三島由紀夫が語った「お茶漬けナショナリズム」をバカにできない理由
『お茶漬ナショナリズム』は三島由紀夫の評論・随筆。 日本の文化や伝統を軽蔑しながらも、海外旅行先でお茶漬の味を恋しがったり、西洋と比べて日本の価値を判断したりするような主観的・日本的な感覚に寄りかかっている中途半端なインテリ「新帰朝者」たちの有り様を批判したもの。
「外国へ行くと愛国者になるというが、一概にさうしたものでもあるまい。日本にいて、日本のよさがわからないやうな人が、もっと遠くへ行ってわかるやうになるといふ理屈はないのである。それは大方、やっぱり刺身が恋しいとか、おみおつけが恋しいとかといふ、他愛のない愛国心であろう」
(三島由紀夫「お茶漬けナショナリズム」)
三島由紀夫は海外へ逗留した日本人がその国の食事に飽きたり口に合わなくて日本食が恋しくなり「お茶漬けばかりは思想を斟酌しないとみえて、外国へ一歩出たら、進歩的文化人も反動政治家も、仲良くお茶漬けノスタルジーのとりこになってしまう」と、日本文化や伝統を軽視しながら、イデオロギーや理念などとは異なり、お茶漬けという食文化に自身の血肉と切っても切れない切実なノスタルジーと、それにつられてナショナリズムを実感するような事を批判している。
「日本、日本人、日本文化、といふものは、そんなにわかりにくいものだらうか? 日本の国内にゐては、そんなにその有難味を知りにくいものだらうか? どうしても一歩国外へ出てみなくては、つかめないものなのだらうか? あるひは日本人は、そんなにも贅沢になつてしまつて、自分の持つてゐるものの値打を、遠くからでなくては気づかなくなつてしまつたのであらうか?
これは多分、文明開化の病状の一つといふか、明治の文明開化の後遺症みたいなものだと思はれる。」
(三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」)
権威依存と他者から頂戴した箔付けを自身の価値の拠り所として、ナショナリズムの脆弱な土台にしてしまう。文化的な帰属を軽視し消費するエニウェアーズでありながら、その文化が評価されることをにわかに誇るサムウェアーズである欺瞞を指摘した。
「その上、大正インテリが社会の上層部を占めてゐて、自分たちが知らないものだから、日本の伝統文化のなかの豊麗なもの、清純なもの、デカダンなもの、雄々しいもの、美しいものに対する客観的評価を不可能にしてしまつた。」
(三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」)
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三島由紀夫(1925-1970)東京生れ。本名、平岡公威。
1947(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。
主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。
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