『松本清張傑作短篇コレクション』全3巻
宮部みゆきが選んだ26短篇。
【上巻】「或る『小倉日記』伝」(恐喝者」「一年半待て」「地方紙を買う女」(理外の理」「削除の復元」「捜査圏外の条件」「真贋の森」「昭和史発掘――二・二六事件」「追放とレッドパージ」。
【中巻】「遠くからの声」「巻頭句の女」「書道教授」「式場の微笑」「共犯者」「カルネアデスの舟板」「空白の意匠」「山」。
【下巻】「支払いすぎた縁談」「生けるパスカル」「骨壷の風景」「帝銀事件の謎」「鴉」「西郷札」「菊枕」「火の記憶」。
宮部みゆきは「或る『小倉日記』伝」と「恐喝者」をこの短篇コレクションの第一章に入れて、章題を「巨匠の出発点」としてる。
清張のデビュー作「西郷札」は1950年に『週刊朝日』が募集した「百万人の小説」に三等入選して、1951年の『週刊朝日別冊 春季増刊号』に掲載された。この「西郷札」は史実を巧みに物語の中に取り入れて、歴史時代小説にも優れた技量を発揮した作家としての特質がよく表われている。
「百万人の小説として募集中の『朝日文芸』に小倉市黒原営団松本清張氏(四〇)の時代小説『西郷札』が入選と決定した。松本氏は朝日新聞西部本社広告部員。『小説はよく読みますがこんどの作品はいわば私の処女作。西南の役の西郷軍の発行した軍票をめぐる欲にからまれた人間の醜悪を衝こうと思っていたが出来たものは舌足らずの感だ。ある本と明治初期の古新聞からこの素材を得たもので入選には自信はなかったがテーマはきっといけると思っていた。とにかくうれしい。今後大いに書くつもりだ』とうれしそうな松本氏。両親、妻子八人暮しで、あふれるような情熱の持主。」松本清張『実感的人生論』(中公文庫2004年11月)
清張が43歳のときに発表して、芥川賞を受賞した「或る『小倉日記』伝」は出世作となった。宮部みゆきは「そう! 松本清張は芥川賞作家なんですよ。直木賞じゃないんですよ。社会派推理作家という看板があまりに大きいので、つい忘れがちになるところですが」と解説してる。
主人公の田上耕作は、身体的なハンディを負って生まれた。「四つになっても、何故か、舌が廻らなかった。五つになっても、六つになっても、言葉がはっきりしなかった。口をだらりと開けたまま涎をたらした。その上、片足の自由がきかず、引きずっていた」
だが彼は人並み以上の頭脳を有した。自分の身体的ハンディに煩悶した。田上耕作が「ただ煩悶して崩れなかったのは、多少とも頭脳への自負からであった。いってみればそれが羽根のように頼りない支えであったが、唯一の希望でなことはなかった。どのように自分が見られようとも、今にみろ、という気持もそこから出た。それが、たった一つの救いであった」。
田上耕作は森鴎外の小倉時代の日記が散逸していると知り、小倉在住時代の鴎外を知っている関係者たちを捜して廻り、「小倉日記」の空白を埋める資料を採集する。そのような調査に没頭して、生きる精神的よすがにする。「そんなことを調べて何になります?」との他人の言葉に、「実際、こんなことに意義があるのだろうか、空しいことに自分だけが気負い立っているのではないか」との疑念が生じて、絶望感を覚える。探して歩く調査に行き詰まったとき、「空疎な、他愛もないことを自分だけが物々しく考えて、愚劣な努力を繰り返しているのではないか」と非常に耐え難い空虚感に襲われた。結局は研究成果を発表することもなく病死してしまう。執筆当時の作者の心情が色濃く投影されている。
【上巻】「火の記憶」という作品は、清張が幼い頃に見た大師堂や赤いガラス玉の記憶から生まれた作品のようです。清張は、彼の自叙伝『半生の記』(新潮文庫)で、幼かった頃に眼を患って失明寸前になり、母親が専ら弘法大師に頼って、幼い彼をあるお堂につれ込んだことや、そのときの「線香の匂いと、蝋燭の灯とが記憶に鮮やかだった」ことを語るとともに、同じ頃の記憶として、職人が赤いガラス球を吹いていた風景のこともつぎのように書いている。
「父には女が出来ていて、始終、そこに通っていた。それは遊郭の女だったらしく、母は私を背負って遊郭を尋ね歩いた。町の中にガラスの工場があり、職人が長い鉄棒の先にほおずきのような赤いガラス玉を吹いていた風景は忘れられない。」
短篇「火の記憶」は幼い子どもの記憶に残された赤いガラスと大師堂の風景が重要な意味を持つ作品。高山泰雄の父親は、4歳の時に失踪して行方不明になったが、そんな父親についての記憶がほとんどなく、写真すら見たこともない。「父は自分の家に居ず、どこか別の家にいたのではないか」と思う。
「僕は母の手にひかれて暗い道を行っていた。その時、僕がすぐくたびれたので、母は道の途中でよく休んだ。
その時分の僕の思い出には、ガラス瓶を製造している家の光景と、あかるく提灯の灯を道路までこぼした大師堂とがある。ガラス瓶づくりの職人は、火の前に立ちはだかって口に長い棒を当て、棒の先の真赤なホオズキのようなガラスを吹いていた。大師堂からは哀切な御詠歌の声が遠ざかってゆく僕の耳にいつまでも尾を引いた。――これは今でもなつかしい遠い幼い日の思い出である。」
母とならんで歩く男の背中や、「今夜のことは人に云うんじゃないよ」という母親の言葉も一緒に記憶されていた。
「父は家に居ない、母はどこかにいる父に会いに行く、その母には別の男がついている――、そういう淡い記憶」が苦しめる。
そんな幼い日の記憶の謎を解明できるかもしれない手がかりを泰雄は20数年後に得る。母の17回忌の法事の日に、泰雄は母が手函にしていた石鹸箱から恵良寅雄という人物から寄せられた「河田忠一儀永々療養中の処、薬石功無く――」という死亡通知を見つけた。差出人の恵良寅雄も死亡者の河田忠一も知らない。
「死んだ本人の名と、通知を出してくれた人間の姓が違い、近親者でもなさそうな」ことに疑問を持ち、古ハガキの差出人の住所に問い合わせの手紙を出した。
【中巻】「共犯者」の主人公は、銀行強盗で得た金を資本にして商売に成功した内堀彦介。富と信用と地位を得て、銀行強盗をした共犯者の町田がもし自分を恐喝してきたら、これまでに得た金と信用と地位は一挙に崩れ去ってしまうと考える。人を雇って町田の消息を調べさせて、その動向を追跡させる。
宮部みゆきは「これってホラーだと思いました。宇都宮→千葉→大阪→神戸→岡山、そしてついには九州へと上陸する『共犯者』の動き。そこから目を離すことができず、逃げることもできず、来る、来る、来るぞ、とうとう俺のもとに "破滅" がやってくる――と、身を固くして待ち受ける主人公の内堀彦介」と解説する。
【下巻】「生けるパスカル」では、画家が浮気をする→妻の異常な嫉妬と行動→画家が心理分析をする→画家が浮気をする→妻の異常な嫉妬と行動→画家が心理分析する→画家が浮気をする→妻の異常な嫉妬と行動……。
とうとう耐え切れなくなった画家に "破滅" がやってくる。
「カルネアデスの舟板」では、歴史研究者の玖村武ニ、大鶴恵之輔は、歴史学を自分たちの地位、名声、金、女への欲望を実現するための手段としか考えない人たち。進歩的歴史学者・玖村武ニは、教科書や参考書の執筆で多額の収入を得ていたが、文部省が教科書検定を強化して進歩的学者の教科書執筆を排除すると、進歩的学者の名前を返上して文部省寄りに身を移して保身を図る。恩師の大鶴恵之輔の存在は大変な障害物となる予測されて、彼は卑劣な手段で大鶴恵之輔を陥れようとする。しかし予想していなかった「感情の突風」に襲われて墓穴を掘ってしまう。
「空白の意匠」発行部数10万に足らぬ地方小新聞の広告部長の植木欣作。広告代理店に頭を下げて広告料の減収を食い止めようとする。強壮剤の宣伝を社会面の広告欄に載せていたが、新薬「ランキロン」の注射で急死した記事が出される。しかし死亡は「ランキロン」が原因でないと判明する。編集部の局長・森野義三は、抗議する植木欣作に「新聞の誤報じゃない。警察が間違っていたのだ」という。「ランキロン」の実名入りでの誤報は、広告主の和同製薬と弘進社という広告代理店扱を怒らせて、新聞社の広告料が大減収となるのが必至である。危機を回避するために植木欣作は懸命に奔走する。
これらの26短篇から特に読み応えのあった作品を発表年に並べた10作品。
「或る『小倉日記』伝」(1952年発表)、「地方紙を買う女」(1957年発表)、「真贋の森」(1958年発表)、「共犯者」(1956年発表)、「カルネアデスの舟板」(1957年発表)、「空白の意匠」(1959年発表)、「骨壷の風景」(1980年発表)、「西郷札」(1951年発表)、「菊枕」(1953年発表)、「火の記憶」(1963年発表)。
「清張さんの作品を編年体で読ませていただいて、初めて私が書く作品のふるさとはこっちだったということに気づいたんですね。三、四カ月の間、毎日清張さんを読んでいると、夜中に訳もなくウルウルしちゃったりしたんですよ。『小説を描き続けるっていうのはこういうことなんだよ。道は長いが、頑張りなさいよ』って言われているような気がして……。全然意識していなかったにもかかわらず、こんなにもたくさんのものをもらっていたんだなあって、なんだか、ふるさとに帰って心が安らいでいくような気がしたんです。」
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