TBS日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』は舞台は、長崎の端島となるドラマ放送されてる。高度成長期を支えた端島炭坑、軍艦島で暮らす人間模様を描いた、涙あり笑いありのヒューマンラブエンターテインメント。
日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」スペシャルダイジェスト[字] | TBSテレビ
https://www.tbs.co.jp/tv/20241201_5FEC.html
【出演】
神木隆之介、斎藤工、杉咲花、池田エライザ、清水尋也、山本未來、片桐はいり、映美くらら、赤間麻里子、谷川昭一朗、桜井聖、豆原一成(JO1)、片岡凜、宮崎吐夢、内藤秀一郎、西垣匠、中嶋朋子、さだまさし、酒向芳、尾美としのり、美保純、池下重大、生田俊平、若林時英、國村隼、土屋太鳳、沢村一樹、宮本信子
音楽
主題歌:King Gnu「ねっこ」
音楽:佐藤直紀
スタッフ
脚本:野木亜紀子
演出:塚原あゆ子、福田亮介、林啓史
プロデュース:新井順子、松本明子
スーパーバイザー:那須田淳、岡崎吉弘
編成:後藤大希
〈三菱鉱業が持つ軍艦島の炭鉱について〉
三菱は土佐藩営の貿易商社・開成館を母体として、明治維新後は海運業者を営んだ。苛烈なダンピング競争で競合他社に打ち勝ち、日本近海の航路を独占して莫大な利益を得る。
そのダンピングを支えていたのが、鉱山経営の収益だった。鉱山で利益が出ているから、海運で多少損しても赤字にならない。
【記事は以下のサイトより引用】
日曜劇場の舞台・軍艦島は「三菱鉱業社員VS炭鉱員」の格差が存在…ドラマが描く身分を超えた恋への違和感
https://l.smartnews.com/m-141uMYb/92iBCy
●三菱は海運会社として創業したが、炭坑・鉱山の買収、造船所の払い下げ、銀行の救済などで業容を拡大していった。主力の海運では三菱の独占に対する反発が高まり、三井らが共同運輸会社を設立して対抗。熾烈な競争の中、1885年に創業者の岩崎弥太郎が胃ガンで死去すると、2代目社長・岩崎弥之助(弟)はこのままでは共倒れになると危惧。三菱の海運事業と共同運輸会社を合併させて、日本郵船会社を設立した。
鉱山・炭坑部門は稼ぎ頭で、1894~1908年の三菱の収益の68.5%を両部門で担っていた(ちなみに鉱山の方が炭坑より稼ぎが上)。
●そもそも三菱商事の源流となった三菱合資営業部は、元は売炭部といって、炭坑部門で掘った石炭を販売する部門だったのだから、その貢献度がわかるというものだ。ただし、1910年代後半には三菱造船が莫大な利益を上げるようになり、三菱の製造部門は鉱業から造船へシフトしていく。
1945年に日本が敗戦を迎え、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって日本が占領されると財閥が解体され、過度経済力集中排除法により三大財閥の鉱業会社は炭坑部門とそれ以外が1950年に二分割された。三菱鉱業は鉱山部門を三菱金属鉱業として分離した。
しかし、その頃から、石炭から石油へと変わる「エネルギー革命」が起こる。三菱鉱業は鉱山部門を分離し、炭鉱経営一本槍だったので、危機感が強かった。1952年に調査部を設置して多角化を模索し、1954年に三菱グループ各社との共同出資で三菱セメントを設立。
●「海に眠るダイヤモンド」の時代設定は1955年以降なので、企業経営としてはちょうど難しい時期に差し掛かっていた。端島、高島(長崎)、大夕張(北海道)以外の炭坑では、退職の勧奨、減員補充なしという措置がとられた。また、閉山にともない、この3山に転職する者も少なくなかったらしい。
1960年代中盤に至って、三菱鉱業は採算が取れない炭鉱部門を切り離すことを決め、1969年5月に端島炭坑は高島炭坑とともに三菱高島炭礦として分離。大夕張炭坑も三菱大夕張炭礦として分離・設立され、1973年に両社が合併して三菱石炭鉱業となった。
●「海に眠るダイヤモンド」の主人公・荒木鉄平(神木隆之介)は、長崎大学を出て鷹羽鉱業(三菱鉱業がモデルと思われる)に就職している。閉山まで端島勤務だったら、その後、どうなっていただろう。
1955年に新卒だと仮定すれば、1933年生まれ。三菱鉱業が三菱高島炭礦を設立した時、同社に出向。閉山とともに三菱鉱業に復籍し、他部署に異動になった可能性が高い。
仮に三菱高島炭礦にそのまま継続勤務していたならば、1988年に55歳で定年退職したのではないか。
劣悪な労働環境で、かつ落盤事故、爆発事故による死傷者も少なくなかった。
「海に眠るダイヤモンド」では、経営側も良心的に描かれているが、実際は身分格差が激しく、ドラマのように炭坑長の大卒の子息が、炭坑夫や食堂の子女と仲良く語らっていたとは思えない。
戦後、GHQの指導で労働者の権利が向上して労働運動が容認されると、炭坑では労働争議が起こる。その結果、採炭量が不安定となり、ユーザーは供給不安から石油への切り替えを加速し、石炭産業の斜陽がますます進んでいった。結局、無理を重ねていくと、どこかでしわ寄せが来る話なのかも知れない。
[ https://l.smartnews.com/m-141uMYb/92iBCy ]より
高度産業成長期の軍艦島と、現代の東京が舞台になっているドラマは、なかなか複雑な人間関係になっている。
【関連記事】
"端島はなぜ廃虚になった?「海に眠るダイヤモンド」の舞台の史実" - 毎日新聞
https://l.smartnews.com/m-141yLkg/ogRrpw より
三菱マテリアルの情報誌などによると、端島で石炭が発見されたのは江戸時代の1810年ごろ。90年、端島の北東にある高島で炭鉱事業を展開していた三菱が、10万円(現在の価値で約20億円)で買収した。
端島もその一翼を担った。戦前ほどではないにしても、石炭の生産量が回復していく。それに伴って人口も増えていった。三菱マテリアルの情報誌によると、1959年には史上最高の5259人を記録した。人口密度は当時の東京の9倍に上ったという。
石炭の生産が伸びていく裏側で、住民の生活環境も向上していく。端島には、小中学校や病院、映画館やスナックなど、生活に関わるさまざまな施設が存在した。
島内での生活必需品は個人商店と、三菱鉱業(現三菱マテリアル)直営の購買部で賄われた。まるで一つの都市のようだった。
海に眠るダイヤモンドでも、活気にあふれていた55年からの端島を舞台にしている。56年に発表された経済白書に「もはや戦後ではない」とうたわれた時代だ。
そんな時代の空気の中、端島で事故が起きた。高島炭鉱史(三菱鉱業セメント発行)によれば、64年8月17日午前2時半ごろ、海面下940メートルの坑道で自然発火が発見される。すぐに注水による直接消火を行った。しかし、押さえ込めたかにみえた午後11時40分ごろ、突然ガス燃焼が発生、注水作業中の10人がやけどを負った。直ちに退避命令が出されるとともに、負傷者を救出し病院に収容した。のちに1人が死亡した。
これを受け、会社側は「これ以上は不測の大事故を招きかねない」と判断し、最後の手段として深部区域の水没を決定、25日に発生源を完全水没させた。
その後、会社側は深部区域の放棄を決定。新たな採掘場所の開発を加速したことによって、端島の生産体制は大幅に縮小されることになる。事故前に約1000人超いた鉱員は500人程度となった。くしくも、事故が起きた64年は東海道新幹線が開通し、東京ではオリンピックが開催されたのと同じ年だった。このころから多くの人が島を去るようになった。
【毎日新聞】
ドラマはドキュメンタリーではないので、どのように「端島の世界」を演出させていくのか、大変な見どころになる番組だある。