3月17日は漫画週刊誌の日
日本初の少年週刊誌『少年マガジン』『少年サンデー』が1959年3月17日発刊された。
もともと学年誌を中心とする教育出版社だった小学館には、「少年サンデー」創刊までマンガ編集のノウハウがなかった。
「少年マガジン」は「編集部主導」「原作と作画の分業」という方法論を打ち出して、最初に編集部でテーマを決めて、原作者やマンガ家を探して描いてもらう。
講談社は以前から「少年クラブ」「少女クラブ」「なかよし」など、マンガ月刊誌を出していた。編集部主導式は、「人気作家に頼らなくても優れた作品を生み出せる」
『週刊少年マガジン』連載
・『8マン』(1963年)原作:平井和正、作画:桑田次郎
・『悪魔くん』(1966年)水木しげる
・『巨人の星』(1966年)原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる
・『サイボーグ009』(1966年)石森章太郎
・『天才バカボン』(1967年)赤塚不二夫
・『あしたのジョー』(1968年)原作:高森朝雄、作画:ちばてつや
「マガジン」は創刊号から吉川英治の原作を使っている。梶原一騎の原作『巨人の星』や『あしたのジョー』が出る前から、『マッハ三四郎』『快傑ハリマオ』『ちかいの魔球』『黒い秘密兵器』『チャンピオン太』『8マン』など原作つきが並んでいた。
「手塚治虫や横山光輝のように、すでに実績のある一流の大物に頼む。後から創刊された青年誌の『ビッグコミック』もそうでしょう。後発だったため、無名の新人を起用せざるを得なかった『少年ジャンプ』とは対照的なんですよ。初めから一流の大物に頼むわけだから、作家性を尊重し、より自由に描かせるようになったわけです」
『週刊少年サンデー』連載
・『伊賀の影丸』(1961年)横山光輝
・『おそ松くん』(1962年)赤塚不二夫
・『パーマン』(1967年)藤子・F・不二雄
・『どろろ』(1967年)手塚治虫
・『漂流教室』(1972年)楳図かずお
・『プロゴルファー猿』(1974年)藤子不二雄A
手塚治虫とトキワ荘グループには、「マガジン」の原作つきを“邪道”と批判して、のびのびと自由に描かせてくれる「サンデー」を支持する作家が多かった。
創刊号から「サンデー」に描いていた藤子不二雄Ⓐは「マガジンはやりにくかった」という。
「サンデーは放任主義で大らか。マガジンはテーマをかっちり固めてきて、『こういう作品を描いてくれ』と言ってくる。編集者の性格も、小学館や集英社は豪快で、講談社は固い。取材で地方に出張に行くでしょう。夕食のときも、マガジンの人は『じゃあ、お酒を2本ほど飲みましょうか』と、あまりハメを外さない。サンデーの人は『今日はバーッと行きましょう!』みたいな感じですよ」川崎のぼる
週刊漫画誌として作品を維持して、なおかつ名作を制作続けてきた両誌で、それぞれの作風はご覧の通りです。
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