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2022年12月 9日 (金)

「世阿弥の言葉」野上弥生子

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 しかし人はいうかも知れない。これらはほんの末梢的な欠点で、舞台の上の偉大な芸術はおもての鉄板の響も、電車の騒音も、ピアノも、裸電球も、悉くそれらを忘れさせ得るはずだと。――まことにそれは正しい言葉である。この仮面芸術の醸しだす比類のない陶酔感は、舞台の不完全や、幼稚な設備に思い及ぶ隙もないほどうっとりさせるのを私たちも知っている。同時にまた私たちはその愉しい恍惚は決してそうしばしばは生じ難いもので、結局能は気持はよいが退屈で、美しくはあるがもどかしいという批評が適切であることをも知っている。でなくして現在の能をそのまま全部的に肯定しようとするものがあるならば、それはよくよくの旋曲りか、気どり屋か、でなければ世にも羨やましい泰平人だと思う。とはいえ、これとても演者の技倆次第で退屈に見えたものも面白く、もどかしかったものも美しく味われるのは勿論であるが、しかし、手腕以外にも演出のすこしの工夫で救われそうな退屈やもどかしさについても、丁度橋掛りの裸電球に対すると同じ無関心が示されてはいないであろうか。いい換えれば、足利時代から徳川時代の民衆の神経と感性を標準とした演出法が昭和の今日に於いて、芝居や、映画や、レヴュウや、オペラや、ラジオの中で平気に繰り返され、その一段一章の変更にさえなにか恐怖をもっているようなのが、よそ目には殆んど滑稽に感じられるくらいである。これらは自分たちの芸術の伝統に対する慎ましい服従や精進を意味するより、むしろ怠惰と独創力の欠乏を証明するものであるかも知れない。


 これらの不満が、ある事によって常よりもそう強く感じられていた時、金剛右京氏が語ったという興味のある面の使用法を聞いた。非常に稀れではあるが曲によって仮面を二重にかけて登場する場合があるというそれは話であった。たとえば下掛りの「大会」の後シテでは大ベシミの上に釈迦の面を重ねてかけて出る。魔術によって霊鷲山の説法の有様を僧正に示していた天狗が、その冒涜を怒って天から駈け下った帝釈に本体を曝露されるとともに、上の面をはずして大ベシミに一変するので、そのために天狗の面ときまっている大ベシミも特に釈迦下と称する小形のものを用いるのだという。また観世流と金剛流だけにある「現在七面」の演出においては、金剛流では後シテに般若と小面を二枚重ねてかける。後ジテの蛇身が成仏した時、般若をはずして優に美しい小面になるわけである。仮面の正しい使い方からいえば、成仏とともに神格的なものになるので増をかけるはずであるが、二枚重ねると増では般若と眼の位置が合わないので小面に代えられるのだそうである。それに前ジテの深井の面を加えれば、この「現在七面」においては一番の能に三つまでも違った仮面が使用されるわけである。


 この自由な仮面の使用法は、前ジテと後シテを区別する二様の扮装や仮面の変化によって、わずかに二つの性格を表現するに留まっているような能の一般的な制約に対してさまざまな暗示を投げかける。たとえば一番の能に二つ以上の性格が盛られている場合に生じた従来の困難や不便は、この演出に倣うことによって容易に除去されることになる。私たちはそのもっとも適切な例を「葵上」に見出すであろう。見るからにもの凄い泥眼や般若をつけたシテ六条の御所の生霊が、ワキなる横河の小聖の押し揉む念珠の下で、あらあら怖ろしの般若ご文やな、と安坐し、読誦のこえを聞く時はとつづく地の合唱で、成仏得脱の表現として扇子をかざして舞い悦ぶキリの一段が、誰にも思うように演じにくいのは、生霊のままの般若を依然としてかけているためである。あの般若の面が光り輝くように見えなければ駄だと、桜間金太郎氏はよく父の左陣から叱られたとのことであるが、左陣のような名人ならいざ知らず、般若に優しい歓喜をあらわせようとすることにすでに無理が潜んでいる。「現在七面」の後シテの例に準じて、もしここにも般若と小面が二枚重ねてかけられたならば、私たちはどの舞台においても完全に額の角を折った、そうして再び高貴に美しいあでびととなった六条の御所の姿を橋掛りに見送ることが出来るだろうと思う。


 誰かこの新らたな演出を「葵上」に試みないであろうか。これは「隅田川」の子方以上に興味ある研究であることはたしかであるとともに、能の再生のためにはいつかはきっと起らなければならない世阿弥のいわゆる当世の改変についても、一歩を印するものとなるであろう。


『野上弥生子随筆集』(岩波文庫)より

「世阿弥の言葉」【前半へつづく


http://pengiin.seesaa.net/article/494657286.html

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