京王線の笹塚~調布間には、1時間に21本も電車が走っている。ラッシュアワーではなく、昼間の電車である。
複々線でもなく上下それぞれ1本ずつ、計2本の線路に電車が走ってるる
京王線は他ではなかなか見ることない、とてつもない通勤路線である。
京王線でも最大の要衝は調布駅である。八王子・高尾方面に向かう京王線と、多摩センター・橋本方面に向かう相模原線が分かれるターミナル。1日の脚は11万5507人に及ぶ(2023年度の乗降人員)。
京王電鉄全線では、新宿・渋谷・吉祥寺に次ぐ、第四の駅となる。
上位3駅が他路線と接続するターミナルで、中間の京王単独駅では調布がいちばん。
調布駅は地下にホームがある駅、もともとは地上にあって、2012年に地下に潜った。
連続立体交差事業で、ホームは上層・下層に分かれる。かなり規模の大きな駅。
地下のホームから階段を登って登って改札を潜り、さらに登って地上に出る。もちろん地上はかつて線路が通っていて駅があった場所。それがまるごと地下になったのだから、地上は実に広々としている。
中央部に大きな広場があって、東と西には「トリエ京王調布」という京王系列の駅ビルが建っている。
駅ビルはA館・B館・C館とあって、A館にはレストランやスーパー、B館はビックカメラ、C館には映画館が入っている、至れり尽くせりの駅ビル。
南北それぞれにあるバス乗り場の向こう側にも商業ビルがあり、北側のバス乗り場の向こうのパルコの奥にも西友とドン・キホーテがある。南側もグリーンホールという文化施設があって、その裏には調布市役所がある。
目抜き通り沿いには金融機関から東急ストアまでが勢ぞろい。それらの合間合間にはチェーン店も軒を連ねる。南北どちらにもドトールがある。
活気に満ちた調布の駅の周りは賑やかだから、どこが中心なのかわかりにくくなっている。調布の中心地は駅北側のパルコの先、旧甲州街道なのだろうか。
旧甲州街道沿いは、昔ながらの商店街。それほど幅広の道でもないのに車の通りが絶えないのは、調布のメインストリート。
駅方面と旧甲州街道を結ぶ路地も小さな商店街で、歓楽の要素が強い路地まであった。
どの都市も古くからの中心地は旧街道沿いにある。
旧甲州街道から北に抜けると、現在の甲州街道がある。旧道からは天神通りという商店街がまた甲州街道へと続く。
天神通りから甲州街道を渡った向こうには、布多天神社という社が、参詣客を待ち構えている。その布多天神社の隣には電気通信大学がある。調布の町はただのベッドタウンなどではなく、天神さまの門前町、そして電通大の学生街でもある。
調布は甲州街道とともに発展してきた。江戸時代は甲州街道における一帯の宿場は、国領・下布田・上布田・下石原・上石原の5宿をまとめて「布田五宿」といわれた。
現在の京王線国領駅付近から飛田給駅付近にかけて、宿場町が形成されていた。
調布駅近くの旧甲州街道は、上布田宿・下石原宿あたりに該当する。
布田五宿は江戸からそれほど離れていなかったので、規模はそれほどでもなかった。
街道筋から少し離れれば、武蔵野台地は水を容易に得られず稲作には不向きだった。
まだ京王線が通っていなかった明治初期、いまの調布一帯には桑畑が広がっていた。
明治半ばには現在の中央線が開通する。中央線は新宿から一直線に西を目指して、甲州街道沿いからは離れて通った。そのため調布の町も一時は廃れてしまった。
ようやく都市としての形が整うようになるのは、大正時代に入って甲州街道沿いに現在の京王線が通ってからだった。
戦後になると人口の急増もあり、急速に郊外の住宅地として発展してゆく。戦争を挟んだ10年間で人口は倍増。1955年には深大寺門前町の神代町と合併して調布市が誕生する。1975年には人口が10万人を突破、2000年には20万人を上回り、すっかり東京を代表する住宅都市となる。
甲州街道という町の原型があり、京王線が通り、調布駅が開業した。調布駅は調布の町の発展の核となった。
開業した当初の調布駅はいまより少しだけ西にあった。ビックカメラが入っている駅ビルのB館、その北側に細い路地商店街「調布銀座」がある。
駅前の一等地とは言い難いが、かつては調布銀座の正面に駅の出入口があった。古き調布の名残の商店街である。
歩けば「映画のまち」文字を見かける。調布駅の駅名板も、映画フィルムをイメージしたデザインになってる。
現在の京王電鉄、かつての京王電軌は、1913年に調布駅を開業した。それから3年後、調布駅から多摩川の河川敷近くまでの支線を開業させている。現在の京王相模原線の原点である。
大正時代に開業した当時は、通勤路線というよりは多摩川の砂利を運ぶ産業路線、そして多摩川のほとりに築いたレジャー施設への輸送を担う行楽路線だった。
支線終点の多摩川原駅前に大浴場や大食堂、遊園地などを集めたレジャー施設「京王閣」をオープンさせる。ちょうど関西では阪急の宝塚が私鉄沿線のレジャーランドとして名を馳せつつあった。京王閣は東の宝塚だった。
昭和の初めに京王が土地を提供して誘致した日本映画の撮影所がオープンする。
自然が豊かでロケーション場所で、フィルムの現像に必要な水に恵まれていたので、撮影所の建設地になった。日本映画はほどなく倒産し、撮影所は日活が承継する。近くの京王閣では、日活の所属俳優によるショーも行われていた。
戦後は大映の撮影所になるが、日活は日活で新たに調布市内の多摩川沿いに撮影所を建設する。日本映画の黄金時代の昭和30年代には、独立系の撮影所も生まれて、東洋のハリウッドとなるほどの映画町に発展する。
いまでも大映の撮影所は角川大映スタジオとして、日活は日活調布撮影所として続いている。
もうひとつ多摩川沿いを彩った京王閣は、戦時中に軍部に接収されて戦後は連合軍。その後競輪場となっていまも続く。映画と京王閣が、調布にただの住宅都市とは違った一面を与えてきた。
地下に潜った調布駅とその前後の線路の跡は、京王線も相模原線も遊歩道になっている。京王多摩川方面から相模原線の地上線跡を歩く途中にはガメラの像がある。
大映が1965年に日本映画を代表する怪獣。
日比谷のゴジラほど大きくない。
調布の駅前から布多天神社に向かう天神通りの商店街には、『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターが並んでいる。ゲゲゲの妖怪たちは布多天神社の裏の林で暮らしている設定らしい。作者の水木しげるも調布に暮らして、水木プロダクションがあった。
自然豊かな郊外から、住宅都市へと変貌した調布は、歴史を抱えて映画のまちであり、鬼太郎の暮らす町であり、商業施設が集まる駅前風景が形作られた。調布駅の電車ホームでは、いきものがかり『ありがとう』とゲゲゲのメロディが流れている。