみを取っている絵がいくつとなくかいてあった。この稚拙なグロテスクのスケッチはけだし傑作であったと思う。その当時まだしらみの実物を手にしたことはなかったはずであるが、しかしその絵にはこの虫がだいたい紡錘形をした体躯たいくの両側に数本の足の並んだものとして、写実的にはとにかく、少なくも概念的に正しく描かれているのである。

 いよいよ東京を立って横浜よこはままでは汽車で行ったが、当時それから西はもう鉄道はなかったので、汽船で神戸こうべまで行くか人力じんりきで京都まで行くほかはなかった。われわれの家族は東海道見物かたがた人力のほうを選んで長い陸路の旅をつづけたのであった。第一夜は小田原おだわらの「本陣」で泊まったが、その夜の宿の浴場で九歳の子供の自分に驚異の目をみはらせるようなグロテスクな現象に出くわした。それは、全身にいろいろの刺青いれずみを施した数名の壮漢が大きな浴室の中に言葉どおりに異彩を放っていたという生来初めて見た光景に遭遇したのであった。いわゆる倶梨伽羅紋々くりからもんもんふうのものもあったが、そのほかにまたたとえば天狗てんぐの面やおかめの面やさいころや、それから最も怪奇をきわめたのはシヴァ神の象徴たるリンガのはなはだしく誇張された描写であった。

 げじげじから泥坊どろぼう、泥坊からしらみを取って食う鍛冶橋見付の乞食、それから小田原の倶梨伽羅紋々と、自分の幼時の「グロテスク教育」はこういう順序で進捗しんちょくして行ったのであった。この教程は今考えてみると偶然とは言いながら実によくできていたと思う。この教程の内容を今ここで分析するとすれば、おそらく数十枚の原稿紙を要するであろう。

 それはとにかく、子供の時代に受けたいろいろの有益な「美的教育」のかたわらにこうした「グロテスク教育」もあったということは、つい近ごろまで意識しないでいたことである。それを意識した今日から翻ってよくよく考えてみると、こういう一見はなはだいかがわしいグロテスク教育も、美的教育と相並んで、少なくも自分の場合においてはかなり大切なものであったように思われて来るのである。

 子供を育てる親たちの参考になれば幸いである。


     

  四 宇宙線


 理化学が進めば世の中に不思議はなくなるであろうと言う人がある。しかし科学が進めばかえって今まで知られなかった新しい不思議なものも出て来るのである。現在物理学者の問題となっている宇宙線などもその一例である。

 宇宙のどこの果てからとも知れず、肉眼にも顕微鏡にも見えない微粒子のようなものが飛んで来て、それが地球上のあらゆるものを射撃し貫通しているのに、われわれ愚かなる人間は近ごろまでそういうものの存在を夢にも知らないでいたのである。その存在を認める唯一の手段としては、この放射線のために空気その他のガスの分子が衝撃されて電離し、そのためにそのガスの電導度にわずかながら影響し、従って特別な装置の鋭敏な電気計に感ずるという、そういう一種特別の作用を利用するほかはない。もっとも地上に存する放射性物質から発射されるいろいろの放射線もやはりこれと同様な性質をもっているのではあるが、それらのものが物質を貫通する能力に比べて比較にならぬくらい強大な貫通能力を宇宙線が享有しているために、地上の諸放射線とはおのずから区別されるのである。すなわち、数尺の鉛板あるいは百尺の水層を貫徹して後にも、なお機械に感じるのであるから、ビルディングの中の金庫の中にだいじにしまってある品物でもこの天外から飛来する弾丸の射撃を免れることはできないわけである。従ってわれわれのだいじな五体も不断にこの弾丸のために縦横無尽に射通されつつあるのは事実で、しかも一平方センチメートルごとに大約毎分一個ぐらいの割合であるから、たとえば頭蓋骨ずがいこつだけでも毎分二三百発、一昼夜にすれば数十万発の微小な弾丸で射通されている。それだのに、おかしいことには、われわれはそんなことは全く夢にも知らずに平気ですましていられるのである。針一本でも突き刺されば助からぬ脳髄を、これだけの弾丸が貫通して平気でいられるのは、その弾丸が微小であるためというよりはむしろあまりに貫通力が絶大であるためであるとも考えられる。

 それはとにかく、こういう弾丸が脳を貫通していて、それが絶対になんらの影響をも人間に与えないかという疑問に対しては現代の科学では遺憾ながら確定的な返答ができない。従ってそれがなんらの影響もないと断言する根拠ももちろんないのである。

 宇宙線が脳を通過する間に脳を組成するいろいろな複雑な炭素化合物の分子あるいは原子の若干のものに擾乱じょうらんを与えてそれを電離しあるいは破壊するのは当然の事であるが、その電離または破壊が脳の精神機能の中枢としての作用になんらかの影響を及ぼすことがあるかもしれないと想像することは、決して科学的に全く不合理のことではないように思われる。

 脳髄の中にある原子の数はたぶん十の二十何乗という莫大ばくだいな数であろう。その中の二つ三つがどうにかなったとしてもたいした事はなさそうにも思われるが、しかしまた脳髄によって営まれていると考えられる精神現象の複雑さは想像のできないほど多様なものである。たとえば、一万種の語彙ごいがあるとしてその中からたった七語の錯列パーミュテーションを作るとすると約十の二十八乗だけの組み合わせができるが、われわれの脳髄はきわめて楽にその組み合わせのおのおのの区別を判別する能力をもっている。それどころか、昔でさえもたとえば論語を全部暗唱する人は珍しくなかった。それだけのきわめて卑近な簡単な一例から考えても、人間の脳の機能に関係する原子分子の一つ一つの役目が、それほど閑散な、あってもなくても済むようなものではないであろうということが想像される。そうだとすると、約二三百の宇宙線が、ある一時間に、ある人の脳髄の中にいかなる弾道を描いたかが、その脳の持ち主に何がしかの影響を及ぼすことになってもよさそうに思われて来る。たとえば「紅茶にしようか、コーヒーにしようか」というような場合に、「そのどっちか」にきめさせるという程度の影響がないとも限らない。

 ある一つのスペルマトゾーンの運動径路がきわめてわずか右するか左するかでナポレオンが生まれるか生まれぬかが決定し、従って欧州の歴史が決定したと言った人があるが、ある人間のある瞬間に宇宙線が脳のどの部分をどう通過するかによって、その人の一生の運命が決定することもありはしないか。

 人間の自由意志と称するものは、有限少数な要素の決定的古典的な物理的機巧では説明される見込みのないものであるが、非常に多数な要素から成り立つ統計的偶然的体系によって説明される可能性はあるであろう。そういう説明が可能となった暁には、この宇宙線のごときもその自由意志の物理的機巧の一つの重要な役目をもつものとして幅をきかすようにならないとも限らない。

 のどかな春日の縁側に猫ねこが二匹並んですわっている。庭の木々のこずえには小鳥の影がちらちらする。二匹の猫があちらこちらに首を曲げたり耳を動かしたりするのが、まるで申し合わせたようにほとんど同時に同一の挙動をする。ちょうど時計じかけで拍子を合わせた二つの器械のように見える。それが、どうかした拍子で、ふいと二つの猫ねこの個性だか自由意志だかが現われて二つがちがった挙動をするようになる。これは二つの猫の位置のわずかな差のために生ずる些細ささいな音や光の刺激の差でも説明されるかもしれないが、しかしまた猫の「自由意志」にも支配されると考えられよう。その自由意志が秋毫しゅうごうも宇宙線に影響されないとは保証できないような気がする。

 以上は言わばたわいもない春宵しゅんしょうの空想に過ぎないのであるが、しかし、ともかくもわれわれが金城鉄壁と頼みにしている頭蓋骨ずがいこつを日常不断に貫通する弾丸があって、しかもほんの近ごろまではだれ一人夢にもそれを知らずにいたというだけは確かな事実なのである。しかもその弾丸の本性はまだだれにもわからないのである。

 科学はやはり不思議を殺すものでなくて、不思議を生み出すものである。


(昭和八年六月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店 

1948(昭和23)年515日第1刷発行

2021年6月23日 (水)

夏至の夜明け

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夏至の夜明けから、

今年は6月22日ですね。

2021年6月22日 (火)

天声人語 ファイアマン出動

天声人語 ファイアマン出動               20190622()

 英語でファイアマンは消防士だが、SF作家ブラッドベリの『華氏451度』に出てくるファイアマンたちは、本を焼き払うのが仕事だ。読書してあれこれ考えるのは有害無益だと、本の所有が禁じられた未来社会である

本を隠している家に踏み込み、火炎放射器を向ける。任務を遂行しながら、彼らは考えてしまうことがある。本にはいったい何が書いてあるのだろう? その一人が何冊かをひそかに持ち帰ったことで物語が動き出す

話は、金融庁審議会の報告書である。麻生財務・金融相が受け取りを拒否し、なかったことにした。完全な焼却処分はできなかったようで、ネットで検索すると原案が見つかる。拍子抜けする内容だ

年金水準の低下が「中長期的に見込まれる」と書かれたのが問題にされたが、今の年金制度を直視したにすぎない。全体は資産形成の勧めをやさしく書いた印象だ。年金の額に見合った暮らしを、という発想が全くないところに金融業界臭さを感じるが

などとあれこれ考える材料とするには悪くない。にもかかわらず「民は知らしむべからず」とでも思ったか。かえって視線が集まったのは皮肉であろう。同じことは財務省の審議会の意見書から「年金水準低下」が削除された件でも言える

先の小説では本の害悪がこう語られる。「いかにばかげたものか、いかに人を落ち着かない気分にさせるか」。そういえば我が首相は、「金融庁は大バカ者だな。こんなことを書いて」と漏らしたそうな。

【天声人語 20190622()


三年前の天声人語が、今はさらに別の華氏451度が燃えたぎる日々。

2021年6月21日 (月)

ピサロ「レ・ パティの風景」

17年間住んだボンドワーズ地域にある長閑なレ・ パティの風景。

農作業に勤しむ様子がほのぼのと描かれている。


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カミーユ・ピサロ Camille Pissarro

1830710-19031113日)

デンマーク植民地時代のセント・トーマス島で生まれた。フランス印象派および新印象派の画家。

1874年から1886年の間に8度開催された印象派展すべてに参加した唯一の画家。

パリや都市の風俗を描いたドガやルノワールとは対照的に、農村の自然と人物を主題として描いた。幼少時に過ごしたセント・トーマス島の大自然の体験が制作背景にあった。

美術史におけるピサロ重要性は、前期印象派と後期印象派の両方に貢献した存在である。

2021年6月19日 (土)

たんぽぽの詩

 「たんぽぽ」高階杞一

 踏切の向こうで

 こどもがうれしそうに手を振っている

 パパー、早く

 って言うように

 そこから動いたらだめだよ

 そう言いながら

 ぼくは遮断機の上がるのを待っている

 警笛は鳴り続け

 いっこうに電車は来そうにない

 こどもはひとりでうろうろしはじめる

 待ち切れず

 渡ってしまおうと思った途端電車がやってくる

 目の前を黒い車輌がすごいスピードで過ぎていき

 過ぎ去ると

 もう

 こどもの姿は消えている


 警笛が止み

 遮断機が空に向かってゆっくりと上がる


 踏切を渡り

 誰もいない野原には

 春だけが

 ただ

 しーんと広がっていて


〔詩集「夜にいっぱいやってくる」より〕

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高階杞一 タカシナ キイチ (Kiichi Takashina) 1951年大阪市生まれ。大阪府立大学農学部卒。大学在学中より詩作を始める。 既刊詩集『キリンの洗濯』『早く家へ帰りたい』『空への質問』『高階杞一詩集』『雲の映る道』『いつか別れの日のために』『千鶴さんの脚』『水の町』ハルキ文庫『高階杞一詩集』『夜とぼくとベンジャミン』など。

2021年6月15日 (火)

ネコヤナギ

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ネコをじゃらすのに、

使うと面白い草ですね。

2021年6月12日 (土)

三つ葉☘️のクローバーです。

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♣️ ♣️  ♣️

2021年6月11日 (金)

第165回芥川賞と直木賞の候補10作品が発表

芥川賞の候補には石沢麻依さん、くどうれいんさん、高瀬隼子さん、千葉雅也さん、李琴峰さんの5人の作品が選ばれた。千葉さんは去年1月の第162回に次いで2回目になる。

直木賞の候補には一穂ミチさん、呉勝浩さん、佐藤究さん、澤田瞳子さん、砂原浩太朗さんの5作品がノミネートされた。

芥川・直木賞候補作 <芥川賞>  石沢麻依(41)「貝に続く場所にて」群像6月号…初  くどうれいん(26)「氷柱(つらら)の声」群像4月号…初  高瀬隼子(33)「水たまりで息をする」すばる3月号…初  千葉雅也(42)「オーバーヒート」新潮6月号…2  李琴峰(31)「彼岸花が咲く島」文学界3月号…2 <直木賞>  一穂ミチ(43)「スモールワールズ」講談社…初  呉勝浩(39)「おれたちの歌をうたえ」文芸春秋…2  佐藤究(43)「テスカトリポカ」KADOKAWA…初  澤田瞳子(43)「星落ちて、なお」文芸春秋…5  砂原浩太朗(52)「高瀬庄左衛門御留書」講談社…初

澤田さんは1年ぶり5回目の選出となります。芥川賞と直木賞の選考は来月14日に行われる。

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2021年6月10日 (木)

創作は常に冒険

 芸術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半、或は大半と云っても好い。

 我我は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのずから作品に露わるることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖を語ってはいないであろうか?

 創作は常に冒険である。所詮は人力を尽した後、天命に委まかせるより仕方はない。

少時学語苦難円 唯道工夫半未全

到老始知非力取 三分人事七分天

 趙甌北の「論詩」の七絶はこの間の消息を伝えたものであろう。芸術は妙に底の知れない凄ごみを帯びているものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆ほとんど病的な創作熱に苦しまなければ、この無気味な芸術などと格闘する勇気は起らなかったかも知れない。

(「侏儒の言葉」芥川龍之介より)

2021年6月 7日 (月)

【朝刊1面トップ】6日・日曜日

〔朝日〕ハンセン病療養所 380人本名伏せる 隔離廃止25年アンケート 「家族への差別不安」「故郷言えぬ人も」

〔毎日〕在日ミャンマー人苦悩 実習生に「帰れ」「解雇」 コロナ禍 抗議活動に批判

〔読売〕ネットスーパー拡大加速 セブン 2物流拠点整備 コロナ下、アマゾンに対抗

〔日経〕「ワクチン証明」今夏に 渡航者用 経済正常化後押し EUは来月から

〔産経〕尖閣占拠を想定 図上演習 自衛隊・海保・警察 米軍とも連携

〔東京〕制限プロ野球並みなら 五輪観客310万人 本紙試算 人の流れ桁違い

【他の1面独自記事】

◆内閣支持最低37% 五輪「開催」50%「中止」48% 本社世論調査(読売)

【共通ニュース】

◆接種「全世界、来年末までに」 英首相、G7で議題に

◆パワハラ自殺 トヨタ和解 遺族と社長面会 人事制度見直し

◆「A級戦犯 太平洋に散骨」 米公文書に記述 初確認 東条元首相ら7人分

◆山県9秒95 日本新 男子100メートル

◆内村 苦しみの末 熾烈競争制し4度目代表

◆感染 全国2022人 死者は50人

◆虚偽発注 2容疑者逮捕 計6億円超 ネットワン元社員

◆藤井棋聖が先勝 ヒューリック杯棋聖戦 「自然な気持ちで」 (続)

J:COM 2021/06/07)

2021年6月 4日 (金)

ワクチン接種率が高い国で、新型コロナウイルス感染者が急増、死者も大幅増加

感染者と死者が増えているのは、少なくとも1回は接種を受けた人の割合が最も高いセーシェル(72%)と、それに次いで高い水準にあるモルジブ(57%)、チリ(56%)、バーレーン、(55%)、ウルグアイ(51%)など。


ウルグアイはここ数週間、人口10万人あたりの死者数が最も多くなっている。モルジブとバーレーンは、5月中に報告された10万人あたりの死者数が米国、インドを大幅に上回った。また、チリ、セーシェルは、世界で最も早いペースで感染者が増加している。


バーレーンの保健省高官は感染者の急増について、検査数を増やしたことに加え、ラマダン(断食月)に人が集まる機会が増えたこと、ラマダン明けの祭り(イード・アル・フィトル)があったことなどを理由に挙げている。

ただ、行動規制の緩和は、感染拡大の要因となるものの一つにすぎない。新たに出現する変異株が、再び感染者を増やし始める可能性もある。例えば、ウルグアイで(接種が進んだ後に)再び流行が拡大したのは、ブラジルで最初に確認された変異株(P.1)が主な原因とみられている。

また、接種率が高い一方で感染者が増えているこれらの国では、多くが中国のシノファーム(中国医薬集団)製のワクチンを使用している。バーレーン、そして同じ中東のアラブ首長国連邦(UAE)はすでに2回の接種を完了した人を対象とするブースター接種も行っていることから、感染を防ぐことに対する同社製ワクチンの有効性について、懸念が高まっている。


セーシェルの保健当局が5月中旬に明らかにしたところによると、同月第1週に感染が確認された人の3分の1以上は、接種を完了した人だった。この大半がシノファーム製の接種を受けており、同国の感染状況については世界保健機関(WHO)が調査を行っている。 【Yahooニュース】より


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新型コロナワクチン 接種直後に急死した日本人85人詳細データが公表

https://news.yahoo.co.jp/articles/973d766ea6c897c2217ca3998d96f710fdebfed9


菅義偉首相の「7月末までに高齢者ワクチン接種完了」の方針により、大規模ワクチン接種が進んでいる。その陰に隠れる形で悲劇も起こっていた。5月下旬、政府はひっそりとワクチン接種後に急死した日本人の詳細データを公表していた。

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2021年6月 3日 (木)

港の対岸を見る

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見渡しの良い景色を望んでいる。

水平線と青空が明るい。

2021年6月 1日 (火)

双子の驚き‼️

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さけぶ二人!!

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