「佐藤春夫詩集」私の柱時計 十三時
「佐藤春夫詩集」第一書房
海の若者
若者は海で生れた。
風を孕んだ帆の乳房で育つた。
すばらしく巨くなつた。
或る日 海へ出て
彼は もう 歸らない。
もしかするとあのどつしりした足どりで
海へ大股に歩み込んだのだ。
とり殘された者どもは
泣いて小さな墓をたてた。
私の柱時計
ある日、私は、ある場末の時計屋で古びた風變りな時計を一つ買つて來た。壁に掛けてから三時間以上もそれを眺めて、私は遊んだ。電燈がついてから、次のやうなものを書いた――
文字は喜のやうに鮮かな金
文字板は死のやうにまつ黒
ぐるりは花と葡萄葉との飾
振子と言へばたつた一房の
風に搖れるあまい葡萄の實
このよい柱時計の細工人は
無名でこそあつたがきつと
エピキュラス程の賢者だつた
美しい教はつつましいから
人に知られずに三十年の間
場末の店で塵まみれだつた
チクタクチクタクチクタク
十三時
客よ おどろくな
十三時だ。時には
二十三時も打つ。
だが針を見ろ 十一時だ。
このキテレツな時計こそ
部屋の主あるじとおんなじだ。
かんぢようは出鱈目の
メチヤクチヤだが
理性の針は正しいよ。
喜劇
女は夫を得て跳梁する
男は妻を得て萎靡する
跳梁するから彼女は彼を愛し
萎靡するから彼は彼女を憎んだ。
すべての哲人の妻はクサンチッペであり
すべての鐵瓶のつるは鐵である。
喜劇ほど人を憂鬱にするものはない
ドン キホオテを見ると泣けると
アナトオル フランスは言つたのだが。
« 『ちくま哲学の森』(筑摩書房)書籍データ | トップページ | 『ちくま文学の森』全16巻(筑摩書房)書籍データ »
« 『ちくま哲学の森』(筑摩書房)書籍データ | トップページ | 『ちくま文学の森』全16巻(筑摩書房)書籍データ »


コメント