『トルストイ日々の思索』全4冊
トルストイの選んだ古今東西の哲人たちの言葉が、1月から12月まで月ごと日ごと順にまとめてある。
文章の形態も詩のように、舞台で朗々と語るセリフのように訳されている。
トルストイ自身が感動した文章を自ら選び、「読者の皆さんにも、自分と同じように素晴らしい感情の経験をしてほしい」と呼びかけている。
[序 文]
ここに収めた思想は、終末にその名を記した非常に多くの文章や思想書から、私が選り集めたものである。出典を記す必要のないものや、作者不明の書から取り出してきたものや、私自身のものもある。
重要なことは、私のこの書物の目的は、明らかに作者たちの言語的に正確な翻訳をすることにあるのではなく、いろいろの作者たちの偉大な豊富な思想を利して、多くの読者諸氏に、よき思想と感情とを目覚めさせ、日々の読書の友としていただきたいということにあるのだ。
私は、読者諸氏が毎日この書をお読みになることによって、私がこの書の編纂に際し経験し、今もこれを読み返す度に経験し続けている素晴らしい感情を、私と同様に経験されることを祈るものである。
ヤースナヤ・ポリャーナにて
レフ・トルストイ
4月1日は、次の言葉から始まります。
[四月一日 知識の領域]
知識の領域は、果てしなく広いものである。
それゆえに真の知識を得ようと思えば、その広い領域の中で何が最も重要であるかということ
そして何が重要でないかということを、知らなければならない。
一
現代において、まことに巨大な知識の集積がある。
人生は、それらの知識の中の必要なただ一部分を、自分のものにすることにさえも、あまりに短すぎるものである。
私たちはまた多くのものを、ゴミのように投げ捨てなければならない。
自分自身に対して、あまり知識の重荷を負わさない方がいい。(カント)
二
あまりに早い時期での読書、あるいは多読は、自分自身で処理し得ない多くの材料を与える結果、常に私たちの記憶は、感情や天性に支配されるような結果を生む。
故に時々、私たちには、深い哲学が必要なのである。
それは私たちの感情に、原始的な純真さを返してくれるものであり、他人のつまらない思想や意見の中に呑気にしていることを、気づかせてくれるものである。(リフテンベルグ)
三
私は自分に言って聞かせた。
「一生懸命になって、ありとあらゆる学問を知れ」と。
しかし、私にとって理解しえなかった若干のことが残った。
そして私が、自分が知っていた全てを
一層成熟した観点から眺めた。
結局、私は何も知らなかったのだ。(ペルシャの聖典)
四
天と地の全てを知ろうとするような考えを、あなたの心の中や、頭の中から放り出し給え。
私たちが存在の法則に関して知りうることは、非常に僅かなのである。
しかし、その僅かなもので、充分なのだ。多くを望むことは、私達の幸福ではない。そして、こういうことを信じたまえ。
私たちが謙虚な生活を続け、清らかな自足の中に、運命づけられた生活を守っていくために、本当の必要なものの限界を超えることは、ただ混乱を強めるばかりであること、そしてその限界を超えた全ての知識はただ悲しみを増すばかりであることを、信じ給え。(ジョン・ラスキン)
五
天文学者たちの観測や計算は、私たちに驚くべき多くのことを教えてくれた。しかし彼らの研究の最も重要な結果は、私たちの無知には、底がないことを、暴露してくれたことだ。
多くの知識が得られてこそ、初めて私たちの理性は、人間の無知に底のないことを認めるのである。
そしてこのことをよく考えると、私たちの知的な仕事の究極目的を決定することにおいて、大きな変化が生じなければならないことが、分かるのである。(カント)
六
「地上には、草が生えています。
私たちは、その草を見ることができます。お月様からは、見えないでしょう。草には小さな花があります。
花には生物がいます。けれどもその他には何もいません」
なんという自負だ!
「複雑な肉体は、いろいろな要素から成り立っています。その要素はどうすることも出来ないものであります」
なんという自信だ!(パスカル)
七
無知であることを恐れるな。
うその知識を持つことを恐れよ。
この世の悪は、全てそこから生じる。
*
知識は無限である。
それ故に、多くのことを知っている者が、少ないことしか知らない者より優れていることは、限りなく僅かである。
二日 道徳的な生活
道徳的な生活は、絶えざる努力である。
一
慣れてしまうことは、決して良いことではない。良い行いでも、慣れは良いものではない。それが慣れであるために、良い行いも、道徳的でなくなってしまう。(カント)
二
性急であるな。
どんなお荷物を負っても、それがあなたに対する奉仕となるようにせよ。
全てものから、あなたの生活に対して
必要なものを引き出すようにせよ。
胃が食物から滋養となるものを選びわけるように、そして火が何かを投げ込まれたら、更に赤々と燃え盛るように。(オーレリアス)
三
自らの十字架の苦しみを、どこかへ押しやろうとすればするほど、それはますます重荷になってくるものだ。(アミエル)
四
常に自分のすることに注意深くあれ。
いかなることに対しても、注意が足りなかったからだと考えることは許されない。(孔子)
五
純粋に、かつ道徳的に高い気持ちから、絶えず目立たない行いをすることは、やがて人間を非常に強くするものである。
その人は果敢に力強く、騒ぎになろうが、その火柱の上に行為するようになるのだ。(エマーソン)
六
成長は徐々になされるものである。
一気に達成されるものではない。
どうして突然の衝動で、科学の全領域を知ることができよう。
どうして突然の悔悟で、罪に打ち勝つことができよう。
精神的な進歩の手段は、知恵深き教えに導かれた忍耐と努力の他にないのである。(チャンニング)
*
道徳的な努力と、そして生活を知る喜びは、肉体的な労働と、そして休息の喜びのように、交互にやって来るものである。
肉体の労働なくしては、休息の喜びはあり得ない。
道徳的の努力なくしては、生活を知る喜びはあり得ない。
三日 死について
死は、私たちの個性が他の形に変わってしまうことではないだろうか?
そして個性が滅び、万物の果てなき起源と合流することではないだろうか。
一
生活を、夢だと考えることに疑いはない。
そして死を、覚醒だと考えることにも疑いはない。(ショウペンハウエル)
二
死は、有機体の破壊である。
死は、私がそれを通して見ていたガラスをぶっ壊すことである。
そのガラスが他のものに、はめ換えられるのか、今度は窓から何が見えるのか。それを私達が知ることは出来ない。
三
イチジクの樹を育てている人が、実の熟す時を知っているように、神は正しき者をこの世に呼び返す時を知っている。
四
生活には、ある限界が存在しなければならない。
樹木の果実や大地のように、歳月のように、全てのものには、始まり、続きがあり、そして過ぎ去って行かねばならない。
知恵深き人々は、自ら進んでこの秩序に従うものである。神に挑戦する巨人のおとぎ話には、いつもその巨人たちの狂ったような騒ぎ、すなわち、自然や自然の法則に反抗することが書かれている。(シセロ)
五
全ての健全な頭脳は、次のことを確信している。
もし意識的な、かつ個性的な生活が、
いつまでも続く方がよかったら、続いているであろう。
もし私たちに何もかも見える方がよいのなら、見えるであろう、と。(エマーソン)
六
もし、死に苦悩が伴ってなかったら、
すべての人間は、死を目掛けて邁進していくはずである。
苦悩はそこで、人々を死に赴かしめないために、私たちの中に贈られたものだと言える。
そしてまた、苦悩を通してでなければ、死に赴くとが出来ないと言えるのだ。
七
誰も、死とはどのようなものであるかを知らない。
そして、死は人にとって、最もよき善ではないかということを知らない。
しかし全ての人は、まるで死が、最も大きな悪ではないかと考え、死を恐れているのだ。(プラトン)
八
死を望みつつ、しかも死を恐れているのは、賢い人とは言いかねる。(アラビアの諺)
九
もし神が人々に対して、どれかを選べと言ったら……、
即ち、死か、それとも、いつも貧乏と厄介と憂鬱と病気の中に生きながらえていくか、それとも、富や権力や満足や健康に恵まれながら、しかし一分ごとに、それらのすべてのものが奪われていくという恐怖の中に生きていくか、どれかを選べと言ったら、人々は色々と考え、迷うことだろう。
自然が、ものごとを解決してくれる。
そしてどれかを選ぶ困難を、取り除いてくれているのだ。(ラ・ブリュイエル)
第3分冊から××(伏字)が出てまいります。7月6日、9月1日、9月29日にそれが見られます。1936年初版の世相が窺い知れる。
[七月六日 戦争の恐ろしさ]
「それは人間の中に、あらゆる偉大な、そして高貴な感情、即ち名誉、公平、善、勇敢などの感情を支持しているものである。要は人々を厭うべき唯物主義から救うものである」
それ故に、四十万の人間が集合すること、昼夜休みなく歩き回ること、何も考えないこと、何も教えられないこと、何も研究しないこと、何も読まないこと、何びとの役に立たないこと、堕落すること、汚泥の中に眠ること、絶えず心を乱して、家畜のように生きること、
××××××××××××××××××××××××
百姓たちを窮乏に陥らせること、それから、他の人間の集団に発砲し、突撃すること、鮮血を海のように流すこと、引き裂かれた肉で、野山を包むこと、死骸の山で大地を覆うこと、働くことの出来ない不具者になること、そして最後に、故郷では、両親や妻や子どもたちが、餓死しかかっているのに、所在の知れない異国の地に暮らすこと、これら全てのことが、人々を厭うべき唯物主義から救うことを意味する、と言うのである。(モーパッサン)
(1)神より恵まれた生命を塵埃のように生きること
*
(五)戦争の害悪についてかれこれ論じるときは過ぎた。そのことはすでに論じつくされている。今や残るのはただ一つ、一人ひとりがまず何から始めるべきか、ということある。つまり一人ひとりがなすべきことでないと思うことをなさないこと、ただそれ一つである。
(六)戦争の存在自体がその不可避性の証拠だというのは当たらない。人類の両親は、そんなことは嘘であって、戦争はあるべきでないと語っている。
「トルストイ日々の思索」第4分冊は10月1日から12月31日まで、トルストイが選んだ哲人たちの言葉。大晦日の日にトルストイは次のようなことを考えた。
[三十一日 現在、過去、未来]
過去は、既に存在しない。
未来は、未だ来ない。
現在は、既に存在しない過去と、未だ存在しない未来とを繋ぐ
無限に小さい一点である。
一
「時は過ぎてゆく」と、あなた方は常に不確実な記憶によって言う。
時は、立ち止まっているものである。
過ぎてゆくのは、あなたなのだ。(タルムード)
二
時は私たちの背後にある。或いは、前にある。
私たちの傍にはない。
三
精神の生活は、過去および未来においては、何らの意義をも持っていない。
その重要性は、全て現在に集中されているのである。(オウレリアス)
四
時間というものは、最も大きな幻である。時間は、私たちがそれによって事象や生活を理解している内面的なプリズムに他ならない。
そしてその時間のもとにおいて、私たちは超時間的なもの、すなわち観念の中に存在するものを、絶えず見ているのである。
目は球体の裏側を含め一度に見ることが出来ない。しかし球体は存在しているのである。球体を見るには、球体が目の前で回転するか、或いは、球体の周囲を周るかのどちらかである。
最も高き理性にとっては、時間と言うものは存在しない。未来も現在であるのだ。時間と空間は、それが方便として考える無限なるものの一断片に過ぎないのである。(アミエル)
五
過去を記憶することよりも、未来を予見することの方が、容易であるような聡明な存在を考えることは出来るだろう。
虫の本能の中に、それが過去によるよりも、未来によって指導されているのだということを、私たちに考えさせる何ものかがある。
生き物が、過去の記憶と同じように、
未来に対する予見力を持っているとしたら、虫も、私たちより勝ったものだとしなければならない。
実際、未来に対する予見力は、常に過去についての記憶と反対の立場にあるものだ。(チャンニング)
六
私たちの心は、肉体の中に入れられている。そしてその中で、数や時間や大きさを知るのである。
そしてそれについて、何であるかと判断し、それを自然のもの、或いは必然のこととしている。
その他に考える術を持っていないのである。(パスカル)
*
時間というものは、存在していない。
存在しているのは、ただ無限に小さい現在というものだけである。
そしてその中において、生活は成し遂げられるものなのである。
それゆえ、人間は、ただ現在にのみ、その全ての精神力を傾けなければならないのである。
「トルストイ日々の思索 」Kindleより
推敲を重ねて選ばれた言葉たち、時間をかけて読み砕いて浸透させる価値ある思索。最晩年のトルストイが、序文だけでも100回以上の推敲を重ね、6年の歳月を費やし、心血を注いで完成させた。
1日を1章とし、1年366日、古今東西の聖賢の名言を、日々の心の糧となるよう、結集・結晶させた、一大「アンソロジー」。最晩年のトルストイが、序文だけでも100回以上の推敲を重ね、6年の歳月を費やし、心血を注いで完成させた。総勢170名にものぼる聖賢の名言の数々は、まさに「壮観」。トルストイ自身、「自分の著述は忘れ去られても、この書物だけは、きっと人びとの記憶に残るに違いない」と語り、臨終の数日前にも、娘タチヤーナに10月28日の章を読ませて、「みんないい、みんな簡潔でいい…、そうだ、そうだ…」と呟いたという。
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