[世間の評価、意義や思想性で絵を見てはい けない。早足で見る。自分が買うつもりで見る。自分でもちょっとだけ描いてみる。画家である著者が教える名画鑑賞術。「印象派の絵は日本の俳句だ」「ゴッホが陰に『色』をつけた 」「ゴーギャンが教える塗り絵の楽しみ」とは、など巨匠15人の代表作の真髄に迫る。解説:安西水丸]

印象派のリアリティー、油絵の具の感触、モネの日傘の芯棒、マネの黒魔術と黒猫、セザンヌの塗り残すチカラ、ゴーギャンの塗り絵、ブリューゲルの事物報道、フェルメールのカメラの目、マチスの色温、ルノワールの倦怠感。15分の9鑑賞。ブリューゲルの「雪景色の狩人たち」など簡単に名画散策する。
赤瀬川原平さんと美術館巡りをして、15枚の絵画を見て鑑賞するような気持ちになる。
モネ「かつてあった空気のたしかさみたいなものが,意味もなく悩ましい。」
マネ「この四つ足で踏ん張って立っている可愛い黒猫から,黒い色が発生している。」
ゴッホ「現実を前にしてこそ,それを写し描く中での自由が輝いてくる。」
ダ・ヴィンチ「レオナルドの絵は金属的なところが好きだ。」
コロー「食べると美味しそうだ。」
ルノワール「南洋の熱帯魚の刺身でも食べているみたいだ。」
「芸術というのは計算ができない。出来上がりのラインというのは、本当はあるようでいて、ないようでいて、あるようでいて、ない。そこが製品と作品の違い”。
展覧会は急ぎ足で見ろ。これはと思う絵の前だけ立ち止まれ。好きな絵、美味しい絵を本音で確かめ、身銭を切って買うのか考えろ。」
15巨匠の15作品を解説・批評。歯に衣着せぬ発言を独自にする。
「絵画も、味わいということでは食べ物に通じる。絵画は知識のためにあるのではない。味を楽しむためにある。栄養も知識もその結果としてついてくる」(84p)という。
絵は鑑賞するものだけど、もとは描くものである。だから描いてみないと鑑賞し尽くせないところがある。上手い下手に関係なく、いちど絵具を扱ってみると、ああ、あの感触がここにある、というのでそれだけ画家の位置に近づける、というのでそれだけ画家の位置に近づける。感触だけではない。空の色を出す難しさ、樹木を生き生きとした感じを出す難しさ、といった体験があってはじめて絵の面白さがわかる。あれは好きこれは好きと自信をもって言える。
だから絵を見るのが好きだという人には、ちょっとだけ描いてみることを是非お勧めしたい。別に上手く描く必要もない。人に見せるためではないのだ。恥ずかしければこっそり押し入れの中で描いてみるといい。キャンバスの感触、油絵の具の感触、どんな名画もこうやって出来るのだという入り口が見えてくる。
セザンヌについて
「でも、この緊張は何だろうかと思った。なんだか妙に生々しい。この作品の美品度というのが何か異常なほどで、まだできたばかりで一目にも触れていない、というほどの新鮮さがある。画家のアトリエから、まだできていないのに運ばれてきた、という生々しさである。」
「ではこのセザンヌの絵はどうする。すでに感動してしまっているこの感動の値打ちはどうする。
あらためて画家の筆先について考えてしまった。とくにセザンヌの絵の筆触である。タッチという。何か明らかに確信をもってタッチを重ねていると見えるのに、その確信がどこにあるのかぜんぜんわからない。そしてこのようにあちこちがばらばらに塗り残されている。」
東洋の絵ではよくあることである。水墨画など、中心はほとんど余白そのものである。空虚といってもいい。その空虚をあらわすために、ほんの少し松の枝を添えたり、人物を点在させたりする。塗り残しというより、それがもとから逆転している。まずベースとして空虚があるのだ。
西洋の絵で、描くことといえば絵具を塗りこんでいくことである。画面の隅々まで、そこに見えるものを描きこんでいく。分析的合理主義の充填である。
余白のことを間といったりするが、私たちはそれに慣れ親しんでいる。だからとりわけてそのことを考えたりしない。そういう自分の性質を忘れて、西洋のぎっしり描き込まれた絵を見る。自分と違う異文化に憧れたりしながら、そこに突然出てきた空虚に驚く。
「有名な大作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」も、まあいい。だいぶ画家の作り笑顔が出はじめてはいるが、それを差し引いても、ルノワールなりの絵を描く楽しみがあふれている。でもだんだんダメになる。
世間的にはそのへんからがルノワールらしいルノワールとして評価されていくのだが、そのころからルノワールはますます自分の絵に鈍感になっていくのだ。世間というのは、世間に迎合してくるものに対して甘い。それはじつは画家に対する落とし穴で、画家の方も世間を甘く見ているつもりで、じつはその落とし穴に落ち込んでいく。」
うーむ印象派の好きな著者は、ルノワールが露骨に嫌いなことを絵画解説しながらも発言されている。
ブリューゲルの『雪景色の狩人』における、人間と動物たちの数の数え方、そして遠くに見える火事現場の解説を面白く解き明かしてくれます。
ロートレックの『ムーランルージュの踊り』を紹介しながら、ロートレックが不幸と障害を抱えながらも屈託の無い明るい性格だったと説明してくれます。
アングルの『泉』を「風俗営業店のフロアに飾るにふさわしい絵画だ。」とけなし、ルノワールの『ピアノを弾く少女』を「緊張感がない」と一蹴している。
ユトリロの『モンマルトルの散歩道』で、
ジョーンズはなぜかユトリロの絵画に惹かれており、ユトリロがどうしようもないアル中で母親思いで、シュールレアリスムやダダイズムが吹き荒れる美術界において、愚直に
パリの町並みばかりを描いていたという経歴に共感を覚える。
ユトリロといいますと、白色の使い方が巧い画家と知られておりますけど、この作品では
ほんと卓抜しているといいますか、白なのに饒舌。画家のパリのいろんな思いや情報を
見ている側に伝えてくれます。
その伝え方がまるでうるさくなく心地いいんです。
シスレーの『サン・マメス』は単純に著者も、「好き」と書いて、ほんと素直に入れ込むことのできる画だなあと思いました。
赤瀬川さんは誰もが感じるであろうマネの絵の印象と疑問に対して、美術家らしい筆致で解説しています。
マネの『オリンピア』における黒の使い方を絶賛。横たわる娼婦の肌色が死体の色だと
し、その色との対照を褒めます。
マネの描いた「オランピア」がなぜ当時の人々を驚かせたのか、なぜスキャンダルになったのか、マネ以前の絵の裸体が抽象存在の裸であったのに対して「現実の肉体が服を脱いで裸になったとありありと感じた」からと推定している。
〈ヨーロッパの美術館を二、三まわればわかることだが、十九世紀以前の絵の色彩の抑圧というのはやはり凄かったんだという実感を持つ。ほとんどの絵が全部やに色で支配されている。人物や花など画面中心のテーマにはスポットが当たっていても、その周辺はいずれも焦げ茶色である。スポットの当たった人物や花にしても、その陰は黒っぽい焦げ茶色である。陰の部分に色を見る、ということはない。
夜は暗い、陰も暗い、暗いのは黒、という観念的な公式をもとに描かれている。絵を絵らしく見せる風習というものがしっかりあったのである。見た通り描いていたようでいて、それはその風習の中での見た通りなのであった。
ところがマネは黒い色が好きである。私にはこのパラドクスが実に面白い。マネの絵をあれこれ見るとわかるが、衣服や背景やその他、黒いものは黒々と塗っている。その黒が美しい。黒い色として美しい。それまでのヤニ色の絵の黒とは違うのである。絵画的風習に逃げ込むような、そういう迎合的な黒とは明らかに違う。むしろ挑戦的な黒い色だ。
それまでのほとんどの画家が黒をベースとして使いながら、それは黒い色ではなかった。それはテーマ以外をうやむやにするための、それを使っておけば間違いないという、安全パイとしての黒だった。それが十九世紀、自然の色をはじめてそのまま見て吸い込んだマネの目玉が、黒をはじめて色としてみたのだ。そして絵の中に大胆に、積極的に黒い色を塗りこんでいく。印象派を生む自然の明るい色彩世界は、最初に黒い色から始まったという不思議な皮肉。
マネのキャンバスに塗られる黒はしあわせである。やはり好きで塗られる色は生き生きしている。それまでの、仕方なく塗られていた黒の、生きる望みを失ったような表情とは段違いである。〉
このように色彩を現実にそって描写したのは、マネが初めてだろうと推測するのは斬新な視点ですあります。
美術館を歩いていきながら、さまざまなことに想いを巡らすガイドが素晴らしい。
「何か役に立つもの、何か得になるもの、何か言葉で説明できるものだけを求める人は、どうしても絵に描かれたものを言葉の項目で見ようとする。でも言葉というものは目の粗い笊(ざる)みたいなものだから、気持ちなんて形のないものは全部笊の目からこぼれ落ちる。」
「侘びや寂というのは、いわば無意識の美しさである。知らぬ間にこうなっていた、という美しさを見る目である。」
「たとえば日本人は古い物を嫌う。使い古しを嫌っていつも新しい物を使いたがる傾向がある。名品として古い物はともかく、ふつうの古い物には人前でコンプレックスを感じたりする。だからむしろ侘びや寂という古さに美をみつけることができた。」