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2025年6月29日 (日)

種村季弘『山師カリオストロの大冒険』

種村季弘『山師カリオストロの大冒険』

中央公論社 昭和53225日 初版

装幀:野中ユリ

帯文:「全欧州を股にかけての詐欺行脚

カリオストロ伯とは何者か――。シチリア生れの稀代のペテン師、魔術師にして錬金術師、フリーメーソンの大首長。ある時は紙幣贋造家、ある時は偽医者、またある時は美人局、etc。大革命の予言者、バスチーユや聖天使城の住人、そして「人間」」


「詩人も山師も、王権の衰弱を露骨に暴露するその よそ者性 によってつねに要注意の危険人物でなかったためしはないのである。」

(種村季弘 『山師カリオストロの大冒険』 より)


目次:

 ゲーテ対カリオストロ

 高貴なる旅人

 北方の放浪山師

 詩人と悪漢

 王妃の頸飾り事件

 天使城の終身囚

あとがき

年譜

参考文献

https://share.google/IDJRiCyFLVyrG3D0J


◆本書より◆

 ゲーテ対カリオストロ」より:

「さるにても、事実と符合しない部分のすくなくないカリオストロの回想録を口から出まかせの嘘八百と考えたのは当時の「一般大衆」であって、すくなくとも隠秘学を少々かじった知識人がそれほど単純な受け取り方をするはずはなかった。実際エッカーマンに打ち明けているように、ゲーテも事実と真実とを混同しがちな一般大衆の単純な反応はとみに警戒していた。カリオストロの身上話は事実ではないとしても、比喩としてなら出鱈目どころかこれ以外に真実の語りようはなかったのである。孤児が自分の輝かしい出生の隠された秘密をたずねて親探しに放浪するという筋書の物語は、オリエント-地中海一帯のグノーシス思想やマニ教のイニシエーションにおける重要な秘伝である。マニ教徒たちは自分たちを孤児と称していたし、錬金術師がその作業(オプス)の最初に扱う第一原質(マテリア・プリマ)のまたの名も「孤児」である。孤児は艱難をきわめる遍歴の末に真の親を探し当てて、すなわち高次の秩序の支配する世界に転生するであろう。」


「イタリアからの帰国後、ゲーテは奇妙にあわただしく、何者かに追われるようにして古典主義の傘下に身を寄せた。カリオストロ体験も、パラゴニア庭園の彼方に垣間見た東方の神秘の庭も、すべては厳格な形式の殻のなかに密封され、革命とロマン的陶酔との直接の接触は慎重に回避される。」

「ゲーテ対カリオストロの虚々実々の合戦はひとまずここで終る。(中略)だが、(中略)双生児たる詩人と山師、芸術家と犯罪者の間には、おそらく両者を仲介する第三項たる英雄が介在しなければ真の意味の勝敗は着き難いのである。」

「英雄はやってきた。但しその真偽の程は請け合い難い。確実に言えるのは、この大物の登場によって、死せるカリオストロの記憶もゲーテの現存も、みるみる色褪せたということである。そしてこのいかがわしい英雄すらもが没落した後から踵を接して、あの生真面目で退屈な十九世紀がやってきた。

 カリオストロが先ぶれとなってヨーロッパにもたらされた「無秩序」、すべての階級と人間が自分の居るべき場所を見失ったと感じた無政府状態は、ところもコルシカ島生れの青年将校ナポレオンの登場によって、すべての人間があるべき場所を見出すはずの皇帝独裁に転換された。」


 高貴なる旅人」より:

「カリオストロのヨーロッパ諸宮廷における活動は、もともとカリオストロ個人の才腕のみによるものではなかった。彼を受け入れる側にあらかじめ催眠に罹りやすい素地があった、というよりはむしろ彼を口実にして狂熱的な夢遊状態に陥りたがっていた時代の一般的動向が先行していたのである。カリオストロがいなければ、人々は確実に一人のカリオストロを作り上げたのに相違ないのだ。啓蒙主義と百科全書派が、ドイツでならカントとレッシングが、理性の光によって地上から神を一掃し、同時にイエズス会が解散して「地下」に潜ったとき、急激な時代の転回は前代の敬虔主義(ピエテイスムス)に基づいた宗教感情に何らかの代償物を当てがってやらなければならなかった。」

「カリオストロ伝説を古来の魔術師伝説の再来として仮構したのは、カリオストロ自身であるよりもはるかに同時代人の方だったのである。十八世紀人にとって、問題は、カリオストロのような人物が、したがってこの怪物を作り上げたアルトタスのような導師が、いたかどうかではなく、むしろいて欲しかったのであり、いなければならなかったのである。」


 詩人と悪漢」より:

「カリオストロという一人の男に帰せられたありとあらゆる矛盾する諸要素は、十八世紀末という時代そのものに内在する矛盾であった。むしろカリオストロは、彼一個が矛盾をことごとく具えた複雑な人格であるよりは、「特性のない男」であるその無垢な単純さのうちに時代の混乱を映し出した鏡であったのではなかろうか。」


「詩人たちは悪漢(ピカロ)を書いたが、書いたばかりではなく、彼ら自身の上に多少とも悪漢とまぎらわしい節々が見られた。彼らは芸術家と詐欺師との間の密通関係を明晰に洞察しているのである。(中略)近代市民社会における芸術家は、身許不明の詐欺師とまったく同様に、かつてゲオルク・ジンメルがよそ者を定義したような意味での「遠近の共存」を体現していて、遠くにいながら近くにいる。カリオストロの場合なら遠いエジプトに根拠を持ちながら、ここストラスブールに登場しているのである。ここにいながら、彼はここの住人とは異なってエジプトからここを鳥瞰するすべを心得ている。ことほど左様によそ者の社会学的役割は目先の現実に捉われないその公平無私な客観性にあり、さまざまの主観的利害関係が紛糾して収拾不能の観を呈していた十八世紀末ヨーロッパ社会では、慣習に捉われないよそ者の不羈奔放な客観性、高次の普遍性にしたがって卑近な現実に対処する行動様式は、旧体制の重圧にたいする清爽な風穴のように思われたのであった。」

「詩人も山師も、王権の衰弱を露骨に暴露するそのよそ者性によってつねに要注意の危険人物でなかったためしはないのである。」


 王妃の頸飾り事件」より:

「バスチーユ占拠の模擬演習を主宰し、革命を予言したカリオストロは、現実の政治的変革から何らの利益も受けなかったのであった。(中略)では、彼は一体、革命前夜のパリで、何をしたというのだろう。何もしなかった。ただ通りすぎただけであった。そのことを誰よりもよく知っていたのは彼自身である。(中略)「これが私である。私は貴人にして旅人である。私が語る。すると諸君の心は古代の言葉を聞いてざわめく。すなわち、諸君の胸のうちにあって、久しい以前から沈黙していた声が、私の呼び声に応えるのだ。(中略)国々を私は、いたるところに聖霊(レスプリ)が来臨して諸君に通じる道を見出すことができるように、そのために巡り歩く。(中略)まことに私は通過するだけなのだ。私は高貴な旅人(ノーブル・ヴォワイアジュール)ではないだろうか?」

 彼は諸々の物質の間を化学的触媒のように、あるいは錬金術的化金石のように通りすぎる。その結果、物質たちは以前の状態から分裂と結合の激烈な運動を通じて高次の変革された状態に移行するだろう。だが、通りすぎるのみの「高貴な旅人」であるカリオストロは結果の恩恵に与るものではない。」

「高貴な旅人が通った場所では一切が変化するが、旅人その人はすこしも変らないのである。」

「そもそも悪漢小説(ピカレスク・ロマン)は正確に裏返しにされた「高貴な旅人」の遍歴物語であり、悪漢(ピカロ)はパロディーとして俗の側から造型された聖なる通過者にほかならない」「悪漢小説の悪漢は「誰でもない人」としてさまざまの欲望と情熱の渦巻く場を通りすぎる。そして彼が風のように来り去った後で彼に触れた欲望と情熱はそれぞれが自覚的な形の究極に達して、みずからに潜在していた喜劇性を期せずして公開してしまう。

 『タルチュフ』や『大コフタ』や『こわれ甕』の作者が意図していたのも、この乙に澄した連中の見かけ倒しの、一人の触媒的存在による情け容赦のない暴露であった。一篇の貴種流離譚はつねに山師の冒険小説とすれすれに表裏をなしているのである。」



「あとがき」より:

「同一人物のなかで精神と肉体がこれほど分裂している人間もめずらしいのではなかろうか。一体、どちらが真のカリオストロ像なのであろうか。精神の側からアイデンティティーを追って行くと肉体の生臭い壁に突き当り、肉体の側から正体を突き詰めると精神の気流に足をすくわれる。そもそも伝記を書くという作業は、相手のアイデンティティーを前提にしなければ成り立たない。それならば、生身をつかまえたと思うと影だけが一人歩きしてどこかへ遁走してしまうような、このシャミッソーの小説の主人公のような人物をどう料理すればいいものかと、私は思いあぐねた。といって、本音と建前が一致しない人間が、本音を抑えて建前を通したとか、ついに本音を吐いたとかいった類の話ではない。

 どうやら、なまじアイデンティティーなどに気を遣うのが間違いのもとだったのである。精神と肉体の分裂を悪びれずに認識し、これを解消するよりはむしろ両者の分裂をこそ方法として行動した、一人の爽快な行動家の肖像を描けばいいのだ。そう気がつくと連立方程式はすらすらと解けた。」


本書「あとがき」より

「山師であることと聖なる警世家であることが裏腹に矛盾するというのは、アイデンティティーなるものに固執しているからで、メービウスの帯のように表をなぞっていると裏に、裏をなぞっているとまた表に出てしまうようなトポロジックな空間のなかにわが主人公を泳がせてみると、かけ離れた両極の間には対比ではなくてむしろ打てば響くような共謀共犯関係が働いていることが判明する。そして、思えば、現代の私たちもまた、同じように奇妙にして且つまっとうな、トポロジックな空間構造のなかにげんに生きているのではなかろうか。 


「本書の原型は、文芸誌「海」(中央公論社発行)の昭和五十一年二月号から同年十二月号にかけてほぼ隔月連載した同題の雑誌原稿である。単行本編集に際してはかなり増補と改訂を施した。執筆前にカザノヴァ研究家窪田般彌氏に文献その他に関して頂いた御教示が大変参考になったことを、ここに申し添えておきたい。」

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