園井恵子32歳の夏
園井恵子[1914-1945]
宝塚出身で新劇「苦楽座」にはいった女優園井恵子は、昭和18年の大映映画『無法松の一生』で阪妻の相手役吉岡夫人として起用され、その凛として優雅な姿は観客をうならせる。
大映は専属契約の話をしたが、園井は「折角ですが、私はまだ当分、苦楽座の人たちと舞台の修行をいたしたいと存じますから」とことわった。苦楽座同人の徳川夢声は「この時、彼女がもし、大映の専属となり、苦楽座から去っていたなら、広島の原爆死はなかったのだ。何を好んで彼女は、ロクに給料も貰えない苦楽座なんかに囓りついていたのであろうか?」と記した。
劇作家八田元夫は「美しい、きまじめな、心がけのよい女優」と書いた。
夢声は舞台での園井について記す。「舞台の上で、彼女が息をはずませて相手役である私にすがりついてくる時など、一瞬ではあるが、彼女はほんとに私を恋しているのではないかと錯覚が起るほどだった」
東宝の映画監督山本嘉次郎も『無法松の一生』を見て、「その繊細巧緻な芸風と、清楚でそのくせ、どことなく漂うほのぼのとした色気」に感嘆して次回作の主演女優を園井恵子にしたいと考えて、彼女のために脚本を書き、その行方を探し求めたが、彼女がすでに移動演劇に属して地方に出てなかなか所在がわからなかった。ところがある日、東宝撮影所にゆくと、いま園井恵子が来て、映画の仕事を求めて、2、3分前に出ていった。山本はすぐに追ったが、彼女の行方は逃げ水のごとくとらえることが出来なかった。
このことを「夏の、ベラボーに暑い日」と、山本は記している。『無法松』の封切は10月で翌昭和19年であったろうか。死神は、ここでも彼女を離さなかったのである。
● 朗読劇 「私は芝居がしたいの」
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園井恵子は苦楽座の移動劇団、俳優丸山定夫のひきいる「桜隊」の一員として、昭和20年6月末に広島に来て、そこを中心に中国山陰各地を巡演して、たまたま広島に戻っていた8月6日、原爆の閃光下に置かれた。
彼女はその朝、丸山らとともに広島市堀川町の宿舎にいて、爆風で庭に吹き飛ばされて一時失神した。気がついてから、やはり庭に吹き飛ばされていた座員の高山象三とともに、燃える町から広島東方の比治山へ逃げたが、8日、宝塚時代からの彼女の後援者であった神戸六甲山麓の中井家にたどりついた。
そのときは園井は、まだふしぎに無傷に見えたが、次第に発熱と身体の痛みを訴えるようになった。
「19日の園井の体温は39度。体の節々の痛みを訴えました。翌20日朝の体温は39度8分。胸部の苦しさを訴え、左腕に紫色の小豆大の腫瘍が出来、脇や腰に皮下出血があって、そこをしきりに痒がり、脱毛が始まりました。夜になると額に脂汗をにじませて息遣いもあらく胸の苦しさを訴え、時々幻覚が起り、その夜下血して、内臓が破壊していることを示しました。皮下出血の紫色の点々がどんどん増えてゆき、左腕の小豆大の腫瘍は葡萄大にふくれて壊疽状を呈し、湯を訴え、全身を痒がって、掻いてもおさまらず狂いだしそうで、体温は40度を越えました。
その時、隣室では、象三の通夜がひそかに行われていましたが、その間、園井の苦しみはつのるばかりで、ふと幻覚におそわれて声をあげたりし、それもすでに言語中枢がおかされているのか言葉にはならず、全身を痒がって訴え、左腕の壊疽は杏大となって黒紫色の光を帯び、皮下出血が全身に拡がっていました。
21日。(中略)
園井の左腕の杏大の腫瘍は桃の実ほどにふくれて熟れきっていたのを、薄田のママが注射針の先でちょっと突いただけでぷすと音をたててくずれ、黒紫色の血膿がとくとくとほとばしり出ました。園井はすでに意識は混濁していて、視点のない瞳を空しく動かしながら何か言いたげに笑いました。
薄田のママがそれにあいづちを打つように、
『ええ、ええ、すぐらくになりますよ、早くよくなってねえ』
などとはげまし、やさしく手を撫でてやる。やがて呼吸がせまってきて、悶絶の形で園井の息が絶えました」(江津萩枝『桜隊全滅』)
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