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2026年5月21日 (木)

夢野 久作(1889年〈明治22年〉1月4日- 1936年〈昭和11年〉3月11日)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年〈明治22年〉1月4日[1] - 1936年〈昭和11年〉3月11日)は、日本の小説家。陸軍少尉、禅僧、新聞記者、郵便局長という経歴も持つ。幼名は直樹、出家名は杉山泰道(すぎやまやすみち)、号は萠圓、柳号は三八。

三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』をはじめ、田舎の風土を醸したホラー、怪奇幻想の色濃い作風で名高い。詩や短歌に長け『白髪小僧』中の神話、『猟奇歌』などに代表される。絵もよくし、初期には『九州日報』で童話や今でいう一コマ漫画を描いた。

父は政界の黒幕と呼ばれた玄洋社の杉山茂丸。長男はインド緑化の父と言われる杉山龍丸。三男は詩人の杉山参緑。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は孫[2][リンク切れ]。

1936年(昭和11年)3月11日脳溢血で死亡、享年47。

生涯
1889年(明治22年)1月4日、杉山茂丸、ホトリ(旧姓: 高橋)夫妻の長男として福岡県福岡市小姓町に生まれる[1]。祖父杉山三郎平から、弘道館記述義、四書五経[3]、謡曲と仕舞[4]を学ぶ[注釈 1]。1892年(明治25年)元黒田藩能楽師範、喜多流の梅津只圓の下、能楽修業に入門。

大名尋常小学校(現福岡市立大名小学校)、尋常高等小学校を卒業。福岡県立中学修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)に入学[5]、宗教、文学、音楽、美術に凝り、テニスに夢中になる[3]。

1908年(明治40年)修猷館卒業。同年、茂丸が福岡の祖母と母を東京に呼ぶことを条件に徴兵検査を受け、一年志願兵として近衛歩兵第一聯隊に配属される[3]。

1909年、一年志願兵の訓練を終える。杉山農園創立[5][注釈 2]。

除隊後、文学と絵画・美術への興味から1911年(明治44年)に慶應義塾大学部予科文学科に入学し、歴史を専攻[6]。翌1912年(明治45年)在学中に見習士官としての将校教育を受け、陸軍歩兵少尉に任官[7]。

1913年(大正2年)、文弱を嫌う父茂丸の命により、慶應義塾大学部を中退し、福岡に帰り数名で杉山農園を営むものの失敗に終わったが、後の創作に影響を与えることになる[要出典]。その後、1915年(大正4年)東京市文京区本郷の喜福寺にて出家し「杉山泰道」と改名し、法号を萠圓とする[7]。

1916年、奈良や京都で修行し、吉野山や大台ケ原山に入る。しかし、2年ほどで僧名泰道のまま還俗し、1917年に農園経営に戻る。同年ごろより、父杉山茂丸門下生が創刊した雑誌『黒白』などにエッセイなどを書くようになる[7]。

1918年(大正7年)、鎌田クラ(福岡市荒戸町)と結婚、鎌倉長谷の杉山家で式を挙げる(4月25日、入籍は4月18日)[8]。喜多流教授となる[7]。

1920年、父が社主を務めたこともある九州日報社(現『西日本新聞』)の新聞記者となる[9]。同紙にルポルタージュや童話を掲載するようになる[10]。

1922年「きのこ会議」を『九州日報』に発表[11]。同年、杉山萠圓の筆名で童話『白髪小僧』を誠文堂から刊行した[9]。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で築地の杉山茂丸の自宅が炎上、九州日報社特派記者として上京、多くのスケッチを残す[9]。1924年3月1日、九州日報社を退社。

1926年(大正15年)、5月11日の日記に「終日精神生理学の原稿を書く」とあるように、『ドグラ・マグラ』の原型となるものの執筆が始まったが構想などはより以前からあったと考えられる。同年3月16日には日本で初めて切絵を使った童話『ルルとミミ』を九州日報夕刊に発表する。さらに同年には九州日報社が経営困難となり、東京で父、頭山満、内田良平らと共に資金集めに奔走した[要出典]。同年5月上浣「あやかしの鼓」を雑誌『新青年』の懸賞に発表して同率二等に入選し、文壇入りを果たす。「夢野久作」の筆名は、息子の作品を読んだ父茂丸が「夢の久作の書いたごたる小説じゃねー」と評したことから、それをそのまま筆名としたものである[13]。「夢の久作」とは昔の博多の方言で「夢想家」のことである。以後、本格的に『新青年』や『ぷろふいる』などの雑誌に投稿するようになり、童話は書かなくなる。

1930年(昭和5年)5月1日に福岡市黒門三等郵便局長を拝命する。

1933年(昭和8年)『新青年』に『氷の涯』を発表。

1934年、「骸骨の黒穂」を『オール讀物』に発表。

構想、執筆に10年以上をかけた代表作『ドグラ・マグラ』が、1935年(昭和10年)1月に松柏館書店から刊行され、出版記念会が東京(1月26日)と福岡(5月4日)で催された。同年7月19日、父杉山茂丸が脳溢血のため、東京麹町三年町の自宅で死去[注釈 4]。

翌1936年3月11日朝、渋谷区南平台町の自宅で死去[17][注釈 5]。

死後は父と同じ墓、福岡市の一行寺に葬られ、久作自身が生前刻んだ墓標がある。戒名は悟真院吟園泰道居士。

なお、代表作『ドグラ・マグラ』は、1988年(昭和63年)、桂枝雀主演で映画化された。

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