『鳴門秘帖』上方の巻 吉川英治
『鳴門秘帖』上方の巻
吉川英治
夜魔昼魔
安治川尻あに浪が立つのか、寝しずまった町の上を、しきりに夜鳥が越えて行く。
びッくりさせる、不粋なやつ、ギャーッという五位い鷺の声も時々、――妙に陰気で、うすら寒い空梅雨からつゆの晩なのである。
起きているのはここ一軒。青いものがこんもりした町角で、横一窓の油障子に、ボウと黄色い明りが洩れていて、サヤサヤと縞目を描かいている柳の糸。軒には、「堀川会所」とした三尺札が下がっていた。
と、中から、その戸を開けて踏み出しながら――
「辻つじ斬りが多い、気をつけろよ」
見廻り四、五人と町役人、西奉行所の提灯を先にして、ヒタヒタと向うの辻へ消えてしまった。
あとは時折、切れの悪い咳払せきばらいが中からするほか、いよいよ世間森しんとしきった時分。
「今晩は」
会所の前に佇んだ二人の影がある。どっちも、露除けの笠に素草鞋、合羽の裾すそから一本落しの鐺をのぞかせ、及び腰で戸をコツコツとやりながら、
「ええ、ちょっとものを伺いますが……」
「誰だい」と、すぐ内から返辞があった。
「ありがてえ、起きていますぜ」
後ろの連れへささやいて、ガラリと仕切りを開ける。中は、土間二坪に床が三畳、町印の提灯箱やら、六尺棒、帳簿、世帯道具の類まであって、一人のおやじが寂然と構えている。
「何だえ、今ごろに」
錫すずの酒瓶を机にのせて、寝酒を舐めていた会所守の久六は、入ってきたのをジロリと眺めて、
「旅の人だね」
「へい、実は淀の仕舞船で、木村堤へ着いたは四刻頃でしたが、忘れ物をしたために、問屋で思わぬ暇を潰つぶしましたんで」
「ははあ、そこで何かい、どこの旅籠はたごでも泊めてくれないという苦情だろう」
「自身番の証札を見せろとか、四刻客はお断りですとか、今日、大阪入りの初ッぱなから、木戸を突かれ通しじゃございませんか」
「当り前だ、町掟も心得なしに」
「叱言を伺いに来た訳じゃござんせん。恐れいりますが、その宿札と、事のついでに、お心当りの旅籠を一つ……」
「いいとも、宿をさしても上げるが……」と久六、少し役目の形になって、二人の風態を見直した。
「一応聞きますが、お住居は?」
「江戸浅草の今戸で、こちらは親分の唐草銀五郎、わっしは待乳まつちの多市たいちという乾分で」
「ああ、博奕打ちだな」
「どう致しまして、立派な渡世看板があります。大名屋敷で使う唐草瓦からの窯元で、自然、部屋の者も多いところから、半分はまアそのほうにゃ違いありませんが」
「何をいってるんだ」側わきから、銀五郎が押し退のけて、多市に代った。
「しゃべらせておくと、きりのねえ奴で恐れ入ります。殊には夜中、とんだお手数てかずを」
「イヤ、どう致して」見ると、若いが地味づくりの男、落ちつきもあるし人品も立派だ。
「そこで、も一ツ、行く先だけを伺いましょう」
久六も、グッと丁寧に改まる。
「的は四国、阿波の御領へ渡ります」
「阿波へ? フーン」少しむずかしい顔をして、
「蜂須賀家では、十年程前から、ばかに他領者の入国を嫌って、よほどの御用筋、御家中の手引でもなけりゃ、滅多に城下へ入れないという話だが」
「でも、是非の用向きでござりますから」
「そうですか。イヤ、わしがそれまで糺ただすのは筋目違い。いますぐ宿証を上げますから、それを持って大川南の渡辺すじ、土筆屋和平へお泊りなさい」と、こより紙を一枚剥で、スラスラと筆をつけだす。
その時その間、何とも怪しい女の影。会所の横の井戸側にしゃがみ込んで、ジッと聞き耳をたてていた。
白い横顔、闇にツイと立ったかと思うと、
「どうも、ありがとう存じました」
中の声と一緒に戸が開あいて、さッと明りが流れて来た。途端に、のしお頭巾の女の魔魅、すばやく姿を消している。
「あ、お待ちなさい――」会所守の久六は何思ったか、あわてて、出かける二人を呼び止めた。
【青空文庫】
https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52403_50139.html
BS時代劇『鳴門秘帖』再放送
日曜深夜枠にてNHK BS
2024年4月7日から6月9日 毎週日曜日 午後6時45分から午後7時28分 <NHKBS・BSプレミアム4K>
2024年4月12日から6月14日 毎週金曜日 午後7時30分から午後8時13分 <BSプレミアム4K>
43分×全10回
https://www.nhk.jp/g/blog/9ku-9pbyen2x/
« 時代劇『鳴門秘帖』日曜深夜枠にてNHK BS再放送 | トップページ | アニメ「ちびまる子ちゃん」の注目度平均は上昇中 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント