『諫早菖蒲日記』野呂邦暢
幕末の諫早に生きる少女の瑞々しい視線、
潰走の船路に幻出する不知火、
籠城の衆の鬨―
向田邦子は小説 「諫早菖蒲日記」 にすっかり魅了されて、熱心にこのテレビドラマ化を企画していた。しかし突然の航空機墜落事故で帰らぬ人となり実現されなかった。
「語り手を一人に限定するのは、一点集中の語りであって、この技法はカメラのファインダーに似ている。一点の覗き穴が威力を発揮する一方で、見る世界が小さく限られる。……野呂邦暢はつねに試みの尺度をきびしく設定した。『初めての歴史小説』にとりわけはっきりと見てとれる。四百枚をこえる三部作が、みごとに一つの覗き穴の視点に合わされ、その遠近法でもって、きびしく構成されている。語られる人と語り手が、たえず相手を見つめ合い、それが一種緊迫した生理的リズムを生み出してくる」(池内紀 本書掲載エッセイより)
第一章
まっさきにあらわれたのは黄色である。
黄色の次に柿色が、その次に茶色が一定のへだたりをおいて続く。
堤防の上に五つの点がならんだ。
堤防は田圃のあぜにいる私の目と同じ高さである。点は羽を広げた蝶のかたちに似ている。河口から朝の満ち潮にのってさかのぼってくる漁船の帆が、その上半分を堤防のへりにのぞかせているのである。
「遠眼鏡」で観察しているのが十五歳の少女「志津」で、時代は嘉永から安政に成り代わった頃である。さらにのぼりふじの紋所の帆を揚げた諫早の藩船・韋駄天丸が映る。
佐賀からの注進船がしげくなって、何やらただならぬ気配を伝えている。時代が大きく動く前触れ、志津の父は諫早藩の砲術指南役であった。
子供から大人への過渡期にある志津には、ひそかに思う人、執行家の次男・直次郎がいた。
第一章で佐賀表諫早屋敷に、藤原作平太の娘・志津を奉公に差し出すようにとくるが「ゆくゆくは婿をとって藤原家を継ぐ身、そのこと申し上げて御免こうむる」とした。
志津は藤原家の一人娘だったのだ。
第二章では志津が「みずご」の意味を「流れ亡者」と思い違える会話がある。
「一人娘」そして「みずご」の伏線が、第三章に志津の亡き弟の存在へつながってくる。
第一章で「くちぞこ」という魚について語る彼女の利発なキャラクター。
(半開きにした分厚い唇、世の中はこんなものだとでもいいたげなどんよりとした眼がせまい眉間の下で今にもくっつきそうに寄っており、とがった頭はそりたての月代に似ている。まったく当地のお侍は、脳天をそり上げることだけにしか感心がないようだ。それ以外の、たとえば禄を削られること、外国船が我が国をおそうこと、その船には死人をもよみがえらせる術を心得た医師が乗っていることなどより、そりのこした月代の無駄毛一本の方が気がかりなのである。鍋島様からいじめられるのもこれでは当たり前だ。佐賀は諫早をあなどっている。」
そして第二章では、刃傷沙汰に及んだ諫早藩の家臣が切腹に至る経緯に、志津が父を問い詰める場面がある。
「父上、それはきこえませぬ、女子といえども家のもと、国のもとはいうに及ばず物事のぜひもわきまえておかねばと日ごろ、仰せられます、安城寺での刃傷は野村殿にわかの乱心でありましょうか、事のなりゆき、正邪の別を志津にもわかるようにおきかせ下さい。」
直次郎への密かなな思いと、きめ細やかな自然描写が美しくやさしく全体をおおっている。そんな言葉の数々が息づいて味わい深い。
三章を読み終えて「あとがき」に至ると、作者の関わりが記さられている。
「私がいま住んでいる家は、本書の主人公藤原作平太の娘志津がくらしていた家である。」
「この家の家主さんA夫人と私は同じ棟に住んでいる。ふとしたことで土蔵に御先祖の古文書がしまわれていることを知り、秘蔵の砲術書や免許皆伝の巻物などを見せていただいた。オランダ語から翻訳された砲術教程もあった。数十冊の古文書のうちには専門家の鑑定によれば、わが国に二、三冊しかない貴重な史料もまざっているとのことである。百二十年前、諫早藩鉄砲組方の侍たちが砲術を学び、その術を口外しないこと、また奉公に懈怠なきことを誓って署名血判した誓紙もあった。血の痕は色褪せ、薄い茶色になっていた。藩士たちの名前は諫早で親しい姓名である。私の親戚知人の先祖と思われる姓も見られた。三年前のことであった。奉書紙にしるされた薄い血の痕に鮮やかさを甦らせることが私の念願であったのだが、それが本書によってかなえられたかどうか。」
このあとがきには《昭和五十二年、春》としてある。昭和五十一年『文學界』に発表の後、翌年四月に文藝春秋から単行本とした刊行された。
諫早の地理に詳しい地図や画像検索して読むと一層楽しめると思います。
「諫早菖蒲日記」映像散歩、長崎テレビ紹介
https://youtu.be/qPgGd2uqSRM
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http://tsunoyoi18.seesaa.net/article/162175243.html
◆ 「なにかこう、心にしみるような小説ないかしら」と向田の問いかけに応えて、文藝春秋社の「文學界」編集長の豊田健次が野呂邦暢の「諫早菖蒲日記」を薦めて、これに心酔した向田が死の直前の野呂に「落城記」のドラマ原作権の許諾を求めて面識を得るエピソードがある。
その直後に野呂は42歳で急死して、その後の向田は野呂との約束を果たすべくドラマ製作に奔走するが、『わが愛の城-落城記より-』の完成後にとりかかるはずだった「諫早菖蒲日記」の脚本を手がけることなく向田は台湾で事故死してしまった。
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