江戸川乱歩「こわいもの」
「大人になると、人くさくなって、少年の肌を失うが、それと同じように、こわいものがなくなるのは、少年の鋭敏な情緒を失うことで、私には少しもありがたくないのである。もっとこわがりたい。何でもない、人の笑うようなものに、もっとこわがりたい。」
「少年時代、クモとおなじぐらいこわかったのはコオロギだった。黒いエンマコオロギではなく、それより大きくて、胴体にも足にも、茶色の縞があって、あと足が長くて、ピョンピョンと飛んで逃げる、あのコオロギなのだ。
私の一番こわい夢は、このコオロギの夢であった。何度も同じ夢を見るので、夜寝るのがおそろしかった。
そのころの私の家の庭は、いわゆる「坪の内」で、建物と塀とで四角に区切られた狹い庭であったが、夢で、私はこの庭に降り立っていた。
空は昼でもなく、夜でもなく、夢にしかない、陰気な色をしていた。その空から、何かおそろしい速度で、私の真上に落ちて来るものがあった。はじめは点であったが、近づくにしたがって、一匹のコオロギとわかった。豆つぶほどのコオロギが、みるみる、大きくなり、アッと思うまに、それが四角な庭の空一杯の大きさになって、私の頭の上に、のしかかって来た。
女の帯ほどの巾の茶色の縞が、そいつのからだ一杯に並んでいた。下から見えるのは、そのコオロギの腹部であった。一番いやらしい腹部であった。
コオロギの足は、たしか六本だったと思うが、私にはもっと多く感じられた。その足が腹部の中心から生えて四方にひろがっている。腹部の足のつけ根のところは、茶色が薄くなって、異様に白っぽくなっていた。その薄白い足が、一カ所から、グジャグジャと四方に出ている部分が、私には形容もできないほど、おそろしいのだ。」
「大人になると、人くさくなって、少年の肌を失うが、それと同じように、こわいものがなくなるのは、少年の鋭敏な情緒を失うことで、私には少しもありがたくないのである。もっとこわがりたい。何でもない、人の笑うようなものに、もっとこわがりたい。」
(江戸川乱歩「こわいもの」より)
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