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2026年8月 8日 (土)

『ゲームの規則』ミッシェル・レリス- (平凡社)


神話の偉大さに達した告白文学の傑作。
作家の生の余白というにはあまりに濃密・バロックなアラベスク的断章群。
(全4巻完結)

https://search.app/vWrbX9njkGAcUQyh9


◆本書より◆

壱

「時には羅針盤で、時にはナルシスの僕は、最初自分をもともと不確かで動きやすいものに、ついでほとんど石と化すまでおのれを観照しつづけて動かぬ人物になぞらえたあと、どのような手を使ってそのあと切り抜けたらいいのかなかなか分からなかった。そぞろ歩きを介入させ、長い二つの観照のあいだの幕間のような――あるいは遊び時間のような――湖の周辺の彷徨に助けを求めたらいいと気づいたのはそのときだ。こうして、かなり苦心したあげく、僕は最初に持ち出した相反する二つの言葉、すなわち彷徨い(羅針盤の針が「方角を見失った」とき、あらゆる方角に動くような)と不変(何について話そうと、いつも自分に立ち戻る人間が変わらないような)とを折り合わせることに成功した。(中略)こういうわけで、僕はいまや、森の中を走りまわり、幼年時代の記憶の眠っているあの湖へたえず立ち戻るナルシスだ。(中略)けれどまだそのあと、飛び込みを、解放の跳躍をしなければならない。それは、幼年時代の水の中に身を浸すことを可能にしてくれるはずであり、水はその瞬間から現実のものとなるのだ(中略)。しかしここで事は複雑になり、比較ははっきりと中途半端なものになる。なぜって、最小限いえることは、ナルシスの跳躍は「死の跳躍」であり、それが彼を解放するとしても、その解放は彼の消滅を条件としているからである……。すると僕のほうはどうなるのか。

 だから冗談はやめだ。そして僕は単刀直入にこれらの幼年時代の思い出の懐の中に飛びこみたい。」


「空気の精や小妖精よりも、水の精(中略)よりも、地の精グノムは子供たちの仲間だ。たぶん、長い髭をはやしているくせに、子供にそっくりの小人のような背丈のせいで。もっと正確にいうと、この貧弱な背丈と周囲のものとの関係のせいで。たとえば、子供たちがテーブルの下に隠れるのと同様、傘の中に入るみたいに彼らがその下で雨宿りをする樹木とか、大人たちの脚の森の中に簡単に入りこんでゆくごく幼い子供たちさながら、彼らが根のまわりをぐるぐるまわる大木とか、(中略)背丈が似ているため、グノムと同じ視角(引用者注: 「視角」に傍点)(体がモラルを作るということを認めるなら、観点といっても同じ)を共有している子供は、彼の中に子供の枠から出ないままで年寄になった場合の自分の姿を認める。グノムの挙動についてきかされたり、絵で見たりするすべて――習慣、いたずら、受難、悩み――は、共犯者たる子供の耳目をそばだたせるだろう。」


弐

「死」より:

「夜に対するおびえ。闇に対するおびえ。しかし問題となっているのは、物がはっきり見えないとか、闇の黒い塊しか見えないということではない。一日の時刻の中で眠りが支配する謎めいた部分についての思いがそこにはある。それこそは神秘の世界であり、その異常さは、自分ひとりは目ざめていて、他の人々はもはや限られた生しか生きていないと気づくとき実感される。(中略)夏の夕方、たそがれといわれる時刻(覚醒の世界と眠りの世界の国境地帯であると同時に、昼と夜のはざま)に、四十五年ほど前にはまだかなり田舎だった郊外を散歩するのは、たしかに、僕がいつもそうであったような不安に襲われやすい子供にとっては、あまり安心できることではなかった。まず夕暮という、一日の中で、不安にはお誂えむきの時(大人になってからでさえ、アフリカへの最初の旅から戻ってきて、パリの夕暮に再び馴染むのにある種の苦労をしたとき、僕はそのことを実感した。夕暮というものがほとんど存在しないといっていい熱帯地方に比べ、パリの夕暮はあまりにも長く、物悲しく、耐えがたかった)。それから、町の幼い住人であった僕の目に、たかが郊外にすぎなかったが、見慣れていた都会の外観より様子がずっと鄙びた風景の帯びていたエキゾティシズム。最後に、夜が近づく頃合、ヴィロフレのような村のごく近辺ですらが、両親が住んでいた、当時はとても静かだった界隈にいてさえ、町の通りのある種の賑わいに慣れていた子供にとっては強い印象を与えたほど、寂漠として、ひと気がなかったという事実。」


「他の一切が眠りこんでいる(あるいはそう見える)とき、異様にもひとり目ざめている者。時間を端折る(あるいは否定する)ことができたと信じる者のめまい。地下世界というあの逆さの世界での、閉ざされた空間の広大さへの一瞥。」


「目を背けようとしている――にもかかわらずそこにあることを知っている――この死は、僕の人生をそれが終わる前にもう変質させてしまっているのだから、恐怖を抑え、眼を大きく開け、明晰な精神をもって、迷うことなく、自分を待っている運命を避けようとせず、勝負を賭ける気持で、それが来るのをみつめるという根本条件がみたされないかぎり、この人生をなにか価値あるものにしようとするのは、愚の骨頂ということになろう。だから僕がしなければならない転換は、一切を変革するほど重大なものとなる。その転換とは、先祖代々形成されてきた集団への帰属は死の保証だからといって家族を憎む――一種子供っぽい拒否の念から――かわりに、血統に逆らうことなく、共通の恐怖に同調しないことによって自分を他の遊星の一員にしたいのなら、それとは反対に死を軽蔑しようと努めるといったたぐいのものであろう。」

「僕を捕えないかぎり、死は総じて、遠ざけるべきではなく、むしろ飼い馴らすべき観念だ。」


参

「どんなことになるのか先をよく考えずに突進し、コインを投げてその裏表で決めるようなやり方で自分の命をあずけるに似た向こう見ずなふるまいを成し遂げること。睡眠薬を嚥むことで私がなおも求めていたのは(あらゆる批判をかわすためには、一連の愚行の最後の仕上げとして、輪をかけてそれ以上の愚行を付け加えざるをえなかったというかのように)、無に帰すというよりも、ある種の貪欲さの極限に深く落ちてゆくことだった。」


「Ⅲ」より:


「本書には、さまざまな種類の記述、記憶のなかにある人物の肖像、夢および現実の出来事の叙述、精神状態についてのメモ、雑多な話題についての所見を整理されぬままに投げ入れる結果になったが、すべてはこれといった成果をあげぬままに折り重なってバロック的な繁茂の状態を生み出している。」

「いまやこの状態から脱出しなければならない……。」


「あまりにも長々と続くので時間の目印をつけようにもできないでいるこのとりとめのない記述に、歳月の経過とともに生じる変遷と出来事の彼方に、一撃のもとに、私が言い当てようと望む本質を、把握可能な塊として凝縮させるための最終的な努力に先立って、あえて現在時を導入すべきと思われたとき――本はどこまでも勝手にひろがり出し、すでに執筆が終わった部分も溶けて私の背後で輪郭の定まらぬ塊に変わり、目標が見えなくなる――私の足元は覚束ないものになったのだ。結局のところ、私の思考が強固なものとなるどころか稀薄になるように思われるのはあまりにも緩慢だからであり、時間の観念が固定観念と化すまでに私に取り憑くのであり、その一方では時を挫折させるための文章行為に対する狂おしい執着が強まるのだった。それでもなお、いわゆるバロック趣味なるものに誘われて、まっすぐ目標に向かって進むのではなく、装飾模様と脱線話の寄せ集めとなる(あたかもそれらがわが探求の直接の帰結だというかのように)道筋ははっきり見えていて、そこにあるのはすみやかに目的地に達したいという思いを邪魔するやり方なのである。だがそれと同じくらいによく見えているのは、諦めてそうした道に突き進めば、自分独自のものである本来の主題から逸れてしまうことになり、こうしたバロック趣味はすでに美的感性の問題に関する自分の性癖の一要素となっており、(望んでいるかそうでないかは別として)真理といってもあまりにも微妙で感覚的なものであって、美と深いつながりをもつので、現実の生活のなかで私の心を動かしたり、私の心を惹いたりするもの、そしてまた文学面にあっては、抗しがたい魅惑があって否応なく私をゲームのなかに引きずり込むものを通じて追求をおこなうほか手立てはない。」



四

「もし、くるりと輪を描き、そこから出発した虚無に立ち返らなければならないとしたら、人生全体を要約すると零――尾を咬む蛇あるいは環状鉄道――になってしまうのではないか。ただ、円環の内側の白さを黒く塗りつぶす何か、空虚を充実に転換させ、底なしの湖を島にする何かを書き殴る、という問題が残る……。とはいえ、この零は、わたしたちが拠り所とできるものが何もないと示しているのに、いったい何を書き殴ればいいのか。」


「それは、わたしが知らないでいた意味を担って、わたしの人生の一段階などではなく、ある局面をそっくり丸ごと予告していたのではないか。

 まだ年端のゆかないころ、台本は『ヴィルヘルム・マイスター』〔ゲーテの小説〕の一挿話から(かなり間接的ではあるが)着想を得ているオペラ=コミックの『ミニョン』〔一八六六年に初演されたアンブロワーズ・トマの歌劇〕に出てくる「卵の踊り」の場面を、姉が語ってくれたのを聞いて同情してしまったのだが、そのむずかしい踊りが自分に課せられた場合にほぼ匹敵するほどの不安を、わたしは感じていたのだ。その踊りを見せればもらえるいくばくかの金を欲しがったロマ人の団長たちに強制され、かわいそうな少女は、卵があちこちに置かれた狭い空間で、卵をひとつも割らずに動きまわらねばならないはめになり、もし割ろうものなら、ひどい虐待を目にすると怒るような人がその場からひとりもいなくなったとたん、すぐに叩かれてしまうのだ!

 やろうとした芸当をしくじっても、わたしがいかなる体罰も受けることがないのは確かだし、わたし以外の誰もわたしを精神的に鞭打ったり、叩いたりはしない。だがそれでも、眠っているときでさえ、わたしは自分の内的な曲芸を最後までやり遂げられないのではないかという恐れに悩まされるのだ。」


「取るに足らない気がかり(書かねばならない手紙やかけなければいけない電話、やっておくべきちょっとした働きかけ、実行しないといけないわずかな移動)でできた針穴から、不安だらけの世界がわたしのなかに入り込んでくる――それが原因であらゆることが問い直される、といった具合にそのささいな行為がつきまとい、死活問題並みに重要視するはめに陥るかのようにして――のと同様に、それに劣らずごく微細な事柄がきっかけで、不安がそっくりなくなってしまうようにも思えたりするのだが、その微細な事柄というのは、なぜだかよくわからないがわたしの心を打つ場所の眺めとか、束の間の出会いとか、散歩をしている人はそこらあたりのあれやこれやを楽しんでしまうものだが、それと同じで現実的な影響力をあまり持たないような外界の出来事とかだ……。驚くべきは、不安の巨大さとそれを引き寄せたり押しやったりするもののくだらなさのあいだの不釣り合いで、あたかもこうした場合、量的な価値は機能せず、何であれ数量化されるようなものとは関係のないままで、悪い結果や良い結果をもたらす性質だけが問題となるといった具合だ。」


「すべてが無駄で、できたこともできなかったことも意味がなかったと考えてみても悲しみは和らがず、自分の人生で記憶に残る価値のあるようなことはたいしてないと彼は思っていた。至るところで失敗を重ねていて、作家として失敗したが、それは自分に向ける視線を超えた境地に至ることがほとんどできず、詩に到達したのはごく稀にすぎなかったからだし、さらに、絞首刑や狂気、さもなければ永遠に帰ってこられない旅立ちといった宿命を背負った人間の器でないと自分でわかっていたからで、反抗者としても失敗したが、それはブルジョワの快適さをけっして避けなかったからだし、さらに、革命家となる意志を漠然とながらもずっと持ちつづけてはいても、暴力も犠牲も嫌いで、闘士の資質はまったく持ち合わせていないと認めざるをえなかったからで、愛人としても失敗したが、それは彼の人生のなかで恋愛に関する部分はきわめて平凡で、恋の激情はすぐに衰えたからで、旅行家としても失敗で、というのも、母語である唯一の言語に事実上閉じこもり、たとえ自分の国にいても、生物にしろ無生物にしろ何かを前にしてくつろぐのは誰よりもおそらく苦手だったからだ。民族誌学者という職業から彼が引き出したのは、ほんのわずかなことだけで、スーダンの秘儀加入者の言語に関しての、そしてエチオピアの儀礼的憑依に関してのきわめて特異な研究、「黒人芸術」についての間接的な研究と、恭しい意図を抱いてのものではあっても、たいして力を持たない反人種主義的な方向にむけられたその他の研究、そして最後に(これこそが、最も記録しておくに値する自分の業績だと、ひどく陰鬱な気分に襲われたときに彼は考えていたものだが)、民族誌学を、西洋の科学のためではなく、第三世界の人びとに役立つものとするという意思を示した何本かの論文があり、その意思はいかにも素朴なもので、それというのも当事者たちはもっと別のことを心にかけていたからだ……。

 非常にうつろな虚空のなかにあっても、自分を総合的に評価した場合に、いずれにしてもひとつはよいおこないに分類できるものがあったとそれでも考えることが彼にはあったが、それは、子どもを作るというおこないの否定だった。骨の髄まで反抗者であったわけではないが、少なくとも協力はしなかったという点を自慢にして、当時は誇らしく感じることのできた行動回避。」


「その主な――それどころか唯一の――効用は、おそらくは、源泉を見つけたいという望み、そしてその源泉を今度ばかりは霞のなかや幕越しにではなく正面から見据える力をわたしに与えてくれたことだった、とそう言ってもよさそうな複雑さを、あんなにもたくさん経て、単純さに(可能なら、馬鹿みたいな簡単さといったものに)到達しようとすること。そうした自己への回帰を」

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